第4話-三話-平行
十月二十四日、月曜日。
秋の風が、窓ガラスを静かに叩いていた。
午前中の授業が終わり、教室内は昼休みのざわめきに包まれていた。
白石美冬は、窓際の席で静かに弁当を開いていた。薄紅色の風呂敷。折り目を崩さずにたたみ、机の隅に置く所作も、いつも通りだった。
けれど、箸を取る手がふと止まる。
視線が、自然と教室の窓の向こう──隣の校舎の中庭へと滑っていた。
その中に、見覚えのある後ろ姿がある。
肩から羽織ったジャケット。少し緩んだネクタイ。ゆったりとした歩幅。
倉本琉亜だった。
その姿は遠く、顔までは見えない。けれど、動きや佇まいだけで、彼だと分かった。
──また、見てる。
自分の中のその言葉に、美冬はわずかにまばたきをした。
意識的ではなかった。ただ、窓の向こうに彼の姿を見つけると、自然と目が留まっていた。
──その瞬間。
「しらいしさーん、何見てるの?」
隣の席の女子が、悪戯っぽく身を乗り出してきた。
手におにぎりを持ったまま、にやにやと目を細めている。
「え? なになに? 窓の外に誰かいるの?」
その声に、もうひとり、前の席の子が反応した。
美冬は何も言わず、すっと視線を手元に戻す。残っている品は未だに彩りであった。
「……いえ、別に。ただ、風が強いなと思って」
「へえー? 風ねぇ?」
隣の子はおどけた調子で言ったが、それ以上は追及しなかった。
むしろ、そのさりげなさが、美冬にとってはありがたかった。
茶化しのようなものが、ほんの一瞬だけ教室の空気を揺らし、すぐに日常のざわめきに溶けていった。
美冬は再び箸を取りながら、そっと視線だけを窓の外へ戻した。
けれど、琉亜の姿はもうそこにはなかった。
そのことに、少しだけ肩が落ちたのは、風のせいだったかもしれない。
美冬は、自分でも気づかないほど小さな吐息を、胸の奥でひとつ、飲み込んだ。
十月二十六日、水曜日。
六限目の終了を知らせるチャイムが鳴ってから、数分が過ぎていた。
生徒たちの多くは既に帰り支度を始め、教室からはざわめきと椅子の擦れる音が絶え間なく聞こえていた。
白石美冬は、教科係として職員室に提出するプリント類を手に、廊下を歩いていた。
A3の書類が何枚か重なったそれは、折り目がつかないように丁寧に両手で抱えて持っていた。
──風が吹いたのは、ちょうど階段の踊り場に差しかかったときだった。
校舎の端に近いこの廊下では、窓が少し開け放たれていた。
その隙間から吹き込んだ風が、ふいに紙の端をめくり上げた。
「あ──」
その瞬間、抱えていた書類の数枚がふわりと滑り落ちた。
手元の残りを守ることで精一杯で、床に舞った用紙に追いつく余裕はなかった。
がさ、と音がして、落ちたプリントを誰かが拾い上げる気配がした。
「……落ちたぞ」
低く、どこか淡々とした声。顔を上げると、そこに立っていたのは──倉本琉亜だった。
手に持った書類を無言で差し出すその仕草は、実にさりげなかった。
彼自身は制服のジャケットを羽織ったまま、ボタンも留めず、ネクタイもゆるく結ばれている。
けれどどこか乱れた様子はなく、それは彼にとって“日常”なのだと思わせる佇まいだった。
「ありがとうございます。……すみません、助かりました」
美冬は丁寧に頭を下げ、書類を受け取った。
彼は特に何も言わず、一度だけ視線を彼女に向け、それから目を逸らすように階段の方へ歩き出した。
──ああ、またこの感じだ。
無言のまま、風のように通り過ぎていく。
けれど、それが不快ではなく、むしろ不思議な静けさを残していく。
手に戻った書類の角を指先で整えながら、美冬はふと彼の背中を目で追っていた。
ゆったりとした足取り。誰とも交わらず、誰にも邪魔されないままに、廊下の奥へと消えていく影が彼女の瞳に映りこんだ。
風が再び吹いた。
美冬の手元の用紙がふわりと震えたが、今度はしっかりと押さえられていた。
十月三十一日、月曜日。
朝の空気は冷たく、吐く息がほんのりと白んでいた。
乾いた風が校舎の隙間を縫うように吹き抜け、制服の裾をわずかに揺らす。
白石美冬は昇降口の扉をくぐると、ひとつ深く息を吐き、小さく身を縮めるようにしてローファーを脱いだ。
上履きを手にしたまま、ふと目を上げる。昇降口の奥、掲示板の脇には、誰かの手で飾られた小さな紙のコウモリとカボチャの切り絵が吊るされていた。
どれも手作りのようで、カラーテープの端が浮いているのが目につく。装飾は控えめだったが、それでもこの季節が、もう“秋の終わり”に差しかかっていることを静かに告げていた。
窓越しに見えた校庭の桜は、葉先を赤く染め始めていた。
春には花を咲かせていたその枝が、今は風にゆれるたび、音もなく小さく震えている。その風景に見入るように、美冬は上履きを履く手を一瞬止めた。
そのときだった。昇降口の一角を、一人の男子生徒が通り過ぎていく。
倉本琉亜。いつも通りにネクタイは緩く、制服のジャケットは前を留めずに羽織っている。
