Day44:白き粒、懐かしき香り
オリエンテーションの翌日、私は一人で寮の自室にこもっていた。
友達もおらず、来週の授業が始まるまでの三日間、何をするでもなく過ごしている。
シタリアに来てから入学までのあいだに、めぼしい場所はほとんど見てしまったし、それ以上に――部屋を一歩出れば、周囲は貴族ばかりだ。
気を張らずに外を歩く気分にもなれず、こうしてベッドの上でごろごろしていた。
季節は秋。
それも終わりかけで、窓の外を吹き抜ける風はもう冬の匂いを運んでくる。
このあたりには海がなく、冬になれば釣り物もほとんど姿を消すだろう。
(……ああ、釣りに行きたい)
その考えが浮かんだ途端、胸の奥がむずむずしてきた。
何もしていない時間が、急に惜しく思えてくる。
私は勢いよくベッドから起き上がり、机に向かった。
――釣りに行こう。
明後日の朝、誰よりも早く出発すれば、誰にも会うことはないはずだ。
久々に気持ちが前を向く。
領都から持ってきたルアー制作道具を机に広げると、一つひとつの工具の手触りが懐かしくて、思わず笑みがこぼれた。
シタリアに来た街道沿いには小川が流れ、その南の方に広がる麦畑を思い出す。
きっと、麦畑の方まで用水路が伸びているに違いない。
そう考えると自ずと対象魚は絞られてきた。
私は、厚さ二センチほどの桐材を二枚切り出し、筆の先にカゼイン接着剤をすくって数か所に塗り、そっと貼り合わせた。
接着剤が多いと取れなくなってしまうので、少なめに仮止めだ。
繋ぎ合わせた木材に鉛筆で丸みを帯びた線を書きこんでいく。
私はその線に沿ってペナントナイフで慎重に削り、中央をわずかに膨らませながら、尾の方を細く絞っていく。
すっすっと、薄く削るたびに木が鳴き、香ばしい木屑が舞った。
切り出した胴体を指先でなぞり、厚みや傾斜を確かめる。
左右のわずかな違いを確かめながら、何度も削っては整えた。
次に、ボディの仮止めを外し、ペンチを使って針金を曲げる。
中通し用のワイヤーを作り、頭・腹・尾の三か所にアイを出す構造だ。
針金の通り道は、できるだけ背中側を通すように角度と長さを微調整する。
中通しアイが完成すると、先ほど外した木の胴で挟み込み、力を込めて押し合わせた。
わずかに浮かび上がった針金の跡――あとはそこを削るだけでアイを通す道が完成した。
次に、重りを腹に仕込む。
針金とは違い、なるべく下の方――腹の底に近い位置に埋め込むよう設計する。
重りを入れる箇所は三か所。
顔の下、腹のアイのすぐ横、そして尾びれ近くの後方だ。
比率は、後ろに重心が寄るように、しかし水に浮かべた時には水平を保てるように――。
頭の中でその均衡を想像しながら、指先で慎重に印をつけていく。
……もっとも、この調整ばかりは計算ではどうにもならない。
最終的には、何度も水に浮かべて感覚で掴むしかないのだ。
数度の調整を経て、ようやく納得のいくバランスが取れた。
私は、胴体の内側に小さな穴を空け、そこへ重りを沈め、中通しのアイを溝に沿わせてセットした。
接着剤を塗り、左右のボディを合わせる。
クランプなど持ち合わせていないため、代わりに麻ひもを取り出し、力いっぱいぐるぐると巻きつけた。
待っているあいだに、両翼――羽根の制作に取りかかる。
真鍮板を切り出し、金床の上に載せ、木槌で叩く。
カチ、カチ、カチン――。
硬質な音が静かな部屋に響いた。
叩く角度をほんの一度違えるだけで、水面をつかむ羽ばたきの音が変わる。
少し広げすぎれば、水を弾いて暴れ、狭すぎれば沈黙する。
私は何度も角度を確かめ、指先で金属を撫でながら微調整を繰り返した。
――翌朝。
麻ひもで吊るしていたルアーの固着具合を確かめる。
接着面はしっかりと噛み合い、もう指で押してもびくともしない。
私はその表面に筆を走らせ、色を塗り、目を描き入れ、油性ニスを何度か重ねて光沢を出した。
