キミのアレを初めて聞いた
これから語るのは、とある新婚夫婦のあいだに起こった出来事だ。
夫のボクの視点から、アレにまつわる話をしたい。
* *
つい最近の十月某日。
ボクこと福生タダヒコは、熊野シラユキと結婚した。
シラユキの名字は、熊野から福生になった。
役所に婚姻届を提出してから……。
次の日に、ボクたちは初めて一緒の部屋で眠った。
ボクとシラユキは、今まで一度も共に眠ったコトがなかった。
ほかの夫婦の事情は知らない。
ボクもシラユキも、仕事以外で人付き合いをほとんどしない。
結婚式も、ひらいていない。
互いに二十代半ば。
きょうから、二人でマンションに住む。
ほかに同居する者はない。
土曜日の午後十一時、和室に布団を二つ敷く。
二人の頭のてっぺんが向かい合うよう配置した。
長方形の和室の対角線一つに、二人ぶんの布団を斜めに並べた。
ゆかの畳のにおいを嗅ぎつつ、それぞれ、なかにもぐり込む。
枕の上で頭を動かし、ささやくシラユキ。
「タダヒコ」
シラユキの声は、高くない。ほどよく低い。聞いていて落ち着く声質だ。
「こんなとき……普通は、なにをするのかな」
「そうだね、たとえば――」
ボクも声のトーンを抑え、ゆっくり、話す。
「愛の言葉を交わし合うとか?」
「ワタシ、『愛してる』とか『好き』とか『幸せ』とか、簡単に言いたくない。なにより重くて、なにより軽い言葉だから」
「ちょっと同感」
「ただ、一緒に眠りたい」
「ボクもだよ」
そして二人の口から、こすれたような吐息が漏れ出た。
「おやすみ」
暗闇のなか、ボクたちの声が重なった。
目を閉じる。二人の呼吸の音だけが聞こえる。心地よく眠りに落ちていく。
* *
何時間が経過したのだろう。
このとき、大声が静寂を引き裂いた。
「――てやる!」
……体に響く、声だった。
その突然の金切り声に驚き、ボクは飛び起きた。
上半身を起こし、あたりを見回す。
(なんだ、今の音は……? いや、声か)
立ち上がる。
薄明かりをつけて、室内を確認する。
二つの布団が敷かれている。
その一方に、あお向けのシラユキが眠っている。目と口を閉じ、無邪気な寝顔を見せている。
(誰かが入ってきたんじゃ、ないよな)
和室から出て、玄関のドアを確かめた。
しっかりロックは、かかっている。
念のため、家じゅうの窓もチェックする。
……が、どれも問題なく閉まっていた。
(もしかして、さっきの声は家の外から? でも、もっと耳もとで聞こえたような気もするけど)
あくびをしつつ和室に戻る。
和室の窓も確かめたが、やはり、ちゃんと施錠されている。
壁にかけているアナログ時計を見る。午前二時半を回ったところだ。
(ねっむ。まあ泥棒とかじゃないなら、いいや)
薄明かりを消し、再び布団に横になる。
しかし……もう一度目を閉じようとした瞬間。
また大声が、とどろいた。
「――ぶっ殺してやる!」
(第二弾……!)
例の金切り声が鼓膜を震わせた。先ほど聞いた声と同じ言葉である。
今度は言いきれる。
声は、この部屋のなかで……ボクのすぐそばで響いたモノだ。
上体を立て、身をひねる。ボクは、そこにある顔を見下ろした。
闇のなかだから、はっきりとは見えない。
(……もしかして? いや、シラユキの声は低いほうだ。あんな高い、金切り声を出すハズがない)
一瞬、シラユキを起こそうかとも思った。
しかし気持ちよさそうな寝息も聞こえてくる。「さすがに悪い」と考えなおす。
(朝になったら、聞いてみよう)
その直後……。
意味不明な言葉が、発された。
「――やめてよ! サラダがフクロウになっちゃう!」
(……なんて?)
すでに聞いた「ぶっころ」よりは、低い音。
……確かに叫び声ではあるが、「金切り声」と表現するほどでは、なくなっている。
現在、この家には、ボクとシラユキしかいない。
そしてボクは、ずっと口を閉じていた。
つまり、先ほどまでの声を出したのは誰なのか……はっきり見えなくても、もはや疑いようがない。
* *
午前六時。
布団から出て、腕を伸ばすシラユキ。
ついで、髪をたばねていたシュシュを取る。
シラユキの後ろ髪の毛先は、自身の脇まで届く。
その髪が傷まないよう、眠るときにシュシュをつけ、緩いサイドポニーを作っているのだ。
「んー、よく寝た。気持ちいいなあ。タダヒコ、おはよ」
「おはよう、シラユキ」
普段どおりの低い、落ち着く声を聞きながら、ボクは挨拶を返した。
「ごはん、用意しといたよ」
「そうなんだ、ありがとう」
和室からダイニングに移動し、食卓につく。
メニューは、炊いた白米、みそ汁。レタスを使ったサラダ、卵焼き、焼き魚。納豆、温かい緑茶……。
「いただきます」
シラユキは丁寧に手を合わせたあと、右手に箸を持つ。
食事の合間に、ボクのほうへと視線をそそぐ。
「タダヒコ、おいしいし、温度もいいよ」
「よかった」
とくにシラユキは野菜を好む。ほかの食べ物も、おいしそうに食べる。
その食べっぷりをなんとなく見ていると、シラユキのほうからボクに話しかけてきた。
「もしかしてタダヒコ」
くっきりとした、黒くて丸い瞳を向けるシラユキ。
「普段ワタシが六時に起きるって知ってた? ちょうどいい時間にごはんを出してくれたから、そう思ったんだけど」
「いや知らなかったよ。きょうは仕事もないのに、たまたま早く起きちゃってヒマだったんだ。だから作っとこうかなって」
「あれ? タダヒコ、あんまり眠れてなかったり、する?」
「えーと……それは」
このタイミングでボクは、夜にシラユキが金切り声を上げていたコトについて、「なにか覚えはないか」と本人に聞こうとした。
が、いざ質問しようとすると「相手を責めたり問い詰めたりするかたちになるのでは」という心配が湧いてきた。
それで、言いよどんでしまった。
「ささいなコトだし、気にしないで」
そんな言葉に逃げたボクに対し、シラユキは少し目を細め、ゆっくりとした声を返す。
「無理して秘密にする必要はないよ。本当のコトを言っても、だいじょうぶだよ」
心の底から落ち着く、優しい声色だった。
その声を聞かされたら、正直に話す以外にない。
「実は、きのうの夜――まあ正確には、きょうの午前なんだけど」
「うんうん」
「シラユキの寝言で目が覚めたんだ」
「あ、そうだったの。ちなみに、聞き取れた?」
「わりと、はっきり。ちょっと物騒な言葉と、よくわからないセリフ」
「正確には? 物騒なほうも、遠慮せず言ってね」
「えっと、確か……」
ボクが聞いたシラユキの寝言は三つ。それらをすべて伝えた。
シラユキはそのあいだ、黙ってレタスをかじっていた。
ボクの話が終わってからそしゃくを中断し、口のなかのモノを飲み込む。そして、つぶやく。
「確かにサラダがフクロウになったら、困るよね」
……そうだね。