Day42:運命の掲示板
キャスさんとは、内環区まで戻ったところで別れた。
そういえば、彼女は恩師に挨拶をするためにシタリアへ来たのだった。
私はそのことを思い出し、改めてお礼を伝えると、入試が終わったら結果を報告することを約束して宿へ向かった。
あたりはすっかり夕暮れ時。
街灯に火が入り、石畳の道を淡い橙色が照らしている。
遠くの鐘が一度だけ鳴り、空の端にはかすかに残光が滲んでいた。
エチュードの前まで来ると、
扉の隙間から、香ばしいスープの匂いが流れてきた。
旅の疲れとお腹の空きとを同時に感じながら、私はそっとドアを押し開ける。
中は相変わらず温かかった。
暖炉の火が穏やかに揺れ、食堂では数人の宿泊客が木製の椅子に腰を下ろして談笑している。
湯気に包まれた空気の中、スプーンがカップに触れる音が心地よく響いていた。
試験まであと一週間。
私はこの数日、観光や買い物に時間を割いた。
婦人は少し心配そうにしていたけれど、焦っても仕方がない。
過去問が手に入るわけでもないし、今の私に必要なのは――心の安らぎである。
試験当日。
緊張のせいか、昨夜は中々寝付けず、気が付いた時には他の受験生が出払った後だった。
まだ受付開始には時間があるものの、徒歩ではだいぶ遅くなり、試験時間が短くなってしまうだろう。
そして何より、余裕をもって行動できないのが嫌だった私は、朝の粥は不要と婦人に伝え、領都から持ってきた自転車に乗って、シタリアを駆け抜けた。
ここシタリアでは、外環区以外に一般の馬車もマナ車は入れない。
私はそんな中、マナ車をも超える速度で駆け抜けていった。
遅くなったとは言え、まだ大学も工房も始まっていない時間。
大通りも人は少なく、私はさらに速度を上げ、予定時間前には受付についていた。
息を整え、記名台へと進む。
名前と希望大学を告げると、係員から”暁の間”へいくように言われ、一枚の札を渡された。
そこには《暁九二七》の文字。
――それが、私の受験番号だった。
入口をくぐると、石造りの壁の正面に、大きな施設案内図が彫り込まれていた。
そこに人だかりができ、受験生たちが自分の会場を探して群がっている。
私もその波の中に混じって地図を確認する。
“暁の間”は一階の一番奥、この場所から左手の廊下を進んだ先にあるようだ。
試験会場は 部屋というにはあまりにも広い。
奥の壁が霞んで見えるほどの大講堂に、すでに千人を超える受験生が着席していた。
しかし、そこにおしゃべりする者など一人もいない。
それぞれが小さな静寂の中に沈み、試験用紙の端をなぞったり、小声で公式を唱えたり、最後の確認に余念がなかった。
私は、自分の机に貼られた札――《暁九二七》を見つける。
椅子を引く音が、やけに大きく響いた。
腰を下ろすと、胸の奥で心臓の音がひときわ強く鳴った。
ほどなくして、扉の奥から試験官たちが十数名、列を組んで入ってきた。
一人ひとりが無駄のない動きで、裏返したままの試験用紙を机に配っていく。
――音が消えた。
試験会場には耳が痛くなるような静けさだけが広がっている。
「――試験、開始!」
一斉に、千枚を超える紙が裏返される音が響く。
私も例に倣い、試験用紙をひっくり返す。
右上の欄に、受験番号――《暁九二七》。
確かに記されているのを確認し、記名した。
試験時間は四時間。
構成は事前に読んだ対策本と同じく、
Ⅰ. 数理構築
Ⅱ. 条件推論
Ⅲ. 手順設計
Ⅳ. 理表現
――各一時間ずつの設定だった。
開始の合図から数分、最初の問題を解き進めるうちに、私は胸の奥が熱くなるのを感じていた。
(……わかる。わかるぞ! 私にはわかる!)
