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青綴り  作者: 遥
第壱章-俺と私の心が重なるまで
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第8話-七話-戦うということ

「──江藤由梨の席って、ここで合ってるよな?」


 その名前を呼ばれた瞬間、江藤由梨はぴくりとまつ毛を震わせた。

 けれど、すぐに小さく笑みを作る。あくまで何も知らない、関係のない顔だった。

「……何のご用?」

 江藤は椅子に座ったまま、足を組み替えて琉亜を見上げた。

 その表情は穏やかで、けれどどこか張りついたような笑顔。視線は真っすぐではなく、琉亜の顔の横をなぞるように泳いでいた。

「別に。ちょっと話をしたかっただけ」

 琉亜の声は低く、変わらない調子だった。だが、その立ち姿には明確な圧があった。

 彼の影が机に落ち、江藤の顔の下半分をゆっくりと覆っていく。

「……悪いけど、私、そういうの興味ないんだけど」

 軽く流すように、江藤は肩をすくめる。けれど、その指先は、組んだ膝の上でほんのわずかに握られていた。

 教室全体が静まり返っていた。誰もが動けず、言葉も出せないまま、ただその場の空気に飲まれていた。

「……ふーん」

 琉亜は、ただそれだけを言った。けれど、それは“納得した”という意味ではなかった。

 むしろ、その目は、言葉よりずっと強く語っていた。

 ──すべて、見ている。分かっている。

 その静かな宣告のような沈黙が、江藤の背中をじわじわと冷やしていく。

「……ま、警察だろうな。派手に色々やるおかげで、証拠も沢山あるしよ」

 そんな琉亜の一言に、教室の空気が凍りついた。証拠とは彼が勝手に集めた色々な結果である。写真だったり、残骸であったり、様々であった。

 江藤由梨の笑みが、ほんのわずかに引きつる。それでも彼女は、なんとか口角を保ったまま、わざとらしく肩をすくめて見せた。

「なにそれ、脅しか何かのつもり? ……証拠って、なに?」

 声色は変えなかったが、明らかに笑いの裏に含んだ棘が滲んでいる。だが琉亜は、それにも動じなかった。

「知らないなら、それでいいよ。知らないままで済むんならな」

 その視線が、ふとクラスの面々をなぞった。何人かが肩をすくめて目を逸らす。江藤とつるんでいた女子数名は気まずそうに顔を伏せ、後ろの席では男子が小さく唇を噛んでいた。

「まあ──知ってるやつも、何人かは“共犯”ってやつになるけどな」

 無駄な怒声も、過激な表現もなかった。ただ、確実に「覚悟しろ」という言葉だけが、教室全体に重くのしかかった。

 江藤の指先が、机の縁をぎゅっと掴む。自分が“主導”であることを誰より知っているからこそ、その言葉の重さが逃れようのない現実としてのしかかる。

 それでも、彼女は気丈に笑った。

「そもそもさ、あんた誰? このクラスの人間でもないくせに、正義ヅラして、なに様のつもり?」

 その問いかけは、琉亜にではなく、自分に向けた防壁だった──けれど、琉亜はそれすら通さなかった。

「“何様”でもない。俺は、目の前の気に入らねぇ状況を変えたいだけだよ」

 その声に、一切のブレはなかった。誰かのためではなく、自分の意志として。

 教室の空気が、かすかに揺らいだ。静かな水面に、落とされた石のように。

 琉亜の言葉が落ちた瞬間、教室に沈黙が満ちた。

 その沈黙は“言葉を失った”わけではない。ただ、口を開けば何かが決定的に崩れてしまうような、張り詰めた緊張だけが漂っていた。

 江藤由梨は、一度だけ視線を泳がせた。

 誰か、助け舟を出してくれる者はいないか。自分の背を支えてくれる声はないのかと──けれど、誰も目を合わせようとしなかった。

 最前列の女子は、手元のノートに視線を落としたまま固まっている。

 後ろの男子二人は、居心地悪そうに鼻を鳴らし、どちらからともなく立ち上がった。

「……昼休み、そろそろ終わりじゃね?」

 一人がそう言って、わざとらしく時計を見た。その声をきっかけに、数人が鞄を閉じたり、教科書を引き寄せたりと、それぞれ「関係ない風」を装いはじめる。

 だが、その誰もが分かっていた。今この場に漂っているのは、“白石美冬の問題”ではない。

 自分たちの沈黙と傍観が、何を支えていたかという、あまりにもはっきりした現実だ。

 江藤は、唇を小さく噛んだ。悔しさ、怒り、そしてほんの少しの、恐れ。それが混じったような顔で、琉亜を睨みつけた。

「……他人のことで、何イキってんの。……関係ないくせに」

 その言葉は、彼女にとって“最後の抵抗”だった。

 だが、それに対する琉亜の返答は、あまりにも簡潔だった。

「確かに、俺には関係ないかもな。……でも、もし“長所のひとつも覚えられない奴”と、“この学校で唯一、ちゃんと目に残った人”のどっちかを選べって言われたら──俺は、白石の味方をするよ」

