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Day52:選択への忠告

 一の日、正午の鐘が鳴るころ、私は扉を叩く音で目を覚ました。

頭の奥がまだぼんやりしていて、夢と現実の境目を探すのに、少しだけ時間がかかる。


 昨夜はリオン君と新年祭に出かけ、早めに帰ったとはいえ、それでも普段に比べたら時間は遅かった。

もう少し眠っていても罰は当たらないはずだ、と半分本気で思う。


 その期待を打ち砕くように、もう一度、先ほどより少し強めのノックが響いた。


「……はい」


 間延びした声で返事をし、ようやく身を起こす。

羽織ったまま眠ってしまった上着を直し、指で適当に髪を梳きながら扉を開けた。


「……もう。お昼を過ぎているというのに、その格好は何ですか」


 扉の向こうに立っていたのはエマさんだった。

呆れたようにわずかに眉をひそめている。きちんと整えられた身なりと、背筋の伸びた立ち姿。そのどれもが、寝ぼけ眼の私とあまりにも対照的で、思わず現実を突きつけられた気分になる。


「あ……。ぅえ? ……エマしゃん?」


 意識がはっきりしてくるにつれて、今度は別の意味で目が覚めていった。

恥ずかしさが一気に込み上げ、体温が上がるのが自分でもわかる。


 私は反射的に扉を閉めてしまい、すぐに後悔しながら、今度はほんの少しだけ開け直した。

できた隙間から、そっと外の様子をうかがう。


 その隙を逃すまいと、エマさんは扉に手をかけ、つま先を滑り込ませるようにして中へ入り込んできた。

涙目で制止する私の声は、まるで聞こえていないかのようだった。

その後ろから、当然の流れのようにフィオナさんが続く。


 まず、羽織っていた上着をはぎ取られ、間を置かずに上の肌着も外される。

慌てて胸元を両手で隠したが、背後からエマさんに腕を掴まれ、動きを封じられた。


 その隙を逃さず、フィオナさんが桶に張った水で濡らしたハンカチを取り、私の身体を拭き始める。

肩から腕、首筋、背中。

次いで顔。

冷たい水が触れるたび、思わず身をすくめてしまう。


 さすがに下着までは取られなかったものの、鼠径部からつま先まで丁寧に拭かれ、真冬の空気が、さっきまでよりも鋭く肌に突き刺さってきた。


 恐怖と寒さに震える私をよそに、二人は淡々と動く。

箪笥を開け、私の服を手早く選び、次々と被せていく。

最後に椅子へ座らされ、櫛で髪を梳かれたかと思うと、外出の支度はあっという間に整っていた。


 あまりの手際の良さに、ただただ呆然とする。


 そして、もうひとつ、驚かされたことがあった。

二人が選んでくれた服だ。


 どれも見覚えがあり、全部私の持ち物に違いない。

それなのに、こんな組み合わせは今まで一度も思いつかなかった。


 鏡に映る姿は、見慣れているはずなのに、どこか違って見えた。

自分でも思わず息を呑むほどの、知らない可愛さだった。


 ぽかんと口を開けたまま立ち尽くす私を前に、エマさんとフィオナさんは、なぜか落ち着かない様子で視線をさまよわせていた。


 棚の上、机の裏、ベッドの脇。

まるで何かを探すように、念入りに確認している。

私はその様子をぼんやりと眺めていたが、さすがに気になって声をかけた。


「……あのー、何をしてるんですか?」


 一瞬、二人の動きがぴたりと止まる。


「え? あ、いえ……」


 言葉を濁しつつ、エマさんは視線を逸らした。

フィオナさんに至ってはわざとらしくろくに鳴りもしない口笛を吹いている。


 ……どう見ても誤魔化している。


「……何か落としました?」


「ち、違います!」


 少し強めの否定。ますます分からない。


 しばらく逡巡したあと、エマさんは小さくため息をついた。


「……リオン様の痕跡です」


「……はい?」


 思考が一拍、遅れる。


「え、痕跡……?」


「その……昨夜、あの後一緒に新年祭に行ったと聞いたので……」


 そこまで言われて、ようやく意味がつながった。


「えっ!? ち、違います! 何もありません!」


 思いもよらなかった発想に、思わず声が裏返る。

慌てて手を振り、全力で否定する私を見て、二人は目を丸くした。


「そ、そんなに慌てなくても……」


 けれど、私の反応を見て何かを悟ったのか、二人の表情は次第に和らいでいく。


「……本当に、何もなかったんですね?」


 今度はフィオナさんが念を押してくる。


「え? はい。えっと……普通にお祭りを回って、帰りましたけど……?」


 その言葉を聞いた瞬間、二人は目に見えて安堵した。


「……よかった」


