Day48:繰り返す紡、揺れる心
創世資料庫での校外学習から、半月ほどが過ぎた。
最初の数日はあの出来事の話題で持ちきりだったが、今では口にする者も少なくなり、学園では穏やかな日常が戻りつつある。
そんな中でも授業はどんどん進み、ルーンに関する知識もだいぶ増えてきた。
特に印象に残ったのは、〈紡〉の中で別の紡を呼び出せること、そして紡を連続実行できるという性質だった。
これら二つは、実は日常でもよく使われている。
身近な例で言えば、家で使うコンロがそれに当たる。
つまみを回すとマナが流れ、火がつく――それは五徳の下に刻まれた紡のおかげだ。
ただしそのままでは、一度火がついて終わってしまう。
そこで用いられているのが、“繰り返し実行”用の綴〈繰返綴〉で〈燃せ〉の紡を囲む方法だ。
そしてこの〈燃せ〉に使われている紡は、コモンの石碑に刻まれた“神の紡”を呼び出しているのが一般的らしい。
“一般的”という言い方がされるのは、まれに神の紡ではなく、綴を直書きしたり、独自に定義した紡を呼び出す製品もあるからだという。
こうして繰り返し実行された紡は、マナの供給がある限り燃え続け、コンロは火を維持する仕組みになっている。
ちなみに、つまみで火力を調整しているのは、マナの供給量の調整であり、安全のため紡が処理できるマナ量の八割までしか供給弁が開かないように設計されているらしい。
――これはきっと、エンジンにも応用できる。
そう思い、私はメモを取っておいた。
そんなある日の昼、私はエマさん、フィオナさんたちと食堂で、来週から始まる算術の授業について話し合っていた。
ルーンを扱うには論理的な思考が欠かせない。その土台としての算術なのだという。
入試科目が《理算試》だったのも、きっとその理由なのだろう。
しかし、これにはみな一様に不満げだった。
「どうしてルーンを学びに来ているのに、中等学習院で散々やった算術をまたやらなければいけないのか」
そんな愚痴めいた声が、あちこちから漏れてくる。
この世界では、かつて私が過ごしていた世界と比べ、数学や科学といった分野が未発達である。
恐らく、ルーンが異常な発展を遂げたことが大きな理由なのだろう。
しかし――ルーンとマナという存在は、本当に摩訶不思議だ。
どちらもおとぎ話のような力なのに、生活の一部として使われている。
かといって万能というわけでもない。
そもそも、村の神殿にあった学び舎で習った話では、マナとは生命活動にも使われる“根源の力”だと言っていた。
ということは――私の身体にも流れているのだろうか?
そんなことを考えながら、自分の身体を見下ろしてみたが、
ストンとまっすぐな身体が見えるだけで、実感のかけらも湧いてこなかった。
「……ユリカさん、いかがかしら?」
思索の底に沈んでいたところへ、突然エマさんから声をかけられ、
私は「ほぇ?」という間抜けな声を出してしまった。
「……もう。ちゃんと聞いていらして?」
――まずい。
目の前にいるのに聞いてません、とはさすがに言えない。
私は反射的に「はい」と返事をしてしまった。
「ならよかったわ。それでは今週末は、金席であるユリカさんに算術をご指導いただくということで。
時間と場所は後ほど決めましょうね」
一同が一斉に賛同の声を上げる。
……どうやら、私が聞いていない間に、今週末の予定が決まってしまったらしい。
私たちは午後の予鈴が鳴る頃には教室へ入り、それぞれ席に着いていた。
ほどなくしてノーラン教授が姿を見せ、午後の授業が始まる。
「先日、繰返綴について話しましたが、今日は〈制御綴〉について説明します」
教授はそう言うと本を開き、ゆっくりと語り出した。
「繰り返しになりますが、繰返綴は単体では意味を持たない綴です。
しかし、この綴は特殊でして――他の綴を囲むことで、その囲まれた綴を“繰り返し実行”させる性質があります。
こうした特殊な綴を、まとめて〈制御綴〉と呼びます」
教授は説明しながら、黒板に〈繰返綴〉と通常の綴を分けて書き出していく。
「もっとも、現在使用可能な制御綴は、この繰返綴ひとつしか確認されておりません。
しかし古い文献には、制御綴と思われる記述がいくつも存在し、今後増える可能性が高いとされています。
賢者ジュンターの話にもあった通り、かつて“彼の地”ではルーンを自在に操り、豊かな生活を送っていたと言われています。
近年、世界各地でその“彼の地”に関する遺物が次々と見つかっており、
ここ十年は“ルーン学の転換期”だと唱える学者も少なくありません」
そう語ると教授は鞄から紙束を取り出し、全員に教卓まで取りに来るよう指示した。
受け取った紙を見ると、そこには“現在、可能性が示唆されている制御綴”に関する情報がびっしりと書き込まれていた。
私たちは紙を手に、それぞれ自分の席へ戻っていく。
「残りの時間は、その資料に書かれている制御綴を使い、
今後どのようなルーンが開発可能か――各自で思考してみてください」
紙には、さまざまな制御綴の候補が列挙されていた。
条件、照合、分岐、繰返、持続、巡回、遮断、帰還、継続――。
いずれも実際の文献から見つかった記述をもとに推測されたもので、利用方法の予測も簡潔に添えられている。
たとえば〈条件綴〉には、
“特定条件下で正誤を判定し、正なら実行、誤なら実行しない”
と説明がある。
もしこれが使えるようになれば――
創世資料庫のマナ灯のように、人の接近に合わせて灯りがつく“人感センサー”のような仕組みも実現できるのかもしれない。
そういえば――ジュンターは“この地に捕らわれている”と言っていた。
どうすればそんなことが可能になるのか。本当に神の怒りを買ったのだろうか?