 琉亜の声は低く抑えられていたが、教室全体に染み渡るように届いた。

 ざわめきは、完全に息をひそめた。

 その一言が、この場の空気を根底から塗り替えてしまった。

 江藤由梨の表情から、色が抜け落ちていた。つい先ほどまで教室を支配していた“自信”や“支配欲”は形を失い、ただ机の前で立ちすくんでいた。

 言い返すことも、睨み返すこともできない。唇がかすかに動いたが、そこから出た音は、誰の耳にも届かなかった。

 琉亜はもう江藤に目を向けなかった。

 ただ一度、美冬のもとへと視線を戻す。

 彼女は机の脇に立ち、濡れた布を静かに畳んでいた。

 その手つきは落ち着いていて、一切の乱れがなかった。まるで、こうすることが当たり前であるかのように。

 そしてそのすぐ横で、琉亜もまた無言のまま、最後に落ちていたガムの包装紙を拾い上げる。それを指先で軽く丸め、制服のポケットに滑らせた。

 何も言わない。ただ、目の前の“汚れたもの”を片づける。その所作に、どんな言葉よりも強い意思があった。


 廊下の向こうから、足音が複数重なって聞こえてきた。

 やがて、教室の扉が再び全開になる。

「……失礼します。何があったんですか」

 入ってきたのは、B組の担任と、生活指導の教員──さらにその後ろに、副教頭の姿も見えた。

 誰かが呼んだのか、それとも騒ぎを聞きつけたのか、はたまた誰かが密かに連絡を入れたのかは分からない。けれど、その場の空気に、彼らの登場はまるで溶け込まなかった。

 担任が状況を把握しようと口を開いたが──その前に、琉亜が先に声を発した。

「よく来ましたね。お仕事、ご苦労さまです」

 皮肉とも敬意ともつかぬ言葉。その声音は抑えられていたが、乾いた棘を含んでいた。

「白石の机、弁当ごと潰されて、中身がばらまかれてました。椅子には“目障り”って油性で落書き。机の中にもガムやら何やら……まあ、色々ありますよ。時間さえかければ、もっと出てきそうです」

 教師たちは一瞬、言葉を失った。だが琉亜は構わず言葉を重ねる。

「教科書を破かれたこと、ロッカーに水をかけられたこと、上履きを泥だらけにされたこと──少なくとも、先週あたりから毎日なにかされてる。誰か、気づきましたか?」

 教師たちの視線が泳ぐ。担任が口を開こうとしたが、それより早く──

「気づいてましたか? それとも“知らなかった”で済ませますか? 教室に入って、席に座らせて、出席を取って、授業をして──“様子が変だ”と思ったことは一度もなかったんですか?

 ……でも、他のクラスの俺が知ってるんだから、知らねえわけねえよな」

 琉亜の声が少しだけ強まる。怒鳴っているわけではない。だが、静かな怒りが、ひとつひとつの言葉ににじんでいた。

 教室の奥。江藤由梨は顔を伏せ、他の生徒たちも物音ひとつ立てずに身を固くしている。

 結芽だけが、美冬をそっと気遣うように立ち尽くしていた。

 その空気を断ち切るように、チャイムが鳴る。昼休みの終わりを告げる、機械的で淡々とした電子音。

 だが琉亜は、その音にも一切目を向けなかった。

 教師たちも一瞬、口を開きかけたが──琉亜の次の言葉に、再び沈黙させられる。

「チャイムが鳴ったら終わりですか? “授業に戻りましょう”で済ませるつもりですか?

