Day49:紡がれる知、満ちる声
今日は、外環区にあるヤモリ食堂に来ている。
今週末に行う勉強会のため、食堂を貸してもらえないか相談しに来たのだ。
「あっ、ユリカちゃん! いらっしゃい!」
元気よく迎えてくれたのは、女将のコナハさん。
二十代半ばと聞いているが、そうとは思えないほど幼い雰囲気で、会うだけでこちらまで元気になる。
今日は夕飯時ということもあって、店内の席は半分ほど埋まっていた。
見る限り、皆若そうに見えるあたりトウカ人なのだろう。
「すみません、本日のおすすめ定食ください」
私は今日も厨房の近くの席へ腰掛けた。
ここからだと、ダンさんの包丁がまな板を打つ小気味よいリズムが、心地よく耳に届く。
しばらくして、本日のおすすめ――「鶏の唐揚げ定食」が運ばれてくる。
コナハさんの話では、先日トウカ国から“絶品”と名高い鶏が大量に入荷したらしい。
肉は弾力があって引き締まり、味が濃い。卵は赤みが強くて甘い、貴重な一品なのだとか。
さらに、今まさに城壁外で建設中の養鶏場が完成すれば、鶏卵を“生”で食べられるようになるらしい。
生卵をご飯――ハクマイ――にかけるのがトウカ人の朝食文化だと得意げに教えてくれた。
(絶対に食べに来よう)
そう固く心に誓いながら、私は唐揚げをひと口かじった。
途端に、甘みの強い肉汁があふれ出し、口いっぱいに広がる。
肉はほどよい弾力があって噛むたびに旨味が押し返してきて、
味付けはただの塩――なのに、その塩が肉の甘みをぐっと引き立てている。
「ユリカちゃん、そのまま食べてもおいしいけど、このソースもかけてみない?」
私は差し出された小皿を受け取った。
淡い茶色のソースの中には、細かい粒のようなものが混じっている。
「これは何が入っているんですか?」
「ポンカっていう柑橘の果実と、玉ねぎを細かく刻んでね。
それをオイルと塩と酢で合わせただけよ」
なるほど――聞いただけで絶対おいしいやつだ。
ソースを唐揚げへそっと垂らす。
きめ細かな衣に染み込んでいくと、
ポチ、ポチッ……
小さな気泡が弾けるような音がして、耳までくすぐられる。
熱々の唐揚げから立ちのぼるソースの香りが鼻腔をくすぐる。
鶏肉の甘さと柑橘の酸味が、まるで妖精たちの祝宴のように軽やかに私を誘っていた。
その誘惑に抗えるはずもなく、私は唐揚げを一気に頬張った。
ソースが衣に絡んだ唐揚げは、先ほどの何倍もの甘い肉汁をあふれさせ、
噛むたびに香りが鼻へと抜けていく。
その一瞬たりとも逃すまいと、私はすぐにハクマイへと手を伸ばした。
星々をかき集めて炊き上げたかのように白く輝くハクマイ。
立ち上る湯気が唐揚げの甘みにぴたりと寄り添い、
その香りが私の理性を容赦なく吹き飛ばす。
気がつけば――
私はただ、美味しいものを泣きながら咀嚼するだけの生き物になっていた。
「……ユ、ユリカちゃん。ど、どうかしら……?」
またしても、コナハさんが引いている。
だがそんなこと、今の私にはどうだっていい。
「どっでもおいじいでず!!」
泣きながら咀嚼し、震える声で必死に感謝を伝えた。
――一通り食べ終え、食後のドクダータ茶でようやく落ち着きを取り戻したころ、私は本題を切り出した。
「その……今週末なんですが、大学の友達と勉強会をしようという話になりまして。
広い場所がなくて……。
もしよかったら、朝から三の鐘までのあいだ、場所をお借りできないかなと……。
それと、できれば昼食もお願いできたら嬉しいのですが……いかがでしょう?」
はじめはコナハさんも「え?」という顔でぽかんとしていたが、すぐに「ちょっと待ってね」と厨房の奥へ引っ込んだ。
ダンさんに確認してくれているのだろう。
しばらくして戻ってきたコナハさんが、今度は人数を尋ねてくる。
「私を含めて……十五名でお願いします」
――そう、十五名である。
本来は数人の予定だった。
だが、リオン君たちに絡まれたあの日、事がどういうわけかクラス中に広まり、
「じゃあ自分も」「私も聞きたい」
と、あれよあれよという間に参加希望者が増え、気がつけば “組全員参加の勉強会” にまで発展してしまったのだ。
そのうえ、開催場所の相談になったとき、
エマさんが「トウカ食を食べたいわ」と言ったことで、
