Day51:シタリアの新年祭(後編)
外環区へ向かって歩いていくと、次第に祭りの喧騒が耳に届いてきた。
それと同時に、蒼白い――マナ灯特有の光が、夜の一帯をぼんやりと染め上げているのが見える。
屋台に近づくにつれ、人々の歩みは自然と遅くなり、やがて完全に足を止めた。
私たちも人の波に押されるまま、身動きの取れない流れの中へと飲み込まれていく。
やがて、先ほど遠目に見えていた蒼白い光の正体が、すぐ目の前に現れた。
マナ灯を取り付けた長いトーチが、いくつも掲げられている。
「おっと、お嬢ちゃん。初めてかい?」
不意に、すぐ横から声をかけられた。
振り向くと、毛皮の縁取りが付いた外套を羽織った年配の男が、にやりと笑っている。
顔立ちはどこか異国めいていて、分厚い手にはマナトーチが一本握られていた。
「これな、ホグマ族の習わしでさぁ。
もともとは松明に火ぃつけて、街を練り歩くってやつだったんだ」
そう言って、男はトーチを軽く持ち上げる。
蒼白い光が、ゆらりと揺れた。
「けんど、ここはシタリアだろ? 人も家も多い。
火事は困るってんで、今じゃマナ灯に変わったってわけよ。
新年を迎える合図みてぇなもんだな」
なるほど。
習わしは残しつつ、形だけをこの街に合わせて変えてきたのか。
何とも、このシタリアらしい話だと私は思った。
トーチの受け取り場に近づくにつれ、人の密度はさらに増していく。
肩と肩が触れ、背中を押され、気づけば足裏の感覚が薄れていた。
次の瞬間、完全に足が浮いた。
顔や肩を四方から挟まれ、進もうにも戻ろうにも、自分の意思ではどうにもならない。
ただ、流れに身を任せるしかない状態だった。
――まずい。
そう思った、その時だった。
右手を、ぐいっと強く引かれる。
体が引き寄せられ、次の瞬間、私はそのまま誰かの胸元に顔を埋めていた。
硬く、厚い外套の感触。
その奥に、確かなぬくもりを感じる。
引き寄せてくれたのは、リオン君だった。
細身だと思っていたリオン君の身体は、意外にも少し厚みがあった。
先ほど掴まっていた腕は細く感じたのに、こうして近くにいると、想像していたよりもずっとしっかりしている。
もしかすると、彼は案外、着やせするタイプなのかもしれない。
そんなことを考えていると、頭の上から、どこか切羽詰まった声が落ちてきた。
「……は、離れてくれないか……。その……ち、近い」
見上げると、彼の顔は真っ赤だった。
吐く息まで熱を帯びているようで、石畳に残る霜さえ溶かしてしまいそうな勢いだ。
その様子を見た瞬間、前世の記憶がふとよみがえった。
冬の登校途中、冷え切った指先を友達の頬に押し当てて、悲鳴を上げさせて遊んでいたこと。
――あれは、確か小学生の頃だった。
どうしても、同じことをしたくなってしまい、私はそっと掌を伸ばし、彼の頬に触れてみる。
「ひっ……!」
先ほどまでの苦しそうな声とは打って変わって、情けないほど可愛らしい声が漏れた。
それを聞いた瞬間、私は堪えきれずに吹き出してしまう。
笑う私を見て、リオン君の顔はさらに赤くなり、ついにはぷいとそっぽを向いてしまった。
……もしかして、怒らせてしまっただろうか。
その表情と相まって、目を閉じて強調される長いまつ毛が彼の幼さを醸し出していた。
やがて、私たちの順番が来て、リオン君がトーチを二本受け取り、そのうちの一本を私に差し出してくれる。
礼を言い、人混みを抜けると、自然と並んで歩く形になった。
新年の空気にあてられたのか、しばらくしてから、リオン君がぽつりぽつりと、自分のことを語り始めた。
「実は……こうして外環区の新年祭に足を運んだのは、今年が初めてなんだ。
去年まで中等学習院にいた、というのも理由の一つだけど……父が、平民に対してあまり寛容じゃなくて。
だから、こういう場に出歩く機会を、ほとんど与えられなかった」
そこまで言うと、リオン君は私の方へ顔を向けた。
一度、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く。
まるで、自分の内側を整えるような仕草だった。
「だからこそ、金……、ユリカ。
お前には、礼を言いたい」
その言葉に、思わず背筋が伸びる。
「平民でありながら、貴族でも成し得なかった金の座を勝ち取ったお前に。
身分なんて関係なく、能力のある人間は確かにいる――
そのことを、父にも示したいんだ」