 そう呟く声は、心底ほっとしたようだった。

私はというと、ようやく状況を理解して、じわじわと恥ずかしさが込み上げてきた。

なんせ、そんな心配をされるようなこと、まったく考えもしなかったのだから。


「……それにしても、これは」


 エマさんの表情が、今度は机の上で曇った。

そこには釣り糸や金属片、削りかけの木片、形も大きさもまちまちなルアーが、遠慮なく広がっている。


 もはや勉強机の面影はなく、完全に作業台だった。


「……机が、完全に工房ですね」


「あ、はい。気づいたら、こうなってました」


 そう答えると、エマさんは遠い目をしたまま、ゆっくりと視線を壁際へ移す。


「……この、二輪の物体は?」


 立てかけられたそれを見て、首をわずかに傾げた。


「それですか?」


 一瞬だけ言葉を選んでから、私は答える。


「自転車ですけど……」


 小言が来るだろうか。

そう思って、わずかに肩に力が入った。


「……何をする機械なんですか?」


 拍子抜けするほど、ただの問いだった。


 私はほっと息をつき、つい、少しだけ胸を張る。


「以前、モークムのレス・セット・ジェルマネス工房でお世話になった時に、開発した乗り物です」


 一瞬、部屋の空気が止まった。


「…………え? ……待ってください」


 エマさんは自転車を見て、それから私を見る。


「これが、あの……?」


 どうやら、まったくの無名というわけでもないらしい。

思わず、鼻の奥がむずがゆくなる。


「え、待って。ユリカさんが、開発したんですか?」


「そうですけど……?」


 しばらく、言葉はなかった。

机。

釣具。

工具。

自転車。

そして私。


 視線が、その順で何度か往復する。


 やがて、エマさんは静かに頷いた。


「……なんか」


 一拍置いて、


「色々と、納得しました」


 なぜだろう。

私は少しだけ、釈然としない気持ちになった。


 その後、二人に誘われて、外環区の新年祭へ向かうことになった。

とはいえ、昨日リオン君は「貴族の新年会がある」と言っていたはずだ。

この二人は、それでいいのだろうか。


 寮を出たところで、ふと思い出して聞いてみる。


「あー、新年会ですか? うちもフィオナさんのところも、上に兄弟がいますから。今ごろは長兄が出席していると思いますよ」


 なるほど、と腑に落ちかけたところで、エマさんが続けた。


「それに、この街で新年会と言えば、リオン様やエリオ様が所属されているエコノミア主催のものですから……正直、少々退屈で」


 言葉は柔らかいのに、評価ははっきりしている。


 やはり、この二人とリオン君、それにエリオ君は、立っている場所が違うのだ。

派閥――という言葉が、頭の中で静かに形を取る。


 年齢のせいなのか、それとも個々の性分なのか、エマさんの感情には不思議と険悪さは感じられない。

少なくとも、私の想像していたような、小説に出てくる派閥同士の露骨な対立は、見当たらなかった。


 彼女らもリオン君も、それぞれの立場をわかったうえで、適度な距離を保っているように見える。

その距離感こそが、ルーニクス大学を中央と言わしめる要因なのかもしれない――そんな気がした。


 私たち三人が、中環区と外環区をつなぐ、噴水のある広場に差しかかったときだった。

左手の方に、妙に人だかりができているのが目に入る。


 この真冬の寒空の下だというのに、集まっている人々は皆、ずぶ濡れだった。

男は上半身裸でブレー姿、女は薄手のシフト一枚。

バケツや桶を手に、水をすくっては互いに浴びせ合っている。


 私は思わず足を止め、その光景から目を離せなくなっていた。

寒さで白く立ちのぼる息と、水しぶき。

笑い声と、気合いの入った掛け声が入り混じっている。


 ――正気だろうか。


 そんな私の視線に気づいたのだろう。

エマさんが、どこか楽しそうに声をかけてきた。


「あらあら、ユリカさん。参加されたいんですか?」


 慌てて首を横に振る。

そんなはずはない、と言葉にするより先に、身体が拒否していた。


「い、いえ……。あれは、いったい何を……?」


 問いかけると、エマさんは肩をすくめる。


「あれは新年の寒中水行だそうです。

元々は、新年に海で行われていた儀式だとか」


 なるほど、と言いかけて、やはり首をかしげる。


「旧年までの自分を洗い流し、新しい自分に生まれ変わる――そういう意味があるそうですよ。

ただ、海のないシタリアでは、ああして水を掛け合う形に変わったようですが……」


 そこまで言って、エマさんは小さく息を吐いた。


