Day46:灯る綴、結ばれる手
翌朝、私は寝坊した。
大慌てで服を準備し、髪を整え、昨日ヤモリ食堂で朝食にといただいた手土産と鞄を抱えて、寮を飛び出す。
なんとか開始前には大学に着き、全力で教室まで駆け上がった。
今日も変わらず、オルド組の扉は重い。身体で押して開けようと必死になっていると、ふっと扉が軽くなる。
顔を上げると、そこにはノーラン教授がいた。
「……もっと余裕をもって行動してくださいね」
初日から注意されてしまった。
私は深く頭を下げてお礼を言い、教室左上の自分の席へと向かう。
周りの女子生徒からクスクスと笑い声が漏れ、
――穴があったら入りたい、とはまさにこのことだと思った。
そんな私の羞恥心をよそに、初日の授業が始まる。
大学最初の講義は、基礎行程――「ルーンとは何か」である。
そこで私は、初めて“体系的なルーン学”に触れた。
ルーンにはまず、綴と呼ばれる最小単位――一つの意味をもつ文字列が存在するという。
しかし、綴ひとつでは何の現象も起きない。
だが、綴が一定の規則で並べられ、一文として構成されたとき、そこに初めて意味が宿る。
さらにそこへマナを流し込むことで、ようやく現象として世界に顕れる――それがルーンの仕組みなのだと、ノーラン教授は淡々と語った。
しかし、綴を増やしていけば、当然ながら記述量は膨らむ。
長すぎれば媒体に書ききれない。
では文字を小さく書くかといえば、今度は「一度に流し込み可能なマナ量」が減ってしまい、現象として成立しない場合も出てくる。
逆に、字を大きくすれば良いというものでもない。
大きすぎる綴は、受け取るマナ量が過剰になり、思わぬ暴発や事故につながる。
そのため、ルーンは“一文字あたりの大きさ”に厳密な規格があり、これを超えて記述してはならない。
これは教授曰く、世界各国が互いに牽制しつつも「唯一、完全に統一されている国際法規」なのだという。
そこで、ひとつ大きな疑問が生まれた。
例として黒板に書かれた “燃せ” や “灯せ” の綴は、どれも数十文字にも及ぶ長い文字列だった。
だが――私が幼いころ見た、父さんのランタンに刻まれていたルーンは、明らかにもっと短かったように思う。
十文字にも満たない、小さな印のようなものだったはずだ。
あのランタンは、マナを流せば光を放ち、魔物を退ける。
つまり、教授が言っていた “灯せ” の効果を備えていたことになる。
しかし、そこに書かれていたルーンは、教授が示した綴とは似ても似つかないものだった。
(……じゃあ、あれはいったい何? 綴の簡易版? それとも、特別製?)
そんな私の疑問は――次の教授の説明であっさりと解消された。
「綴というものは、本来これほど長いものです。しかし、そのままでは使い勝手が悪い。長すぎて覚えられないし、書くのにも手間がかかる。そこで――」
教授は黒板に書かれた綴の群れを、チョークで四角く囲った。
そして、その枠の上に、まったく別のルーンをひとつ書き加える。
「これが “紡” です。
これは昔、時の大賢者 が考案したと伝わっています。
“複数の綴をひとまとめにして、好きなときに呼び出せるようにする”。
そのための記述法が、この紡です」
教授は “燃せ” の綴群を囲った四角の上に “燃せの紡” を、
そして “灯せ” の綴群を囲った四角の上に “灯せの紡” を、それぞれ書いて見せた。
「つまり、この紡にマナを流すだけで――枠内に書かれた大量の綴を一気に呼び出し、同じ効果を発揮できるのです」
教授はそう言うと、チョークの先で黒板の紡をそっと叩いた。
「みなさん、この紡をよく見てください。どちらの紡にも、語末に “△▽” という印が付いていますね。
これが “紡である” ことを示す標になります。紡は綴とは違い、まとめられた綴群を呼び出すための記号でもある。そのため、この印によって識別されるよう統一されているのです」
黒板の “燃せの紡△▽” と “灯せの紡△▽” が、白い光を受けてほんのりと浮かび上がったように見える。
