Day45:浮かれモノと手紙
私は今、早朝の濃霧に紛れ、ゆっくりとルアーを引いている。
カポン……カポ……ポコン。
水面を押し分け、静かに進む音。
それはまるで、水の上に棲む何かが、息をしているかのようだった。
昨日、完成させたルアー――通称ハネモノ。
正式にはクローラーベイトと呼ばれ、前方に取り付けた二枚の羽がパタパタと水をかみ、ヨレヨレと不器用に泳ぐその姿が、たまらなく愛おしい。
ハネモノはその波導と音で魚にアピールをし、口を使わせるためのルアーである。
正直なところ、色や柄なんてどうでもいいと思っていた。
――思っていた、はずなのだ。
気づけば明るい茶色の塗料を選び、どこかで“リアの髪の色”を意識してしまっていた。
完成した瞬間、あまりの自分の女々しさに、思わず口元がゆがむ。
……しかも、背中には小さなハートマークまで描き入れている。
どうかしている。
けれど、昨夜の私は、ルアーの出来とトウカ食の美味しさにすっかり舞い上がっていた。
これを誰が止められるというのか……。
私はいったんルアーを回収し、膝をついて手を伸ばし、水面にそっと触れた。
ひやりとした感触が指先を刺す。
――冷たい。
今回の狙いはナマズ。
小川や用水路、湖などに生息する、口が横に広くブサ可愛い顔が特徴的な魚である。
そのナマズの活動水温は十五度以上と言われており、今手を付けた感じからすると、それを少し下回る程度かもしれない。
しかし、小川や用水路は水深も浅く、幾多にも分岐、そして合流する。
日が高くなれば、陽を受けた水面が温まり、昼にはきっと十五度を超えてくるだろう。
そう信じ、私はルアーを打ち続けた。
ただ、いま使っているのは黒い万能ロッド。
本来は海や河口向けのもので、こうした狭い小川で扱うには長すぎる。
とはいえ、渓流用のロッドではパワーが足りない。ナマズをかけたとしても釣り上げるのは難しいだろう。
結局、選べるのはこの万能ロッドしかなかった。
(……ティップは枝に引っかかるし、テクニカルキャストなんてできやしないし、これはナマズやバス用のロッドも一本作った方がいいな)
そんなことを考えながら、私は小川の淵、用水路との分岐点、草影、
そして地下用水路の入り口――ナマズが潜んでいそうな場所を、ひとつひとつ丁寧に攻めていった。
ルアーが着水するたび、水面が「ポチャン」と小さく鳴り、ヨレヨレと可愛く泳いでいた。
冬が近いとはいえ、昼を過ぎるとさすがに暑くなってくる。
汗ばんだ額を拭い、ひたすらにその瞬間を待った。
――羽根がキラリと光を反射した、次の刹那。
ドッパァン!!
水柱が立ち、ルアーが一瞬で消えた。
水面が裂け、ロッドが弓なりにしなる。リールが悲鳴を上げた。
この独特の吸い込み――間違いない、ナマズだ。
ティップが一気に水面へ叩きつけられる。反射的にロッドを立て、角度を六十度に保ちながら、ナマズの頭を下げないようにいなす。
ナマズは水面直下で横走りを始めた。
ハネモノの羽が抵抗になり、「ガッ、ガッ、ガガッ」と断続的な振動が手に伝わってくる。
ナマズの顎は硬い。かかりが浅ければ、一瞬の緩みで外れてしまう。
私はロッドを少し寝かせ、テンションを一定に保ったままリールを回す。
突然、魚体がローリングを始めた。ラインがねじれ、空気が鳴る。
ロッドティップを前に突き出し、テンションを逃がしてフックアウトを防ぐ。
――そして、頭を上げた瞬間を逃さず、一気に寄せた。
水面が波打ち、白濁した腹が陽を受けて眩しく光る。
その姿は太く、短く、まさに大物。
最後に岸際で暴れたが、水深は浅く、すでに推進力は残っていなかった。
ロッドを寝かせ、左手でラインを掴み、慎重に引き寄せる。
そのまま、左手でナマズの下あごを掴み――土の上に引き上げた。
――ドスッ。
胴回りは子どもの腕ほどもあり、重い。全長は七十センチ近くあるだろう。
口の端には、ハネモノの片翼がまだ開いたまま刺さっていた。
フロントフックは上顎の骨を正確に貫いている。――我ながら、完璧なフッキングだ。
ルアーを引き抜きながら羽根の付け根を確かめると、そこには見事な噛み跡が残っていた。
――はぁ、はぁ、はぁ。
肩で息をしながら、私は自分の鼓動を落ち着けた。
さっきまで冷えていた手が、熱を帯びている。
このナマズは、おそらくこの小川の主――そう思えるほどの貫禄があった。
陸に上げられてなお、巨体をくねらせ、泥を跳ね上げる。
私はその頭を両手で押さえ、その命を無駄にしないように、静かに――締めた。
――三の鐘。
すでに日は傾き、空気は夕方の匂いを帯びていた。
私は、釣り上げたナマズを抱えたまま、昨日訪れたヤモリ食堂へと向かっていた。
私の信条は――「釣ったら、食べる」。
このナマズも感謝して、美味しくいただくつもりだった。
しかし、さばく場所がない。
寮室の流しでは到底無理だし、道具も揃っていない。
考えに考えた末、思いついたのがあのヤモリ食堂だった。
昨日の今日で持ち込むのは図々しいとは思ったが、
あの少女――いや、少女のような女将さんは笑って受け入れてくれた。
「せっかくだから、うちで一緒に食べましょう」
そう言って、旦那さんまで呼び出してくれたのだ。
私は恐縮しながらも、その厚意に甘えることにした。