そう言って、彼はしばらく私の目を見つめていた。
何か言いかけて、けれど言葉にするのを思いとどまったような表情を浮かべた後、静かに前を向き直る。
再び歩き出した私たちは、周囲の喧騒とは裏腹に、二人の間には沈黙が落ちていた。
ただ、石畳を踏みしめる振動だけが、やけに確かなものとして伝わってくる。
「……リオン君のお父様は、どんな方なんですか?」
あまりにも静かで、少し息苦しくて、私は思わず、掘り下げるような質問を口にしていた。
「父か……。とても厳しい方だよ。
子どもに対してはもちろん、母や使用人、そういった他人にも――そして、自分自身にも」
少しだけ間を置いて、彼は続けた。
「知っての通り、うちは王政の時代から続く五公家だ。
今は主に経済方面に重きを置いているが、本来は政治を担う家柄でね。
だから幼いころから、嫡男として育てられることが当たり前だった」
淡々とした口調だったが、その言葉の端々に、積み重ねてきた年月の重さが滲んでいる。
「他の五公家も、きっと同じだと思う。
常に主席であること。
次の世代を牽引する存在であること。
――それを、疑いなく課せられてきた」
そこで、ふっと息を吐いた。
「だからこそ、入学式の日……ユリカが金席として現れた時の衝撃は、語り尽くせない。
誰もが当然のように、五公家の誰かが主席になると思っていたからな」
五公家――。
初めて耳にする言葉だった。
日本で言うところの五摂家のようなものだろうか。
具体的にどんな地位で、どれほどの意味を持つのかは分からない。
けれど、「三大」や「五大」と名の付くものが、往々にして強い権力を持つのは、どこの世界でも変わらない。
リオン君は、私が思っていた以上に大貴族なのかもしれない。
それに――同じ学年に、他の五公家も在学している、という含みを持った言い方も気になっていた。
そんなことを考えながら歩いていると、私の沈黙を肯定と受け取ったのか、あるいは、さらに踏み込んで話したくなったのか。
リオン君は、少しだけ声を落として、言葉を重ねた。
「……貴族の家の教育ってさ、たぶん想像してるより、ずっと窮屈なんだ。
朝は“おはよう”じゃなくて、“今日は何を判断する日か”から始まる。
俺が小さいころから、ずっとそうだった」
屋台から香ばしい匂いが流れてきたとき、リオン君は一瞬だけ言葉を切った。
それから、何でもないことのように続ける。
「朝食の席には、いつも資料が並んでた。
地図とか、帳簿とか、前日の報告書とか。
読めなくてもいいから、まず慣れろって言われてさ。
そこから父との“会話”が始まる」
ほんのわずか、言い淀む。
「……いや、会話じゃないな。詰問に近い。
俺はただ、父が納得する答えを差し出すのに必死だった」
歩調は一定で、声にも大きな感情の揺れはない。
けれど、その淡々さが、かえって胸に重く残った。
「とは言っても、間違えたからって怒鳴られるわけじゃない。
できなかったからって、殴られることもない。
そもそも、正答を教えてもらえることもなかった」
少しだけ、肩が落ちる。
「質問のあとには、決まって“それで、誰が困る?”って返ってくるんだ」
人の流れが一瞬緩み、石畳がのぞく。
けれどリオン君は、足元を見ることもなく、前を向いたまま続けた。
「村が困る。商人が困る。兵が困る。
……そういう説明を、淡々とされる。
正直、この環境そのものが嫌いなわけじゃない」
少し間を置いて、ぽつりと付け足す。
「たださ――もし、俺が普通の家に生まれてたら、どんな顔で朝を迎えてたんだろうな、って。
……たまに、考えてしまうんだ」
リオン君は軽く肩をすくめ、どこか寂しげに笑っていた。
彼から聞いた言葉の一つひとつが胸の奥に沈んでいき、私は、自分が置かれている立場のことを、改めて思い知らされていた。ルーニクス大学が「中央」と呼ばれる理由も、その重さも、今になってようやく実感として迫ってくる。
「……ありがとう」
それだけを口にすると、リオン君はじっと私を見つめてきた。
その瞳が、わずかに潤んでいるように見えて、私は遅れて気づく。――きっと、私の反応を勘違いしている。
「……じ、実は俺――」
その先が紡がれるよりも早く、
ドーン、と腹の底に響く音が夜空を割った。
遅れて、ぱらぱらと余韻を引くように、花火が次々と打ち上がる。
光に照らされる一瞬、リオン君は顔をしかめ、すぐに視線を逸らした。
