Day29:白き一輪挿し
久々の休みを迎えた私は、嬉しさのあまり小さく震えていた。ここしばらくは自転車の製造と標識図案の作成に追われ、自由に出かける余裕などなかったのだ。こうして気ままに街を歩けることが、こんなにも心を解き放つものだとは思わなかった。
本当はリアも誘いたかったけれど、彼女が休みかどうかも分からないし、約束もしていない。仕方なく一人で歩き出したのだが、それでも胸は高鳴っていた。
今日の目的は、道路調査の折に偶然見つけた家具工房を訪ねること。
大通りから市場を抜け、南門へと続く道を進み、途中にある花屋を左へ折れる。運河沿いに続く小道を抜けると、目的の小さな工房が姿を現した。
道に面した部分はギャラリーを兼ねた店舗になっていて、その奥に作業場があるらしい。扉の上には「カーヴェル工房」と彫られた看板が掲げられ、店内には他の店では見かけないような美しい家具が整然と並んでいた。
その奥には作業場が広がっていた。足を踏み入れた瞬間、むわりと木の香りが鼻を満たす。樹脂の甘い匂いと、削り粉の乾いた匂いが混ざり合い、まるで空気そのものが木材でできているかのようだった。
高窓から差し込む斜めの光が、宙を漂う粉塵を金色に染める。私は思わず足を止め、細かな粒が息に合わせてふわりと揺れる様を見つめた。
長い作業台には削りかけの板が何枚も並び、表面はまだ荒削りのままざらついている。その横には鑿や金槌が整然と吊るされ、手に取ればすぐに使えるよう配置されていた。
床一面には削り屑が降り積もり、職人が歩くたびに足裏が軽く沈む。「ザリ、ザリ」と響く感触が、この工房に積み重ねられた年月を物語っている。
さらに奥からは「カン、コン」と規則正しい音が響いてきた。木槌が木を叩くたび、梁の間に反響し、建物全体がわずかに震えているように感じられた。
そんな美しい光景に見とれていた私に、ふいに声がかかった。振り向くと、作業着姿の女性が笑みを浮かべて立っている。
「いらっしゃい。今日はどうしたのかな?」
「あ……すみません。ただ、とてもすてきな家具屋さんだったので、見に来たんです」
そう答えると、女性は快活に笑った。
「あっはっは、そうかいそうかい。ありがとね。ゆっくり見ていきな」
促されるまま店内を歩き回ると、あることに気が付いた。並んでいる家具はどれも白を基調としているのだ。木の温かみは残しながらも、全体の印象は清潔で明るく、どことなく前世にあった大型北欧家具店“KOIYA”を思わせる。――他の家具工房とは、根本からコンセプトが違うのだろう。
私は気になって、そっと女性に尋ねてみた。
「ここの家具って、他の所と違って全部白くてかわいいですね。他の工房とは製法が違うんですか?」
思わず口にすると、女性は目を細めて嬉しそうに笑った。
「お嬢ちゃん、“製法”だなんて難しい言葉をよく知ってるね。そうだよ、うちはちょっと特殊でね。私がこの工房の女将で、奥で作業してるのが旦那さ。うちの家具は全部、外装を白地塗装で仕上げてるんだ」
そう言うなり女将は「こっちへおいで」と手招きし、奥の作業場へ案内してくれる。
「ほら、ここに石膏があるだろ? これに膠を混ぜて……」
彼女は粘度の強そうな素材を両手で力強くこねていく。
「よく混ざったら、今度は白鉛を振りかけて……さらに練り合わせる。そうすると――テンペラの出来上がりさ。これを木地に塗って乾かすと、白くてきれいな、カーヴェル工房特製の白家具になるってわけさ」
女将の手際のよさに目を奪われながら、私は思わず感嘆の声を漏らしていた。
「素敵……。私もここの家具に囲まれた部屋を作りたい……」
胸の奥でひとつの思いが固まった。
――いつか作るキャンピングカーの内装は、この工房にお願いしよう。
しかし、なぜ他と同じではなく白家具にこだわったのかが気になるところだった。
