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青綴り  作者: 遥
第壱章-俺と私の心が重なるまで
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第5話-四話-自覚

 午後三時を少し回った頃。


 傾きかけた陽の光が、街をやわらかく染めていた。

 白石美冬と永野結芽は、校門を出て通学路をしばらく歩いたのち、交差点を左へ折れる。

 長く伸びたふたりの影が、アスファルトの上を並んで揺れていた。

 制服のスカートが風にふわりと舞う。歩幅を少しだけ弾ませながら、美冬の隣を歩く結芽が、顔をのぞき込むように話しかけてきた。

「駅前のカフェ、行ったことある? 抹茶のスフレがすっごく美味しいんだよ」

 美冬は一瞬だけ考えたあと、静かに首を振った。

「……通りかかったことはありますけれど、中に入ったことはありません」

「なら決まり! テスト明けのご褒美に、初めて記念ってことで!」

 弾むような声と笑顔。その表情は、十一月の風に溶け込む陽だまりのように、柔らかくあたたかい。美冬は言葉にはしなかったが、その温度を心のどこかで受け取っていた。

 駅へ向かう通学路の途中、少し奥まった建物の一角に、小さな木製の看板を掲げたカフェが現れた。黒板にはチョークで手書きされた「本日のおすすめ」。その下に、結芽が言っていた抹茶スフレの文字も見えた。

