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Day35:轍の先、庭の席

 三気筒エンジンの検討が始まってから、早くも三カ月が経ち、気がつけば、私の領都での暮らしも残すところ一年を切っていた。


 新型エンジンとプロペラシャフトの製品化はまだ実現していないものの、その恩恵は回転力の増加だけにとどまらなかった。

意外なことに、マナ車そのものの大型化にも直接つながることが分かったのだ。


 これまでのエンジンは、クランクを直接タイヤに取り付ける構造上、どうしてもタイヤの外側にしか設置できなかった。

しかし、新型ではプロペラシャフト型を採用したことで、外装部分に干渉する部位がなくなり、轍の幅を変えずに荷台をタイヤの外側まで広げることが可能になったのだ。


 しかも、この三カ月の進歩はそれだけに収まらない。

車軸を分割することで支点をタイヤに近づけ、馬車で使われているリーフスプリング(板バネ)を組み込むことができるようになったという。

ただし、従来の木製リーフスプリングではマナ車の重量や衝撃に耐えられず、現在は鉄製のスプリングを目下開発中とのこと。


 もし鉄製のリーフスプリングが完成すれば、荷台――ひいてはエンジン部分への衝撃を大きく緩和できる。

そうなれば、整備の行き届いていない悪路でも走行が可能になるだろうということだった。


 私が提唱した三気筒エンジンとプロペラシャフトの構造は、まさに革命的躍進といえた。

――しかし、車軸の分割からサスペンションにまで発展させてしまうとは、さすがは職人たちだ。

最初に言い出した私自身、その報告を聞いてようやく気づかされたのだから。


 もう、この域にまで来てしまうと、素人の付け焼刃などまったく通用しない世界だ。

私は少しの寂しさを覚えながらも、自分の自転車工房へ戻っていった。


 以前、私が精神的にやられて休んでいたあの間、自転車工房では受注の波に呑まれ、皆が徹夜で作業をしてくれていたという。

あのときはわずか三日だったが、今回は三カ月近くも空けてしまっている。

きっと迷惑をかけたに違いない――そう思いながらも、久々に向かう工房に胸が高鳴っていた。


 扉を開けると、目に飛び込んできたのは数多くの若者たちの姿だった。

ざっと見ても十人はいる。その中のひとり、赤髪の青年が入り口で固まっている私を見つけ、声をかけてきた。


「君、どこから入ってきたの? ダメだよ、勝手に入っちゃ。危ないんだから」


 そう言うなり、私の背を押して外へ追い出そうとする。

思いのほか力が強く、抵抗する間もなく外へ出されそうになったそのとき――工房の奥からマルセルの声が響いた。


「なんだ? ユリカじゃないか。どうしたんだ?」


 その声に青年はピタッと背筋を伸ばし、慌てて言った。


「マルセルさんのお知り合いでしたか……()()()ですか?」


 その言葉にマルセルは大笑いし、ヨアヒムとペーターまで吹き出していた。

私は思わずムッとして、むくれ顔になる。

そんな私を見てまだ笑いをこらえながら、マルセルは皆に紹介してくれた。


「お前たち、ちょっと聞いてくれ。ここにいるのが、この自転車工房の長であり、自転車の発明者――ユリカだ」


 その瞬間、場がどよめいた。

先ほどの青年は慌てて深々と頭を下げ、私はそれを手で制しながらマルセルに、この状況の説明を求めた。


 なんでも、今年の入社希望者が例年と比べものにならないほど多かったらしく、私がエンジン部門に顔を出し始めた直後から、試験も兼ねてこの自転車工房でふるいにかけろと――工房長からの命があったのだという。