「どうして白家具なんですか?」
「ん? 理由かい? 白家具は神殿でも見たことがあるだろう? 宮殿なんかでも好まれるんだけど、白は“清潔”“神聖”“高貴”の象徴なんだよ。それに、汚れが目立つから衛生的で、部屋も明るく見える。目の健康にもいいんだってさ。ま、うちの旦那の受け売りだけどね」
女将はそう言ってクスッと笑った。
なんでも旦那さんはもともと医師をしていたが、この領都に立ち寄ったとき女将に一目惚れし、医師を辞めてこの工房に入ったらしい。医学的な観点から家具づくりを工夫するうちに、今の白家具が生まれたのだという。
しかも特別なのは色だけではなかった。椅子やテーブルの高さに至るまで緻密に計算され、長時間座っても腰に負担がかからないよう工夫されているのだとか。
「旦那曰く、“人には人としての特性がある。その特性を理解して負担を減らし、生き物としての効率と安全を高めることが大事なんだ”ってことらしいけど……正直、私には難しすぎてね」
女将はそう言って笑い、肩をすくめた。
「でもね、そのおかげで今年の建築祭、家具部門で優勝して領主さまから別荘の内装を丸ごと任されたんだよ。これはこの工房始まって以来の快挙だね」
「それはすごいですね!」
思わず私も興奮して声を上げる。
「だから、ごめんねお嬢ちゃん。今は家具の受注は受けられないんだ。でも、お店の中なら自由に見ていっていいからね」
そう言い残すと、女将はそそくさと奥の作業に戻っていった。
一通り店内を見て回った末に、私は白い一輪挿しを買うことにした。葦で編んだ網袋に丁寧に入れてくれた女将は、「また来てね。素敵な部屋にしようね」と優しく言葉を添えて渡してくれた。
こうしてカーヴェル工房を後にした私は、その足でリアの工房へと向かう。
時刻はちょうど昼どき。もしかしたら一緒に食事ができるかもしれない――そんな期待を胸に抱き、自然と歩幅も軽くなる。私は胸を弾ませながら、リアの元へと足を速めていった。
ヴァルネ工房は広々とした建物で、多くの弟子を抱えていることで知られていた。厳しい試験を通過した者ばかりが集い、リアを含めて実力派ぞろい。古き良き伝統を重んじ、重厚な建築や家具を得意とする名門工房だ。
その工房に着いた私は、入り口から「すみません」と声をかけて中を覗いた。
広間には作業を続ける職人たちの姿がまばらにあるだけで、昼時のせいか、ほとんどは席を外しているようだった。
その中に同世代の少年を見つけ、声をかける。
「すみません、リアンナの友達でユリカと申します。リアはいらっしゃいますか?」
返ってきたのは「あぁ……」と重たい溜め息混じりの声。
「リアね、最近あまり顔出さなくなったよ。コンテストの後、親方にこっぴどく言われたらしくてさ。せっかく目をかけてもらってたのに……もったいない話だよ」
そう言うと、彼は鼻を鳴らし「ふん」と不機嫌そうに吐き捨て、そのまま工房を出て行ってしまった。
(え……? 嘘。あのリアが……? そんなはずない。絶対に……)
胸がざわめき、私は居ても立ってもいられず、リアの下宿先へと駆け出した。
ヴァルネ工房には寮がないため、リアは近くの下宿屋〈三雀亭〉で共同生活をしている。建物こそ古いが手入れは行き届き、寮母さんも気さくで面倒見の良い人だ。これまで何度か顔を合わせたこともあり、その穏やかな雰囲気に、私は安心感を抱いていた。
下宿先に着くと、一階の一室から賑やかな声が漏れてきた。昼間から宴会でもしているのだろうか。
私はその部屋の前を横切り、二階の奥にあるリアの部屋を訪ねた。
「リア? いる? ユリカだけど……」
扉の向こうから返事はなく、しばらく待ってもう一度声をかけても反応はなかった。
その時、一階のあの部屋から、聞き覚えのある笑い声が耳に届く。
(……もしかして、あそこに?)