本当ならこのまま作業を続けていたかったが、さすがに保存食ばかりでは身体がもたない。
ニスが完全に乾くのを待つ間、私は外套を羽織り、外環区の通りへ出た。
休日の昼時ということもあって、どの店も人であふれている。
通りの喧騒の中をいくつも店を覗いたが、どこも満席で、ようやく辿り着いたのは、石壁の陰にひっそりと佇む小さな食堂だった。
木の扉には《ヤモリ食堂》とだけ書かれた古い看板が掛かっている。
しかし、どこにもメニューは掲げられていなかった。
この街でも領都でも、提供するメニュー数こそ少ないものの、何を出すのか、それが分る様に看板と共に出しておくのが一般的だ。
休業日なのかもしれない。
そう思いながらも、私は恐る恐るドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開けた。
中は薄暗く、人の気配がない。
奥の厨房から、食器を重ねるかすかな音だけが響いている。
席は八卓ほど。三十人も入ればいっぱいになる小さな店だ。
私は少し迷いながらも、思い切って声をかけた。
「……す、すみません。お昼、いただきたいのですが」
少しして、厨房の奥から「はーい」と可愛らしい声が返ってきた。
やがて、暖簾をくぐって現れたのは、一人の少女。
年のころは、私より少し下――十一か十二歳くらいだろうか。
艶のある黒髪を背中まで垂らし、大きな瞳と小さな鼻が愛らしい印象をつくっている。
どうやら家族でこの店を営んでいるようだ。
両親のお手伝いなのだろう。少女は小さく会釈してから、私を厨房のそばの席まで案内してくれた。
奥では、誰かが包丁で刻む「とん、とん」という音がしている。
席に腰を下ろすと、少女が明るい声で告げた。
「うちは特定のメニューは出していないんです。お客様のうしろの壁に、木札で今日の料理を書いてますので、そちらからお選びください」
振り返ると、壁に掛けられた木札がずらりと並び、筆で書かれた料理名が連なっていた。
これは嬉しい。その時にその時の気分で好きなものが食べられる。
どことなく懐かしさを覚えながら、メニューを見ると、そのほとんどが定食だった。
現在ルアーを制作していることもあり、なんとなく魚定食をお願いした。
海が遠く、魚を食べる文化がほとんどないこのあたりで、どんな料理が出てくるのか――
それを思うと、胸が少しだけ弾んでいた。
ほどなくして、先ほどの女の子がお盆を抱えて戻ってきた。
その小さな腕には、不釣り合いなほど立派な膳が乗っている。
彼女はそれを軽やかにテーブルの上へと並べていった。
煮魚、野菜炒め、漬物、そして――茶碗いっぱいに白く輝くごはん。
私は、息をのんだ。
この世界にきて、初めてみた粒の立った白米が、つややかに光を返している。
言葉が喉につかえ、ただその光景を見つめるしかなかった。
そんな私を見て、少女が少し誇らしげに微笑み、説明をはじめる。
「こちら、アブラハヤの甘露煮になります。クセがなく淡白な白身魚ですので、かかっているソースと一緒にお召し上がりください。
それとこちらの小さい器に入っているのは、トウカ国産のピクルスです。
甘露煮もピクルスも、このハクマイと相性がいいので、ぜひ一緒にどうぞ」
――ハクマイ。
その響きに、胸の奥がふっと揺れた。懐かしい。あまりにも懐かしい。
前の世界で、当たり前のように食べていた白いごはん。もう二度と口にすることはないと思っていた。
私の生まれ故郷である東地方では主食とまではいかないが、お米は食べられている。
私の大好きなパエージャもお米を使った料理だ。
しかし、このようにお米だけを焚く文化はない。
あまりの驚きと込み上げる感情に、私が動けずにいると、少女が少し慌てたように身を乗り出してきた。
「……すみません、こちらの棒をこうやって指で挟んで、食事を摘まんでお食べください。
