悪夢と線引き
ボクは、きのうのボクの夢のなかでシラユキが「ぶっころ」という寝言を口にしたのではないかと想像する。
そこまでは、現実と同じだが――。
これからは、悪夢独自の世界が展開されるだろう。
シラユキの逆のイメージを想定しつつ……ボクはシラユキ自身と共に、ボクが見たであろう夢を再構築していく。ボクの発したひどい寝言に一つの答えを与えるために……。
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シラユキの寝言は、以降も続いた。
ほぼ毎夜、意味のわからない言葉や罵声が聞こえる。
迷惑とは思っていない。日ごとにシラユキは、嫌な夢を見ているのだろう。
きっと一番に苦しいのはシラユキだ。
ただボクは、シラユキのつらさに寄り添うコトしかできない。
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現実のシラユキ「……早速、現実とずれ始めたね。本物のワタシは変な寝言を口にしても、まったく苦しくない。タダヒコが『夢の再構築』をせず、理解者ヅラで傍観しているのにも違和感がある」
現実のタダヒコ「反対のイメージが混入した夢だからね」
ボクは指で膝をたたく。あぐらをかいて、横に突き出した両膝を……。
タダ「そして、今回の夢で焦点を当てている対象は、ボクとシラユキ。したがってアサカの手紙やボク自身の仕事場で起こったコトは考慮しない。現実なら、その欠落は立派な不整合。だけど夢の場合は、『おかしい』と自力で気づけるモノじゃない」
ユキ「メチャクチャな世界に対して大マジメに向き合うのも、夢のかたちの一つだよね。ワタシ、思うんだけど……逆転したイメージは人格だけじゃなく世界そのものにも応用可能だよね。そこに一個のディストピアやユートピアが、できあがるのかもしれないね」
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十一月になっても、寝言は相変わらず治らなかった。
最近では、よりいっそう、ひどくなっている気がする。
「カエルーッ!」とか「目玉焼きの逆襲」とか聞いた夜には、シラユキを本気で病院に連れていこうかと思った。
ボクは朝食の席で、それとなく、「精神科か脳神経内科の先生と話してみるのは、どうか」と提案した。
が、シラユキは首を横に振る。「だいじょうぶだから……」の一点張りだ。
次の日も、その次の日も、ボクは寝言に何度も起こされた。
もう……「迷惑じゃない」と強がるコトもできそうにない。
毎朝、ボクはシラユキの顔を見るたび……「おはよう」よりも先に、「病院に行ったら?」と口にした。
表面上は、気づかう体裁だ。
しかし実際は、自分のいらだちを純粋な「心配」であるかのように見せかけていただけである。
その証拠に……ボクは、とうとう、ひどいコトをした。
夜中に起きて、シラユキの枕もとに顔を寄せる。
そして、寝ているシラユキが再び「ぶっこ」と叫んだ瞬間に、用意していたテープを取り出してシラユキの口に貼ったのである。
おかげで「ろしてやる」は、ただのうめきに変わった。
いびき防止用のテープを使った。
なんのことわりもなく、唇の上と下を隙間なく貼り合わせた。当然、鼻孔はふさいでいないが……。
悪いコトをしたという感覚は、なかった。「むしろシラユキが寝言を口に出さずに済むようになる」と自分を納得させて……いいコトをした気分になっていた。
心を落ち着かせて、布団に、もぐり込む。
(今夜こそ、久々に安眠できそうだ)
だが……ボクが暗い眠りに落ちる途中で、もう一度声が響いた。
「――ぶっころころころころころす!」
すさまじく高い音だった。鼓膜が破れるかと思った。
最初、ボクは言葉の意味を無視し、「さっき、『ころ』って何回、言った?」と考えた。
それほどに頭が回らず、ぐわんぐわんしていて……状況を飲み込めていなかった。
起き上がる。闇のなか、シラユキの口もとをなでる。
テープが剥がれているのが、わかった。
直後、かまれた。
明朝に確認すると、右手の中指と人差し指と薬指の先端に歯形が付いていた。
痛む三本の指を押さえながら、ボクはシラユキに「いい加減、きょうこそ病院に行ったら? ボクじゃあ、もう、お手上げだよ」と苦々しく言った。
やはり朝食の席である。
対面のシラユキは、うつむいている。
「きのう、ワタシの口に、なんでテープ貼ったの」
いつもどおりの低さだったが、その声には今までにないドスが含まれていた。
ボクは喉を震わせ、答える。
「心配だったから」
「うるさかったせいじゃないの? はっきり言ってよ。ウソつかないでさ。心のなかでは邪魔だと思ってるんでしょ……『結婚前にわかってたら、とっくに別れてた』って……」
「極端だよ、邪推だよ」
「いい人のフリ、しなくていいから。最初からワタシは、アナタがそんなヤツだって、わかっているよ。それとも、ホントはワタシを窒息させようとしてたんじゃないの? 口以外の部分もふさいでさ」
「え、シラユキ、なんて? いい人のフリ……? ボクが……そんなヤツ? え?」
震えた唇が、ほとんどオウム返しのように言葉を落とした。「そうだよ、本当のワタシは、アナタを信じていなかったよ」という低音を聞きながら。
「……イェ」
このときボクの喉から絞り出された音は日本語の五十音には存在しないモノだった。
便宜上、「イェ」と表記するが、実際はなにかをちょこっとだけはき出すときの音に似ていた。
そんな音をこぼすほどに、ボクは焦っていたのだろうか。
今までシラユキが口にしたコトのない言葉を、じかに聞いたせいで。
心配のフリをした身勝手ないらだちを、見抜かれたせいで。
ボクの心臓が跳ね上がる。喉につっかえ、出てきそうだ。喉仏を中心にして上半身の筋肉が細かく揺れる。皮膚の温度が下がっていく。膝が笑う。体がとても重く感じられる。座っている椅子が壊れるのではないかと思った。
目がゴロゴロ、グリグリする。
まばたきが、とまらない。
画面が暗転と映写をくりかえす。幾度となくシャッターを切るように。
目の前では、シラユキが黙って……。
納豆をかき混ぜていた。
右に左に縦横無尽に。
朝食に添えていたモノである。その糸がどんどん長くなり、容器から、こぼれた。
糸の束は食卓のみならずダイニング全体を満たした。ボクも巻き込まれた。
においが鼻孔から侵入する。いや、左右の耳にも、ねっとり入る。
つかえていた心臓をはき出すように、図らずボクは、うめいていた。
「イェ……イェ……」
このときシラユキの、嫌悪を含む、ゆがんだ笑いが向こうに見えた。
それに耐えられなくなって、あるいは、それを待っていたかのように、ボクは叫んだ。
「今すぐ出ていけ!」
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