第9話-八話-幕間
──うわぁ……やっちゃったなぁ。
琉亜は、教室の扉を背にして、ゆっくりと深く息を吐いた。
足元の床が少しだけぐらついて見えるほど、鼓動が早かった。
まるで冷えた水を喉に流し込んだ直後のような、淡く苦い感覚が胸の内を満たしている。
あそこまでやるつもりはなかった──少なくとも、教室に入るまでは。
だが、あの光景を見てしまった時点で、選べる言葉なんて、もう残っていなかった。
──先輩、俺は貴方のように生きられてますか。
心の奥に投げかけるように、思考の中でその言葉が繰り返される。
“空気”と戦うということ。それは、誰からも称賛されない戦いだった。
声を上げた瞬間、自分の存在が“異物”になる。例え正しかったとしても、“正しさ”が痛みを伴うことを、琉亜は嫌というほど知っている。
──まして、あれが「いじめ」なら。
沈黙を続けるクラス、目を逸らす教師たち、そして、何も言わずに全てを呑み込んできた白石美冬。
その静寂の中心にあったのは、声を上げることすら許されなかった“痛み”だ。琉亜は壁にもたれて、目を閉じた。
口に出した言葉は、たぶん全部正論だった。けれど、それが“届いた”かどうかは分からない。結局、どれだけ叫んでも、世界は簡単には動かない。
──それでも。
あの場で黙っていたら、もっと嫌いになってた。“自分”という存在を。
乾いた風が、廊下の窓から吹き込んできた。冬の匂いがする風だった。
琉亜はゆっくりと目を開けると、ポケットの中で、くしゃくしゃのガムの包みを指先で握った。
既に授業開始のチャイムはとっくに鳴り終わっていたが、琉亜は自分の教室に戻る気にはなれなかった。
足は自然と廊下の奥へ向かい、教室とは反対の方向へと歩き出していた。
理由は、いくつもある。普段から授業をサボりがちで、素行が良いとは言えないこともある。きっと教室に戻れば、担当の教師にまた何か言われるだろう。
──でも今、それが正論であればあるほど、癇に障りそうだった。
さっきの出来事が、まだ胸の奥で燻っていた。自分でも、少し感情的になった自覚はある。けれど──後悔は、していなかった。
だが、もし今「お前は関係ないだろ」なんて、教師に言われでもしたら。きっと、またあの場で感じた怒りを抑えきれない。
言葉で返すか、何かを投げてしまうか。そんな自分を、今は少し持て余していた。
校舎の階段を抜け、屋上の扉を押し開ける。
冬の風が頬をかすめ、制服の裾を大きく揺らした。塔屋の鉄製の梯子に手をかけると、指先にひやりとした金属の冷たさが伝わってくる。
慣れた手つきで身を引き上げ、小さな屋根の上──学校でいちばん、空に近い場所へと身を運ぶ。
ここには誰も来ない。誰の視線も届かない。この場所は、琉亜にとっての“避難場所”だった。
何も言わずに横になり、背中を冷たいコンクリートに預ける。空は澄みきっていた。どこまでも青く、そしてどこか、低く重い。
──どうして、知ろうと思ったんだろうな。
自嘲のように、ぼそりとつぶやいた。
そもそも自分は、他人に興味を抱かない人間だった。いや──正確には、“持たないようにしてきた”。
余計な関心は、余計な感情を呼ぶ。傷つくのも、煩わされるのも、うんざりだった。だから、他人は遠巻きに見るだけでいい。そう決めていたはずだった。
けれど──不意に耳に残る名前があった。
白石美冬。
それだけで、なぜか意識が傾いた。
誰かがぽつりと名前を口にするたび、自然と耳が反応していた。
ああ、白石ってそうなんだ──そう思っている自分に、後から気づくことが何度もあった。
今回の件も、ただの偶然だ。廊下で誰かが喋っているのが耳に入った。だから、知った。それだけの話だ。
ただ──その“それだけ”が、なぜか引っかかった。