「紡が存在しなければ、綴をその都度すべて書き連ねなければならず、ルーン職人は大きな媒体を持ち歩く必要があったでしょう。紡の発明は、まさにルーン学の転換点だったのです」
長い綴が短くまとめられた理由。
父さんのランタンに刻まれていた“短いルーン”の正体。
あれは綴そのものではなく――紡だったのだ。
幼いころ、家族で過ごした夜道の灯りが、思わぬ形で現在と繋がったような気がした。
教授がさらに説明を続けようとしたところで――
校内に昼の鐘が高らかに鳴り響いた。
「……時間になってしまいましたね。続きはまた明日にしましょう。午後は校外学習です。昼食を済ませ、開始の鐘までに教室に戻るようにしてください」
軽く一礼した教授が教室を後にし、ざわめきが戻っていく。
私はしばらく黒板の紡を見つめたまま、胸の奥に広がる新しい理解の楽しさを味わっていた。
こうして初日の座学が終わった。
席を立ち、昨日ヤモリ食堂でいただいた手土産を抱えながら食堂へ向かう。
献立も気になったが、教室で昼を食べていいのか判断がつかず、とりあえず食堂へ足が向いたのだ。
食堂は広大で、一度に三百人以上が利用できる造りになっていた。
長いテーブルがずらりと並び、六人掛けの椅子にはすでにびっしりと学生たちが座っている。
初日だからだろう。同じタイミングで皆が流れ込んだのだ。
それにしても――やはりこの大学は“中央”と呼ばれるだけのことはある。
学年も違うはずなのに、すでに各々の派閥ごとに固まって食事をしているらしい。
笑い声が飛び交い、談笑が交差し、その輪のどれにも自分は属していない。
そんな事実が、胸の奥をざらりと撫でていく。
(……どうしよう。トイレにでも行こうかな)
昔、教室の中で居場所を探していた記憶がふいに浮かび、胸がひりついた。
あの時と同じように、食堂のざわめきが遠く感じる。
その時――喧騒の中から、やさしい声が私を掬い上げた。
「ユリカさん、こちらで一緒にいかがかしら?」
振り返ると、エマさんがこちらに手を振っていた。
隣の席をぽんと叩き、柔らかく微笑んでいる。
私は小さくお礼を言いながら、その席へ腰を下ろした。
テーブルにはエマさんのほかに四名が座っていた。
「ちゃんとお話しするのは初めてですね。
フィオナ・ヴァン・クランです。よろしくお願いします。
私のことはフィオナとお呼びくださいね、ユリカさん」
柔らかく微笑むその雰囲気に、緊張していた肩の力がすっと抜けた。
「よろしくお願いします。フィオナさん」
テーブルには他に、上級生の女子生徒が一人と、男子生徒が二人。
彼らとも軽く挨拶を交わすと、ようやく席の空気に馴染んだ気がした。
「ユリカさんは、食堂のお食事じゃなくて? ご自身で作られたのかしら?」
エマさんが興味深そうに尋ねてくる。
私は、手拭で包まれた手土産の包みをほどきながら答えた。
「いえ、昨日食事へ行ったお店で店主さんたちと意気投合してしまって……。
帰り際に “明日の朝にでも” と、手土産をいただいたんです。
ただ――寝坊してしまって、食べられなくて……」
そう言って、私は「たはは」と、情けなさ半分の苦笑いをこぼす。
「ふふふ……そういえば、そうでしたわね。始業ギリギリでしたもの。
明日からは、私がお迎えに上がろうかしら?」
軽く冗談めかして言うエマさんの笑顔は、どこまでもやわらかくて、胸の奥がじんわりとほどけていく。
私は照れながらも「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。
包みの封をそっと開けてのぞき込む。
昨日いただいた手土産――その中身は、おにぎりが二つ、色鮮やかな漬物、そして照りの美しい角煮だった。
角煮は豚肉だろうか。
見るからに、ほかほかと湯気を立てそうなほど艶があり、昨日作ったとは到底思えないほどしっとりしている。
しかも、一口で食べられるよう小さく切り揃えられていて、その心遣いに思わず胸が温かくなった。
