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Day32:革のポーチ

 新年祭から数日が経ち、今日は工房長と共に商業ギルドへ行く日だった。商業ギルドに顔を出すのは、自転車工房の手続きをしに訪れて以来だ。


 道すがら、中央広場を覗いてみると、あの喧騒はすっかり消え、普段の穏やかな姿を取り戻していた。

寒空の下では、子どもたちが駆け回り、母親たちがうわさ話に花を咲かせ、商人や職人、冒険者たちが忙しなく行き交っている。


 ふと大通りへ目を向けると、馬車に混じってマナ車が走り、その脇を何台もの自転車が連なって進んでいた。よく見ると、それぞれに改造が施されている。後輪の上や横に箱や鞄を取り付けたもの、剣や槍を収める筒を左右に備えたもの、さらには手押し車のような荷台を後ろに括りつけ、人を乗せて走るものまであった。


(……これじゃぁ、交通ルールを少し見直さないといけないなぁ)


 そう思いながらも、人々の暮らしの中に自転車が確かに根づき始めていることを実感し、嬉しさで胸が熱くなった。そんな私の横顔を見て、工房長もどこか誇らしげに微笑んでいる。


 やがて商業ギルドへ辿り着き、工房長が〈レス・セット・ジェルマネス工房〉の社章を掲げて門をくぐった。


「お待ちしておりました。準備は整っておりますので、こちらへどうぞ」


 そう言われ、私と工房長は奥の個室へと案内された。長いテーブルの両側には、それぞれ四脚ずつ椅子が並べられており、私たちは右側の中央に並んで腰を下ろした。


 ほどなくして、一人の男性職員が書類と木箱を抱えて現れ、私たちの正面に腰を下ろすと、丁寧に名乗った。

「初めまして。商業ギルドのベンと申します」


 私も軽く会釈を返し、挨拶を済ませる。ベンさんは頷くと、机の上に書類を広げ、ゆっくりと口を開いた。


「今回お越しいただいたのは、年末に工房長へお伝えした件――ユリカさんへの“自転車の分配金”が相当な額に達しましたので、そのご説明と、こちらの〈レス・セット・ジェルマネス工房〉の新しい社章をお渡しするためです」


 そう言って、ベンさんは手元の木箱を静かに開けた。中には、銀色に輝く星をかたどった美しい社章が収められており、光を受けてきらりと反射している。


「普段うちは、工房のみなには給与を手で渡しておるな? だが今回は……ちと額が額だし、それに、お前さんは自転車工房の長でもある。だから、新たに社章を渡すことにしたんだ」


 工房長はそう言いながら、「いつも頑張ってるしな」と、その大きな手で私の頭を優しくなでてくれた。社章をいただけること自体は素直にうれしい。けれど、私がそれを使う場面なんてあるのだろうか――そんな疑問が浮かび、思わず工房長の顔を見つめた。


 すると、ベンさんが私の表情に気づいたのか、改めて説明を加えてくれた。


「今回お渡しする社章ですが、こちらはユリカさん専用のものとなります。他の方が使用することは原則できません。ただし、もし紛失された場合は、最悪悪用される恐れもありますので、その際は速やかにご連絡ください」


 悪用、と言われても、私はそもそも社章をどんな時に使うのかすら分かっていない。その用途を想像してみる。


部屋に飾る?――まあ、なくはない。でも、その場合なくすことなんてなさそうだ。

誰かに見せびらかす? いや、見せびらかしてどうするというのだろう。

護身用の武器にする? それとも、紋所のように懐から出して「これが目に入らぬか」なんてやるのだろうか。


 ……どれもしっくりこない。私はますます混乱してしまった。


 その様子を、ベンさんは私が不安がっているのだと思ったのか、にこりと笑いかけてくれた。

「ご安心ください。後ほどサインをいただきますので、社章をお使いの際にはそれで確認しますし、もし紛失された場合も再発行は可能ですから」


 ――使う場合? やはり社章を使う場面があるようだ。前にバルドおじさんが言っていた、大型取引のときだろうか。そんなことを考えていた矢先、ベンさんの口から衝撃的な言葉が告げられた。


「今回、ユリカさんへお支払いさせていただく分配金は、全部でおよそ四十二ティウス、リウスに直すと四千二百二十リウスとなっています。そのすべては当ギルド口座にお預かりしており、引き出す際には、この社章をお持ちになって窓口までお越しください」


 そう言うと、ベンさんは箱ごと社章を私に差し出した。


(なるほど、商業ギルドは銀行としての役割もあるのか……。それにしても、四千……? 四千リウス?!)