前回の定期考査で、彼女の合計点数が自分の次だったと知った。
それがきっかけだったのかもしれない。
あるいは、彼女に関する情報だけ、他の誰よりも自然と目に入ってきてしまう偶然が重なっただけかもしれない。
でも──本当のところは分からない。
理由なんてなかった。ただ、気がつけば、そうしていた。
まるで、“知らない”で済ませるには、あまりに静かで強い何かを、彼女が持っているような気がしていた。
知らずにはいられなかった。
それは、“他人”というくくりでは括れない、微かなひっかかりだった。
その日、白石美冬はいつも通りの足取りを意識して、家に帰った。
靴音を静かに抑え、普段なら途中で寄り道をして、明日の食材を買ったりするのだが、とてもでは無いが、そんな気分にはなれなかった。誰にも会わずに、誰にも声をかけられずに、家まで帰ってきた。
午後四時すぎ。冬の陽はすでに傾き、影が長く伸びていた。
鍵を開け、そっと玄関の戸を引く。ひとけのない家の空気は冷えていて、美冬は慣れた手つきでブレザーを脱ぎ、壁のフックに掛けた。
両親がいなくなってから、ずっとこの家に一人で暮らしている。
それはもう“日常”だった。悲しみでもなく、孤独でもない。ただ、そういう生活。
けれど今日の帰宅には、いつもより少し、身体の芯に重みがあった。
台所へ向かい、電気ポットのスイッチを入れる。
湯が沸く音を背に、リビングのテーブルへ移動して、通学カバンを開いた。
中には琉亜が纏めてくれたプリントが、その身そのままに入っていた。
昼休みの“あの事件”の痕跡が、そのまま封じ込められている。
彼女は無言でそれを取り出し、新聞紙を広げた上に一枚一枚並べていく。
風通しのいい部屋であれば、朝には乾く。それだけを考えて、手を止めなかった。
そこへ、置きっぱなしにしていたスマートフォンが小さく震えた。
画面には「祖父母(母方)」の文字。
ほんの一瞬だけ躊躇したあと、美冬は静かに通話ボタンを押す。
「──はい、白石です」
『ああ、美冬ちゃん? 今、大丈夫だったかい?』
祖父の声だった。柔らかく、どこか遠慮がちな響き。
この時間にかかってくる電話は、いつも決まって「確認」のためのものだ。
『最近また冷えてきたから、風邪とか引いてないかと思ってな。ニュースでも、今年の冬は寒くなるって言ってたし……』
「大丈夫です。暖房も入れてますし、手洗いうがいもしています」
『そうか、それならよかった。あまり無理をしないようにね』
「……ありがとうございます」
短いやり取りの中で、美冬はふと、指先を握った。
誰かと話すというだけで、心の深いところに“音”が響くような感覚があった。
だけど、それを言葉にすることはなかった。
『……最近は、学校はどうだい?』
「問題ありません」
答えは早かった。声に揺れはなかった。けれど、その一言の裏に、いくつもの“事実”が隠れていることを、誰も知ることはなかった。
『そうか……何かあったら、いつでも言ってくれよ。君は本当に、よく頑張ってるから』
「はい」
通話はそれで終わった。切れたスマホを伏せ、しばらく美冬はじっとそのまま動かなかった。
──大丈夫だと、言った。
でも、本当にそうだっただろうか。
昼の出来事はまだ鮮明に頭に焼き付いている。
けれど、それでも“言わない”ことを選んだ。
誰かに心配をかけることのほうが、彼女にとっては何より苦しかった。それに、一人暮らしをする、とはそういうことだ。
静かに息を吸い、吐く。また、日常が戻ってくる。例えどんなに傷ついても、“普通の顔”で過ごすための準備を、今、ひとりでしている。
風が窓を揺らし、遠くで犬の吠える声がした。
灯りの落ちた部屋のなかで、白石美冬は、明日の静寂に向けて、またひとつ呼吸を整えていた。




