前編
―――刷り込み、とういのは恐ろしいと思った。
「ねぇねぇそこの君、こちらの世界を助けてくれないかい?」
築20年の1DKのアパートで1人晩飯を食べている私の目の前に現れた蒼髪の青年は筑前煮をつまみながら言った。
玄関を見るとチェーンはかかっている。カーテンも夜なので閉めきったままだ。
ふむ、現状は把握した。超常現象だ。
「その筍は最後にとっておいたやつです勝手に食べないでください」
べしっと筍を摘んでいる手を叩く。
「ケチー!筍くらいいいじゃないあっちへ行ったらもっと贅沢し放題だよー?」
「…それは本気で言ってるんですか?一体どういう意味なんです?」
「本気も本気、超おおまじめー。今ちょっと時間ないから早く決めて貰ってもいい?危険はないし、報酬は出るよ?君が生活するには困らないくらい」
「うーん…うさんくさいけどいいですよ」
頷いてしまったのは丁度3日前に会社をクビになっていて次の仕事探すのを億劫だと思っていたからだと思う。通常運転ならばまず警察に連絡する事からはじめていただろうから。
「それはよかった!じゃあさっそく行こうねー!」
うんうんと頷いた青年は、筍を離した手を隣にあった鯵のひらきの尾をひょいととって頭からかぶりついた。
ペロリと親指をなめてウインクを寄こした青年は、私の腕を掴んでどこからともなく現れた青い扉をくぐっていった。
そして放置したのだ。
目が3つも4つもある黒くて大きな狼みたいな化物の群れのド真ん中に。
「ルゼー!?ルゼー!!どこなのー!?返事してよー!!」
ここはリシュテイン国の南西にあるリリエンの森の奥深く。
私は今絶賛迷子中である。連れは先へ行ってしまったのだろう。
「もー…!どうしてあいつはいつもさっさと1人で行っちゃうの!?私は現代っ子で森の獣道には慣れてないって言ったのに!」
ぶつぶつ文句を言っても聞く相手はいない。空しくなって大きな木の根の間に座りこむ。
ブチブチと足元の変な形の草を引っこ抜いていると、雨が降ってきた。最悪だ、雨が降るとヤツらの活動が盛んになるのだ。
ぶるりと身を震わせどうしようかと周りを見渡すとどうやら遅かったらしい。黒い【悪擬】が周辺を囲っている。
前髪から、頬から、肩から、雨の雫がやけにゆっくり垂れていくのを感じる。視線はヤツらから逸らせない。
かろうじて動かせる口から先ほどから呼んでいた名が零れでる。
「ルゼ…た…助け…」
その瞬間、聞き覚えのある声がしたかと思えば辺りは白く光り、光りが収まったと思えばヤツらの姿は1匹も見当たらなかった。
スタ、と座り込んでいる私の目の前に降り立った男はふ、と微笑んで私に手を伸ばしてきた。
「また迷子になったの?だから一緒に来るのはやめなっていつも言ってるのに」
「…ルゼが!スタスタ行っちゃうからでしょ!私ついて行けないって言ったのに!!」
差し出された手をぺしっと払って立ち上がろうとするも、どうやら腰が抜けているらしく体操座りの形は解かれない。
それを見たルゼは脇に手を入れ、平均体重はある私の身体を軽々持ち上げ左腕に乗せた。
「あははそうだっけ?ごめんごめん。次からはちゃんとこうやってはぐれないように行こうね」
「いやだよ!なんでいい大人が赤ちゃんみたく抱っこされながら行かなきゃならないのよ!!ルゼが少しゆっくり歩いてくれたらいいだけじゃんか!!」
「それは俺の時間の無駄じゃん。俺はこうやってユウの為に戻って来た時間もあるんだけど?」
「う…。手間取らせてごめんなさい…。それと…助けてくれてありがとう」
至近距離にある顔を見られず、ルゼの一つに纏められた後ろ髪を見つめながら感謝の意を伝える。
「いえいえ。それじゃあ気を取り直してルールエの実を採りに行こうか」
「……。……うん」
ざっざっと歩き始めて言われればうんとしか言えないじゃないか。結局抱っこされたまま高くなった視界で森の景色を見送っていた。
こうやって触れて貰える事を喜んでいる自分に気づきながら。
ルゼと初めて会ったのは私がこの世界に連れてこられて黒いヤツらに襲われた時だった。
足は噛まれ、腕に鋭い爪を食い込ませられながら必死に傍にあった木切れを振り回して抵抗していた時だ。
どこからか声が聞こえたかと思ったら眩しくなって、目を瞑って頭を抱え込んでいた私の前に膝をついてこちらを覗きこんできた。
「あれ?どうしてこんな所に人がいるんだい?おかしいな、ここは誰も立ち入れない筈なんだけど」
