Day1:命名式
人は五歳になるまで“天のもの”である。
ゆえに子どもには、正式な名前を付けてはならない。
――――創世記 第3条7項 命名式より
今の私には”名前”がない。
もちろん呼びかけには困るから、愛称はある。
生まれてからずっと「スイート」と呼ばれてきた。
親が甘いもの好きだからとか、そういう意味じゃない。
単純に「まだ仮の子ども」という響きで、多くの村で一般的に使われている呼び名だった。
神殿の広場に集まった子どもたちを呼ぶ声も、あちこちで「スイート!」「スイート!」と重なって聞こえる。
これじゃあ、誰のことを呼んでるのかよくわからない。
でも今日でその曖昧さともお別れだ。
私は両親に手を引かれ、村の神殿の白い石段を上がっていた。
神殿の白い石畳は朝の光を反射してまぶしい。
命名式――五歳になった子どもに、天から正式な名が降りてくる日。
これが私にとって、新しい人生の始まりになる。
祭壇の前に立つと、神官が古い言葉で祈りを唱え、響き渡る声に合わせ、胸の奥がじんわり熱くなる。
やがて光が差し込み、頭の上に柔らかな温もりが降り注いだ。
「……ユリカ」
その一言が告げられた瞬間、頭の中に稲妻が走った。
白い光に視界が覆われ、次の瞬間には膨大な記憶が流れ込んでくる。
(……あ、思い出した。私は――宮峰優理香)
日本の大学に通う四年生。
就活もせず、釣りとキャンピングカーに夢中になっていた女だ。
親にも友人にも散々言われたけど、やりたいことを優先し、わけもわからず死んだはず。
……そうだ、あの女神の言葉。
『稀に記憶を宿したまま生まれるケースも観測されています。その条件は――』
このあたりのことをよく聞いていなかったけど……
でも今は、はっきりと思い出せる。
『同じ名前を授かったとき』
そう、だから私はこの瞬間、”宮峰優理香”を思い出したのだ。
(……そうか。本当に転生したんだ……)
光が収まり、私は自分の名を宣言された。
「ユリカ」
それは前世と同じ名前であり、私を再びつなぐ鍵だった。
前世の家族や友人のことを覚えているのは辛いもので、
もう会えないという悲しみが涙となり、ホロリと床へ落ちた。
「ス……ユリカ?どうしたんだ?」
父に声をかけられ時、同時にこの五年間の記憶も湧き上がってきた。
やさしい母と怒ると怖いが頼もしい父、少し意地悪な兄に生まれたばかりの弟まで。
その顔を思い浮かべると不思議と疎外感はなく、涙も止まった。
「んんん、何でもない。ちょっとビックリしただけだよ」
私は両親と手をつなぎ、来た道を戻った。
それからの私は、がらりと変わった。
今まで家で布切れや人形を相手に遊んでいたおとなしい子が、急に外へ出たがるようになったのだから、両親も村の人たちも驚いたに違いない。
特に父。
村の鍛冶屋を営む職人で、釣りが趣味だ。
仕事がひと段落すると、工房の隅に置いてある釣竿を手に川へ向かう。
私は小さいころからその背中を見て育っていた。
工房に入り浸るようになったのは、それからすぐのことだ。
炉の火、鉄を叩く音、焦げた匂い。前世では絶対に近づけなかった世界。
「お父さん、それなにしてるの?」
「釣り針を打ってるんだ。村の川は魚が多いからな」
父はそう言って、鍛造したばかりの小さな針を水桶に落とす。じゅっと音を立てて冷やされ、輝きを帯びた。
私はそれを覗き込み、目を見開いた。
(……バーブレス!?それじゃぁすぐにバレちゃうんじゃ……)
そう、全部返しが付いていない。
「ねぇねぇ、お父さん。釣り針って全部この形なの?」
父はにこにこしながら
「お、なんだ?ユリカ。釣りに興味あるのか?今までそんな素振り見せたこともないのに。」
「うん、興味あるよ!いつもお父さん美味しい魚持ってきてくれるし!で、釣り針って全部この形なの?」
「釣り針の形?そうだな、父さんが知ってる中ではこの形しかないな。
これしかないんだが、ちょっと問題もあって、これだと魚が暴れて、よく外れてしまうんだ。
川に居るのは全部天然のマスだからな。力強いし頭もいい。針を大きくすれば外れにくいが、その分魚に見切られやすい。ま、そこが腕の見せ所なんだけどな」
と笑っていた。
確かに理屈はわかる。村の人にとって釣りは遊びではなく、食料確保の手段でもある。
それならば腕に頼らず確実に釣りあげたいところなのだ。
(よし……まずは返し付きの釣り針を作る!)
それが、この異世界での私の最初の決意になった。
父の工房で余った鉄片を拾い、真似をして叩いてみるが、もちろん形にならない。
すぐにぐにゃりと曲がってしまい鉄片が別の形の鉄片に変わるだけだった。
「ユリカ、お前……急にどうした?」
「釣り針、作りたいの!返しの付いたやつ!」
「カエシ……? なんだそりゃ」
父は首を傾げたが、私は譲らず、手を真っ黒にしながら、鉄を叩き続けた。
それを見かねた父が、
「カエシっていうのがどんなものなのかわからないが、どれ、父さんに任せてみなさい。」
父はそういうと私の手からハンマーと鉄片を抜き取り、
代わりに木炭で板に絵を描くように促した。
私が返しのついた針の絵を描いてみせると、
「なるほどな……。確かにこれなら返しに引っかかって、どんなに暴れても抜けなさそうだ。
でも、針先を曲げるから魚に刺さらないんじゃないか?」
「違うよお父さん。針先を曲げるんじゃなくて、針先の下を伸ばしてもう一つ針を付けるイメージなんだ」
「そうか!それなら刺さるし抜けにくいな!ユリカは天才だ!」
父は私をひょいと抱き上げ、頬に髭をジョリジョリと擦りつけてから、すぐさま作業に戻った。
やがて完成した“返し付きの釣り針”を手に、川へ出かけていった父。
そして、いつもの倍近い魚を抱えて戻ってきた姿を見たとき――その効果を疑う者はいなかった。
(うぅぅ~……。私も早く釣りをしたいよーーー!)