気がつけば、少し不機嫌そうな、いつもの彼に戻っている。
「……なんでもない。行こう。あっちでトーチを戻して、屋台を少し回ろう」
そう言って、彼は私より半歩前に出て歩き出した。
――正直、花火が上がってくれて助かった。
私には、すでに心に決めている人がいる。それに、恋愛の対象は、たぶん女性だ。
もし、あの続きを聞かされていたら、私はどんな顔をすればよかったのだろう。
それに何より、リオン君とは――このまま、良き友人でいたいと思っている。
シタリアの新年祭は、モークムのそれよりもずっと賑やかだった。
通りに足を踏み入れた瞬間、熱気と匂いと音が一気に押し寄せてくる。
焼いた肉の脂がはぜる音。
甘い果実酒の香り。
鍋をかき混ぜる木べらの乾いた響きと、どこかで鳴る笛の音。
「……なにこれ、屋台多すぎじゃない?」
思わずそう口にすると、隣を歩くリオン君も同じように周囲を見回していた。
通りの両脇には屋台が隙間なく並び、どれも競うように明かりを灯している。
油紙に包まれた揚げ菓子、串に刺さった肉、湯気を立てるスープ。
見慣れない料理ばかりで、視線が追いつかない。
歩き出しても、数歩進むたびに気になるものが現れる。
そのたびに二人して足を止め、真剣に覗き込み、また少し進む――それを繰り返していた。
「……あの樽、飲み物?」
「たぶん……。色がやばいけど」
「あ、でも、飲んでる人、笑ってるから大丈夫だと思う」
そんな取りとめのない会話を交わしながら進んでいると、不意に、横から聞き覚えのある声が飛んできた。
「おやおや? そこのお二人さん、来てたんかい」
声の方を見ると、屋台の奥で腕まくりをしたエリオ君がいた。
木箱の上には瓶や包みが整然と並び、どうやら商会の出店らしい。
「やっぱりな。
その“初めて来ました”って顔、遠くからでもわかるで」
にやにやしながら言われて、私は思わずむっとする。
反射的に隣を見上げると、リオン君は先ほどの仏頂面のままだったが、どこか同じように不満げにも見えた。
それが妙におかしくて、私はまた吹き出してしまった。
「べ、別にそんな顔はしてない」
リオン君はそう言って、精一杯強がってみせる。
「しとるしとる。
あれもこれも欲しそうに見て。
目ぇが忙しそうやもん」
エリオ君は楽しそうにそう言うと、屋台の奥へ引っ込み、ほどなく小さな紙包みを二つ手に戻ってきた。
「これは甘い方。
こっちは香辛料強め。
シタリアの新年祭やったら、まず外さん。ルメン焼きや」
そう言って差し出されたそれは、湯気と一緒に香ばしい匂いを立てている。
せっかくだからと、私たちは顔を見合わせ、リオン君と半分ずつ分けていただくことにした。
紙包みを開いた瞬間、ふわりと甘い湯気が立った。
焼き目のついた薄生地が、まだ指先に熱を残している。
「……あ、熱」
そう言いながらかじると、歯が生地を押し返す前に、すっと切れた。
外は香ばしく、中は思ったよりもしっとりしている。
甘い。
けれど、ただ甘いだけではない。
蜂蜜の甘さの奥に、乾いた果実の酸味が潜んでいて、あとから舌の横をくすぐるように残る。
噛むたびに湯気と一緒に香りが抜け、気づけばもう一口欲しくなっていた。
まさに「屋台の味」だ。
半分ほど食べたところで、今度は香辛料強めの方を手に取る。
同じ生地のはずなのに、匂いだけで別物だとわかる。
かじった瞬間、舌の奥がぴりっと跳ねた。
辛い――いや、熱い。
香辛料と、名前のわからない乾いた香草が、油と一緒に口いっぱいへ広がっていく。
甘さは控えめで、その分、腹の奥に落ちていくような重みがあった。
この香りは、以前ヤモリ食堂でいただいた、ホースラディッシュに似たあの薬味だ。
噛むたびに、身体の芯から温まっていく。
思わず吐いた息は、さっきよりも白く、大きく広がった気がした。
そうして気づけば、紙包みの中はすっかり空になっていた。
そんな私を見て、エリオ君は満足そうに笑い、リオン君はどこか照れたように視線を逸らしている。
「ほい、二つで十二ブロウス」
そう言って、手を差し出す。
リオン君はぶつぶつと文句を言いながらも、私の分までまとめて支払ってくれた。
エリオ君曰く、これが商売貴族としての矜持らしい。
その後もしばらく三人で他愛のない話をし、やがてリオン君が帰る時間になった。
それに合わせて、私も帰ることにする。
エリオ君に手を振り、二人並んで中環区の方へと歩き出した。