 ガラス扉には、ドライフラワーのリースが吊るされている。

 中からは、焼き菓子と深煎りコーヒーの香りが、微かに風に乗って流れてきた。

 その香りに、美冬はふと足を止めて、扉の奥へと静かに視線を向けた。

 扉を押すと、上部に吊られた小さなベルが、ちりん、と控えめな音を立てて揺れた。

 店内には、落ち着いた色合いの木製テーブルが規則正しく並び、アンティーク調の椅子が控えめに寄り添っている。

 天井から吊るされた照明はわずかに光を抑え、午後の陽射しと混ざり合って、やわらかな陰影を生み出していた。


 窓際の席にはすでに二組の先客がいた。

 一人はページをめくる手を止めずに本に没頭し、もう一人はスマートフォンの画面を指でなぞっていた。

 声ひとつないその静寂は、まるで店内全体が呼吸を潜めているかのようだった。

 その空気に包まれて、美冬は思わず背筋を伸ばす。

 無意識に、動作ひとつにも音を立てまいとしていた。

 けれど、隣を歩く永野結芽は、まるで自室にいるかのような自然さで足を運び、迷いなくレジへと向かっていく。

 その姿に、美冬はほんの少し肩の力を抜いた。

 誰かと一緒にいる時間は、時に自分をほどいてくれる。そんな気がした。


「奥の方、空いてるね。あっち行こ」

 結芽が指さしたのは、店内の奥、壁際にひっそりと設けられたソファ席だった。

 小ぶりの木製テーブルの上には、琥珀色の光を灯したランプが置かれていて、まるで午後の空気に静かな温度を加えているようだった。

 美冬は、そのあたたかな光に一瞬だけ目を奪われ、歩みをわずかに遅らせた。

 どこか特別な空気を纏ったその席に、急に自分が座ってよいのかという遠慮が胸をかすめたのだ。

 けれど、振り返らずに進んでいく結芽の背中に、自然と導かれるように後を追う。

 ふたり並んで腰を下ろすと、ソファのクッションは思いのほか深く、優しく身体を受け止めてくれた。

 その瞬間、美冬の背中から、無意識に張っていた緊張がふわりと抜けていく。

 足元には木目の床が静かに広がり、窓際の光とランプの灯りが交差するこの空間は、喧騒とは少しだけ縁遠い、ふたりだけの小さな居場所のようだった。


「私は、抹茶スフレと紅茶にする。美冬は?」

 結芽がメニューから目を上げ、隣に座る美冬にやわらかな笑みを向ける。

 その声は、まるで“迷ってもいいよ”と許してくれるような、優しいリズムを帯びていた。

「……じゃあ、同じもので」

 美冬は少しだけ迷ったあと、そう静かに答えた。

 特別強いこだわりがあったわけではない。ただ、結芽が選んだものなら、きっと間違いはない──そんな気持ちがあった。

 注文は結芽がまとめて伝えてくれた。

 メニュー表には、手描き風のイラストと丸みを帯びた文字が並んでいて、店の落ち着いた空気と不思議なくらいよく馴染んでいる。

 店員は控えめな笑みを浮かべながら、柔らかく会釈をしてから、カウンターの奥へと姿を消した。

 その一連の動作にも、騒がしさはなく、店全体の空気に溶け込むような静けさがあった。


 紅茶の香りがふわりと漂うカフェの空気の中、注文を待つあいだの沈黙は、静けさというより“間”だった。

 美冬は目の前に置かれたメニューのページをなんとなくめくっていたが、視線は文字を追っていなかった。

 向かい側で、それを見守っていた結芽が、ゆるやかに顔を覗き込む。

「ねえ、美冬」

「……はい?」

 名前を呼ばれて、美冬はすぐに返事をした。けれど声にわずかに緊張が混じっていた。

 それを逃さず、結芽の笑顔がほんのりいたずらっぽくなる。

「最近、よく目で追ってる人がいるでしょ?」

 その問いかけは、核心を突くというよりも、包み込むような柔らかさを帯びていた。

 それでも、美冬の指先がピタリと止まる。

「……え?」

「ごまかしてもダメ。気づいてないと思ってるかもしれないけど、授業中も、廊下でも……美冬、目で追ってる時、わかりやすいよ?」

 結芽の声は小さく、笑いを含んでいた。けれど、それは決して悪意のあるからかいではなかった。

 ただ、親しい人の心に触れようとする、ごく自然な距離感だった。

 美冬は言葉を返さず、うつむいた。

 頬がふわりと朱に染まっていくのが、自分でもわかった。熱が、首筋までじんわりと上がってくる。

 隠すためにカップに手を伸ばそうとしたが、まだ紅茶は来ていない。

 とうとう逃げ場を失って、そっと瞼を伏せた。

「……そんなに、わかりやすいでしょうか」

「うん。私は、ね」

 結芽は笑顔のまま、そっと顎に手を添えながら、美冬の赤く染まった頬を眺めていた。

 その様子は、まるで可愛いものを見つけた小動物のようで、美冬はさらに顔を赤くする。

 そこへ、タイミングを見計らったように、店員がふたり分のティーセットを運んできた。


 白い陶器のカップに注がれた紅茶の香りが、火照った頬をやさしく冷ますように広がっていく。

 丸く膨らんだ抹茶のスフレが、湯気を立てながらテーブルの上に並べられると、結芽がパチンと小さく手を叩いた。

「はい、話の続きはあと! まずはこれ食べよう、美冬、熱いうちにね!」

 そう言って笑う結芽の声が、カフェの空気をほんのり明るく照らした。

 美冬は小さく息をついて、スプーンをそっと手に取った。

 けれど、頬の赤みはまだ完全には引いていなかった。

 ひと口、スプーンですくった抹茶スフレを口に運ぶと、ふんわりとした食感のあとに、ほろ苦さと甘さが静かに舌の上で広がった。

「……おいしい、です」

 美冬がそう小さく呟いた声は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。

 隣の結芽が、うんうんと頷く。

「でしょ? ここ、穴場なんだよ。落ち着くし、静かでさ」

 美冬はその言葉に、曖昧に微笑んだ。

 確かに、落ち着く場所だった。けれど、自分の胸のうちが落ち着いていないことに、彼女はうっすらと気づいていた。


 "誰かを目で追う"──言われて初めて、自覚する。

 自分がそれをしていたことに。その行為に、どういう意味があるのか、彼女にはまだうまく答えが出せなかった。

 ただ、気になってしまう。視界に入ると、目を逸らしたくない。それが、どうしてなのかは分からない。“好き”という言葉が、それに当てはまるのかどうかも。

 美冬には、そもそも“好きになる”という感情が、どういうものなのか分からなかった。

 家族を早くに失い、感情の機微を誰かと分かち合う経験もほとんどなかった。

 友達と過ごす今でさえ、どこか一歩引いた場所から世界を見ているような感覚が、まだ彼女の奥底には残っていた。

 だからこそ、今の自分が抱いている感情が、何なのかが怖かった。

 明確なきっかけも無い。それこそ、明確な理由もない。だから、余計に怖かった。

 それこそ、絵本の世界のように、わかりやすく人を好きになる瞬間があれば良かったのに。


「──美冬」

 不意に名前を呼ばれて、カップを持つ手がわずかに震えた。

 結芽がそっと言葉を続ける。

「分からなくても、いいんだよ。“これが恋だ”って、決まってるわけじゃないんだし」

 その声は、まるで美冬の胸の奥を見透かしていた。

「ただ、何かが心に引っかかってるなら、それはちゃんと、大事なことだと思う」

 美冬は驚いたように結芽を見た。けれど、彼女は何も問い詰めることはなかった。ただ、そっと紅茶を口に運ぶ。

 ──この人は、分かっているのだ。

 問い詰めることもなく、背中を押してくれる。それが、白石美冬にとっての“友達”だった。

 ゆっくりと、美冬は俯いたまま、胸の中に芽生えた小さな違和を抱きしめるように、もうひと口、スフレをすくった。

 まだそれが何なのか分からなくても、きっといつか、自分の中でラベルを与えられる日が来る──そんな予感だけが、静かに彼女の胸を温めていた。

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