彼は誰とも目を合わさず、廊下の奥へとまっすぐ歩いていく。昇降口に漂うハロウィンの浮ついた空気すら、まるで存在していないかのようだった。
視線を交わしたわけではない。けれど、美冬は気づけば彼の背中を目で追っていた。
歩幅も、足音も、校内のざわめきの中でふと輪郭を持ったように感じられた。
──名前は知っている。けれど、まだそれだけ。
───でも、どうしてだろう。
季節が変わる手前のこの空気の中で、彼の姿だけが妙に残った。
十一月四日、金曜日。
昼休み、図書室。
カーテン越しに射す日差しは柔らかく、午後の空気をふわりと染めていた。
窓際の長机に、白石美冬はひとり腰掛けている。本を開いたその手元には、影のような静けさがあった。
ページをめくる指先は迷いなく、けれどどこか儀式めいている。読んでいるはずの活字の内容が、心に届いていないことを、美冬自身がうっすらと自覚していた。
視界の端で、誰かが書架の隙間を抜けていく。足音は静かで、衣擦れの音ひとつ立てない。それは、気配としてだけ──まるで風の通り道のように、彼女の意識に触れていった。
倉本琉亜だった。
数列向こうの棚で、参考書を手に取った彼は、貸出カウンターに向かい、何の迷いもなく図書室を後にする。
美冬は顔を上げなかった。けれど、その存在を“知っていた”。
視線も言葉も交わさないまま、何かだけが確かに胸の内に残った。気配の記憶。
それは、ページの余白に滲んだインクのように、微かで、けれど拭えないものだった。
図書室の外、銀杏の葉が一枚、風に乗って舞い落ちていく。
硝子の向こう、色づいた季節がまたひとつ深まっていた。
十一月二十八日、月曜日。
定期考査、最終日。午後二時を少し過ぎた頃。
試験を終えた教室には、鉛筆が机に転がる音と、誰かの椅子が引かれる音が、重なり合いながら消えていく。
張りつめていた空気が、ひとつ息を吐いたように緩んでいた。
白石美冬は、静かにペンケースを閉じ、鞄の中に筆記具を収めた。
窓から差し込む光が机の天板に淡く広がっている。秋の陽は斜めに傾き始めていて、風のざわめきとともに、季節の深まりを告げていた。
白石美冬の隣に立ったのは、永野結芽。
中学からの付き合いで、数少ない、美冬が心を緩められる友人だった。明るすぎず、踏み込みすぎず、彼女の沈黙を無理に破ろうとしない、ちょうどいい距離の人。
「終わったー……って言いたいとこだけど、自己採点するのが怖い……美冬はどう?」
「英語は、設問が素直でしたから。きっと、大丈夫だと思います」
結芽は小さく肩を落としながらも、笑うように頷いた。
「はあ……そういうとこなんだよね。美冬って、試験のときも呼吸乱れないし、鉛筆の音さえ一定だし……見てるだけで正座したくなる感じ」
「……そんなに緊張感、出ていましたか?」
「いや、逆。逆に落ち着きすぎてるって意味」
二人は並んで昇降口へと向かう。窓の外では、薄曇りの空が銀杏の葉を透かしていた。もうすぐ冬になることを、自然と肌が教えてくる。
昇降口には数人の生徒が集まり、重なった足音と鞄の開閉音が混じり合っていた。
「ねえ、ちょっと聞いてもいい?」
廊下の踊り場に差しかかったとき、結芽がぽつりと声を落とした。
「最近、美冬……誰か見てない?」
「……え?」
問い返す声は平静を保っていたが、わずかに指先が止まる。
結芽は立ち止まり、美冬の横顔をのぞき込む。
「気のせいかと思ってたけど……ここ最近、何度か。窓の外とか、教室の隅とか。誰か探してるように見えた」
否定しようとする前に、ガラス戸の向こうを一人の男子生徒が通り過ぎた。
倉本琉亜。
肩から羽織ったジャケットの裾が揺れ、緩めたネクタイの下で襟元が風を含む。
廊下のざわめきには加わらず、まるで校舎の空気を裂くように、静かに通り抜けていった。
美冬の目が、その背中をほんの一瞬だけ追った。
けれど次の瞬間、視線を逸らして足元を見つめる。
「……風が強いですね。落ち葉が……いっぱい」
それは、明らかに話をそらそうとする声だった。
結芽は腕を組み、小さく唇を尖らせる。
「落ち葉ね。へえ、落ち葉がそんなに気になるんだ。……ふーん?」
「……何でもありません」
その静かな否定に、結芽は「はいはい」と目を細めた。
けれどそれ以上追及はせず、すぐに話題を切り替える。
「じゃあさ、今からどこか寄らない? 久しぶりに。甘いものでも食べたい気分なんだけど、付き合ってよ」
「……今から、ですか?」
「そう。図書室じゃなくてさ、普通のカフェとか行って、だらーっと。テスト終わったばっかじゃん。たまにはね?」
美冬は一拍置いてから、微かに息を吐き、小さく頷いた。
「……分かりました。少しだけ、ですよ」
「やった」
結芽が笑いながら足を進める。
校舎の外では、乾いた落ち葉が風に舞っていた。色を失い始めた銀杏の下、秋の終わりと冬の入り口が、音もなく交差している。