もし必要でしたらスプーンもお持ちしますね。……それとも、ハクマイがお気に召さないでしょうか?」
少女が心配そうに言葉を重ねた。
なんでも、お米はこのあたりで取れる大麦でも小麦でもない麦の一種で、硬くて人間の食性には向かないと言われているのだそうだ。
もっぱら、シタリアに行商に来る同郷相手に出しているお店で、私の様なこの国の人間が来ること自体が珍しいのだとか。
そんな話を聞いているうちにも、ハクマイのほのかな甘い香りと、甘露煮の濃厚な香ばしさが絡み合い、鼻腔をくすぐる。
ぐぅ……と、情けない音が腹の底から鳴った。
少女がくすりと笑うのを見て、居たたまれなくなった私は、箸を取り、茶碗を左手に持ち上げた。
まずは、白く輝くハクマイをひと口。
噛んだ瞬間、ふわりと甘みが舌に広がり、噛めば噛むほどその甘みが深くなる。
ほろりとほどける粒の感触が、懐かしさと一緒に胸の奥を温めた。
続いて、甘露煮に箸を伸ばす。
箸先でやわらかい魚の身を開き、背と腹を分けて、タレをたっぷりと含ませる。
そのひとかけをハクマイの上で軽く弾ませてから口に運ぶ。
……甘露煮の濃厚な旨味が、米の優しい甘さを引き立てる。
塩気と甘みが溶け合い、香りが鼻を抜けた。
私はそのまま何度も噛みしめ、ゆっくりと飲み込んだ。
――あぁ、これだ。
涙が勝手にあふれてきた。
前の世界で、何気なく食べていた白いごはん。
もう二度と出会えないと思っていた懐かしい味が、今ここにある。
私は頬を伝う涙を拭うこともできず、ただ黙々と箸を進めた。
そんな私を、少女が少し引き気味に見つめながら、おそるおそる声をかけてきた。
「お、お客さま……? だ、大丈夫ですか?」
「だいじょーぶでずー」
涙が止まらない。
「よ、喜んでもらえてよかったです。
それにしても、お箸使いがとてもお上手ですね。トウカ食がお好きなんですか?
この街ではあまり受け入れてもらえなくて……」
――トウカ食?
そういえば、さっきの漬物も「トウカ国産ピクルス」と紹介していた。
この和食に似た食文化を持つ国が、その“トウカ国”なのだろう。
「……いえ、お米は好きなのですが……、いつもはパエージャなどで……。
このように、お米だけでいただくのは……初めてです。……とても、美味しいです」
母さんに見られたら「行儀が悪い」と叱られそうだが、今はこの感動と感謝をどうしても伝えたかった。
「えー! そうなんですか? この街で、お箸をそんなに綺麗に使える方は初めて見ました。
十年前に結婚して、この店を始めてから色んなお客様を見てきましたけど……
トウカの方を含めても、五本の指に入るくらい上手ですよ」
私は、食堂に入ってきたとき以上に恐る恐る年齢を尋ねてみた。
「今年で二十六になります。どうも、こちらの方々から見ると、トウカ人は幼く見られるようで……。
旦那はお酒の仕入れに行くたびに、毎回年齢確認をされるんですよ」
一回りも年上だった。
私が慌てて謝ると、彼女は笑って「よくあることです」と手を振った。
その笑顔に、胸の中が少し暖かくなる。
初めて出会ったトウカの人。けれど、どこか懐かしく、家族のような温かさを感じた。
話の流れで、私は甘露煮に使われていたアブラハヤの入荷先を尋ねてみた。
すると、ご主人が街道沿いの小川で網漁をして獲っているのだという。
――あの小川だ。
私が通ってきた、そして明日釣りに出かける予定の、あの小川。
アブラハヤが獲れるということは、今回の釣種に間違いはないだろう。
私は残りのごはんをきれいに平らげ、彼女にお礼を言って店を後にした。
外へ出ると、風に少しだけ夜の匂いが混じっている気がした。
やはり、もう冬がすぐそこまで来ている。
そんなことを思いながら石畳の上を歩くたび、今日の温もりがゆっくりと体に染み込んでいくようだった。




