Day30:星々の下で
あの日――リアを怒らせてしまった日のこと。
私がどれほどひどい有様だったのかを知ったのは、三日後の朝、食堂でペーターから聞かされた時だった。
あの日の私は、魂の抜け殻のように領都をさまよっていたという。
たまたま休みをもらって所用を済ませ、戻ってきたペーターが私を見つけてくれたのだ。
目元は腫れ、涙の跡も乾ききらず、歩いては立ち止まり、また歩いては止まる。
声をかけてもまるで届かず、ようやく返ってきた言葉は泣き声ばかりで、とても話ができる状態ではなかった――と、彼は言った。
それでもペーターは、そんな私の手を取って、寮まで静かに連れ帰ってくれたのだった。
テーブルの向かいには、マルセル、ヨアヒム、そしてペーターが肩を寄せ合い、まっすぐこちらを見ていた。
三日間も顔を見せず、飲み物すら喉を通さなかった私を、強引にここまで連れてきたのはマルセルだった。
聞けばその間、自転車の発注は山のように積み上がり、私の穴を埋めるために三人で徹夜を重ねてくれたのだという。
「その代わり、せめて事情の説明くらいはしてくれ」――それが彼の言い分だった。
確かに正しい。逆の立場なら、私だって同じ要求を口にしただろう。
けれど、あの日のことを言葉にしてしまえば、出来事が世界に定着し、後戻りできない現実になってしまう気がして……私は口を開くことをためらった。
俯いたまま沈黙を続ける私に、マルセルが口を開いた。
「……リアンナのことか?」
思わず顔を上げると、三人の眉間に深いしわが刻まれていた。
その視線に、私は自分の顔がどれほどひどい有様なのかを思い知らされる。
「どうして……そう思うの?」
三日ぶりに発した声は、しゃがれきってか細く、自分の声とは思えなかった。
マルセルは鼻を鳴らし、淡々と続けた。
「聞いたんだ。ヴァルネ工房に知り合いがいてな。……最近リアンナが顔を出さなくなったって。建築祭のあと、親方にこっぴどく叱られたらしい。
期待していた分、落胆も大きかったそうだ。俺も気になって尋ねてみたら――“自分の失敗で負けたんだ”って、酷く落ち込んでいたよ」
その言葉に、胸の奥に溜め込んでいた感情が爆ぜた。
「なんで?! どうして早く教えてくれなかったの?! その時に言ってくれていたら……!」
――八つ当たりだと分かっている。それでも止められなかった。
マルセルの表情が一瞬曇り、低い声が返ってきた。
「リアンナは来ていただろう。お前を何度も何度も訪ねに。……それを放置し続けたのは誰だ? 自分の都合を優先したのは、他でもないお前じゃないか」
ぐうの音も出なかった。言葉が胸に突き刺さる。
「マルセル……そんな言い方、しなくても……」
ペーターがかばってくれたが、もう自分の愚かさが堪え切れず、涙が次から次へと溢れてきた。
「……ふん、付き合いきれん」
そう吐き捨てて席を立つマルセル。その背に、ヨアヒムとペーターも黙って続いた。
残された私は、またしても一人で、嗚咽を繰り返すしかなかった。
――翌朝。
私は仕事に戻った。工房長には心配をかけたことを詫び、マルセル、ヨアヒム、ペーターの三人にも迷惑をかけたと頭を下げた。
工房長は「無理せんでもいいんだぞ」と優しく言ってくれたが、私はかぶりを振った。
今は止まっている方がつらい。余計なことを考えるくらいなら、手と頭を働かせていた方がまだ楽だった。
しかし現実は容赦なく押し寄せてくる。
自転車の発注数は予想をはるかに超えており、復帰しても工房の忙しさは一向に変わらなかった。
朝から夜遅くまで、ひたすら自転車を組み上げ続ける日々。
そんな生活の中で、気づけば笑顔も戻り、みんなと冗談を交わせるくらいには回復していた。
けれど、一人きりになると、不意にリアのことが胸をよぎる。
その度に、作業で黒く汚れた手を見つめては、やるせなさが静かに広がっていった。
慌ただしい日々に追われるうちに、月日は過ぎ、ようやく受注分をすべて納めたとき、外は冷たい風が吹きすさび、街には年の瀬を告げる鈴の音が響いていた。
「……ふぅ。今年はずいぶん身体にこたえたが、何とかやりきったな」
そう言って工房長は私たちを労い、ある場所へと連れて行ってくれた。
着いた先は――領都でも名の知れた高級老舗サロン〈五星館〉。
貴族や裕福な商人でも、招待がなければ門をくぐることさえできないという格式の場だ。
「え……ここに、私たちが?」
思わず足がすくむ。背中に冷や汗が流れるのがわかった。
私も含め四人は慌てて自分の身なりを見下ろした。
泥や油こそついていないが、普段の仕事着の延長に過ぎず、とてもこの場にふさわしいとは思えない。
ちらりと工房長を見れば、本人も作業着のまま堂々としている。
「あの……工房長。この格好で大丈夫なんですか?」
恐る恐る尋ねると、工房長は鼻髭を揺らしながらにやりと笑った。
「なぁに、ここは全席個室だ。ワシはいつもこんな格好で来とる。だからお前さんたちも心配いらん」
安心しきれないまま案内されると、店員が深々と頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました。いつもありがとうございます」
その物腰の柔らかさに、さらに背筋が固くなる。
通された個室は、思わず息を呑むほどだった。
壁は深い赤で統一され、マナ灯りに照らされて金の縁がほのかに輝いている。