「……信じられませんね。見ているだけで、こちらまで寒くなってきます」


 まったくだ。

私は思わず外套を握りしめながら、もう一度だけその集団を振り返り、そっと視線を逸らした。


 エマさんは、肘のあたりをさすりながら、どこかうんざりしたような顔をしていた。

そして、寒中水行をしている人々とは反対側、私の右手側、ちょうどエマさんの背後にも、別の人だかりができている。


 そちらでは、人々がいくつもの輪を作っていた。

そして、その輪の中心では、派手な格好をした二人が向かい合っている。


 近づくにつれ、異様さがはっきりしてきた。

中心に立つ人々は皆、動物の頭を模した被り物をしている。

羊、鹿、猪、鳥――中には虹色の仮面をかぶった者もいた。


 そして彼らは、殴り合っていた。


 老若男女の区別もなく、拳を振るい、体当たりし、倒れれば立ち上がる。

周囲の人々は止める様子もなく、むしろ歓声を上げている。


 私は思わず足がすくんだ。

前世も含め、これほど間近で乱闘を見るのは初めてだ。

胸の奥がざわつき、動悸が早くなるのが自分でもわかる。


 ――怖い。


しかし、そんな私の隣でフィオナさんは興奮気味だった。


「あれは、カナクっていう民族の伝統的なお祭りなんですよ」


 そう言いながら、自らも腕を交互に前に出し、軽快なステップを踏んでいる。


「過去一年の遺恨や、わだかまりなんかを、殴り合うことによって、清算し、スッキリとした一年を迎えようって言う意味があるみたいですよ」


 最後に腰を入れ、ちゃんと踏み込んだ右ストレートを打っている。

この人は、オルド組の中でも一番おっとりしていると思っていたのだが……。

そういえば、昨夜の礼拝堂でもヒソプで思いっきりリオン君をひっぱたいていたっけ。


 ……なるほど。

私が内心で印象を改めていると、フィオナさんはさらに続けた。


「でも、ほら。終わったら、ああやって抱き合ったり、握手をしたりするんです。

それで遺恨は終わり。最後は一緒にお酒を飲んで、踊って、お祝いするのが決まりなんですよ」


 そう言って、「ふう」と額の汗を袖で拭った。


 二つ続けて、あまりにも濃い行事を見てしまったせいだろう。

私は心底疲れてしまい、休憩したいと小さく訴えた。


 エマさんは、何も言わずに頷いてくれた。

恐らく、エマさんも私と同じ気持ちだったのだろう。そんな顔をしている。


 広場を抜け、新年の派手な飾り付けが施された建物を右に曲がると、目当ての食堂が見えてきた。

扉を開けた瞬間、焼きたてのパンと香草の匂いがふわりと鼻をくすぐる。


 ――ここだ。


 大学に入る前、キャスさんに連れてきてもらった、あのキッシュが美味しい食堂。

記憶の中と違わず、今日も店内はあたたかく、外の喧騒が嘘のように落ち着いている。


 席に腰を下ろすと、三人とも一気に肩の力が抜けた。

さっきまで見ていた光景が濃すぎたせいか、こうして椅子に座っているだけで、ほっと息がつける。


 私たちは顔を突き合わせ、メニューを覗き込み始めた。


「これ、このお値段でこのボリュームなんですね」

「見てください、この季節に果実のタルトがありますよ」

「……やっぱり、ここはキッシュじゃないですか?」


 花だの団子だの言い騒ぎ、なかなか決まらない。

どうやら楽しさが勝ってしまったらしく、業を煮やした店員のお姉さんが、控えめな咳払いでこちらを促した。

そして結局、三人とも同じアフタヌーンティセットに落ち着く。


 ほどなくして運ばれてきたスタンドには、スコーンとジャム、そしてこの店自慢のキッシュ。

湯気を立てるポットには、ヨーポン茶に果実の皮で香りをつけたフレイバーティが注がれていた。


 一口含むと、やさしい酸味とほのかな甘さが広がる。

スコーンにも、キッシュにもよく合った。


 外の祭りの熱気とは別の、穏やかな新年が、ここには流れていた。


 ポットのお茶が底を見せ始めたころ、エマさんがカップを両手で包み込み、少しだけ視線を落とした。

その仕草が、どこか言い出しづらそうで、私は自然と背筋を伸ばす。


「……そういえば、まだお話ししていませんでしたね」


 何のことだろう。

小さく首を傾げると、エマさんは一度息を整えてから、続けた。


「私の家のことです。

昨日、礼拝堂に来ていただいて……お気づきになったかもしれませんが、私もフィオナさんも、教会の信徒です」


 そこまでは、正直、驚かなかった。

あの所作や佇まいを思い出せば、むしろ納得のいく話だ。


「派閥はナトゥーラ。

自然学を尊び、人はより自然に生きるべきだと考える立場ですね」