懐かしい感覚だった。
前世での記述模試。
そのときに感じた「解ける」という確信の熱が、この世界で再び蘇っていた。
しかし、出題は拍子抜けするほど易しい。
例えば、こんな問題だ。
「ある道をAとBの2人が同時に出発した。
Aは分速六十メートル、Bは分速八十メートルで進む。
Aが出発してから十五分後にBが出発した場合、BがAに追いつくのは何分後か説明せよ」
Aの先行距離と、お互いの相対速度を出してやればあとは単純な計算問題だ。
その他の問題も似た程度の問題ばかりで、どこか違和感を覚えつつも、私は試験時間を一時間程度残し、会場を後にした。
受付へ預けていた自転車を取りに戻ると、係員が優しい笑みで出迎えてくれた。
「諦めずに頑張ってね」
そう声をかけられ、私は一瞬きょとんとする。
……もしかして、途中で放棄したと思われたのだろうか。
それでも念のためにと、「五日後に講堂の入り口付近に合格者発表があるから」と教えてくれる辺りは、親切な人なんだと伝わってきた。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げ、自転車のハンドルを握る。
帰り道はすでに人通りも多く、私は歩行者の流れを避けながら、自転車を押して帰ることにした。
その姿が珍しかったのか、通りを行く人々が振り返っては、興味深げな視線を向けてくる。
とりわけ中環区の工房辺りではその色も濃く、自転車開発当初を思い出すほどだった。
合格発表まで、何をして過ごそうか――
そんなことを考えながら宿へ戻ると、食堂では婦人とキャスさんが楽しそうにおしゃべりをしていた。
扉を開けると、二人が驚いたようにこちらを見て、慌てた様子で手招きをしてくる。
「まぁまぁ、ユリカちゃん! こっちにおいで!」
言われるがまま席に着くと、温かいハーブティが目の前に置かれた。
湯気の向こうで、二人がどこか困ったような笑みを浮かべている。
「え、な、何かありました?」
私が首をかしげると、婦人が苦笑交じりに言った。
「だって、ほら……試験、途中で帰ってきたじゃない? 一時間も早く」
その言葉に、キャスさんも小さくうなずく。
「うん、さすがに途中で諦めたのかと思って……。ほら、この一週間ずっと観光してたし」
言われてみれば反論できない。
確かに、そう見えても仕方がないだろう。
「……あの、全部解いて時間が余ったので帰ってきただけなんですけど……」
恐る恐るそう答えると、キャスさんは目を丸くし、すぐに優しく笑って私の頭をなでた。
「そっかそっか、よく頑張ったわね」
どうやら信じてもらえていない。
けれど、久しぶりに誰かに甘やかされる感覚は悪くなかった。
私はハーブティを口に運びながら、そのまま二人の笑い声を子守歌のように聞いていた。
――そして、あっという間に五日が過ぎた。
合格発表の朝。
婦人とキャスさんに見送られ、私は講堂の入り口に立っていた。
「合格者の方は、自分の番号横に書いてある面接室までお進みくださーい!」
講堂前の広場に、職員らしき男性の声が響いた。
その声に反応するように、人々のざわめきが波のように広がっていく。
掲示板の前では、次々と肩を落として帰っていく受験生たちの姿。
中には泣きながら家族のもとへ駆け寄る子もいた。
日本のニュースで見たような歓喜の声も胴上げもない――
おそらく、合格者はそのまま面接へと進むため、喜びを噛みしめる暇もないのだろう。
私は人の波をかき分け、ルーニクス大学の合格者一覧へと近づいた。
手がかすかに震えている。
目で追う文字列のひとつひとつが、やけに煩雑に感じられた。
――”暁九二七”。
その数字を見つけた瞬間、心臓が一度だけ強く跳ねた。
リストの一番下、最後の行。
「……あった」
小さく息を吐く。
胸の奥から広がる温かい安堵が、指先にまで染み込んでいくようだった。
私の受験番号の隣に書かれていたのは、”星二の三”。
案内板でみると、中央の階段を上がり建物右手側にある小部屋の一つの様だった。
本当はその場で小躍りしたい気持ちを押し殺し、私は手のひらをぎゅっと握りしめてから、静かに向かった。
“星二の三”と書かれた扉の前に立つと、中から「どうぞ」と柔らかい声がした。
扉を開けると、そこには五人の人物。部屋の奥、長机をはさんでこちらに向かって腰を掛けている。
壁には高い窓がひとつあり、差し込む光が静かに床を照らしていた。
中央に座る、白いひげをたくわえた男性が、ゆっくりと口を開いた。
「アドリウス・カムランだ。まずは合格おめでとう」
穏やかで低い声だった。
彼の横には男性が二名、女性が二名が座っている。教員だろうか。
私は軽く会釈をして名乗り、「失礼します」と言って椅子に腰を下ろした。
その瞬間、ようやく実感が胸に広がる。
――私は、受かったのだ。
けれど、気づく。
面接の準備など、何もしていない。
対策本にもそんなことは書かれていなかった。
いったい何を聞かれるのだろう。
緊張で喉がひりつく。
そんな私を見て、男性は小さく笑った。
「そんなに固くならんでよいぞ。ここに呼ばれた以上、そなたの合格は決まっておる。
ここは“面接”というよりも、今後の手続きと進路の説明の場じゃよ」
その声は不思議なほど落ち着いていて、まるで厚い毛布をかけられたような、安堵感が広がっていった。
「……よろしくお願いします」
アドリウスと名乗った男性はゆっくりと頷き、書類の束を手に取ってから、穏やかな声で続けた。
「この部屋に呼ばれる学徒は、成績上位十五名――いわば、今年度の最優秀者たちじゃ。
そしてユリカ君。そなたは大学創設以来、五人目となる“満点合格者”じゃ」
彼は軽く目を細め、口元に微笑を浮かべる。
「おめでとう。そなたには“金席”が与えられる。
すなわち、今期の総代じゃ。……金席が出るのは、実に八十年ぶりのことになるかのぉ」
――満点? 総代?
