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Day33:式典と祝賀会

 季節は巡り、春の若葉が色濃く香るころ――

街には穏やかな陽気が満ち、人々の顔にも笑みが増え始めていた。

そんな中、私は大勢の人々の前で、挨拶をしていた。


「本日はお日柄も良く、こうして多くの皆さまにお集まりいただき、心より感謝申し上げます。


 今日から領都では、新しい標識の運用が始まります。

これらは私ひとりの手によるものではなく、日々街を歩き、荷を運び、馬を操る皆さまの声から生まれたものです。


 この街で暮らす人々が、少しでも安全に、迷わずに、そして気持ちよく道を歩けるように――

そんな思いで形にしました。


 春は始まりの季節です。芽吹く木々のように、私たちの暮らしも少しずつ新しい姿に育っていけたらと思います。


 最後になりますが、この取り組みを支えてくださった職人の皆さま、ギルドの方々、そして今日ここに足を運んでくださったすべての方に、心からの感謝を申し上げます。


 どうかこの標識が、皆さまの日々の道しるべとなりますように。


 本日は、誠にありがとうございました。」


 ――今日は、標識の運用開始記念式典の日。

中央広場に設けられた舞台の上で拍手を受けながら、私は深く一礼して退いた。

舞台脇の観覧席に腰を下ろすと、ようやく胸の奥から息が漏れる。


(……ふぅ、徹夜で考えた甲斐があった)


 張り詰めていた気が緩み、まぶたの裏に眠気が押し寄せる。思わず口元を押さえると、隣の工房長が小声で話しかけてきた。


「ユリカ、よかったぞ。まさか、あんなに立派に喋るとは……」


 そう言って、工房長は胸ポケットから折りたたまれた紙を取り出し、今度は自分の挨拶の練習をぶつぶつと始めた。

私はその姿を見て思わず笑いそうになったが、なんとかこらえて背筋を伸ばし、座りなおした。


 やがて工房長の番が来て、続いて街道建設ギルドの交通部門長、来賓の方々、そして領主である辺境伯の挨拶へと式は進む。

雲ひとつない空の下、約千人の観覧者が見守るなか、拍手が広場いっぱいに響き渡り、式典は静かに幕を下ろしたのだった。


 その夜、領主館の大ホールでは祝賀会が催された。

参加者は皆、煌びやかな衣装に身を包み、次々と辺境伯へ挨拶をしていく。


 事前に工房長から聞いた話によれば、挨拶の列に並び、お付きの案内を受けた後、辺境伯の前でかしづき、直答を許されたのちに名前を名乗る――そして、質問されたことだけに簡潔に答えるのが礼儀なのだという。

……てっきり私は、軽くカーテシーでも決めるものだと思っていたから、手順を聞いておいて本当に良かった。


 こんなに堅苦しい挨拶は初めてだったが、むしろそのほうが気楽かもしれない。

長々と話す必要もないし、辺境伯の様な大貴族様と世間話を交わすよりは、ずっとましだ。


 やがて、私と工房長の番が来た。

促されるまま歩み出ると、磨かれた石床に靴音が淡く響く。お付きの者が頭を下げて進路を示し、私はその先にいるヨハン・ファン・デル・モークム辺境伯の前へと進み出た。


 低く落ち着いた声が「面を上げよ」と告げる。

顔を上げた瞬間、その眼差しを真正面に受け、胸の奥がわずかに鳴った。

許しを得て静かに息を整え、


「――ユリカにございます」


そう名を告げた。


 昼間の式典では緊張のあまり顔をよく見られなかったが、間近で見る辺境伯は思っていたよりもずっと若い。四十にも届かぬほどだろうか。


 そんなことをぼんやり考えていた矢先、意外な言葉が飛んできた。


「おお、そなたか、ユリカ。実は一度、話してみたいと思っていたのだ。自転車の発明、標識制度の設立、そして本日の挨拶も実に見事であった」


 辺境伯は穏やかな笑みを浮かべ、私の前へと歩み寄ってくる。

差し出された右手を見て、私は反射的に握手を交わした。


 現代人としては何の違和感もないその仕草を、辺境伯はたいそう気に入ったようで、満足げに頷いている。けれど、周囲にはざわめきが走り、工房長は慌てて頭を深く下げた。


 (……え、これ、まずかった?)

どうしたものかと困り笑いを浮かべるしかなかった。


「……ふむ。良い手をしているな。そうだ、私の家族を紹介しよう」


 そう言って辺境伯が振り返ると、その背後から三人の姿がゆっくりと近づいてきた。


「これが、私の第一夫人、マルグリット」


「マルグリットです。よろしくね、ユリカさん」


 穏やかに微笑むモークム夫人は、声の調子や所作からしても、知的で上品な人だとすぐにわかった。


「続いて、長男のアドリアン。今年で八歳になる。……ユリカよりは少し下だな?」


 私は「はい」とうなずいたが、十二と八ではさすがに差があるのでは、と思う。

その考えが顔に出てしまったのか、アドリアンは頬をふくらませてぷいと横を向いた。


「最後に、娘だ。昨秋で五歳になり”リゼット”と命名された。――実は、一年ほど前、そなたが自転車に乗ってこの領主館の前までやって来た時、窓からそれを見ていたのがこのリゼットでな。

その姿を見た彼女にせがまれて、我が家も自転車を買うことになったのだ」


 まさか、そんな経緯があったとは……。


「あのときの、あの優雅に自転車にまたがり、颯爽と駆けていくお姿……。とても素敵でしたわ、()()()()!」


 ……お、お姉さま?