 ……本気で聞いてます。“あなたたちは”どうするんですか? 見て見ぬふりを、これからも続けますか?」

 教室が、静まり返った。

 琉亜の視線は担任を、生活指導を、そして副教頭をひとりずつ見据えていく。そのどれもが、責めるというより、“答えを求める目”だった。

「これは、白石ひとりの問題じゃない。

 “何もしなかった人間”が、誰を守ったのか──その答えを、ここで出してください」

 琉亜の声が教室に響く。静かな、けれど鋼のような言葉だった。

 その言葉の重みは、誰の胸にも刺さっていた。


 教室に立つ三人の教師。そのうち最初に口を開いたのは、1年B組の担任だった。

 白石美冬の机を見て、椅子を見て、そして彼女の前に立つ倉本琉亜を見てから、ようやく絞り出すように言葉を発した。

「……白石さん。これは、本当に……君がされたことなのか?」

 確認というより、戸惑いが滲んだ問いだった。机に残る染み、椅子の背に書かれた言葉、沈黙を貫いたクラスメイトたちの視線──すでに全てが物語っていた。

 それでも教師は、形式として“聞く”必要があったのだ。

 次に反応したのは、生活指導担当の男性教諭だった。眉をひそめ、腕を組みながら、やや低い声で口を挟む。

「……これは看過できない。すぐに対応が必要だな。校内の秩序に関わる問題だ。……白石さん、あとで少し時間をくれるか?」

 言葉の上では“配慮”と“寄り添い”を装っていた。だがその眼差しの奥にあったのは、事態の収束を急ごうとする焦燥だった。

 波風を立てずに処理したい──それが、どこかに透けて見えていた。

 美冬は黙っていた。瞳を伏せ、微動だにせず、静かに俯いていた。

 最後に一歩前に出たのは、副教頭だった。教室の空気を正面から受け止めたかのように、言葉を発するまでに長い間を置いた。

「……この件については、学校として正式に調査を行います。事実関係を確認のうえ、関与した者がいれば、然るべき処分を下します」

 淡々とした口調。責任を表明する姿勢。だが、その声音には感情がなかった。まるで事務手続きの説明でもするかのように、用意された言葉を並べていた。

 それを聞いていた琉亜が、ふ、と低く息を吐いた。そして、ゆっくりと繰り返す。

「……“調査を行います”、ね」

 口元に浮かんだのは笑みではなかった。ただ冷たい、皮肉の色を帯びたゆがみだった。

「白石がここまでされて……誰か、気づかなかったわけがない。担任の先生、生活指導、教頭。日々、顔を合わせてる大人たちが、これを“見落としてました”って顔で立ってる」

 琉亜の声は静かだったが、教室の空気を鋭く裂いた。教師たちの間に走る沈黙。それは、否定の言葉すら持たない“肯定”だった。

「……誰も、何もしなかった。放っておいた。それが、今の“学校の答え”ですか?」

 担任の肩がわずかに揺れた。副教頭は押し黙り、目線を逸らす。

 教室の中で、琉亜の言葉だけが真っ直ぐに立っていた。誰もが感じていながら目を背けていた「現実」が、今ようやく言葉として突きつけられた。

 その時、副教頭の目がわずかに動いた。沈黙を保っていた唇が、ゆっくりと開かれる。

「……この件について、関係生徒の聴取と保護者への連絡を直ちに行います。白石さんには、別室にて状況を改めて確認させていただきます」

 声は硬く、無機質。だがその言葉は、明確に“動き出す”ことを意味していた。

 担任が反応するようにうなずき、生活指導の教諭も腕を組み直す。その瞬間、本来は授業開始を知らせるチャイムが鳴った。教室全体の空気が変わった。

 江藤由梨がわずかに身を引き、他の生徒たちも気配を潜める。すべてが“事態が本物になった”ことを悟っていた。

 誰の目にも明らかな、“隠し通せないライン”を超えてしまったのだ。

「……それが、学校としての“答え”ですね?」

 琉亜が問うように呟いた。副教頭は黙ってうなずいた。

 琉亜はしばらくじっとその顔を見つめていたが、やがてふっと息を吐き、小さく首を振った。

「なら、もういい」

 そう言ってゆっくりと立ち上がり、制服の裾を軽く整えた。

 教室に残る生徒たちの視線を一身に受けながら、彼はもう一度だけ、美冬の前に足を止めた。

「……白石。お前が言わなくても、ちゃんと“見てる”やつがいる」

 美冬はそっと顔を上げた。その瞳には、感情の色がほとんどなかった。けれど、その内側で何かがわずかにきらめいたような気がした。

「これ以上、無理するな。無理してるって、俺には分かるから」

 それだけ言い残して、琉亜は教室を後にした。扉の前で一瞬だけ立ち止まり、振り返らずに言う。

「……あんたら、大人の仕事は、もう始まってるからな。ちゃんとやってください」

 その言葉を背に、彼の足音が、廊下へと静かに消えていった。


 教室の中には、まだ張り詰めた空気が残っていた。

 けれど、その中で──美冬の指先が、ゆっくりと止まっていた手の動きを再開した。

 ハンカチを畳み終え、深く小さく息を吐いたその姿は、ほんのわずかに“救い”に触れたようだった。

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