なぜか私に白羽の矢が立ってしまった……というわけである。
人数を聞いたコナハさんは、再びパタパタと厨房の奥へ戻っていった。
おそらく想定外の人数だったのだろう。
先ほどより話し込んでいる様子で、少し時間がかかった。
やがて戻ってきたコナハさんと、当日の献立についてあれこれ相談し、
無事に折り合いがついたので、その日は食堂を後にした。
料金も三リウスに抑えてくれたらしく、ありがたさで胸がいっぱいになる。
勉強会当日には、何かお礼の品を持っていこう――そう心に決めた。
翌日。
教室に入った私は、さっそく皆に食堂の件を伝えた。
すると、お礼の品についてエリオ君が勢いよく手を挙げる。
「俺が用意するわ!」
意外な名乗りだったが、女性陣からも男性陣からも文句は出ない。
むしろ「あぁ、エリオなら安心」という空気すら漂っていた。
どうやら、こういった役割はいつも彼が担っているらしい。
「ありがとうございます。では、エリオ君、お願いします」
その瞬間――
教室がざわっ と騒めいた。
男性陣はなぜか慌てふためき、女性陣はきゃあっと色めき立ち、何人かは目を丸くしてこちらを見てくる。
……いや、これは本人が「エリオ君って呼んでな」と言ったからである。
私はそれに従っただけだ。
そう思い、ひとまず気にしないことにした。
ただ、
リオン君がほんの少し不機嫌そうな顔をしていた
……それだけが、なんとなく気にかかった。
――勉強会当日。
私たちはヤモリ食堂に集まっていた。
どのような形式にするか話し合った結果、
「みんなが算術で疑問に思っているところを、私に質問し、考え方を教えてもらう」
という方法に落ち着き、こうして私は“講師のまね事”をしている。
講師など初めてだが――
前世で女子高生だった頃、私は一時期ほんの少し模試にハマったことがあった。
共通テスト、記述模試だけでなく、志望校でもない大学の冠模試まで受けていたのだ。
その時の知識を引っ張り出せば、なんとかなるだろう。
何しろ、シタリアに来て初めて触れたこの世界の算術は、
私にとっては“まっさらで無知”に等しいものだったのに――
気がつけば、金席という立場まで頂いてしまった。
こうなれば、もうやるしかない。
せっかく任された“大役”だ。
私にできないはずがない……と、自分に言い聞かせた。
こうして彼らが持ち寄った中等学習院時代の教科書を使っての授業が始まった。
この世界の算術は、内容だけ見れば確かに数学そのものだ。
思考力・発想力・計算力が求められる。
しかし、質問を聞いていると――扱い方は完全に“算数”で止まっている。
どうやら中等学習院では、
「言われた通りにやれ」
「とにかく計算しろ」
とだけ教え込まれるらしく、
彼らのノートの書き方からも、その指導方針が透けて見えた。
それにしても、皆が目を輝かせてこちらを見てくる。
質問するたびに前のめりになり、
説明するだけで歓声が上がり、
問題を解けば「すごい!」と声が飛ぶ。
――な、なんだろうこの気持ち。
まるで私が、この世の支配者の様だ。
この空間は私を中心に温かく、楽しく回っている。
皆が私に付き従う坊やの様に見えてきた。
そんなことを考えていると、一人の坊やが掌を上げ質問してきた。
彼の名前は……ええと、確かテムだ。
「あら、何かしら? テムさん」
テムさんはじっと私を見つめ、小さく息を漏らした。
(……私の罪は、知識だけじゃなくて、美貌もなのかしら)
私は少しだけ、襟元を開き、髪の毛をかき上げて見せた。
「……私の名前はトマ・デル・エルディアだ」
「し、失礼しました。トマさん。……で、では……なんでしょう?」
一瞬で現実へ引き戻され、顔から火が出るほど恥ずかしくなった私は、慌てて髪と襟元をいそいそと直した。
「この、入試で出た最終問題が……どうやってあの時間内で解いたのかがわからないのだ。
入試以来、他の者にも聞いて回ったのだが、皆、途中で挫折するか、読むのを放棄したと言っていた。
ユリカは、どのように解いたのだ?」
トマさんがそう言って問題用紙を差し出してきた。
私は手元の入試問題に目を落とす。
正直、全体的にあまり印象に残っていなかったので、どの問題か確認しなければならない。
「最終問題というと……これですかね?