そして、数カ月間の試験を経て、今ここにいる十名あまりの若者が今年の新人として採用されたらしい。


 私の知らないところで、皆が動いてくれていたことに感動した。

けれど同時に、私の存在意義が薄れてしまったような気もして、胸の奥が少し痛んだ。

それを察したのか、マルセルが「だから、いなくても大丈夫だぞ」と、よりによってそんな言葉を口にしたものだから、私は思わず――


「……バカーーーーーー!」


 そう泣き叫びながら工房を飛び出してしまった。


 工房に自分の居場所がなくなってしまった気がして、自室でうずくまっていると、サマンさんが手紙を手に訪ねてきた。

なぜか息を切らし、大慌てで差し出しながら言う。


「マ、マルグリット様から……これっ」


 促されるままに受け取り、封を見る。


「マルグリット……? マル……グリ……マルグリット様?! それって――モークム夫人じゃない!」


 急いで封を切ると、中にはお茶のお誘いの手紙と、一輪の押し花が入っていた。

そういえば、祝賀会の帰りにリゼットとお茶会の約束をしたのを思い出す。


「お、お茶会? マルグリット様と? ユリカちゃんが? なんで?」


 サマンさんが興奮気味に詰め寄ってくる。

辺境伯から自転車の発注があったときも同じように興奮していたのを思い出し、意外とミーハーなのかもしれないと思いながら、これまでの経緯を説明した。


「アドリアン様に、リゼット様とまで……。しかも、お、お、お姉さまだなんて……」


 その後もサマンさんの興奮は冷めることを知らず、「いつ行くの?」「何を着ていくの?」と矢継ぎ早に質問してくる。

しまいには、いつまでも部屋から出て行こうとしないので、私は半ば強引に追い出した。

それでも廊下の向こうから――


「ユリカちゃん! お茶会のあとの報告も忘れないでね!」

という声がいつまでも響いていた。


 それから程なくして、お茶会の日がやってきた。

少し緊張しながら門番に声をかけ、招待状を見せると、彼は表情を崩さぬまま、丁寧な口調で中へ案内してくれた。


 通されたのは、前にリゼットが案内してくれた中庭だった。

あの時はまだ春先で新芽が顔を出したばかりだったが、今は一面が花で覆われ、その華やかさと香りに思わず息をのむ。

中央には一段高く積まれたレンガの上に、白いテーブルと椅子が置かれ、そこにはモークム夫人、アドリアン、そしてリゼットの姿があった。


 私は前回、リゼットが見せてくれたカーテシーを思い出し、両膝を深く折って頭を下げる。


「このような暑さの折、貴重なお時間をいただき、恐れ入ります。

マルグリット様、アドリアン様、リゼット様――お招きいただき、心より光栄に存じます。

まことにささやかな身ではございますが、本日は皆さまのお傍で学ばせていただければと。

どうぞよろしくお願いいたします」


 顔を上げると、三人の視線がそれぞれ違った色をしていた。

アドリアンは「名前を呼んでいいと言った覚えはない」と可愛げのないことを言い、

リゼットは「……素敵」と目を輝かせ、

夫人は、なぜかどこか楽しげな笑みを浮かべていた。


 そのあと、三人の背後に控えていたメイドに促され、私も席へと案内された。

こうして、お茶会が始まった。


 お茶の好みを尋ねられたが、この世界の茶については、かつてリアに出してもらったドクダータ茶くらいしか知らない。

ただ、前世でもアールグレイのような香りの強いフレーバーティーはあまり好みではなく、いつもダージリンのファーストフラッシュばかりを好んで飲んでいた。


 だから私は――

「初摘みの茶葉があれば、それを」と、静かに頼んだ。


 お茶が入るのを待つあいだに、テーブルには薄く焼かれた花弁の形のビスキュイと、葡萄を煮詰めたジャムが運ばれてきた。


 それを手に取りながら、夫人は話題を探すように、静かに言葉を置いた。


「ユリカさんの考案した標識、わたくしも街角で拝見しましたわ。あれは、人々のための灯のようですわね」


 私は少し頬を紅くしてうなずいた。


「そう言っていただけると……作った甲斐があります」


 夫人は「ふふ」と微笑み、続けて問いかけた。


「あれは、どのような基準で設置されたのかしら? やはり、人々の声に耳を傾けたりされたのでしょう?」


「はい。そのような場所もありました。たとえば、市場などがそれにあたります。

基本的には、人々の暮らしに支障が出ないようにしています」


 その答えに、夫人は少し首を傾げた。


「あら……。そのような場所もある……ということは、他に基準があったのかしら?」


「んー……そうですね。設置基準があったというよりも、()()()()()()()()()()というのが正しいかもしれません。


 この街はもともと、中央広場を中心に街道が縦横に走り、とてもよく整備されています。

そのため道はわかりやすく、馬車もマナ車も同じ道を走っていました。


 けれど、マナ車が増えた今では交通が滞り、事故も多発していたそうです。

そこで、まず各街道――とくに大通りの交通量を時間ごとに測り、轍の数や道幅から十分あたりの通行可能量を試算しました。

それをもとに時間帯標識や一方通行、進入禁止などを設けて交通を分散させた結果、渋滞を解消できたのです。


 中には目的地まで遠回りになった道もありますが、全体最適を行ったことで街全体の輸送効率は上がり、運河や城門への便も良くなったと聞いています」


 ……ふっふっふ。小学校六年生のころから、八年近くも“タウンズ・ロードライン”で同じ街を作り続けてきた私の経験は、伊達ではない。


(……待てよ。そうすると、次は鉄道だな)


 思考が次の構想へ飛んでいるあいだに、先ほどお願いしたお茶が運ばれてきた。

ふわりと広がる香りに、思わず目を細める。

――その香りは、間違いなくダージリンの初積みだった。


 しばらく談笑が続き、私もすっかり緊張がほぐれて、なんだかぽーっとしてきた頃だった。

庭の花々を眺めながら、夫人が何気ない調子で話しかけてきた。


「ユリカさん、ここの花を見てどう思うかしら。いつも庭師が丁寧に世話をしてくれるのだけれど、そろそろ土減りも酷くてね。

それぞれの花壇に土を四袋ずつ追加したいのだけど、全部で十九の花壇に囲まれているでしょ? どれほど買わせてきたらいいかしら」


 いたって簡単な計算だった。

四×二十で八十、そこから四を引いて――「七十六袋ですね」と即答する。


 その答えを聞いた夫人の口元が、わずかに緩んだのが気になったが、

「そうですわね、さすがはユリカさん」と褒めてくださったので、気にしないことにした。


 宴もたけなわとはよく言ったもので、お茶会はその後も談笑に花を咲かせ、やがてお開きとなった。

帰り際、終始私にべったりだったリゼットがまた駄々をこね、メイドに引きはがされて泣く泣く部屋に戻っていった。

その隣で、アドリアンは何か言いたげにこちらを見ていたが、夫人の「今後ともよろしくね」という言葉に見送られ、そのまま屋敷を後にした。


 帰り道、空はまだ明るく、雲ひとつない。

そんな空を見上げながら――明日は何をしようか。

そう考えつつ、私はゆっくりと歩いていた。

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