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青綴り  作者: 遥
第壱章-俺と私の心が重なるまで
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第6話-五話-好意と悪意

 十二月五日、月曜日。


 窓際の席に差し込む陽光が、ほんのりと色を変えていた。冬の陽射しは低く、ガラス越しに射す光は柔らかいがどこか儚さを帯びている。

 白石美冬は、膝の上に置いた弁当を静かに開いていた。ごくありふれた手作りの弁当。昨夜の煮物と卵焼き、それに茹でたほうれん草と人参が、小さな仕切りに収まっている。

 昼休みの喧騒の中にあっても、美冬のまわりだけは妙に静かだった。誰もが遠巻きにしつつ、気づけば視線の端にその姿を置いている。──“近寄るには整いすぎている”。そんな無言の共通認識。


 そこに、ひとつの影が近づいた。


「白石さん……今、ちょっといい?」


 机の前に立ったのは、1年B組の男子──木崎翔太だった。背は平均より少し高く、物腰も柔らかい。美冬とは何度か授業で話したことがある程度で、特別近しいわけではない。

 箸を止め、美冬は顔を上げた。

「……はい。ご用件は?」

 その声は穏やかだった。だが、周囲の空気が一瞬揺れたのを、美冬は感じていた。近くにいた女子たちが、箸を止め、視線を向けている気配がある。

「えっと……その、ここじゃなくて……ちょっと、廊下で」

 戸惑いを滲ませながらも、木崎はまっすぐに言葉を継いだ。

 美冬は一瞬、黙って彼を見つめた。切れ長の瞳の奥に、光がわずかに揺れた。

「……分かりました。すぐに参ります」

 箸を置き、弁当箱に蓋をする。小ぶりの風呂敷で包み、それを机の隅に整える。その所作には、乱れも迷いもなかった。

 廊下に出ると、冬の乾いた空気が頬をなでていった。美冬は制服の袖をそっと引き直す。木崎は人通りの多い通路から、人通りの少ない通路まで移動した。そして、美冬に振り返って、小さく息を吸った。

「……前から、ずっと見てた。白石さんのこと」

 唐突な言葉。だが、その声には真剣さがあった。美冬は静かに耳を傾ける。

「最初は、勉強ができてすごいなって。それだけだったんだけど、気づいたら……その、目で追ってて。話しかける勇気もなくて……でも、今日はどうしても伝えたくて」

 言葉を探すように、木崎の手が制服の裾を握る。

「……俺と、付き合ってくれませんか」

 告白の言葉は、声を潜めるように落とされた。

 沈黙が、廊下の空気を満たす。美冬は、小さく息を整えると、静かに口を開いた。

「……木崎さん。お話ししてくださって、ありがとうございます」

 その声は、決して冷たくはなかった。けれど、凛としていた。

「お気持ちは、真摯に受け止めさせていただきました。ですが──申し訳ありません。お応えすることはできません」

 木崎の表情が、わずかに揺れた。

「……そっか。……なんで?」

「あなたが悪いわけではありません。私自身の問題です」

 それ以上は語らない。語らないことこそが、彼女の答えのすべてだった。

「……分かった。ありがとう」

 木崎はそれだけを残し、足早に教室へと戻っていった。

 その背を、美冬は見送らなかった。少し時間を待ってから教室へと向かった。教室へ戻る扉の前で、ほんの少しだけ立ち止まり、目を閉じた。

 静かに開いた瞼の奥には、冷えた廊下の光が映っていた。



 翌日の朝、教室の空気は微かにざらついていた。

 いつもと同じ時間に登校した白石美冬が、何気なく教室の扉を開けたとき──数人の女子が一瞬、会話を止めたのを感じた。

 それは、気のせいと思えば気のせいで済む程度のものだった。けれど、美冬のように空気の機微に敏感な者には、無視できない「揺れ」だった。

 席に着いても、なんとなく距離のある視線がいくつか向けられる。正面から声をかけてくる者はいない。ただ、微細な沈黙と、机に手を置く音だけが耳に残る。

 ──木崎翔太の告白を、美冬は断った。それだけの事実。

 けれど、それは彼を想っていたある女子生徒──江藤由梨にとって、小さくない出来事だった。

 江藤は木崎と同じ中学の出身で、特別仲が良かったわけではないが、何となく「彼の隣にいることが自然」と思っていた。

 クラスで木崎が白石美冬に告白したと知ったとき、その“自然”が静かに壊れた。

 そして、その美冬が、何もなかったような顔で席に座っている。


 それが──許せなかった。


 昼休み、教室の窓際ではいくつかのグループが弁当を広げていた。笑い声や箸の音、パッケージを開くビニールの擦れる音が飛び交うなか──白石美冬は、いつもの席で静かに弁当を広げていた。

