Day9:廻る歯車(前編)
その日、私は工房の手伝いを休ませてもらい、自転車の構想に一日を費やすことにした。
まずはメモ板を広げ、記憶をたどりながら、自転車の姿を精密に描き出していく。
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細身のフレームは真っすぐに伸び、軽やかなトップチューブが前後の車輪を結んでいる。
ハンドルはドロップではなく水平に広がり、両輪には大きな700Cのホイール。
細いタイヤは黒く張りつめ、舗装路を速く、そして静かに転がっていく気配を漂わせている。
サドルはロードバイクほど尖ってはおらず、適度な厚みを持って後方へと伸びている。
その位置を支えるシートポストと、前へ突き出したステムの組み合わせが、自然な前傾姿勢を形づくる要因となっている。
そして、リムではなくハブに近い位置に光るディスク。
力強く、確実に止まる――そんな意志を宿したブレーキがそこにはあった。
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(うん、これを作るのは無理だな……)
私は早々に諦め、描いたクロスバイクから、走るために必要な部品をひとつずつ選び出していく。
まずは車体を支える二つのタイヤ。
操るためのハンドル。
そしてトップチューブにダウンチューブ、ヘッドとシート――つまり骨格となるフレームだ。
そこへサドルとペダルを備え、動力を伝えるチェーンリングとスプロケット。
両者をつなぐチェーンさえあれば、とりあえず前へ進むことはできる。
……けれど思い描くのは、アルミ合金やカーボン繊維、そして樹脂のフレーム――いずれも、この世界の技術では到底あり得ないものばかりだった。
何から始めるべきなのか、それさえも見失った私は、気分を変えるため、村の広場へと向かった。
村の広場は人で賑わっていた。
物々交換をする人々、命名式から帰ってくる親子、荷を運ぶ若者――それぞれの姿が行き交い、ざわめきが重なる。
その雑踏の中で、ふと目を奪われる光景があった。
それは一本の大きな木の車輪を前方に備えた、素朴な手押し車だった。
車体はすべて木で組まれており、前に突き出した二本の長い持ち手を両手で握って押している。
荷台は平たい板を横木で支えただけの簡素なもので、石や薪、土の塊を載せると重心が自然に車輪の上へ集まるように作られていた。
車輪は厚い木板を輪に組み合わせた造りで、その外周には鉄の帯が巻かれ、固い地面で摩耗するのを防いでいる。
持ち手の下には簡素な支え脚が二本取り付けられ、荷を降ろしすときに手を放しても、倒れずに自立する。
全体は粗削りだが頑丈で、村人の日常の労働に寄り添ってきた道具であることが一目でわかる。
驚いたことに、その手押し車は子供たちの遊び道具になっていた。
ひとりが取っ手を握って走り、もうひとりは荷台にまたがり、木の棒を天へ突き上げる。
……その光景を目にした瞬間、胸の奥に閃きが走った。
荷台にまたがるその姿は、まさに私が思い描いていた自転車の原型そのものだった。
形や素材を前世のものに合わせる必要はない。
この世界にあるものを、この世界で作ればいい――そう思い至ったのだ。
曇天のように重かった心は、一気に晴れ渡り、雲ひとつない青空へと変わっていく。
私は小躍りをしながら工房へ帰り、さっそく準備を始めた。
まず、裏庭に置かれた手押し車を観察した。
どれも、前輪を挟むフォークから取っ手までが一直線に伸びており、このままでは重心が低すぎて、乗って漕ぐことなどできないだろう。
そこで、手押し車を垂直に立ててみる。
――やっぱり! 自転車の前輪とハンドル部分に似ていた。
さらに後輪側にも押し車を置き、同じように立ててみる。
今は私が両手で支えているが、この間に支柱を渡してサドルを置いたら……。
そこに現れたのは、ペダルこそないが、確かに自転車の姿だった。
(これだ!)
私は本日二回目の小躍りをした。
さっそく二つの手押し車を解体し、試作に取りかかる。
前輪にハンドルを取り付けるためには、車輪を挟む二本の支柱を途中でつなぎ、一本にまとめる必要がある。
支柱を車輪より十センチほど上で切りそろえ、短く切った木材でつなぎぎ合わせた。
さらに、その中央には取っ手に使われていた円柱状の支柱を添える――。
前輪とフォーク、そしてヘッドチューブがひとまず形になった。
次は後輪だ。
こちらは前輪に比べればずっと簡単だった。
切りそろえた支柱を、そのままトップチューブとなる支柱へ繋ぎ込むだけでいい。
最後に、トップチューブとサドルに取りかかる。
トップチューブには荷台で使っていた板を削り、跨げるように形を整えた。
前輪を支えるヘッドチューブを差し込むための穴あけに、ほとんどの時間を費やす。
そこへ丸い支柱を通し、ハンドルとなる部分をしっかりと固定した。
けれど、サドルに使えそうなものは見つからない。
仕方なく木肌に丁寧に鑢をかけ、せめて体への負担が和らぐように整え、仕上げに後輪の支柱をトップチューブに結わえつける。
――こうして、ペダルのない自転車がついに姿を現した。
試しにまたがり、足で地面を蹴った。
車体はぎこちなくも前へ進み、風が頬をかすめた。
思わず笑みがこぼれる。
もっと広い場所で試したくて、裏庭を抜けそのまま森と村の狭間にある野原へ向かった。
広々とした草原で、力いっぱい速度を上げる。風を切るたび胸が高鳴り、世界そのものを駆け抜けているようだった。
西の空は燃えるように赤く、東の空はすでに夜の青を孕んでいる。
私はその狭間に浮かぶ一条の影となり、どちらにも属さない空間をただひたすらに駆けていた。
――その瞬間、石を踏み、鋭い衝撃が背中をかけ走り、頭頂部から抜けて行った。
思わず身体が浮き、次の瞬間には地面に叩きつけられた私は、痛みに顔をしかめていた。
「……いちちち。……これじゃ、危なくて乗れないなぁ」
嬉しさと同時に、改良すべき課題が突きつけられた。
翌朝、村の広場でバルドおじさんに出会った。
ちょうど領都へ大工一家を迎えに行くところで、荷を馬車に積み込んでいる。
私も作業を手伝いながら、自然と視線は車輪へ吸い寄せられた。
厚みのある黒い帯――それはゴムタイヤだった。
石を踏んでも車体はほとんど揺れず、しなやかに地を滑っていくのだろう。
やっぱり、これしかない。
私はもう、居ても立ってもいられなかった。
「ねえ、おじさん。お願いがあるの」
思い切って声をかけた。
「領都に行くなら、その……ゴムの車輪を買ってきてほしいの!小遣いならちゃんとあるからさっ」
父さんの手伝いで作った釘やヒンジの報酬を、少しずつ袋に貯めてきた。
その重みを思えば、タイヤの一本や二本くらい手に入る気がした。
バルドおじさんは頭をかき、苦笑する。
「ユリカ、それは無理だ。ゴムは十五年ほど前に西の大陸から入ってきた珍しい樹脂でな。
最初は靴の防水くらいにしか使えなかったが、最近ようやく硬いものが作れるようになって、靴底や車輪に使えるようになったんだ。
まだまだ品は少ないのに、人気があって値段も跳ね上がってる。お前の小遣いじゃ、とても手は届かんよ」
私は言葉を失った。
目の前の黒い帯が、手の届かない遠いものだと突きつけられる。
頬に熱がこもり、視界の端に涙がにじむ。
それでも、今はただ小さくうなずくしかなかった。




