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Day28:広がる轍

自転車が完成したその日を境に、私の生活はがらりと変わり、未来へと大きく走り出した。

完成車はすぐに分解され、鋳造のための型が取られ、次の組み立てへと受け渡されていく。以降は毎日のように、部品を作っては組み上げる日々が始まった。


あの日、通りを駆け抜けた私の姿を目にした貴族たちが、こぞってレス・セット・ジェルマネス工房へ問い合わせを寄せてきたらしい。まだ市に並べてもいないのに、すでに注文が殺到しているという。


その中には、この地を治める辺境伯――ヨハン・ファン・デル・モークムの名まであったと、サマンさんが興奮気味に教えてくれた。


なんでも貴族界では、流行やその兆しを誰よりも早く手に入れることが一種のステータスらしく、今回の騒動もそれが拍車をかけていた。

実際、彼らの姿を思い浮かべても、自転車を実用するよりは、せいぜい子どもたちが遊びに乗る程度にしか思えない。私は「そんなものか」と複雑な気持ちを抱えていた。


そんなとき、不意に工房の扉が開いた。入ってきたのは身なりの良い初老の男性。口元には笑みを浮かべながらも、目は少しも笑っていない。


「この工房で自転車なるものを作っているな。我が主、オットー・プルンプ男爵が所望されている。至急工房長を呼び、献上の用意をせよ」


あまりにもぶしつけな言葉だった。

この要求を呑んでしまえば、今後はあらゆる横暴を受け入れることになる。男はちらりとこちらを見て「薄汚いガキまでいるのか」と吐き捨て、口元をハンカチで覆う。その仕草に、私の堪忍袋は音を立てて切れ、思わず詰め寄ろうとした。


その肩を大きな手が押さえる。

「なんじゃ、ここの工房長はワシだが。何か用か?」

鋭い眼光で睨む工房長に、男は一瞬たじろぎながらも、先ほどの要望を繰り返した。


「我が主、オットー・プルンプ男爵が貴殿の自転車を所望している。すぐに献上されたし」


工房長は鼻で笑った。

「はん、寝言は寝て言え。うちはモークム評議院公認のレス・セット・ジェルマネス工房だ。うちに献上を求めるってことは、評議院そのものに献上を求めてるのと同じことだぞ。分かっとるか?」


ぐっと後ずさる男。勝敗はすでに決していたが、工房長はさらに言葉を重ねる。

「それにな、ここはレス・セット・ジェルマネス工房だが、自転車は別の工房で作っている。その工房長は――ここにいるユリカだ」


「……え?」

私も男と同じように固まった。


(ちょ、ちょっと待って! 初耳なんですが!?)


慌てる私を横目に、男は急に態度を変えた。

「先ほどは失礼しました。私はオットー・プルンプ男爵の執事、カスパルと申します。どうか、我が主のために優先的に購入させていただけませんか」


困惑する私に代わり、工房長が断固とした声で答える。

「悪いな、カスパル殿。領主の意向もあり、混乱を避けるため、同時受け渡しと決まっておる。先に渡すわけにはいかん。購入するなら、時期販売の折に正式に発注していただきたい」


そこまで言われれば、執事も引き下がるしかなく、苦々しい顔のまま、工房を後にした。


「工房長、ありがとうございます。……その、自転車工房長って、聞いてないんですが」

そう問いかけると、工房長はケロッとした顔で笑った。


「何を言ってる。ユリカの名前で特許を申請しただろう。その商品を売り出すとなれば工房を持つということだ。つまり、お前さんが自転車工房の長ってわけだ。まっ、レス・セット・ジェルマネス工房の下部組織という扱いだから、独立しているわけではないがな」


そういえば、申請のときにいくつか署名させられたことを思い出す。あれは特許書類ではなく、工房申請でもあったのか。

驚きと困惑で言い返す気力もなく、「へへ、ですよね……」とだけ答え、私は自分の工房へと引き下がっていった。


自転車の量産にはマルセル、ヨアヒム、ペーターの三人も駆り出され、黙々と数をこなしていった。その甲斐あって、およそ一カ月後には最初の出荷ロットが完了していた。


だが、それはほんの始まりに過ぎず、今度は各ギルドから次々と問い合わせと発注が舞い込み、私たちは休む間もなく作業に追われた。気がつけば、秋も半ば。その頃には領都の至るところで自転車が走る光景が見られるようになっていた。


人と人との距離、家と家との往来が一気に縮まり、街はかつてないほど活気づいている。商業ギルドの伝令網も自転車を取り入れ、今までよりもずっと素早くやり取りができるようになった。さらには、行商人や冒険者に頼っていた庶民向けの配達まで、自転車を用いて一手に引き受ける新しい貿易商が現れる始末だ。