 彼女の周囲だけ、わずかに空白があった。席が空いているわけではない。ただ、誰も声をかけようとしないだけだ。

 けれど美冬は、それを“いつものこと”として受け入れていた。無理に輪に加わることも、話しかけることもない。そんなスタンスは入学時から変わらず続けてきたものだった。


 しかし──今日は、何かが違っていた。


 「……断ったんだって」


 誰かの声が、背後の机のあたりから聞こえた。

 ささやくようなその声には、感情が滲んでいた。聞く者によっては、驚きとも非難とも取れる微妙な温度。

 「せっかく、あんなにちゃんと告白してくれたのにね」

 「そうそう。普通は、ちょっと考えちゃわない?」

 視線がいくつか、美冬の背中をかすめた。

 彼女は箸を止めなかった。ただ、心のどこかで“ああ、始まったな”と感じていた。

 発信源は──江藤由梨。

 髪を緩やかに巻いたロングで、まつげの長い、いかにも整った顔立ちの少女。

 周囲との距離感が近く、常に誰かと一緒にいるタイプ。クラス内では「中心」とまではいかないが、輪を動かす力を持っている存在だった。

 由梨は、弁当をつつきながら、わざとらしく笑う。

 「まあ、美人で頭もいいと、告白されるのも慣れてるんだろうけど。ちょっと冷たすぎない? 木崎、ちょっと落ち込んでたよ?」

 特定の誰かに話しかけるわけではない。その場にいる全員に向けた、空気を泳がせる言葉だった。

 返答を促すように、目線を友人に投げる。案の定、隣の女子が小さく頷いた。

 「うん、ちょっと……冷たいよね。白石さんって」

 まるで、同意を求めるような囁き。美冬は、表情を変えなかった。ただ、頬の内側で静かに息を吸い直した。

 ──冷たくするつもりは、なかった。

 断った言葉も、相手を傷つけないように選んだつもりだった。

 でも、その「丁寧さ」こそが、誰かにとっては「よそよそしさ」として映るのだと、今さらながら思い知る。

 ごく当たり前に振る舞っているだけなのに、それが“高慢”や“無感情”と受け取られることもある──それは、美冬が何度も経験してきたことだった。

 けれど、今回はほんの少し、痛みが違った。

 なぜなら、江藤由梨の視線には「個人的な感情」が色濃く滲んでいたから。──つまり、木崎翔太のことが、好きだったのだろう。

 そう気づいてしまったとき、美冬は初めて、誰かの想いを、知らずに踏みにじってしまったかもしれないという重みを感じた。

 ──彼女にそのつもりはなくとも、結果は同じだった。

 その日から、教室の空気はわずかずつ、しかし確実に変わり始めた。


 放課後の教室には、冬の陽が斜めに射し込んでいた。

 黒板に映るその光は、どこか頼りなくて、日が暮れるのが早くなったことを静かに知らせていた。

 白石美冬は、自分の机に教科書をまとめていた。

 廊下に出ていくクラスメイトの声や足音が遠ざかるたび、教室の中が少しずつ静けさを取り戻していく。けれどその静けさは、穏やかというよりも、どこか寒々しいものだった。

「……美冬」

 名前を呼ばれて、美冬はふと顔を上げる。

 振り返ると、永野結芽が教室の入り口から歩み寄ってきていた。手には鞄。けれどその足取りは、帰るためのものではなかった。

「ねえ、大丈夫? 今日の教室の空気……ちょっと変だから」

 その声には、柔らかさと、それ以上に慎重さがあった。

 問い詰めるのではなく、ただ“立ち止まって声をかける”。そんな距離感。

 美冬は、ほんの一瞬、言葉を持たずにいた。

 けれどすぐに、小さく微笑みをつくる。感情を覆い隠すような、いつもの仕草。

「……心配してくれて、ありがとう。でも、大丈夫です」

「本当に?」

 結芽の声は、優しかった。

 けれど、美冬の目はその優しさに、ほんのわずか、影を宿す。

「本当に」

 静かに、重ねて返す。言葉に棘はなかった。けれど、その言葉の“硬さ”は、確かに届いた。

 しばらく、二人のあいだに沈黙が流れた。

 教室の窓からは、もう赤くなりかけた夕暮れが差し込んでいた。

 結芽は、そっと目を伏せた。そして、微笑んだまま頷いた。

「……うん。分かった。でも、何かあったら、ちゃんと言ってね。言わなくても、側にはいるけど」

 美冬は何も返さなかった。ただ、小さく頭を下げた。

 結芽はそれ以上何も言わず、振り返って教室を出ていった。

 ドアが閉まる音が、ほんの少しだけ、寂しく響いた。


 残された美冬は、鞄の持ち手を指先でなぞりながら、机の上をそっと見つめた。


 ──守っているのは、誰だろう。

 自分のことか。結芽のことか。それとも、なにも壊したくないというただの臆病か。


 分からないまま、陽は静かに落ちていった。

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