 淡々とした口調のまま、けれど、その次の言葉だけは、ほんの一瞬、間を置いてから落とされた。


「……そして私は、そのナトゥーラ派の大司教の、一人娘です」


 思考が、一拍遅れて追いつく。

大司教――その言葉が頭の中で形を持つまで、少し時間がかかった。


 言葉を失ったままの私を見て、エマさんは困ったように、でもどこか慣れた笑みを浮かべた。


「そんなに驚かなくても……。

隠していたわけではないんです。ただ、言う機会がなくて」


 なるほど。

育ちの良さは、ずっと感じていた。

立ち居振る舞いも、言葉の選び方も、どこか一線を引いた品がある。


 けれど、それが――そこまでの立場に由来するものだとは、さすがに思っていなかった。


「……あの。もしかして、五公家……?」


 口に出してから、少しだけ遅れて心臓が跳ねた。

リオン君の顔が一瞬よぎり、思い切って踏み込んだ問いだった。


「そこはご存じなのですね。はい、おっしゃる通りです」


 エマさんは驚くでもなく、穏やかに頷く。


「五公家の一つ、ルーファス家。それが、私の実家になります」


 やっぱり、という気持ちと、やはり、という納得が同時に押し寄せた。

胸の奥で、小さく何かが噛み合う音がする。


 そうなると――

私は、ほとんど反射的に視線を横へと滑らせた。


「……ん? びえびえ! うじはじがいまずよ」


 フィオナさんはは口一杯にキッシュを頬張っており、何を言っているのかわからない。

だが、この人は違う。

それだけは、はっきりと理解できた。


 そこから話題は、自然と派閥のことへ移っていった。

そして、それぞれの派閥が、ルーニクス大学にどのような影響を与えているのかという話になる。


 学問の選び方。

考え方。

育ってきた環境。


 そうしたものを軸に、人は気づかぬうちに近しい者同士でまとまりを作っていく。


「たとえば、私たちナトゥーラでは」


 エマさんはカップを置き、静かに言葉を選びながら続けた。


「ルーンも、自然や生活に寄り添うものだと考えています。

ですから専攻も、自然学を基盤としたものを選ぶのが一般的ですね」


 それから少しだけ視線を伏せ、続ける。


「一方で、教会のもう一つの派閥――テオロギアでは、神を主とし、人はその意思に従う存在だと捉えています。

だからこそ、ルーンそのものを深く学び、神の理を理解しようとする先行を選ぶのです」


 なるほど、と頷く間もなく、彼女はさらに続けた。


「エコノミアは経済。

デストレーザは技術。

ミリタルは軍事。

それぞれが、それぞれの立場と目的から、ルーンをどう扱うべきかを考えている派閥ですね」


 それは、育ってきた環境や立場に沿った、ごく自然な流れなのだろう。

そう思った矢先、エマさんの声が、少しだけ強さを帯びた。


「……ですが」


 一瞬の間。


「私は、もう派閥同士で争う時代ではないと思っています」


 その言葉には、迷いがなかった。


「次の世代を育てるためには、知識を独占するのではなく、互いに補い合い、協力していくべきです。

ルーンは、そのためのものでもあるはずですから」


 静かな口調だったが、その奥には、はっきりとした意志が宿っていた。


 その考え方は、リオン君と、同じものだと感じた。

だからこそ、胸の奥に小さな違和感が残る。

立場や置かれている状況を思えば、どこかで食い違いが生まれてもおかしくないはずなのに――。

そう思い、少し不思議な気持ちになりながら、私は頷いた。


 ただし、とエマさんは続ける。


「現実問題として、専攻選択はとても重要です」


 それまでの柔らかな口調とは少し違い、言葉が地に足をつけた重さを帯びていた。


 専攻の選び方には、どうしても派閥ごとの傾向が出る。

それが今までの話だった。


 だから、どの研究を選ぶかによって――

周囲は、自然と結びつけてしまう。


 どの派閥に近いのか。

あるいは、どこに通じているのか。


「派閥に入らなくても、周囲は勝手に判断します」


 エマさんはそう言って、少しだけ言葉を置いた。


「だからこそ……そのつもりで、選んでほしいんです」


 それは忠告というより、配慮に近かった。

避けられない現実を、できるだけ穏やかに伝えようとしている声だった。


 私は静かに、その重みを受け止めた。


 ――そして、月日は流れる。


 冷たい風が和らぎ、石畳の隙間に新しい芽が顔を出すころ――

先行研究を選択する時期が、春とともにやってきた。

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