村から南下しながら街へ向かう。
一日目は全行程の四割を南下。
二日目は残りの道のうち三十キロメートルを南下し、
その時点で『これまで南下した距離の割合は全体の五割五分である』。
全体の道のりを求めよ。
……で、合っていますか?」
トマさんは「あぁ……」と、どこかぶっきらぼうに返事をした。
少し機嫌が悪いような気もしたが、今は気にしている場合ではない。
まずは、トマさんがどこまで問題を理解しているのか確認しなければ――
私はそう考えて、話を続けた。
「そうですね。まずは、これをどのように考えられたんですか?
それと、“全く分からない”のか、“時間をかければ解けそう”なのかも、伺いしたいです」
そう問いかけると、トマさんは手元のノートに目を落とし、ゆっくりと顔を上げた。
「問題自体は、時間をかければ解ける。
実際、試験後に改めて解いてみたんだ。
だからこそ……これを入試本番の時間内で解いたというのが信じられないのだ」
周りを見ると、ほかの生徒たちも同じようにうなずいている。
(そんなに難しかったっけ……?)
私の中ではほとんど印象に残っていなかった問題だ。
ならば、実際にここで解いてみせながら説明するほうが早い。
「えっと、まず――割合を聞かれているので、全体を十と仮定します。
でも、十だと他の数字と紛らわしいので、“x”を置きます。
一日目は全体の四割を進んでいるので、距離は 0.4x ですね。
二日目は三十キロメートル。そして二日合わせて五割五分なので、0.55x が全体に対する進捗率になります。
すると式は――
『0.4x + 30 = 0.55x』」
そこまで言って、私はトマさんのノートに式を書きながら説明を続ける。
「0.55 と 0.4 はどちらも“割合”を示す数字なので、差は 0.15 になります。
つまり、二日目までに進んだ“割合の差”が 0.15。
『30 = 0.15x』という式が成り立つので……
『x = 30 ÷ 0.15』。
これで x、つまり全体の道のりは二百キロメートルとなります」
完璧に説明できた――と思った。
だが、返ってきたのは沈黙。そして唖然とした表情。
(あれ……? わかりにくかった?)
私が困惑していると、トマさんが静かに口を開いた。
「……すまない。その『x』という記号はなんだ?」
――やっぱりそこか。
私は教科書を借りて再確認したが、どこにも“代数”の記述はない。
当然、変数も出てこない。
入試の時に覚えた違和感。
この世界の算術には“代数”という概念が存在しないのである。
数学的な問題を、算数的なアプローチで解かされるのだから、
時間が足りないのは当然だった。
「この記号は “エックス” と読みます。
まだ分かっていない数を“仮に置く”ための記号です。
今回の最終問題では、その “未知の数” を解き明かすために使いました」
そう説明し、私は x の概念と変数の使い方を丁寧に教えた。
――そして、気がつけば待望のお昼の時間を迎えていたのだった。
2025.12.08:重複箇所の削除




