Day3:はじめての釣り
今日は朝からそわそわしていた。
父さんが「次の休みに一緒に行くか?」と言ってくれたあの日から、ずっとこの日を待っていたのだ。
初めてこの世界で釣りに行ける――それだけで、胸が弾む。
前世では釣りがばかりしていたが、この世界ではまだ泳いでいる姿すら見たことがない。
「よーし、絶対に魚を釣ってやる!」
私は鼻息荒く気合を入れていた。
「ユリカ、準備はいいか?」
玄関から父さんの声がする。
「はーい!もうできてるよ!」
私は母、兄、弟に見送られながら外へ飛び出した。
父さんは筒状のケースと、見慣れないランタンを手に持ち、大きなリュックを背負っていた。
真鍮のような金属でできた小型のランタンには、側面に奇妙な文字がぐるりと刻まれている。
「ねぇお父さん、そのランタンの変な模様はなぁに?」
「ん?これか?」
父さんはランタンを私の顔の位置まで持ち上げ、自身も覗き込みながら答えてくれた。
「これは魔物除けのルーンだ。これを灯していれば、余程のことがない限り魔物は近寄ってこない」
「……魔物って、出るの?お話の中だけだと思ってた」
前世ではシカやイノシシ、クマが出る山道にドキドキしたものだけど、この世界ではそれが魔物になるらしい。背筋がぞわっとした。
「そうだな、この辺りの道でも稀に出ることがある。だから絶対に父さんから離れるな」
「……わかった」
父さんは軽くうなずき、ランタンを腰に下げた。
ランタンに付いている絞りを回すと、ルーン文字が青白く光り、なんだか心地よい。
「ルーンって、どうして光るの?」
「このつまみを回してマナを流しているからだよ。
ルーン文字はマナを受けると効果を発揮する。刻まれた形ごとに役割が決まっていてな。これは“退け”のルーンなんだ」
マナ――。
前世でいう電気やガスに似ているけど、この世界では”生き物の活動にも関わる根源的な力”。
神殿の学び舎で以前そう習ったのを思い出した。
この世界にはルーン職人がおり、日々様々な商品を研究・発表・販売を行っているのだそう。
その時の私は、そんな便利なものがあるのかと感心し、余程の英知を持った選ばれし職人が手掛けているのだろうと思っていたが、家の灯りやコンロ、うちで言えば工房の炉なんかもマナを燃料にしていると聞いて、驚きを隠せなかった。
(ほうほう、これがルーン文字か。初めてこんな間近で見たけど、こんなに身近なら自分でもいじれるかもしれない。今度学び舎に行って調べてみよう!)
私はランタンをじっと見つめながら心に刻んだ。
森の小道を小一時間ほど歩くと、次第に水音が大きくなってきた。
鳥の声に混じって、ざぁざぁと響く川の流れ――。
やがて木々の切れ間から、透き通った川が姿を現した。
「うわぁ……気持ちいい!」
森の匂いと川のせせらぎ――胸いっぱいに吸い込むと、自然と笑みがこぼれた。
「ユリカ、見て見ろ、これが父さんの竿だぞ」
父さんがケースから取り出したのは、黒くつやつやした長い竿だった。
地面に立ててみると、私の背丈の五倍近い。五メートルはあるだろう。
「ながっ……!?」
父さんの釣り竿はジョイント式5ピースの延べ竿だった。
「これじゃ、今の私には無理か……」
せっかく釣りに来たのに、急に肩が落ちる。
今まで連れてきてもらえなかった理由はこれかもしれない。
しょんぼりしている私を横目に父さんは
「まずは餌を捕まえるぞ」
そう言うと、川辺の石をひょいと持ち上げた。
裏には砂や小石を糸で固めて作った小さな巣が貼り付いていて、
その中では茶色っぽい虫がもぞもぞと動き出した。
「ひぃっ……!」
私は思わず飛び退いた。
クロカワムシ――川虫とも呼ばれる水生昆虫で、魚の大好物だ。
でも、私は昔から虫が大の苦手である。
とくに、こう……うねうね動くやつは見ただけで鳥肌が立つ。
「なんだ、ユリカ。虫が怖いのか?」
「だ、だって……気持ち悪いんだもん!」
父さんは笑いながら、そのクロカワムシを器用に針に通した。
見ているだけで背中がぞわぞわする。
餌を付け終えた父さんが川に立ち入り、延べ竿を構える。
竿先を上流へ軽く振り込み、餌を水に落とすと、クロカワムシは流れに乗って自然に流されていった。
「瀬に虫が流れてきたら、魚はすぐに食いつく。大事なのは深さを一定に保つことだ」
竿をわずかに上下させながら、レンジを調整している。
水中を漂う餌は自然そのもの。まるで本当に流されてきた虫のようだった。
竿先が一瞬揺れた。
次の瞬間、父さんの腕がぐっと引き込まれ、竿全体が大きくしなる。
「よしっ!」
父さんは迷いなく竿を立て、力強くやりとりをして、銀色の魚を引き上げた。
きらきらと水しぶきが光り、魚がバタバタとはねる。
すぐさま左の腰に下げたランディングネットを取り出し、魚を入れた。
「すごい……!」
思わず見とれてしまった。
「ユリカもやってみるか?」
「えっ!?いいの!?」
「もちろんだとも。今日はそのために来たんだぞ。」
父さんの言葉に私はぱっと顔を輝かせた。
「そしたら、あそこの大岩の上でやろう。ユリカにはまだ川の中は危ないからな」
そう言うと、父さんは私を連れ大岩に上った。
父さんが新しく針に餌を付けてくれ、それを私と一緒に持つ。
(うぐぐ……。一緒に持ってるのに……お、重い……)
私の身体は五歳の幼女だ。無理もない。
その間もクロカワムシを携えた針が前後に揺られ、顔の近くを通るたびに『ひぃっ』と肩が跳ねる。
でも、それでもやってみたい気持ちが勝っていた。
「よし、ここから瀬に流すぞ」
私は深呼吸して、竿を上流へ振り込む。
仕掛けが水面に落ち、クロカワムシが流れに乗って流れていく。
ドキドキする。
竿を握る手にじんわり汗がにじむ。
「ん……!」
竿先が震えた。次の瞬間、ヌルッとした重みが手元に伝わる。
びくびくと竿全体を震わせる引き。心臓が跳ね上がった。
「き、来たぁぁぁ!」
「落ち着け!竿を立てろ!」
父さんが後ろから支えてくれていた。
言われた通り竿を立てると、水面から銀色の魚が飛び出した。
私は必死で糸を張り、逃がさないように竿を操作した。
そして――。
「釣れたぁぁぁぁ!やった!やったよ、お父さん!」
両手で魚を抱え上げた瞬間、胸の奥が熱くなった。
重みと魚の香り、全身に伝わる生きた感触。
ああ、これだ。私が求めていたのは、この瞬間なんだ。
その後も夢中で竿を振り続けた。気づけば魚籠はいっぱいになり、手に力が入らないほどだった。
「今日も大漁だな」父が笑う。
「これならお母さんも喜んでくれるね」
私も汗だくで笑い返した。
はっと空を見上げると、太陽は真上近くまで昇っていて、いつの間にかお昼前になっていた。
川面にはギラギラとした日差しが映り、きらめいている。
「ユリカ、昼にしようか」
「うん!」
私は釣竿を抱えたまま、大きくうなずいた。
初めての釣りは大成功。
でも、これだけじゃ全然足りない!
「もっと釣りたい。もっと、この世界で!」
私は感覚が戻ってきた両手をぎゅっと握りしめながら、次の釣りを頭の中で描いてにやにやしていた。