 私は驚愕のあまり、息をするのも忘れて固まってしまった。確か、以前工房長が言っていた――学費の八百リウスは年収の二・五倍ほどだと。そう考えると、四千二百リウスは……。それは平均的な年収の十倍以上の額であることだけは確かだった。


 私はとんでもないことをしでかしたのかもしれない――そう思ってしまうほどの額だ。


 「お引き出しの際は、額をお申し付けくださっても構いませんし、『ブロウスを何枚、レウスを何枚』とご指定いただいても結構です。お気軽にお越しくださいませ。また、引き出すだけでなくお預け入れも承っております。それから、他の街へお引っ越しの際にはギルド手形をお渡しいたします。手形はギルド職員のみ開封可能で、口座の移動からサインまですべて記載されておりますので……」


 その後もベンさんの説明は止むことなく続き、気づけば昼をとうに過ぎ、外は夕陽に照らされて街が赤く染まり始めていた。


 最後に口座用のサインを数枚の書類に記入し、ようやく解放された私は、せっかくだからと社章を持って窓口へ向かい、少しだけお金を下ろすことにした。


 窓口のお姉さんは穏やかな笑顔で対応してくれ、一枚の用紙を差し出す。


 そこには、合計額の記入欄、ブロウス・レウス・リウス・ティウスそれぞれの金額欄、そして署名欄が並んでいて、まるで小切手のように整った紙だった。


 ……ただ、私はこのリウスやティウスの関係がいまいち分かっていない。


 ブロウスは普段の買い物でよく使う。レウスも給料で百枚ほどもらっているので覚えている。確か十ブロウスで一レウスだったはずだ。でも、レウスとティウスの関係は曖昧で、どちらも硬貨の名称らしいが、その価値までは知らなかった。


 少し迷ってから、思い切って窓口のお姉さんに尋ねてみる。


 「一リウスは何レウスですか? あと、ティウスも教えてください」


 そう尋ねると、お姉さんは快く答えてくれた。


 「はい。一リウスは十レウスになります。また、一ティウスは百リウスです」


 そう聞いて、どうして今まで給与がレウスで支払われていたのだろうと不思議に思い、私は工房長の方を見た。


 「お前さんはまだ成人前だからな。リウスを持ち歩いて無くしたらいかんと思い、全部レウスで渡しておったんだ」


 視線に気づいた工房長が、ゆっくりとそう言ってくれた。


 その言葉の奥にある思いやりが胸に染みて、私は自然と微笑みながら「ありがとうございます」と微笑みを返した。


 窓口で五リウスほど降ろした私は、ギルド前で工房長と別れ、市場の方へ足を向ける。もう夕方ということもあり、食料品の露店はどこも店じまいの準備をしており、開いているのは装飾品や消耗品を扱う露店ばかりだった。


 その中で目当ての店を見つけ、品物をいくつか選んで購入する。


 続いて酒屋に立ち寄り、上等なワインを手に入れた私は、胸の奥が少しうきうきしながら工房へ戻った。


 まずは工房長室を訪ね、手にしたワインを差し出した。中では、先ほど別れた工房長が机に向かい、書類をまとめているところだった。私はそっと近づき、ワインを渡して日頃の感謝を伝える。


「すまんな……。おぉ、これはモニーニじゃないか。まさか“王のワイン”をいただけるとはな。ユリカ、ありがとな。大事にいただくことにするよ」


 そのあと、私たちは今後のことをゆっくり話し合った。


 目標だったルーニクス大学の学費はすでに貯まり、あとは入学可能な年齢を待つだけだ。十四歳まで、あと二年弱。移動に半月かかることを考えると、秋の入学に間に合わせるには、来年の夏の半ばには領都を発つことになる。


 ここで過ごせるのも、もうそう長くはない――そう思うと、胸の奥に小さな寂しさが広がった。


 学術都市へ向かう旅は、長旅用の乗り合い馬車になるらしい。詳しい日程は出発が近づいた頃に改めて決めることにして、私はに工房長室を後にした。


 次に、マルセルたち三人を探したが、その姿はどこにも見当たらず、その日は食堂で夕飯を済ませ、自分の部屋に戻った。


 翌朝、食堂で三人の姿を見つける。


 近づくと、すぐに私に気づいたマルセルたちは、「おはよう」と声をかけてくれた。


「そんなに深い意味はないんだけど、これ……この前はありがとう」

そう言って、私はおそろいの革の作業用ポーチを三人に手渡した。


 三人ともとても喜んでくれ、マルセルは右の腰に、ヨアヒムは正面に、ペーターは左前に着けている。


 マルセルはさっそく自分の槌を入れていた。


(喜んでくれてよかった)


 一抹の不安がようやく和らぎ、私は“新しい年を歩き出せた”と実感しながら、四人で並び自転車工房へと向かった。

2025.10.15:

・学費を「八百リウス」に変更

・学費を年収の「二・五倍」に変更

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