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Day56:台頭前夜

 私は、ナトゥーラの派閥棟に来ていた。

ここは、新年祭で訪れた礼拝堂の奥へと続く通路を進み、その先にある階段を上った場所にある。

上階には集会に使われる広い部屋があり、そこへと続く長い廊下の両脇には、個室の扉がずらりと並んでいた。


 まだ派閥会の開始前だからだろうか。

それとも、これがこの場所の日常なのか。

廊下にも個室にも生徒たちがあふれ、至るところで議論や論文の相互扶助が行われ、空間全体が熱気を帯びていた。


 ある生徒は、論文を高く掲げ、自身の理論の正当性を声高に訴え。

ある生徒は、その論理的破綻を見つけては大声で指摘し、怒鳴り合いへと発展し。

またある生徒は、取っ組み合いになり、互いの髪を掴んだまま睨み合っている。


 共に笑い、共に泣き、共に過ごす。

議論を通じて互いを高め合い、より高尚なものへと昇華させていくその姿は、まるで真夏の蝉のようだった。

煩いほどに騒がしく、それでも懸命に、今という瞬間を生きている。

そんな生命力が、この場所には満ちていた。


 そんな中、エマさんとフィオナさんの後ろにくっつき進もうと一歩を踏み出した瞬間、さっきまでの議論による喧騒は収まり、私たち三人が床を踏みしめる音と衣擦れの音だけが残っていた。

