第7話-六話-いじめ
十二月十九日、月曜日。
B組というクラスが、白石美冬を腫れ物のように扱いはじめてから、二週間が経っていた。
最初の一週間は、無言の距離──それだけだった。
けれど、次の週に入った頃から、それは“明確な悪意”へと姿を変えていた。
最初は小さなことだった。
彼女の机の中に、丸めたプリントが何枚も押し込まれていた。
落書きされたメモ用紙や、くしゃくしゃのティッシュ、誰のものか分からない空の筆箱。
授業で使う教科書が、カバーを破かれた状態で戻されていたこともあった。
上履きは、下駄箱からなくなっており、裏口の物置横で泥まみれになって見つかった。
上履きを履き替えずに教室まで戻った美冬に、誰も言葉をかけなかった。
ある日はロッカーの中に、水の入ったビニール袋が破られた状態で置かれていた。
制服の予備ブラウスが濡れてしまい、替えがなくなった。
別の日には、お弁当袋の中身がわずかに開けられ、中の箸が取り出されていた。
代わりにコンビニのプラスチックスプーンが、無造作に突っ込まれていた。
机の引き出しの裏に、ガムが押しつけられていたこともある。
粘つく匂いが、指先にこびりついてしばらく取れなかった。
椅子には何度か画鋲が置かれていた。
座る直前に気づいたから怪我はしなかったが、それが“偶然”ではないことは、もう分かっていた。
教室に入ると、自分の机が後ろの隅に移動されている。
黒板の前に寄せられている。
日によって場所が違う。
誰がやったか、などと問う者は誰一人いなかった。
プリントが配られる時、彼女の分だけ抜かれていた。
「渡し忘れてました」
そう教師に言われるたび、無言の圧力が一斉に視線となって彼女に降り注いだ。
教室の窓際には、誰が書いたのか分からない走り書きのメモが貼られていた。
「白石って、なんか冷たくない?」
「いつも一人で気取ってるだけでしょ」
「ちょっとかわいいからって」
筆跡はバラバラだった。
しかしその言葉に、明確な意志が込められていることは、美冬にも分かった。
そんな日々の果てに、今日──ついに、それは“壊された”。
昼休み。
教室に戻った美冬が見たのは、自分の机の上に広げられた弁当包みと、地面に散らばったプリントの数々だった。
中身は崩れ、煮物の汁が机の表面に大きな染みをつくっていた。
卵焼きはつぶされ、隣に倒された水のペットボトルが、静かに転がっていた。
地面に散らかったプリントは、水と弁当から漏れた液体で濡れていた。
彼女の座る椅子の背もたれには、油性ペンで小さく何かが書かれていた。
──「目障り」──
その文字は、誰かの悪ふざけで済ませられるようなものではなかった。
机の周りには数人の女子がいた。
彼女たちは、美冬の姿を見ても避けようとはしなかった。
むしろ、その場を動かずに無言で立ち尽くし、ただ彼女の反応を待っていた。
美冬は無言で歩み寄ると、机の上の弁当包みを静かに閉じた。
崩れた煮物と卵焼きの残骸を、丁寧に包み直す。風呂敷を握った手は、一瞬だけ震えていた。だが、それでも声を上げることはなかった。
「……どいて、もらえますか」
その言葉は穏やかだった。だが、冷たい空気よりも冷静で、決して揺るがなかった。
女子たちは、無言のままその場を離れていった。
笑いも、罵声もない。ただ、彼女を囲んだことさえなかったかのように、散っていった。
けれど、その無言こそが何よりも冷たかった。否応なく、美冬は“ここに居ないもの”として扱われていることを知る。
──この教室に、白石美冬の“味方”はひとりもいない。
そんな事実だけが、乾いた陽射しの中で、鮮やかに突きつけられていた。
扉の向こうから、ざわつく教室の空気がかすかに漏れていた。永野結芽は、何気ないふりをして教室へ戻ろうとした——その一瞬、視界に飛び込んできた光景に、足が止まった。
美冬の机。その上に広がる、無惨な昼食の残骸。崩れた弁当、転がったペットボトル、そして──「目障り」と書かれた椅子の背。
喉の奥がぎゅっと締まった。
言葉にならない感情が胸の奥で暴れ、思わず声を上げそうになる。
けれど、美冬がふと視線をこちらに向けたその瞬間——結芽は、言葉を飲み込んだ。
美冬の目は、ただ静かだった。怒りでも、悲しみでもない。まるで、何もなかったかのように。
その瞳に、結芽は見た。──「やめて」。そう言われた気がした。
今ここで、自分が声を上げたらどうなるか。
誰よりも分かっていた。次は、きっと自分が標的になる。
それだけではない。自分が矢面に立てば、美冬は──きっと、それを苦しむ。
彼女は「守られる」ことを望んでいないのだ。
誰かの犠牲の上に、守られることを。優しすぎるほどに、そういう人だから。
「……」
結芽は俯いた。爪を、制服の袖にぎゅっと立てる。悔しかった。悲しかった。けれど、美冬の意思を裏切ることはできなかった。
机の上を拭く美冬の指は、普段と変わらぬ丁寧さだった。
まるで誰に見られていなくても、それが“当たり前”であるかのように。
——だけど、私は、見ている。