あの時はただ、うれしさのあまり走り回っていただけなのに。

大したことをした覚えもないのに、そんなふうに言われると、どうにもむずがゆい。


 そう思っている間にも、リゼットは私の手を取って胸もとに引き寄せ、瞳を輝かせながら顔を覗き込んできた。


 ほどなくして、私たちの挨拶も終わり、ホールの端へと下がった。

この祝賀会に出席しているのは、私と工房長、街道建設ギルドの職員数名を除けば、ほとんどが貴族だ。


 工房長はあの〈レス・セット・ジェルマネス工房〉の長ということもあり、どうやら一目置かれているらしい。

貴族の中にも顔見知りが多いようで、今もあちらこちらで楽しそうに話をしている。


 一方で、街道建設ギルドの職員たちは職務上の付き合いも多いのか、挨拶回りに忙しそうだ。

つまり――私はひとり、窓際でぽつんと立っている。


 けれど、下手に貴族たちと関わっても、ろくなことはなさそうだと思い、せめて美味しい料理でも味わって帰ろうと考えた、その矢先だった。

先ほど挨拶を交わしたアドリアンとリゼットが、こちらへ駆け寄ってくるのが見えた。


「嫡子様、お嬢様。先ほどはありがとうございました」


 そう言って、片足を後ろに引き、膝を軽く曲げて頭を下げる。――完璧なカーテシーだった、はず。


 ところがリゼットは、両膝を深く折り曲げ、頭を丁寧に垂れ、まるで教本のような完全無欠のカーテシーを私に返してきた。

その様子を見たアドリアンが、目を丸くしたかと思えば、また頬をふくらませてそっぽを向く。


「お姉さま。そのように他人行儀に呼ばれるのは寂しいですわ。どうぞ、リゼットとお呼びください」


 キラキラした瞳でそう言われ、思わず背筋が固まった。


「……そ、それでは、リゼット様とお呼びしても、よろしいですか?」


「喜んで! ユリカお姉さま……」


 今度は、目がとろんとしている。

……くっ、可愛い。


 そんなやり取りを、隣で見ていたアドリアンが口を開いた。


「おい、ユリカ! お父様に認められたからって、調子にのるなよ! リゼットと同じような身体してるくせに!」


 ――なっ!?衝撃が走った。齢十二の私が、五歳のリゼットと同じ身体……?


「ちょっと! アドお兄様! 失礼ですわ! ……そこもユリカお姉さまの魅力なんです!」


 追い打ちをかけるように、リゼットがきっぱりと言い放つ。

私は思考を停止したまま、ただその場で固まるしかなかった。


 その間に、私を挟んで兄妹げんかが始まり、あれよあれよという間に火花が散る。

そこへ、どこからともなくモークム夫人が姿を現した。


「二人とも、おやめなさい」


 その一言にリゼットは素直に「はい」と返したが、アドリアンは小さく唇を尖らせる。

だが、夫人の鋭い眼差しとともに放たれた「アドリアン?」の声を聞くと、背筋を伸ばしてそそくさとその場を離れていった。


「ユリカさん、ごめんなさいね。周りに年の近い子が少なくて、二人とも舞い上がっているのよ」


「いえいえ、そんな、とんでもございません。お声をかけていただけて光栄でした」


 そう返す私を見て、夫人は穏やかに微笑み、「()()()優秀そうね」と小さくつぶやいた。


「それでは、ごゆっくり楽しんでいってくださいね」

そう言い残し、夫人は私とリゼットを残して、再び挨拶回りへと戻っていった。


 その後は、リゼットの案内で中庭や客室など、屋敷の中を見せてもらった。

なかでも車庫には感動した。馬車はもちろん、マナ車も数多く並び、その中には〈レス・セット・ジェルマネス工房〉の印が入ったものまである。

どの車も装飾が見事で、思わず見惚れてしまった。

その場から離れようとしない私を、リゼットが半ば引きずるように連れ出したのは、少し気の毒だったかもしれない。


 一通り案内を受けるうちに、私とリゼットはすっかり打ち解けていた。

別れ際も「このままユリカお姉さまの家に行く!」と駄々をこねて、辺境伯と夫人を大いに困らせていたほどだ。

また今度お茶をしようと約束を交わし、その場はようやく収まった。


「……お前さんも、ずいぶんと買われたようだな。何よりだ」

 一緒に帰る道すがら、工房長がそう言って笑っていた。


 工房に戻ると、食堂ではマルセルたちが待ち構えていた。

次々に「今日はどうだった?」「どんな料理が出た?」「どれが一番うまかった?」と矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。

どうやら私の功績よりも、祝賀会の料理のほうが気になるらしい。

少しは私の話も聞いてほしいものだと思いつつ、私は苦笑しながら今日の出来事を語って聞かせた。


 しばらく談笑したあと部屋に戻り、家族へ送る手紙をしたためようとレターセットを広げる。

きっと、父さんも母さんも喜んでくれるに違いない。


 窓の外では、夜が静かに更けていく。

胸の奥には、今日の優雅な光景が、いつまでも灯っていた。

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