静まり返った空間だからこそ、二人の男子生徒が声を潜めて囁いている内容までもが耳に入って来る。


「おい……あれって、金席の?」


「……絶対にそうだ。金席だ」


  聞こえないふりをして、平然を装い歩き続けているが、遠巻きに「金席」「金席」と囁かれるたび、否応なく身体が強張っていく。

歓迎されていないのではないか。

そんな考えが胸をよぎり、気づけば、ほんの少しだけ気持ちが沈んでいた。


 何とか、聞こえないように、聞こえないようにと、前を歩くフィオナさんの足元だけを見つめて歩く。

けれど、一度耳に入ってしまったものは、ホワイトノイズにはならず、しっかりと()()()()()私の耳に届き続けていた。

耳を塞ぎたい衝動を必死に堪え、このまま我慢して歩こうと思った、その矢先、聞こえてくる言葉が肯定的な内容だと、ようやく気が付いた。


「金席はナトゥーラ派閥に来てくれたのか? ……エマ様凄いな」

「金席……可愛いな……」

「お前、話しかけて来いよ」


 大歓迎、というほどの熱はない。

けれど、拒まれる気配もなかった。

遠巻きに向けられるのは警戒ではなく、純粋な興味の視線。

その空気に包まれたまま、私は二人の後ろについて歩き、集会場へと足を踏み入れた。


 そこでようやく、強張っていた頬を手でそっと緩める。

小さく息を吐き出し、胸の奥に溜まっていた緊張を、静かに手放した。


「初めて、派閥棟に入りましたが、個室も生徒も多いんですね。

皆さん、大学の寮の個室と使い分けているんですか?」


 緊張がほどけたせいか、少し気になった疑問を口にすると、エマさんが小さく頷いた。

そもそも、寮で一人部屋が割り当てられているのは、ルーニクス大学でもオルド組だけの特権なのだという。

それ以外の学生は、二人部屋から多い場合は四人部屋での共同生活が基本らしい。


 それでも、まだ恵まれている方だとエマさんは続けた。

大学によっては、そもそも寮自体が存在しないところもある。

そのため、派閥棟に個室を設け、学生に割り当てる仕組みが整えられているのだそうだ。


 そうした個室を利用しているのは、多くが名ばかりの下級貴族の子弟で、実入りも生活水準も、平民に毛が生えた程度。

それゆえ、エチュードのような宿や小さな家を複数人で借り、互いに助け合いながら、なんとか暮らしを成り立たせなければならないのだとか。


 この下級貴族と言うのが実に厄介で、生活は平民と大差ない。

それなのに、貴族としての義務だけは果たさねばならず、さらに体裁や見栄も捨てることができない。

だからこそ、無理を重ねてでも大学へ通わせる。

そんな選択をする家が多いのだという。


 もっとも、大学進学は見栄だけで成り立つものではない。

そこで築かれる人脈、研究によって残す成果。

それらは卒業後の就職に直結し、ひいては人生そのものを大きく左右する。

大学は、単なる学び舎ではなく、未来を賭ける場所でもあった。


 家のため。自分が成り上がるため。義務。強要。社交。


 生徒一人一人が抱える事情は違えど、派閥に属する全ての生徒を支援する役目も派閥は担っていた。


 しかし、派閥が補えることにも限界はある。

個室や繋がりは用意できても、生活そのものを支えることまではできない。

そのため、下級貴族の多くは大学に通いながら働き、生活を成り立たせ、その合間に研究を進めているのだという。


 私は、この時になってようやく、自分がどれほど恵まれた環境に身を置いているのかを知った。


 この都市では、多くの学生が、今この瞬間を懸命に生きている。

人生を賭けていると言っても、決して大げさではない。


 そんな生徒たちの姿を目の当たりにすると、眩しさを覚えると同時に、胸の奥がちくりと痛んだ。

たまたま必要だからと、旅の途中で焚き火場に立ち寄っただけのような身の私。

ここに腰を据え、すべてを賭けている彼らの中に立つと、理由のはっきりしない罪悪感と、拭いきれない疎外感が、じわじわと滲んでくる。


 根本的に、()()()()の人たちと私は、別物なのだ。

そう、痛感させられる。

二度目の人生を、どこか余暇の延長のように捉えている私には、決して手に入らない輝きが、ナトゥーラの派閥棟には満ちていた。


 パパ、ママ、お兄ぃ……。

ふいに、”宮峰優理香(みやみねゆりか)”だった頃の家族の顔が浮かぶ。

それだけで、胸の奥の疎外感はさらに強まり、目元がじんわりと熱を帯びた。


 気がつけば、こみ上げてくる感情を外へ逃がさないように、私は下を向き、ぐっと堪えるように服の裾を握りしめていた。


 そんな私の様子を見かねたのか、エマさんが、そっと私の手を取り、そのまま抱き寄せてくれた。

さらに後ろから、フィオナさんが挟み込むように抱きついてくる。


「どうしたのかは聞きません。

落ち着くまで、こうしていましょう」


 二人に包まれた私の心は、さわやかな風が吹き抜けるように――

……なるはずもなかった。


 思考より先に、ほとんど反射のように身体は反応していた。

心臓が強く脈打ち、その振動が胸の奥に居座ったまま離れない。

身体そのものは動いていないのに、内側だけが妙に騒がしく、落ち着きどころを失っている。


 気が付けば私は浅く呼吸をし、次には肋骨の内側が軋むほど深く息を吸い込んでいた。


(ど、どどど、どうしよう……ぅぐ。い、いい香りがする……)