思い切って戻り、扉をノックした。
「どちらさん?」と声がして、開いた戸口に現れたのは、左眼に傷の走る獣人の男だった。鋭い眼差しに思わず体が強張り、縮み上がった喉からかろうじて声を絞り出す。
「わ、私……リアンナの友達で、ユ、ユリカと申します……こ、ここ、こ、こちらにリアンナさんは……」
自分でも驚くほどか細く、鶏の鳴き真似のような声だったが、どうにか伝わったらしい。
「おい、リア! 友達が尋ねに来てるぞ!」と、男は部屋の奥に向かって声を張り上げてくれた。
すると奥から「うそ?! だれだれー?」と浮かれた声と共に、リアが現れた。獣人の男と入れ替わるように私の前に立つと、弾けるような笑顔で言う。
「ユリカじゃーん!」
……それが彼女の第一声だった。
「リア……どうしたの?」思わず問いかける。
「どうしたって? 何が? そんなことより、久しぶりじゃーん。元気にしてた?」
軽く受け流すような口ぶりに、胸の奥がざわつく。
「どうしたはどうしたよ。そのままの意味!」私は声を強めていた。
「リア、こんなところで何してるの? ……お酒、飲んでるよね? この人たちは誰なの? 私、工房にも行ったんだよ?」
自分でも驚くほど強い調子だった。理由はわからない。ただ、リアが私の知らない人たちと、しかも素性の分からない男性たちと笑い合っているのが、どうしようもなく嫌だった。
そんな私を見たリアは、目を逸らしながら小さくつぶやいた。
「……関係ないじゃん」
その一言に胸がえぐられる。 悲しみと同時に、怒りがこみ上げてきた。
「関係ないことないでしょ! 私はリアの友達だよ! 領都に来る前も、二人で星を眺めながら約束したじゃない。一緒に頑張ろうって、領都一の職人になるんだって……。あんなに真剣に言ってくれたのに、どうして……ひどいよ……」
喉が震え、声がにじむ。今にも泣き崩れそうになるのを必死でこらえた。
リアはため息をつき、わざとらしく肩をすくめる。
「……あーあ、はいはい。ごめんごめん。私には無理だったんだよ。ユリカと違って才能なんてなかったし……。結局、アンタと私じゃ、生きていく世界が違うのかもしれないね」
その瞬間、心の堤防が決壊した。
堪えていた涙が頬を伝い、止めどなくあふれ出す。
涙を拭おうとしたとき、手に握りしめていた白い一輪挿しにリアの視線が突き刺さった。
次の瞬間――
「アンタ! そ、それ……カーヴェル工房のじゃない! なんでそんな物を持ってるのよ! 何のつもり!?」
突然の叫び。
その顔は、今まで一度も見たことのないほどの憎悪に染まっていた。
悲しみと恐怖が胸の奥でせめぎ合い、私は何をしてしまったのか理解できず、ただ呆然とリアを見つめるしかなかった。涙はなおも頬を濡らし続ける。
リアはきつく唇を結び、背後へと振り返って何かをつぶやいた。
「……え? な、なに……?」
思わず問い返す私に、振り返ることなくリアは怒鳴りつける。
「いいから! 帰ってよ!!」
バタン、と扉が閉ざされる音が狭い廊下に響き渡った。
反射的に肩が震え、心臓が胸の奥で跳ねる。
強い音にびくりと身をすくめた私は、廊下に取り残されたまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。
何が起こったのか。どうしてこうなったのか。
答えを見つけられないまま茫然と立ち尽くす。
気がついたときには、自分のベッドの上だった。
泣きはらした瞼の重さと、止まらぬ震えが、確かにこれが現実なのだと刻み込んでいた。