ナマズの可食部は、およそ体重の半分ほど。
手にしたこの一匹は五キロは下らないだろう。みんなで分け合って食べられるほどの大物である。
女将さんは、さっそくナマズを抱えて厨房へと向かい、私はその間に手拭を借りて、袖や手についた泥を落とした。
食堂の裏手に回ると、女将さんも手拭を片手にやってきた。
二人で桶の水を分け合いながら、ようやく改めて自己紹介をする。
私は、これまで領都で暮らしていたこと。
釣りが好きで、趣味でルアーまで作っていること。そして今年から、ルーニクス大学に通うこと。
女将さんは目を丸くし、「えっ、学生さんなの?!」と声を上げた。
どうやら、女将さんは女将さんで、私のことをもっと幼いと思っていたらしい。
それがおかしくて、私たちはお互いの容姿を見合いながら、腹を抱えて笑ってしまった。
女将さんの名前は「コナハ・ヤモリ」。
旦那さんは五つ年上で、「ダン・ヤモリ」というそうだ。
気づけば自然に「ユリカちゃん」「コナハさん」と呼び合っていた。
きっと、気が合うというのはこういうことなのだろう。
やがて、厨房の方からダンさんの大きな声が響く。
私たちは慌てて身を整え、笑いを収めてから食堂へと向かった。
食堂に足を踏み入れた瞬間、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いが漂ってきた。
炊き立てのハクマイの香りと、油の甘い香り――それだけで、腹の虫が鳴きそうになる。
私は「そこに座って待っててね」と言われ、木の椅子に腰を下ろした。
奥では、コナハさんとダンさんが手際よく料理を仕上げているらしく、心地よい音が広がっていく。
しばらくすると、二人が並んでお盆を抱えて現れた。
ダンさんも同じトウカ人、細身で端正な顔立ちをしており、その若々しさはまるで学生のようだった。
夫婦というより、十代のカップルにも見えるほどだ。
料理が次々とテーブルに並べられていく。
透き通るような白身の「洗い」、衣が軽やかに立った「天ぷら」。
そして、目の前に置かれた丼の中では――
甘辛いタレの香りをまとった「ナマズの蒲焼」が、湯気を立てていた。
香りが弾け、思わずごくりと唾をのむ。
どの皿も美しく、そして何より――美味しそうである。
私は、まず洗いから箸を伸ばした。
透き通るような白身を一切れ取り、皿の上で光を反射するその艶をひとつ確かめる。
洗いは、濃い塩水で余計な脂と水分を抜き、うま味だけを閉じ込めたものらしい。
一つまみの塩を振り、刻みネギを少しのせ、その上からカボスのような小さな柑橘をぎゅっと絞る。
果汁が滴り、白身に透明な光が走った。
口に運ぶと、まず感じるのは、川魚とは思えない清らかな甘み。
そこへ一つまみの塩が加わり、その甘みをきりりと引き立てる。
続いて、柑橘の酸味が脂をさらい、噛みしめるほどに、今度はじんわりと脂の旨味がにじみ出し、鼻を抜けていく。
残るのは、透き通るような旨味の余韻だけ。
ネギの青い香りがその余韻に寄り添い、まるで大麦を揺らすそよ風のような、さわやかな風景が口の中に広がった。
――なんとも静かな贅沢である。
次に、天ぷらに手を伸ばした。
口に運ぶとまず、衣の香ばしさとともに、ふわっと広がる白身の甘み。
ナマズ特有の柔らかく上品な身は、まるで蒸したようにしっとりしていて、舌の上でほろりと崩れながら、脂の旨味がじんわりと広がっていく。
淡白なのに、どこか深みのある味わい。
後味は驚くほどすっきりして、油っこさをまるで感じない。
そして最後に、蒲焼をいただく。
炊きたての白いご飯の上に、照りをまとったナマズの切り身が、艶やかに横たわっていた。
表面は、炭火で軽く焦げたタレが薄くパリッと香ばしく、箸を入れると、身は驚くほど柔らかくほぐれる。
ふっくらとして、脂は控えめ、だけど噛むほどにしっとりとした甘みと旨味が滲む。
「川の水を感じる淡い甘味」とでも言うべき味だ。
タレは、塩気と甘みが絶妙に絡み、その一滴一滴がご飯に染みている。
ハクマイをすくって口に運ぶと、タレの香ばしさとナマズの淡い脂が一体となって、口の中がふわりと広がった。
さらに、ホースラディッシュのような薬味を少しのせてみる。
その鋭い香りが脂の甘さをきりりと締め、喉の奥に、ほのかな苦みと清涼を残した。
その余韻は、炭の香りとともにいつまでも舌の上に残り、
これもまた――静かな贅沢、だった。
食べ終える頃には、ご飯粒ひとつすら惜しく感じる、――そんな一杯だった。
食後は三人で片づけを行う。
さすがに台所へ入るのはためらわれたため、私は食卓の片づけと食堂の掃除をやらせていただいた。
帰り際、調理代を払おうとする私を二人が止め、それどころか、明日の朝食にと手土産まで持たせてくれた。
そんな温かな気持ちが、私の心までやさしく包みこんでいく。
帰りの寒空の下、今日あったこの出来事をリアへの手紙にしたためようと決めた。
書き出しはこうだ。
――「ナマズが美味しい季節になりましたね。いかがお過ごしでしょうか」
我ながら、完璧なフッキングである。
この胸の高鳴りは、もはや誰にも止められないだろう。
2025.11.11:
削除忘れのプロットの削除
2025.12.08:
ヤモリ食堂女将の名前を修正