自転車が、生活そのものの形を変えつつある――そんな実感が胸に迫り、嬉しいようでどこか恐怖に似た感情も芽生えていた。


母数が増えれば、必然的に事故も増える。

自転車同士の衝突はもちろん、歩行者とのトラブルも相次ぎ、規制が存在しないせいで市場の中まで入り込む姿が問題視されるようになった。


やがて議題に上ったのは、交通の在り方そのものだった。

馬車やマナ車には左側通行という暗黙の了解がある。自転車もそれに倣うべきなのか――。だが、もし同じ規制を強いてしまえば、細道を縫うように自由に走れるという自転車の強みを殺してしまう。


そんな折、事件は起きた。

市場に入り込んだ一台の自転車が、命名式を終えたばかりの五歳の少女と接触したのだ。幸い命に別状はなかったが、群衆の悲鳴と怒号は今も耳に残っている。工房にも批判の声は押し寄せ、胸が締めつけられる思いだった。


しかし世論は一枚岩ではなかった。自転車の有用性を身をもって知った人々が多く、取り潰しや製造中止にまでは至らなかったのである。

そして、議論の末に決まったのは――自転車は轍の左側を走行すること。歩行者を優先すること。そして馬車やマナ車と同じく、乗り入れ禁止の区画や時間制限を設けること。


この波は自転車だけに留まらず、馬車とマナ車にまで及ぶこととなった。

こうして、初めての「交通ルール」が形になったのである。


その際、関係者や有識者、有力者が顔をそろえる会議が開かれた。

不覚にも私はその席で「標識を立てればいいのでは」と口を滑らせてしまい――気づけば、この忙しい最中に標識の原案作成まで引き受ける羽目になっていた。


街道建設ギルドからの依頼は明確だ。A4ほどの紙を横置きにし、左半分に標識の図案、右半分にその仕様を書き込めという。

私は仕方なく筆を取り、まず一枚目に丸い標識を描いた。下地は赤、その中央に白い横線を入れる。右側には仕様を記す。


・進入禁止:ここから先、車両の進入を禁止する

・市場や国が定めた区域の手前に設置する


……と、そんな具合だ。


この仕事自体は、前世の知識を持つ私にとってそう難しいものではなかった。

だが、この世界の道路事情を知らない以上、机に向かってばかりはいられない。結局、この真夏に領都を隅から隅まで歩き回ることになった。


それにしても、領都の夏は暑い――いや、本当に熱い。

私は木陰に腰を下ろし、汗をぬぐいながら自然とハイジャン村のことを思い出していた。

あの村では広場や大通りこそ石畳だが、少し路地に入れば土道ばかりで、夏でもひんやりとしている。

そんな環境に慣れていた私には、この熱気はひときわ堪えるものだった。リアも同じように、この暑さに苦しんでいるかもしれない。


そういえば、私が仕事に追われている間に、リアが何度か工房を訪ねてきてくれたとサマンさんが言っていた。

先日開かれていた建築祭のことを話そうとしていたのだろうか。結果はどうだったのか――今度会ったときにでも尋ねてみよう。


そんな思いを胸に抱きながら、私は再び道路調査へと足を運んだ。

その道すがら、美味しいパン屋や、思わず立ち寄りたくなるような家具工房を見つけたのは怪我の功名だろう。だが、何より驚かされたのは――そこで兄マルクに出くわしたことだった。


どうやら先日領都に出てきたようで、その際冒険者ギルドで弓士の女性と知り合って意気投合したという。まさにこれからその弓士と連れ立って、大トカゲモドキ狩りに向かうところらしい。


「聞いたぞ、ユリカ。自転車の発明はお前なんだってな! すごいじゃないか、兄ちゃん鼻が高いぞ」


そう言いながら私の頭をくしゃくしゃに撫で、得意げに笑って門の方へ歩いていく。その背中は嬉しさに弾んでいるようで、足取りも軽かった。


嬉しそうな家族見ていると胸が熱くなり、私は髪を整えながら大きな声で呼びかけた。

「兄さん! 気をつけてね!」


群衆の中で振り返った兄さんは、右手で力強くサムズアップを返し、そのまま人ごみに紛れていった。


標識の図案を一通り描き終えた頃には、季節はすでに冬へと移り変わっていた。

ここに来てから一年。思い返す暇もないほど、後半は慌ただしい日々だった。


リアとは最近まったく顔を合わせていないが、夏の建築祭で惜しくも優勝を逃したと風のうわさに聞いている。彼女のことだから、もう次の目標に向かって突き進んでいるのだろう。そう思いつつも、やはり少し心配で、胸の奥に小さな棘のように引っかかっていた。


(……時間を見つけて、下宿先を訪ねてみよう)


そう心に決めた瞬間、冷たい空気を割るように、一粒の雪が鼻先に舞い降りた。

近くでは子どもたちが「あ! 冬精霊の落とし物だ!」とはしゃいでいる。


白い結晶はたちまち溶けて消えたが、その余韻だけが、静かに胸に残った。

冷たさを増した石畳に寂しさを覚えながら、私は冷えたバケットを抱え寮へ小走りで戻っていった。

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