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青綴り  作者: 遥
第壱章-俺と私の心が重なるまで
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第3話-二話-意識

 

「そろそろ、授業だな。……一応、言っておくけど、ここは立ち入り禁止だから」


 倉本琉亜は、塔屋の縁に座ったまま、美冬にそう告げた。

 風に揺れた前髪が目元をかすめるのを、彼は気にする素振りも見せない。

 制服のジャケットは、肩に無造作に羽織ったまま。前のボタンは留められておらず、ネクタイもゆるい。

 だがその着こなしには、不思議と“だらしなさ”がなかった。整っていないというより、整えることを選んでいない──そんな空気を纏っていた。

 美冬は、塔屋の縁から見下ろしてくる琉亜をじっと見つめていた。

 その視線に、彼はふっと口元を緩める。

「えっと、その……貴方も、ですよね?」

 少しだけ眉を寄せながら、美冬が問いかける。言葉遣いは丁寧だが、その奥には微かな困惑がにじんでいた。

「そうだな。俺も」

 それだけを静かに返すと、琉亜はようやく重心を前へ移し、塔屋の縁に手をかけて立ち上がる。

 無駄のない動きで縁を越え、音もなく地面に飛び降りた。

 着地の瞬間、膝をわずかに沈めて衝撃を吸収し、そのまま制服の裾を揺らして立ち上がる。視線が、再び美冬の方へと向けられる。

「……つまり、私たち、どちらも注意される立場ということですね」

 美冬が、少し困ったように微笑んで言う。琉亜は片手をポケットに入れたまま、肩をすくめるようにして言った。

「バレなきゃ問題ない。……知らないのか?」

 淡々とした声だったが、どこか冗談のような、力の抜けた響きがあった。

 それはこの場所だけに許された、微かな気遣いだったのかもしれない。

「そ、それは、そうなのですが……」

 美冬はわずかに視線を伏せた。正論のようでいて、どこか腑に落ちない。

 だがその違和感すら、彼との会話の中では不思議と角が立たなかった。

 そのとき、校舎の奥から高く澄んだ予鈴が鳴った。昼休みの終わりを告げる音。


「白石さん……だっけ? もう行ったほうがいい。俺みたいな不良とは、関わらない方がいいよ」


 琉亜は、美冬に背を向けながらそう言った。

 その言葉に、美冬は小さく首を傾げる。

「……不良、ですか?」

 静かに返されたその声に、揶揄や怒りはなかった。あるのは、ただの素朴な疑問だった。

 けれど、琉亜は気づかないふりをするように何も言わず、踵を返す。

 制服の背中が、塔屋の影にゆっくりと消えていった。

「えっと……」

 ひとり残された美冬は、琉亜の姿が完全に見えなくなったのを確認してから、そっと吐息をこぼした。

 “塔屋の上”という場所にいたという一点を取れば、彼の言葉は理屈として正しいのかもしれない。

 けれど、美冬の知る“問題児”とは、どこかが決定的に違っていた。

 規則を破ることよりも、人に見られない静かな場所で、誰にも干渉されずに過ごしていること。

 それが、倉本琉亜という人物の輪郭を、美冬の中にぼんやりと形づくっていく。

 彼の言葉の意味を反芻しながら、美冬は扉へと向かって歩き出す。

 再び吹いた風が頬に触れ、髪を揺らした。

 彼女は扉の前で立ち止まり、一度だけ塔屋の上を見上げる。もう誰もいないその場所に、さっきまでの声と空気が、わずかに残っているような気がした。


 彼女は塔屋の扉に手をかける。青春の歯車がまた一つ、カチャリと回った。


 昼休みが終わり、五限の開始を告げる鐘が鳴った。

 教室に戻った白石美冬は、いつもの席に静かに腰を下ろし、教科書とノートを机の上に整えた。

 動作は正確で無駄がなく、普段と変わらぬ落ち着きを保っていた。

 けれど、ノートに書き留めた文字のいくつかが、わずかに揺れていた。

 “倉本琉亜”という名が、何度か意識の隙間に差し込んできた。「不良」と自嘲するように言った彼の言葉も、「バレなきゃ問題ない」とさらりと笑った横顔も、胸の奥に小さなさざ波を残していた。