自然と笑みがこぼれた瞬間――
「あら、ユリカさん。余程お好きなんですね」
フィオナさんがくすっと笑いながら覗き込んでくる。
その瞳は好奇心にきらめいており、続けておにぎりを指さしながら質問してきた。
「あの、これって……麦ではないですよね?」
フィオナさんがおにぎりを見つめながら首をかしげる。
「はい。こちらハクマイと言って、お米を焚いたものです。
トウカ食らしいのですが……この辺りでは、あまり食べられないんですよね?」
説明すると、今度はエマさんが驚いたように目を丸くした。
「ハクマイって……あの麦じゃない麦よね? 本当に人が食べられるの?」
やはり、話に聞いていた通り、この地方では食用に向かない作物という認識なのだとわかる。
「はい。お米は、私の育った東地方でも “パエージャ” と言って、魚や野菜を一緒に煮込む料理で食べられています。
でも、このハクマイのように “お米だけを焚く” というのは、こちらへ来て初めてでした。
とても甘くて、美味しかったですよ。……よかったら、一口いかがですか?」
さすがに受け入れられないだろうと思いながらも、私はそっとおにぎりを差し出す。
ところが――
「いただいてみてもいいかしら?」
エマさんが、迷いなくおにぎりへ手を伸ばした。
その瞬間、私を含めテーブル全員があわてふためく。
「ちょ、ちょっとエマさん?
自分で言い出したことなのに、こんなこと言うのもどうかと思うのですが、……本当に食べられますか?」
差し出した私が確認してしまう以上に、特に上級生が驚きを隠せないでいた。
「エマ様、それ、お身体に合わなかったらどうするんですか!」
「そもそも食文化が違います!」
口々に心配が飛び交い、まるで毒味でもするかのような大騒ぎだ。
当のエマさんは、おにぎりを手にしたまま、きょとんとした顔で周りを見る。
「そんなに大袈裟かしら? ユリカさんは普通に食べているのでしょう?」
エマさんは、そのままおにぎりの上部をつまみ、小鳥のように小さく一口頬張った。
……もぐ、もぐ、もぐ。
目をつむり、丁寧に噛みしめていらっしゃる。
やがて、こくりと飲み込み――ぱっと瞳を開いた。
「……まぁ。なんて甘いのかしら。みなさんもぜひお食べになるべきだわ!」
弾むような声に、テーブルがざわつく。
その一言を合図に、ほかの面々も、私に軽く断りを入れてから、恐る恐るおにぎりを一口ずつつまんで頬張っていった。
ある者は、胸の前で手を組み何かの祈りを捧げてから。
ある者は、興味と警戒が入り混じった顔で。
ある者は、まるで毒味でもするかのように目をぎゅっとつむり、覚悟を決めて。
おにぎりを食べるだけで、それぞれの思いが顔に出過ぎている。
(……なにもそこまでして食べなくても……)
しかし、ハクマイを噛みしめ始めると、皆の表情がみるみる変わっていった。
最初は半信半疑で口に運んでいたのに、噛むたびに驚きが目に宿り、甘みに思わず息をのむ者までいる。
中には――「どうして今までこれを食用にしなかったのかしら」と、真剣に首をかしげる者まで現れた。
「……ユリカさん、こちら“トウカ食”とおっしゃいましたわよね?
トウカ食といえば北のトウカ国のお料理のことだと思うのだけれど……この街にトウカ食を出す店があるのかしら?」
「はい。外環区の城壁近くに、ヤモリ食堂という、トウカの方が切り盛りされているお店があります。
ほかにもあるかもしれませんが、私が知っているのはその一軒だけです」
説明を終えると、エマさんが――なぜか妙に期待を込めた目で私を見てきた。
お貴族様の考えは理解しがたいが、こればかりはさすがに分かる。
「こ、今度……ご一緒されま……」
「ええ! ぜひ!」
私が言いかけた瞬間、エマさんが勢いよく被せるように答え、ぱっと私の手を握ってきた。
そのほっそりとした指先に触れた瞬間、胸がどくりと跳ねる。
思わぬ距離の近さに頬を赤らめ戸惑っていると、まるで合図のように、午後の予鈴が高く鳴り響いた。