それとも、古い文献を読み漁るうちに、何かしらの紡を誤って発火させてしまったのではないか。
もしそうだとしたら、何が該当するのだろう。
そう考えながら、配られた紙の一覧を見つめる。
……照合綴。
これが一番しっくりくる気がした。
たとえば、あの黒くて大きな扉。
ジュンターは、あそこから“出ようとしなかった”のではなく、出られなかったのではないか?
扉そのものに何らかの紡が施されていて、その条件が照合綴だったとしたら――。
一定条件を満たさない者を通さない。
例えば、
“ジュンター本人は通れない”という縛り
“規定以上のマナを帯びた者は通れない”という制限
そうした条件が働いていたのなら、確かに“捕らわれている”と感じるだろう。
特定の人物……。
――あっ。
思考がひらめきに変わった瞬間、私は紙の端に走り書きを始めていた。
私は“今後開発可能だと思うルーン”として、
マナ車の起動に人物判定を入れる仕組みをまとめることにした。
あらかじめマナ車に運転者を登録しておき、
起動時に現在の操縦者と登録情報(あるいは設定した条件)を照合し、
一致した場合にのみエンジンが起動する、という仕組みだ。
これなら――盗難防止にも使えそうだ。
ジュンターのことなどすっかり頭から抜け落ち、新しい仕組みを紙に書き起こしているうちに終業の鐘が鳴った。
私はその紙を教授へ提出し、何の気なしに教室を出ようとした。
その時、提出した私の案を見た生徒たちが目を見開き、
さらには教授まで驚愕した顔をしていることに――私は全く気付いていなかった。
ーー翌日。
昨日と同じように教室へ入ると、リオンが男子二人を連れて私の元へまっすぐ歩いてきた。
「金席。お前、マナ車に興味があるのか?
そういえば“モークム”の出だと言っていたな。
あそこは経済的にも重要な土地で、マナ車産業も盛んだと聞く……もしかして何か関わっていたりするのか?」
その言い方は、まさに貴族然とした高圧的な口調だった。
「あ、あの……。えっと、アスカリオ……様?
なぜそのようなことを?」
「昨日提出した資料を見させてもらった。それゆえだ。
……それと、俺のことはリオンでいい」
軽く顎を引きながら言うリオンは、どこか誇らしげでもある。
お貴族様というのは、自分では“フレンドリーにしてやっている”つもりなのだろう。
それを相手に強要していることには、まるで気付いていない。
「……それでは、そうさせていただきますね。リオン君」
これはちょっとした私の意趣返しだった。
今まで“君呼び”などされたことがないのだろう。
リオン君の顔が、貴族然としたそれから、年相応の少年の顔にへにゃりと崩れていく。
「お、なんやリオン様。顔、真っ赤やん」
連れてきた男子のひとりが、面白がってリオン君を揶揄い始めた。
「う、うるさい! 突然のことだったから驚いただけだ!」
その男子は「またまたぁ」と茶化しながら、軽く胸を張って名乗る。
「俺、エリオ・ファン・サンデル。
ユリカちゃん、俺のことも“エリオ君”って呼んでな」
そう言うと、ニコニコしながら私のことを頭の先からつま先まで、舐め回すように眺めてくる。
……なんというか、距離感がよくわからない人だ。
訛りも強いし、きっと遠方の出身なのだろう。
「おい、二人ともいい加減にしろ。話題がずれている」
二人の戯れをぴしゃりと制したのは、同い年とは思えないほど体格が良く、落ち着き払ったもう一人の男子だった。
「私はカミル・ファン・ロイドだ。この二人が失礼をした。
して、ユリカ嬢。先ほどリオンからの質問だが、モークムではマナ車に関わっていたのか?」
そう言うと、カミルはぐっと身体を前に傾け、
まるで“逃がすつもりはない”と言わんばかりの迫力で距離を詰めてきた。
――大きい。
頭ひとつ以上背の高い男子に迫られるのが、こんなにも怖いものだとは知らなかった。
目じりが熱を帯び、今にも涙がこぼれそうになったその時――
三人の後方から、凛とした声が響いた。
「皆さま、何をなさっているの?
淑女に寄ってたかって……紳士のすることではありませんわ」
その場に現れたのは、エマさんだった。
その声に、三人は揃ってビクリと肩を震わせ、一歩後ずさる。
私はその隙を逃すまいと、思わずエマさんのもとへ駆け寄り、
抱きつき、その豊満な胸へ顔をうずめて助けを求めてしまった。
エマさんは「あらあら」と優しく微笑みながら、私を抱きかかえるように保護してくれた。
「いや……俺たちはただ――」
リオン君が弁明しようと口を開いた瞬間、
エマさんは三人へきつく睨みを向け、
「ユリカさん、向こうで週末の勉強会について話しましょう」
そう言って、私の手をそっと取り、教室の右奥にある机へと導いてくれた。
ふと、気になって後ろを振り返ると――
リオン君が、伸ばしたままの右手をどう引っ込めればいいのかわからず、
空中で所在なげに泳がせている姿が見えた。