耳にした言葉が、すぐには頭に入ってこなかった。
確かに問題は簡単だった。
だが、それでも満点という響きに現実感がない。
この世界の教育水準は、やはりまだ低いのかもしれない――
そんな場違いな考えが一瞬よぎった。
「ユリカ君?」
名前を呼ばれて、思わず上ずった声で返事をしてしまった。
「は、はいっ!」
アドリウスは少しだけ笑い、手元から小さな金の章を取り出した。
それは光を受けて淡く輝き、まるで小さな太陽の欠片のようだった。
「これが“金章”じゃ。
この後、別室で制服の採寸がある。
完成したら、この章を左胸に付けておくように。
それから――入学式での総代宣誓、頼むぞ。
定型文は当日に渡すゆえ、心配せんでよい」
……宣誓。総代。金章。
次々と重みのある言葉が並び、私はただ圧倒されるばかりだった。
私がぼんやりと考え事をしている間に、総代挨拶の話が決まってしまった……。
面接室を後にしてから、そのまま制服の採寸室へ向かう。
そこでは二人の職員が待っており、手際よくメジャーを当てながら寸法を取っていった。
ブラウス、ブレザー、スカート、マント、タイツ、そして靴。
生地見本を見せてもらいながら説明を受けるうちに、胸の奥にふわりと温かいものが広がっていく。
久々の制服――こればかりは私も楽しみである。
採寸を終えて講堂を出る頃には、空の端がすでに群青に沈みかけていた。
灯のともる街路を、私は小走りで宿へ向かう。頬にあたる風が少し冷たかった。
エチュードの扉を開けると、中は一転して、賑やかな笑い声に包まれていた。
他の受験生たちが、合格しただの落ちただのと騒ぎ立てている。
そんな中、私の姿を見つけたキャスさんが、人の間をかき分けながらこちらへ駆け寄ってきた。
「ユリカちゃん、遅かったね。……その……、どうだった?」
キャスさんが、どこか気まずそうに尋ねてきた。
その声に気づいた婦人もこちらを見て、二人並んで私を見守っている。
私は咳ばらいをしてから、少し照れくさく笑い、懐から金章を取り出した。
「――ちゃんと合格しましたよ。金席で、総代だそうです」
一瞬、空気が止まった。
食堂のざわめきも、湯気の立つスープの香りも。すべてが一瞬で静まり返る。
次の瞬間、椅子の軋む音とともに、みんなの視線が一斉にこちらへ向いた。
私は思わず苦笑いしながら頬を指先でかく。
まさか、こんな注目を浴びるとは思ってもみなかった。
――そして、堰を切ったように歓声が上がった。
「まさか! 金席なんて本当にあったんだ!?」
「すごい……。しかもルーニクス大学だよね?」
「おぉ、総代と同じ宿だなんて、今年は縁起がいいぞ!」
歓喜の声が波のように広がり、さっきまでの静かな宿が、一転して祝宴のようになった。
そんな中、婦人とキャスさんだけは、まるで狐に化かされたような顔で私を見つめている。
「ユ、ユリカちゃんって……そんなにすごい子だったのね……」
――それが、この日、キャスさんが発した最後の言葉となった。
その後の半月ほどは、入学準備に追われる日々だった。
商業ギルドで手形から口座を再開し、
制服の受け取り、寮の案内、入学金の納付、教科書の購入――
目が回るほどの忙しさではないものの、決められた日時に、決められた場所へ行くというだけで、思いのほか慌ただしかった。
そうして、私たちが十四歳を迎えるこの日。
ルーニクス大学の入学式が挙行された。
広大な講堂の壇上、私は総代として百五名の新入生の先頭に立ち、定型文の宣誓を朗々と読み上げる。
正面に立つのは、面接室で私に声をかけてくれた、あのひげをたくわえた男性――
ルーニクス大学学長にして、学術都市評議会顧問、アドリウス・カムランその人だった。
私たちは、ここに学びの誓いを立てます。
理を求め、真を恐れず、知をもって未来を紡ぐこと。
支えてくれたすべての人への感謝を忘れず、
この学び舎の名に恥じぬよう歩み続けることを、ここに誓います。
新入生代表、ユリカ。
宣誓を終え、一礼した瞬間、会場からわき上がる拍手が波のように押し寄せる。
胸の奥に広がる温かい感情は、もう緊張とも誇りとも言えないものだった。
式が終わり、私はまだ硬い制服の袖を直しながら、
学術都市シタリア最高峰、ルーニクス大学・特待組――“オルド”の教室へと歩き出した。
2025.10.29:面接官の数を五名に訂正




