一字違い
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それからタダピコとシラユキの二人は、昼休みに何回も会うようになった。
毎日……というワケではない。
廊下などで鉢合わせしたときに互いに目を合わせ、「あ、熊野さん」「タダピコ」と声をかける。
そのまま二人は道のはしに寄り、歩みをとめる。
ずっと黙っているコトもあるし、すぐに別れるコトもあるし、しばらく話しているコトもある。
友だちですらない関係性……。
回数を重ねるごとに相手の行動パターンも読めてきて、遭遇する頻度が高くなる。
向こうが、いつ、どこにいるのか――互いに理解した状態。
ただし「きょうは会う気がしない」と思ったときは、あえて顔を合わさないよう動く。
それが裏目に出て、かえってばったり会うコトもあったが。
三年に進級しても、二人の距離は変わらなかった。
なんとなく、進路の話題も口にした。
「卒業したら大学に行く」と教え合った。
シラユキは、物書きとして生きたいと思っている。
今でもネットに投稿したり文学賞に応募したりしている。
とはいえ現状、芽は出ていない。
だからほかの道も選択できるよう、それなりの大学に入るつもりだ。
タダピコは将来のコトをそんなに考えていないらしい。
できれば生活の安定する公務員になりたいそうだが、「今は学力に合う国公立大学に行ければ、それでいい」とも言った。
二人の希望する大学は、それぞれ違った。
シラユキとタダピコの将来に対する展望を考慮すれば、同じ大学に入るコトも可能だろうが……二人とも「大学は誰かのためではなく、そもそも自分のために行くところ」と考えていたため、相手の進路を聞いても自分の進路を変えなかった。
ほとんど互いを呼び合うだけの関係性は、高校を卒業すれば完全に終わるだろう。
そうシラユキは思い、日々を過ごし。
いつの間にか卒業式を迎える。
卒業といっても……シラユキはとくに感動するコトもなく、式が終了すると共にさっさと帰ろうとした。
いつもは正門から帰っていたシラユキだったが、その日は裏門を通るコトにした。
遠くから見たとき、正門のそばに立っている多くの生徒が目に入ったからだ。
シラユキはその人たちを嫌悪していないものの、自分がそこに交じるのを場違いと感じた。
そして裏門にて――シラユキはタダピコを見つけ、顔を合わせた。
だがとまらず、通り過ぎる。
「じゃあね、タダピコ」
今まで二人は別れる際、「さよなら」さえも言わなかった。だがこのときだけは、シラユキの口から無意識のうちに「じゃあね」がこぼれた。
これが最初で最後の別れの挨拶となる。
……かと思っていたのだが。
「熊野さん、待って」
少し大きな声で、タダピコがシラユキを呼びとめた。
シラユキは足をとめ、タダピコのそばに寄る。
正門ほどではないが……裏門にも、ほかに生徒が何人かいた。
その人たちが、なぜかその場からそそくさと去った。
裏門には警備員も立っていた。もちろん警備員のほうは動かず、持ち場を離れない。
呼吸を殺している。気にせず話してくれと言わんばかりの態度だ。
タダピコは裏門から出ず、校庭内に植えられた木のそばに移動する。
シラユキもタダピコについていき、停止する。
黙って次の言葉を待つシラユキの目に、タダピコが視線を向ける。
「きょうでお互い卒業だけど、よかったら……これからも、ちょくちょく会わない?」
「いいよ」
「……いいの?」
「なんで聞き返すの」
「いや……『もっと困らせてしまうんじゃないか』と予想してたから」
「別にタダピコと会っても会わなくても、どっちだろうが困らないって。このままタダピコから、なんもなかったら……ワタシの記憶からタダピコのコトを消去して、そのままバイバイするつもりだった。でも、これからも会ってくれるなら、それも悪くない」
「ありがとう」
「お礼を言うコトは、ないよ。ワタシは親切をしたワケじゃない」
「熊野さんらしいなあ。実は『やった!』とボクは思った」
「そっちのほうが感謝よりも、よほどうれしい。ところでタダピコは――なにが目当てで、これからもワタシと会いたいのかな」
ほとんどまばたきをせずに、タダピコの目を見つめるシラユキ。
「……きれいな言葉は要らないよ。表面的なコトなんて、いくらでもごまかしが利くし。つまりワタシと会うコトで、タダピコはどんな欲を満たせるの。告白してみて」
「熊野さんの声を聞ける」
「ワタシの声? 自分じゃ意識したコトないや」
言われてみれば声で人を判別する方法もあるのか……と思うシラユキに対し、タダピコが照れくさそうに語る。
「ほどよく低くて落ち着く。だから声をかけられたらすぐに熊野さんってわかるし、あと……うれしくもなる」
「似た声の人は、ほかにも、いるんじゃない?」
「熊野さんの声を聞くと、『話しかけられた』って強く思うんだ」
「普通に気持ち悪いね」
「自分でも思った」
「いや言わせたの、ワタシだから。ごめん」
シラユキは、タダピコの後ろに控える木を見上げる。
「おわびにワタシも考えてみた。タダピコと会うコトで、どんな欲を満たせるか」
……その木は、緑の葉っぱだけを付けていた。
「顔と名前を覚えても、タダピコなら許してくれると思える……そんな安心感がほしいというのが、ワタシの欲」
「その前に熊野さんはボクのコトを知っているんじゃ?」
「本名と顔……いまだに、ぼやけているんだよ」
相手の輪郭をなぞるように、シラユキの視線が動く。
「記憶していい?」
「いくらでも」
「まずは本名から。忘れたけれど、なんだっけ。タダピコってあだ名は、下の名前をもとにしたモノだったハズ。それをもう一度、教えてくれる?」
「タダヒコ」
「なんだ……タダピコの一字違いか。じゃあ、たいしたコトない。タダヒコ」
「そうそう、タダヒコ。なんか照れる」
「タダヒコ。ワタシ、妹以外で人の本名をまともに呼べたの、初めて」
シラユキは考えていた。
自分が人の名前や顔を覚えられなかったのは、相手を所有し、もてあそんでいるという罪悪感のためだった。
このたびタダヒコの本名を呼べたのは、「タダピコあらためタダヒコを記憶のなかで所有・玩弄しても向こうが嫌に思わない」とシラユキが確信したからだろうか。
あるいは、「タダヒコを記憶にとどめても、自分の所有物みたいに乱暴に扱ったりしない」とシラユキ自身が決意したからなのか。
本人にも、どちらが正解か不明瞭だった。
まあ、どちらにせよ。
自分の声を求める目の前の顔を、「覚えてもいい」のだとシラユキは思った。
タダヒコの顔を両手で持って、じっくり見ようかとも考えた。
しかし、そこまではしなかった。
今までずっと見てきた顔が……自分の心のなかで、かたちを持ち始めたから。
一つ一つの記憶は薄くても、重ねるコトでタダヒコになる。
二年以上のあいだ、いつも自分から視線を向けてくれた、一人の男の子がそこにいた。
その表情をちょうど今、肉眼でもう一度見る。
「タダヒコ……そんな顔してたんだ。落ち着くね」
シラユキのなかに、はにかむタダヒコの顔と名前がコトンと落ちた。
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