中央の黒光りするテーブルには真っ白なクロスが敷かれ、その周囲を取り囲む椅子は白木に重厚な彫刻を施したもの。
座る前から「沈み込む」ような重みと威厳が漂っていた。
案内された私たちは係の女性に椅子を引かれ、順に腰を下ろした。
私は自然な流れでテーブルのクロスを膝に広げ、中央に置かれた本日のメニューを手に取って眺める。
その一連の仕草に、マルセル、ヨアヒム、ペーターの三人は「ぽかん」と口を開けたまま私を見ていた。工房長が同じようにクロスを膝にかけるのを見て、三人も慌てて真似をする。
「な、なんで……こんな作法、知ってるんだよ?」
マルセルの問いはもっともだ。
普通の村娘が会食サロンで当たり前のようにこなす所作ではない。
私は慌てて「……た、たまたま知ってただけよ」とごまかしたが、胸の内では前世で何度か経験したコース料理の記憶がちらりとよぎっていた。
やがて、食前酒のヒポクラテス酒が運ばれてきた。
給仕が一人ひとりの前にグラスを置き、私には丁寧に「お嬢様は何になさいますか?」と尋ねてくる。
私は迷わず「ガス入りをお願いします」と答えた。
私の飲み物が運ばれたのと同時に、説明役が軽く会釈しながら口を開く。
「こちらはヒポクラテス酒。赤ワインに蜂蜜とシナモン、クローブ、ジンジャーなどを浸け込んだ甘口のスパイスワインでございます。体を温め、消化を助けますので、ぜひお楽しみください」
グラスを掲げて「乾杯」。
口に含んだマルセルたちはすぐに顔を見合わせ、「あまい……」「葡萄酒と全然違う」と驚きの声をもらした。甘やかな香辛料の余韻が、普段のエールとはまるで別物の体験を彼らに与えていた。
続いて運ばれてきた前菜は、澄んだ鶏のスープと豚足のジュレ。
「スープは鶏を長時間煮込んで脂を丁寧にすくい取った清湯になります。こちらのジュレは、豚足の煮込みを冷やして固めたもので、この寒い時期ならでは限定料理となっております」
口にした瞬間、私は思わず息をのむ。
澄み切ったスープは驚くほど軽やかで、ジュレはぷるりと震え、舌の上でほどけていく。冬の冷え込みを逆手にとった、まさにこの季節ならではの味わいに感動を覚えた。
さらに副菜として「甘酸っぱい果物のサラダ」と「根菜のパイ」が並ぶ。
柑橘の香りが鼻を抜け、鮮やかな色合いのサラダは異国の風を思わせ、ほくほくと甘く煮込まれた根菜のパイは香ばしい生地と相まって、自然と次の料理への期待を膨らませた。
やがて皿がすべて下げられ、細身のワイングラスに白ワインが注がれる。
主菜に備えて並べられたカトラリーの数に、マルセルたちは思わず目をぱちくりとさせていた。
その様子を見てながら工房長が、にやりと笑いながら口を開いた――。
「ユリカよ、来週の新年祭が終わったら一度、商業ギルドに顔を出しに行こう。自転車の分配金が、たんまり溜まっておるぞ」
工房長の言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。今日の会も含めて、きっと気を遣ってくれているのだろう。その心遣いが嬉しくて、思わず口元が緩んだ。
私の笑みに気づいたのか、マルセルたち三人も肩の力を抜いたように表情を和ませ、白ワインに軽く口をつけた。
そんな折、一つ目の主菜――舌平目の香草焼きが運ばれてくる。
「こちらは“王の魚”とも呼ばれる舌平目。香りを立たせるため、バターではなくオリーブオイルを使い、タイムやローズマリーなどの香草で焼き上げております」
説明係の声に耳を傾けた後、私は右手にフィッシュスプーン、左手に小型フォークを取り、身を静かに崩して口へ運ぶ。しっとりとした肉厚の白身に爽やかなハーブが重なり、ひと口で海の豊かさが広がった。
その瞬間、対面からの視線に気づく。マルセルたち三人が、まるで奇妙な生き物でも見るような眼差しをこちらに注いでいる。
「……な、なによ」
思わず頬が熱くなり、照れ隠しに言い返す。
するとペーターが小声で囁いた。
「ユリカちゃん、どうしてそんなテーブルマナー知ってるの? 僕、どれから手をつけていいかすら分からないよ……」
私は慌てて肩をすくめた。
「さ、さっきも言ったでしょ? たまたま知ってただけ。料理が出てきたら外側から順に使えば大丈夫だし、万が一間違っても係の人が取り替えてくれると思うよ」
言いながらも視線を逸らす私を、ペーターは目を丸くして見つめ、それから舌平目を口に運んでいた。
みなが食べ終えると、口の広いワイングラスに赤ワインが注がれ、二つ目の主菜――鹿のローストと、林檎とナツメグを詰めたウズラのポワレが運ばれてきた。
鹿肉はジビエ特有の香りをハーブと胡椒で引き締め、丸ごとのウズラには甘い林檎とスパイスの芳香が染み込み、濃厚な肉の味わいをやわらげていた。思わず感嘆の声が漏れる。
その後もチーズの盛り合わせに甘味、食後酒として修道院製のリキュールが続き、華やかな食卓はゆるやかに幕を閉じた。
帰り道、新年祭の準備が進む十字路の中、石畳の一角が削られているのに気づく。春までには、ここに私が提案した標識が立ち、領都の新しい交通ルールが形になるのだろう。
夜空には冬の星々が冴え冴えと瞬き、吐く息は白く冷たい。
まだ心の奥にしこりは残っているけれど、削られた石畳を見つめ、工房のみんなのためにも頑張ろうと――私は前を向く決心を固めた。




