少し冷える日に
秋も終わり、十二月に入った。
相変わらずボクは小学校の事務室で仕事をしていた。
その日の昼休みに、雪がふった。
といっても積もるほどではなく、ほとんど溶けた雪だった。
「福生先生、知ってます? こういう天気、『みぞれ』って言うんですよ」
事務室に遊びに来た一人の児童が、窓の外を見ながらつぶやく。
外は薄暗い。雨か雪か判断のつかない水滴が、窓をたたき続ける。
ボクは、暖房の利いた部屋にいる。
パイプ椅子を二脚用意し、そのうちの一脚に腰を下ろしている。
もう一方のパイプ椅子は目の前にある。
そこに、宮先さんが座っている。
前に二人で話して以来、友だちと一緒に事務室に来るコトはあったが……そのあいだずっと宮先さんは、自分の家族について語ろうとしなかった。
しかし、きょうは久しぶりに宮先さんが一人だけで現れ、例のコトにふれた。
「ところで先生。以前、ワタシとなにを話したか覚えていますか」
「もちろん。お父さんの寝言についてだよね。どうも、お父さんは過去のコトを夢に見て、その寝言を口にしたみたいだったから……実際にどんな過去の夢を見ていたのか、当の寝言をもとにして考えたんじゃなかったかな」
「そのときワタシ、父の寝言が収まったコト、先生に伝えましたよね?」
「あのあとなにかあったの」
「いいえ。むしろ、なにもないです」
宮先さんは持参した水筒で、湯気の立ったお茶を飲む。
「お父さんの寝言も、ここ一か月聞いてませんし。相変わらず両親の仲は、いい感じですし。おまけに二人ともワタシに対して優しいままですよ」
「なるほど、円満なんだ」
「はい。福生先生には相談に乗ってもらいましたので、一応……あのあとどうなったのか報告したほうがいいかなと思って、きょうは一人で来たんです」
「ボクも、聞けてよかったよ、安心した」
「先生にそう言ってもらえると、もっとうれしくなります。……それはそうと、つかぬコトをうかがいますが」
宮先さんは、温かそうな水筒を太もものあいだに置く。
「……先生は、今の伴侶のかたと一緒になれて、幸せですか」
「うん」
「熱いですね。やけちゃいそうです」
それから水筒の蓋にお茶をついで、ボクに差し出した。
「飲みます?」
「ありがとう、でも喉は渇いていないんだ」
「……先生は、まともな大人ですね」
宮先さんは、お茶を喉に流し込んだあと、ゆっくり立った。
「じゃ、さよなら。もうワタシ、一人でここに来るコト、ないと思う。だけど福生先生のコト、嫌いになったワケじゃ……ないから。そこだけは勘違いしないでください」
「うん、さようなら。また来たいときは、いつでも来てね」
「……ありがとうございます。それと、ワタシだけ先生の結婚に『おめでとう』って言ってなかったので、今さらですが……」
言葉を連ねつつ、宮先さんが事務室のドアを閉める。
その音にまぎれ、小声が聞こえた。
「お幸せに」
* *
同じ週の土曜日。
休日というコトで、ボクは昼間に買い物に出た。一人での外出である。
シラユキは、次回作の締め切りが近いらしく、かなりいそがしいようだ。
買い物の帰り道、ボクに声をかける人があった。
「あ、兄さんじゃないですか。偶然にも、ほどが、ありますねー」
車道の向こうの歩道で、見知った顔が手を振っていた。以前、ボクのもとに手紙をよこした、シラユキの実妹……熊野アサカがそこにいた。
アサカは横断歩道を渡って、ボクの近くを歩き始めた。
互いにとまらず、挨拶を交わす。
シラユキに似た、黒く丸い瞳をボクに向けるアサカ……。
ただし髪は、姉より少し長い。声も、高めである。
「だいたい二か月ぶりですね。最近、どんなですか」
「とくに変わったコトもないよ」
「安眠できてます?」
「シラユキも、よく眠れてる」
ボクは歩幅を小さくして、前を見ながらアサカに言う。
「それはそうと遅ればせながら……手紙、ありがとう。なんか『見守られている』って感じがして、心強かった」
「いえいえ」
「お父さんとお母さんは、元気?」
「はい。福生家のみんなとも、しばしば会っていますよ。年末か年始には遊びに来てくださいね」
「もちろんだよ」
ここでボクは、アサカのほうに視線を投げた。
「ところでアサカは、なんの用で、うちの近所に?」
「やだなあ。偶然って言ったじゃ、ないですかー。……同じ大学の彼氏が近くに住んでるんですよ」
「……シラユキには、黙っておいたほうがいい?」
「ごめんなさい、なんの意味もない冗談です」
「なんだ、信じるところだった」
「本当は兄さんと姉さんが、どんな感じなのか気になって来ました。もちろん……手紙にも書きましたが、用もないのに新居に上がり込んだりは、しませんよ。ただ、結婚から二か月たったわけですので、ちょっと顔を見るくらいなら許されるかなーって」
「遠慮なく遊びに来ればいいのに。ボクもシラユキも、むしろ喜ぶよ。あ、今はシラユキ、多忙なんだけどさ」
「その言葉だけで、おなか、いっぱいです」
首を左右に振ってからアサカは、ボクとは違う方向に足を向けた。
「では、わたしは帰ります」
「シラユキに会っていかないの?」
「いそがしいんでしょう? なら邪魔できません」
「そっか、アサカ。きょうは話せて、うれしかった」
「兄さん……」
アサカは道を外れ、ボクに背を向ける。
「姉さんと結婚してくれて、ありがとうございます。別に兄さんが親切心で、うちの姉と結婚したわけじゃないのは、わかっています。だから、お礼を言うのは変かもしれません」
一瞬だけ振り向き、笑顔を見せる。
「それでも、ありがとうございます」
明るく高い声が、ボクの耳に届いた。
* *
ちなみに。
あとでわかったコトだが……この時期にシラユキが書き上げた新作は、ボクと話した夢や寝言とは、ほとんど関係のない内容だった。
それを読んだとき、「直接的にネタにしないところがシラユキらしいな」とボクは思った。
とはいえ、ボクの語っている「アレにまつわる話」からは逸脱するので、その件については割愛する。
今さら注意するまでもないが、ここで言う「アレ」とは、寝言のコトだ……。




