Day11:遭遇
この日、私はリアと一緒に水車小屋まで出かけた。
目的は、二週間前に完成した私たちの自転車の試運転をするためである。
試運転までに二週間も時間がかかった理由は二つ。
ひとつは、最後に取り付けた横材に獣脂を塗ったので、それが完全に乾くのを待っていたから。
もうひとつは、リアの分の自転車を仕上げるため乾かすのと並行してもう一台製作し、完成したのが今日だったからだ。
春もだいぶ過ぎたというのに、森の土道はまだひんやりとした空気に包まれていて、地面を蹴るたび足裏に伝わる湿り気さえ心地よく感じられる。
木々の梢を抜けた陽射しがまだ柔らかく、風に揺れた若葉が光をきらめかせていた。
前回、父さんと歩いて訪れたときには、確か一時間以上かかっていた道のりだ。
「はやい!」
リアが後ろから声をあげた。
振り返ると、彼女も楽しそうに地面を蹴っている。
あの時は「待ちきれない」と思ったけれど、こうして並んで走っている今、待って良かったと心の底から感じていた。
私たちは綺麗に伸びる二本の轍の上を滑るように進み、十分ほどで辿り着いた。
自転車を脇に立てかけて、近くの大きな岩に腰をおろす。
全力で蹴ってきたせいで息はまだ荒かったけれど、胸の奥は達成感でいっぱいだった。
リアは足をぶらぶらさせながら、私の顔をじっとのぞきこんだ。
「ねえ、どうして自転車なんて思いついたの? なんでこんなすごいものを作ろうと思ったの?」
好奇心に満ちた声。瞳は水面みたいに澄んでいて、まるで子供が新しい遊びを知った時のように輝いていた。
私は少し考えてから答えた。
もちろん、本当の理由――この世界に来る前の記憶――を話すわけにはいかない。
だから笑って肩をすくめる。
「村の子たちが手押し車に乗って遊んでるのを見たの。押してもらえば進むでしょ? だったら、自分で足を動かして走れるようにしたら面白いかなって思ったの」
「なるほど……!」
リアは手を打ち、心から納得した顔をした。
「ただの遊びの道具から、こんな立派な乗り物にしちゃうんだ。やっぱりユリカってすごいよ」
私はどこかバツが悪そうに、指で熱くなった頬を撫でながら笑った。
しかし、今まで私の作ったものをそんなふうに言ってくれる人はいなかったので、嬉しさも込み上げる。
「他にも考えてあるの?」
リアはさらに身を乗り出し、子供のようなきらきらした目で問いかけてくる。
私は吹き出しそうになって、わざと顎に指を当てた。
「ふふふ、それはまた今度ね」
「えー、ずるい!」
リアは頬をふくらませ、でもすぐに笑いだした。
私もつられて笑った。
水車の回転音と川のせせらぎが、二人の笑い声に溶け合い、春の空気の中で淡く響いていた。
―――帰り道のことだ。
午後の光に照らされた道の先に、異様な黒い塊が見えた。
近づくと、それは動物でも岩でもないことが分かる。
「……フォルミーガ・グラン」
リアが息をのんだ。
それは恐ろしく巨大な兵隊蟻だった。ワンボックスカーほどもあろうか、体長四メートル近い黒く光る体を横たえ、長い触覚を時折ピク、ピクと震わせている。
顎は信じられないほど大きく、鋭く湾曲して光っていた。まるで鉄の鉈が二本並んでいるかのようだ。
節くれだった脚は太く、一本一本が子どもの胴ほどの太さをしている。
全身は硬い外骨格で覆われ、墨を塗ったような艶を帯びていた。
だが、その巨体もすでに限界にあったのだろう。
生命の灯火は風前の灯のように揺らぎ、黒い殻の下でかすかに蠢くばかりだった。
その巨体に噛みついたまま離れないのは、別の蟻たち――茶色い小型の個体たちである。
体長は兵隊蟻の三分の一ほど。数匹が絡みつき、必死に食い下がった末の死闘の痕跡がそこにあった。
黒々とした巨体の表面には無数の裂傷が走り、脚のいくつかはもがれて失われている。
一方で茶色い蟻たちもまた、顎を深く食い込ませたまま動かず、すでに息絶えていた。
周囲には、他の個体の残骸らしきものが散乱していた。
ちぎれた四肢、引き裂かれた腹部。体液の臭いが、春の空気の中でもはっきりと漂ってくる。
私はいつの間にか、腰につけている魔物避けのランタンを握りしめていた。
力なく蠢く触角を見て、私は背筋に冷たいものが走る。
それは、初めて目の当たりにする魔物の姿だった。
(ランタンをつけていたのに……どうして)
そう思ったが、この有様では、もはや避けることすらできなかったのだろう。
思考ばかりが先走り、身体をこわばらせていた私に、リアの声が飛んだ。
「ユリカ! 急いで戻るよ!」
はっと我に返り、私はリアと並んで自転車を押し出す。
土を蹴り、必死に駆け戻った。
村まではほんの数分。全力で漕いだ足は震え、胸は早鐘のように鳴っている。
村長の家に駆け込み、報告すると、すぐに男手がかき集められた。
「立派なフォルミーガ・グランが倒れている」と聞いた途端、村はざわめき、誰もが慌ただしく準備を始める。
バルドおじさんが馬車を引いて駆けつけ、十数人の男たちと共に現場へ戻った。
――そして。
そこに横たわっていたのは、漆黒の巨体。
村人たちは目を輝かせ、口々に歓声をあげる。
「これで今年は安泰だ!」
「すげえぞ、フォルミーガ・グランだ!」
歓喜に沸き立つ輪の中で、私だけが血の気を失っていた。
足は固まり、胸はまだあの顎の軋む音を思い出して震えていた。
……なのに。
隣を見れば、リアの頬は赤く、満足げに笑んでいるではないか。
そういえば、見つけたときからずっと彼女は妙に高揚していた気がする。
その顔に、私は思わず息を吐き出した。
張りつめたものがふっと切れ、安堵と呆れがないまぜになり、口元に苦笑が浮かんでしまった。
フォルミーガ・グランは「捨てるところがない」と言われている魔物なんだそうだ。
その外骨格は厚く強靭で、盾や鎧など防具に加工できる。大きなパーツのまま剥ぎ取り、洗浄すれば、領都で高値で売れるという。
さらに筋肉にも利用価値がある。
まず飽和食塩水に漬け、一晩かけて血液や体液を抜き、その後、真水にもう一晩漬けこみ、塩抜きをする。
水気をよく拭き取り、天日干しで完全に乾燥させる。
最後に乾いたものを水で戻すと、強靭な弓の弦が作れるのだとか。
村長の説明に、私は思わず息を呑んだ。
「あとな、フォルミーガ・グランの持つギ酸を水で薄めて畑に蒔くと、虫が寄ってこないんじゃよ。これから苗を植え変える時期じゃ、これは大手柄じゃぞ」
これにはリアも目を丸くして、私と顔を見合わせる。
「捨てるところがない魔物」――その言葉の意味を、目の当たりにした瞬間だった。
解体が終わると、村長が私とリアを呼んだ。
「発見者の特権じゃ。好きな部位を持っていくきなさい」
リアは迷わず、外骨格の一部を選び、
私は逡巡した末、兵隊蟻と茶色い蟻の触角をそれぞれ二本ずつ受け取った。
しなやかで丈夫そうなその感触に、胸が高鳴った。
初めての魔物との遭遇。
そして、自分の手に素材を得たという実感。
恐怖と興奮が入り混じりながらも、私はその日を終えた。