 冷静に考えれば、何の変哲もない会話だった。

 彼のことを特別知っているわけでもない。だが、美冬の中で、なぜかその記憶は淡く、しかし確かに残り続けていた。

 ──あの人は、どうしてあんな場所にいたのだろう。

 問いにはならない問いが、ふと脳裏を過ぎる。

 だが、それ以上を掘り下げることはしなかった。彼に限らず、人には人の事情がある。

 それは、美冬自身が一番よく知っていることだった。


 一方、D組の教室でもまた、一人の生徒がノートの上に視線を落としていた。

 倉本琉亜。彼は教科書の行を目で追いながらも、意識の奥底では別の光景が浮かんでいた。

 風に揺れる長い黒髪。淡い声。静かな背筋。

 屋上で出会った少女の名を、彼は一応覚えていた。

 白石。……美冬、だったか。

 名前に引っかかりはあったが、顔と一致するまでには至らない。

 同学年だということ以外、彼にとっては未知の存在だった。

 けれど、その姿形だけは、目の裏に残っていた。

 拒絶も感情の波もほとんど見せなかった彼女の瞳が、ほんのわずか揺れたあの瞬間を、なぜか思い返していた。

「……くだらないな」

 誰にともなく小さく呟き、琉亜は鉛筆を回しながら視線を前に戻す。

 その声を聞いた者はいなかったし、彼自身も深く考えることはなかった。


 夕方。

 教室の窓から差し込む陽射しが、淡い朱色に変わっていた。

 授業が終わり、生徒たちはそれぞれの放課後へ散っていく。

 部活動へと急ぐ者、談笑しながら昇降口へ向かう者、誰にも気づかれぬまま早足で帰路につく者。

 西日が校舎の廊下を長く染める頃、倉本琉亜はゆっくりと教室を後にした。

 寄り道もせず、誰かと話すこともなく、まっすぐ昇降口を抜ける。

 風が肌をかすめた。昼とは違い、もう完全に秋の冷たさを帯びている。

 彼は制服の袖を軽く引き直し、校門へ向かう。そのとき、ふと視界の先に見慣れた輪郭があった。

 制服のスカート、揺れる黒髪──塔屋の上で会った、白石美冬だった。

 彼女は、誰かと一緒にいた。隣には、同じ制服を着た女子生徒。たぶん、クラスメイトなのだろう。

 二人はゆっくりと歩きながら、時折目を合わせて笑っていた。会話の声は遠く、琉亜の耳には届かなかった。

 彼女が笑うのを、初めて見た。屋上での彼女は、終始落ち着いていて、笑うこともなかった。

 断った直後の疲労、あるいは意図的な距離感。それに比べて、今の彼女はどこか柔らかかった。声こそ聞こえないのに、その空気が軽やかに見えた。

 琉亜は立ち止まることも、近づくこともなく、ただその姿を通り過ぎた。

 名前も、クラスも、何も知らなかった。ただ、塔屋の上で少しだけ会話を交わしただけの人。けれど、確かに視界に残った。それは輪郭でも色でもなく、“記憶に残る気配”のようなものだった。

 彼女の背中が通用門の向こうに消えたころ、琉亜は小さく息を吐き、何もなかったように歩き出した。



 十月十四日、金曜日。朝。


 校舎を包む空気は、昨日よりもわずかに冷えていた。

 雲一つない晴天。けれど、空の青はどこか薄く、肌を刺すような透明な風が、街の端から吹き抜けてくる。

 白石美冬は、昇降口の前で小さく息を吐く。白くはならなかったが、どこか乾いた風に触れるたび、秋が深まっていく気配を感じた。

 いつもより、少しだけ早く学校に着いたのは、特別な理由があったわけではない。ただ、目覚めが早かった。それだけだった。

 いつものようにローファーを脱ぎ、丁寧に揃えて下駄箱に収める。代わりに取り出した上履きに、つま先をとんとんと収めると、ふと、廊下の先に人影を見つけた。


 ──彼がいた。


 倉本琉亜。

 前を歩くその背中は、昨日の屋上で見たままの佇まいだった。

 肩から羽織ったままのジャケット。少し緩んだネクタイ。背筋は伸びているのに、どこか孤独な輪郭を感じさせる歩き方。

 廊下の照明がまだ半分しか点いていない時間帯。薄い光の中に、その姿だけが輪郭を帯びて見えた。

 まだ周囲に人の気配はほとんどなかった。教室の扉が開く音も、足音も、ここには届かない。

 美冬は、その場で立ち止まる。

 声をかける理由も、意味もなかった。ただ、偶然見つけただけ。

 けれど、胸のどこかに小さく波紋が広がっていた。

 昨日の、塔屋の上で交わした言葉たち。断ったあとに風に吹かれていた自分に、ふいにかけられた一言。


 ──「……風、冷えるよ」


 あの言葉は、優しさとも気まぐれともつかない、形のないものだった。

 けれど、たしかに残っていた。記憶ではなく、感触として。

 琉亜は、美冬に気づいていなかった。彼はただ、静かに廊下の奥へと歩いていく。その背中を、美冬はしばらく見送った。


 そして、そっと口の中で、確かめるようにその名を呟いた。


 ──倉本琉亜、さん。


 それは誰にも届かない、小さな音だった。けれど、その声には昨日よりも少しだけ、輪郭があった。


 彼女は上履きのかかとを踏み込むと、静かに歩き出した。その足音もまた、朝の静けさの中に溶け込んでいった。

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