それはそれはもう驚きましたとも。
だって真っ赤も真っ赤、燃えるような鮮やかな赤い長い髪に金と紫の目、真っ黒のマントを羽織ってその隙間から見える手には無数の刺青が施されていれば驚いて声も出ないってもの。
ああ、異世界なんだな、と思った反面、言葉が通じてるけど本当に異世界なのか、と怪しんだ。
「…危ない所を助けてくれてありがとう…ございます。…貴方こそ、誰ですか?」
「君、俺を知らないの?」
「有名人だったんですか?申し訳ありません、私今日こちらへ来たばかりなので何も知らないんです」
異世界からね、というのはなんとなく伏せておいた。…その方がいい気がしていた。
「そうかそうか、来たばかりなら仕方ないよな」
にへっと凛々しかった顔を緩ませると頭をポンポンと撫でてきた。
「随分勇ましかったな、偉いぞ。お陰で俺は間に合って君は生きのびた。俺も、君を助けられてよかった。よく頑張ったな」
大きい手で頭や頬を撫でられ、汚れを優しく拭われては涙の防波堤を決壊せざるを得ない。
ボロボロと零れていく涙。それを拭っていく男の手。
さらに零れていったというのは言うまでもない。
「うわあああん!怖かったよぉぉおおお!!しっ、死ぬかと思ったぁぁああああ」
「大丈夫、大丈夫、君の傍には俺がいるよ。もう怖がる事はないよ」
涙としゃくりが止まらず、あまつさえ鼻水と涎もオプションとして出ていく。
生を受けて22年、よもやこんな年になって子供のように泣く事になるだろうとはあの時は思ってなかったのだ。
それから1ヶ月、私の世界はルゼが中心になった。
あんな生死の境から助けてくれた男の人が、あちらから「行く所がないなら一緒に住むかい?」なんて優しく微笑まれた日にゃ断るなんて考え1ミリも起きないってもんでしょ。
いきなり現れためちゃくちゃ怪しい私の素性も聞かず寝床を提供。そして山持ち!(この山はルゼのものらしい)
惚れてまうやろー!
おかげで雛よろしく、子供よろしくルゼの後を追う私になったのだ。
「今日も街へ降りるの?」
「ああ、仕事でね。仕事をしないとユウがご飯食べていけないからね。大丈夫、今日の夕方には帰ってくるよ」
「…分かった。ご飯作って待ってるね」
ルゼはこの世界に5人しかいないといわれる魔道師で、その中でダントツの魔力を持っているらしく、王国に仕えている凄い人だったのだ。
そんな人が何故こんな森奥深くに住んでいて、あまつさえ小娘を養おうというのかよく分からない。偉い人はやはり凡人には理解できないのだろうか。
そして時々いい匂いをつけて帰ってくるのが凄く気になる。そう、それが一番気になる。
むぅとふくれている私の前髪をすくい、少し屈んで額にキスをする。
「眉間にしわが寄ってるよ。そんなユウも可愛いけどね、見送りなら笑ってくれる方が好きかなー?」
んー?とニッコリ微笑まれてしまえばつられて笑ってしまう私がいる。
これは末期だなと内心頭を抱えながらいってらっしゃいと扉を開けて見送る。
姿が見えなくなるまで見つめて扉を閉める。先ほどルゼの唇が触れた額に手をやるとため息が漏れる。
なるべく人に対しクールに、なおかつ面倒くさくない方へと息を潜めて生きていた私がお熱をあげている。
その事実に恐ろしくもあり、嬉しくもあった。
以前の私なら彼氏が他の女の匂いつけてきた所でああお前はその程度の男なんだなと思うだけでどうしてだとか私だけ見てよだとかそういう気にはならなかった。
そうして段々人や物に執着という事はしなくなっていった。その方が気分の起伏に振り回される事がないから楽だった。
楽だけどふと冷静に我に返る時がある。人として大事なものが欠けていて、人が嫌いなんだったら生き辛いのではないかと。
だからこの状況はほっとすべき事なのだ。キャラが変わった自分を気持ち悪いとは思うのは仕方がないが。
(よかった、人だったよ自分)
ただしその対象はルゼ1人に限るのが難点だが。
「ずっとここにいられば問題ないんだけどね」
思い出すのはあの蒼髪の男の言葉。
―――『ねぇねぇそこの君、こちらの世界を助けてくれないかい?』
こんな何も力のないボッチの私がどう世界を助けるというのかね。んん?蒼髪の筍泥棒よ。
「まぁこの森にいる間は何も出来ないだろうし、出来る時は出来る時が来る。とりあえず晩御飯の仕込みでもしますかね」
腕まくりをすると、仕込みをするべく台所に向かった。