 私の体格に比べ、エマさんは拳ひとつ分ほど大きく、フィオナさんはそれよりもさらに大きい。

……背が、である。


 そんな二人に挟まれれば、否応なく顔は埋もれ、視界は塞がれ、逃げ場はない。

気づけば、私の腕はエマさんの細い腰のあたりで所在なさげに彷徨っていた。


 こうなってしまっては、もはや抗う術はない。

自然と、その腰に触れ、抱いてしまうほか、選択肢は残されていなかった。


 体温が上がり、反比例するように思考が溶けていく。

私は必死に正気をかき集め、「もう大丈夫です」と二人に伝え、ようやく解放してもらった。


 正気を保つため、今度は外の空気を深く吸い、頭を下げて礼を言う。

……こんな美女二人に挟まれて、平然としていられる方がどうかしている。


「なにかあったら、すぐに相談してくださいね。

私でよければ、いつでも話を聞きますから」


 そう言われ、もう一度お礼を伝えたあと、本題である『本日の予定』について確認する。


「本日は、新入生の顔合わせと代表挨拶があります。

ユリカさんには、その会に参加していただきたいと思っています。

代表挨拶が済みましたら、その後はエコノミアの派閥棟へ移動してくださいね」


 そう。

私は今日、それぞれの派閥会に出席する。


 先日、食堂で揉めたあのあと、彼らが正式に、すべての派閥会への参加承認を各派閥代表から取り付けてくれていたのだ。

その際、巡る順番も決められていた。


 最初が、ナトゥーラ。

顔合わせと代表挨拶への参加。


 次が、エコノミア。

今年の目標や方針が示され、皆で決意を固める場になるらしい。


 そして最後が、デストレーザ。

懇親会という形で、食事を囲みながら交流を深め、互いの研究についてフランクに意見を交わす場だという。


 ……正直に言えば、今から少し楽しみだった。


 前回、こうした形のパーティに参加したのは、いつだっただろう。

モークムでの祝賀会だったはずだ。

あの時は、美味しそうな料理を前にしながら、アドリアンの横槍が入り、結局いろいろ食べ損ねてしまった。


 そんな記憶がふいに蘇り、気づけば口元が緩んでいた。


 この世界でも、ちゃんと思い出が積み重なっている。

そう思えたことが、なんだか少しだけ、心を軽くしてくれた。


「では、私は準備がありますので、もう行きますね」


 それを察して安心したのか、エマさんは準備に向かい、この場にはフィオナさんと二人きりで残ることになった。


 新入生は前列に座る習わしらしく、フィオナさんは、代表が挨拶を行う演台の真ん前、列のど真ん中に陣取っている。

個人的には目立ちたくもないし、端のほうにちょこんと座っていたかったのだが……。

とはいえ、ここであからさまに距離を取るわけにもいかず、私は渋々、彼女の隣に腰を下ろした。


 それにしても……。


 フィオナさんは、

「ふんすー、ふんすー」

と鼻息も荒く、期待に満ちた目で演台を見つめている。


 やがて、新入生がぞろぞろと集まり、一列目、二列目が埋まっていく。

その後、在校生たちも続々と入ってきて、気が付けば会場は全席びっしりと埋め尽くされていた。


 だが、いくら周囲を見回しても、エマさんの姿が見当たらない。


 一瞬、不安が胸をよぎるが、「準備がある」と言っていたのを思い出し、きっと何か手伝いに回っているのだろうと自分を納得させた。


 そんなことを考えていると、演台のある舞台脇から、十名ほどの学生が姿を現し、静かに壇上へと並ぶ。

おそらく、派閥の幹部たちなのだろう。


 全員が出そろったところで、その中の一人、代表と思われる男子生徒が一歩前に出て、演台の前まで歩み寄った。

軽く挨拶をすると、背後に並ぶ面々を指し示し、今期の派閥運営委員であると一人一人紹介しをしていた。


「……以上をもって、今年度の運営委員の紹介とする。

そして最後に。


――本日をもって、私は代表を降り、副代表となる」


 その言葉が放たれた瞬間、三列目より後ろの空気が、ざわりと揺れた。


「静粛に。

新代表が挨拶をされる」


 短く制してから、彼は一拍置き、はっきりと言い切った。


「それでは紹介しよう。

新代表の――

エマ・ヴァン・ルーファス君だ」


 騒めきの中、舞台袖から、ひとりの少女が優雅に歩み出てくる。

背筋を伸ばし、視線をまっすぐ前に据え、迷いのない足取りで。

その姿を認識した瞬間、私の思考は、完全に置き去りにされた。


 隣では、

「ふんすー、ふんすー」

と興奮を隠しきれないフィオナさんが、誰よりも早く拍手を送っている。

私は、拍手も、声も、息さえも忘れ、ただ口を開けたまま、舞台上のエマさんを見上げていた。


 そして、この時の私は、まだ知らなかった。


 私たちの世代が、後に「黄金世代」と呼ばれ、やがて世界の中心へと躍り出ていくことを。

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