誰もが目を逸らす中で、私は確かに見ている。
だから、今は黙ってる。でも、忘れない。あの日、あの椅子に書かれた言葉も、静かに弁当を包んだその指も、すべて。
いつかこの手で、意味を変える。それが「友達」としての、私の選び方だ。
──そのときだった。
ばぁん、と、重い音が教室中に響き渡った。
誰もが一瞬、何が起きたのか分からず振り返る。
半ばだけ開いていたはずの教室の扉が、勢いよく蹴り払われて全開になっていた。扉の金具が揺れ、静まり返った教室の空気がざわつく。
その隙間から踏み込んできたのは、制服の裾を風に揺らしながら歩く一人の男子──倉本琉亜だった。
ネクタイは緩め、ジャケットの前は留めていない。けれど、その姿はどこか整っていた。“だらしない”のではない、“そういう人間”として、最初から確立されている印象だった。
誰も呼んでいない。ここに所属すらしていないはずの人物が、まるで“当然のように”足を踏み入れた。
その場にいた全員が息を飲む中、琉亜は一切の視線を無視してまっすぐに歩き出す。
その目は、迷いなく──教室の奥、ただひとり、数多の被害を受け続けてきた白石美冬を見据えていた。
琉亜はしゃがんで片付けをしている美冬の前に立った。
「白石、何してんの?」
ぶっきらぼうな声音だった。けれど、声量は抑えめで、教室の奥まで響いたわけではない。
それでも、その言葉は妙に鮮やかに、沈殿していた空気を断ち切った。
しゃがんでいた美冬が、そっと顔を上げた。
静かな瞳に、わずかな動揺が揺れる。なぜここに倉本琉亜がいるのか──その問いは、声になる前に喉の奥で凍った。
琉亜は、美冬の足元に散らばった弁当の残骸や濡れたプリントを一瞥すると、ポケットから取り出したハンカチを無造作に広げ、煮物の染みが残った机の上に当てた。
周囲は沈黙していた。誰もが動けずにいる。その静寂の中、琉亜はひとつも迷うことなく、淡々と行動を続けていた。
「全部、ひとりでやるつもり?」
再び放たれた声は低く、しかし芯の通った響きがあった。
美冬は、ようやくその問いかけに言葉を返した。
「……これは、私の問題です」
凛とした声。けれど、その強さの裏に、どこか微かな翳りが見え隠れしていた。
琉亜はふっと鼻で笑った。小さな音だったが、それは決して彼女を嘲るものではない。
「そっか。じゃあ──俺は勝手に手伝うだけ」
そう言って、彼は床に散らばったペットボトルを拾い上げ、キャップをきっちりと締め直す。転がった弁当箱の破片を手際よくまとめ、使えそうなナプキンを取り分ける。
「勝手に」──その言葉は、彼女の“拒絶”をそっと避ける盾のようだった。
教室の空気は張りつめたままだ。誰も声を上げない。ただ、背後で椅子の軋む音がした。
「なにあれ……他クラスの男子が、勝手に……」
「白石って、あんな奴と話すんだ」
声には出さずとも、明らかにそう呟きたげな視線が教室のあちこちで交錯していた。
しかし、琉亜は一切気にする素振りを見せなかった。
「こっち、机の下、まだ落ちてる。……ほら」
美冬の足元にしゃがみ込み、琉亜は彼女の視界のすぐそばに入った。
「……立ってて」
促されるままに、美冬はゆっくりと立ち上がった。その背筋はいつものように真っすぐだったが、足先にほんのわずか力が入っているのが分かった。
琉亜は、床に広がっていた弁当包みの風呂敷をたたみ直しながら、小さく呟くように言った。
「……俺さ」
その声は、美冬だけに聞こえるような、かすかなトーンだった。
「昔、家で暴力振るわれててさ。誰も何も言ってこなかった。見て見ぬふりって、あんなに息苦しいんだなって、あの時、思った」
手を止めずに続ける。声はあくまでも淡々としていた。
「だから、たぶん──放っとけなかっただけ」
その言葉には、誇張も演出もなかった。ただ、まっすぐで、真摯だった。
美冬は言葉を失っていた。誰にも触れられなかったものに、静かに手を差し伸べられた気がした。
「……どうして」
口をついて出た言葉に、自分でも驚いていた。
琉亜は、顔を上げた。あの屋上で見たときと同じ、感情を表に出さない淡い灰色の瞳。
「理由は言っただろ? そもそも理由がないと、やっちゃいけないの?」
そして、彼は笑わなかった。ただそのまま、散らばった最後のプリントを拾い上げると、美冬の手元に差し出した。
「はい、これで最後。濡れてるのはこっちに分けたから」
その瞬間、ようやく教室が動いた。何人かの生徒が、机の上のプリントを手に取ったり、目を伏せたりし始める。
けれど、その誰もが、琉亜の背中に視線を向けていた。
「──江藤由梨の席って、ここで合ってるよな?」
琉亜の声が、静かに教室を貫いた。
白石美冬のもとを離れた彼は、誰もがそのまま教室を出ていくと思っていた。けれど、そうはならなかった。
彼は、無言のまま教室の列を抜けると、全く違う場所──前から三列目、窓際から二つ目の席の前で立ち止まった。
その場所は、江藤由梨の席だった。静まり返った教室に、緊張が走った。
空気が、まるで一瞬で凍りついたように感じられた。




