第2話-壱話-関心
十月十三日、木曜日。
秋晴れの昼休み。雲ひとつない空が窓の向こうに広がっている。教室には、昼食を囲む声と、椅子の軋む音が交錯していた。
白石美冬は、いつものように窓際の席で弁当箱の包みを解いていた。
小ぶりの風呂敷は、淡い薄紅色。きちんと折り目をつけたまま畳み、机の隅に置く。その手つきには迷いがなく、日々の習慣として根づいている。
中身は、ごくありふれたものだ。
昨夜の煮物に、朝に焼いた卵焼き、彩りのための茹でた人参とほうれん草。決して華やかではないけれど、型崩れしないよう詰め方には気を配った。
美冬にとって、弁当を作るという行為は、生活の静けさを守るひとつの所作にすぎなかった。
誰かに見せるためでも、褒められるためでもない。もう誰も作ってくれないから、自分で作る。それだけのことを、丁寧に繰り返しているだけだった。
ふと、窓の外を見やると、銀杏の葉が一枚、風に揺れて窓ガラスにふわりと貼りついた。
教室の中には気づく者は誰もいない。美冬だけが、その黄色を静かに目で追った。
そして、その静けさを破るように、背後から声がかかった。
「白石さん、今ちょっといい?」
その声音には、かすかな緊張の色があった。
振り返らなくても分かる。同じクラスの田島くん──数回、委員会で言葉を交わしたことのある男子生徒だ。
「……ご用件は、何でしょうか?」
問いかける声は穏やかだったが、周囲の気配には敏感だった。数人の視線が、美冬と田島のあいだに流れていた。
「えっと……少しだけ、場所を変えて話せたらと思って……」
「……分かりました。すぐに伺いますね」
弁当箱を閉じ、風呂敷を丁寧に畳んでから、席を立つ。美冬の所作に迷いはなかったが、その背中に、教室の空気が微かにざわついていた。
田島はなぜか、廊下の突き当たりにある階段を選び、さらにその先の扉の前で足を止めた。
屋上。校則上は立ち入り禁止とされている場所。けれど、美冬がそれを咎める前に、田島が鍵のかかった扉を開いた。
「えっ……ここって……」
「うん、先生に許可もらったんだ。五分だけなら、って」
「……そうでしたか。それなら」
美冬は少し躊躇いながらも、扉の向こうへと足を踏み入れた。
屋上に出た瞬間、陽射しが視界を染めた。
秋の空は高く、風は乾いていた。少しだけ強く吹いた風が、スカートの裾を揺らす。屋上の隅に設けられた塔屋。その上には、誰もいないように見えた。
ここに人が立ち入ることは、めったにない。
だからこそ、誰にも見られずに言葉を交わせる場所として選ばれたのだろう。それでも、美冬の足取りは変わらず静かだった。
「……で、ご用件は?」
屋上の中央で立ち止まった美冬が、柔らかく問いかける。田島は、手の中で握っていた何かを胸元に仕舞い、やや顔を俯かせながら小さく頷いた。
「えっと……今日、どうしても伝えたいことがあって」
「……はい」
その声音に、美冬はもう答えを悟っていた。
ただ、彼がどんな言葉を選ぶのかを、最後まで聞くつもりでいた。
田島はすぐに言葉を継がず、ポケットの中で何かを指先でいじっている。見れば、小さく折り畳まれた紙片だった。メモか、あるいは渡そうとしていた手紙だろうか。
けれど、それを取り出すことはなく、彼は顔を上げた。
「前から、白石さんのこと……ずっと見てた。なんていうか、その……最初から違うって思ってた」
息が乱れていた。言葉がところどころ、上ずっていた。
「勉強ができるとか、そういうのもあるけど……でもそれだけじゃなくて、すごく落ち着いてて、誰にも流されないっていうか……」
美冬は黙って聞いていた。彼の言葉が、今にも崩れてしまいそうな橋の上に積まれていくような、そんな感覚があった。
田島の両手が、わずかに震えている。
「それで……俺、ずっと、チャンスがあればって思ってて……。良かったら、俺と……付き合ってくれませんか」
最後の一言は、風に流されるように小さく、それでも確かに届いた。
美冬は目を伏せ、そっと息を整えた。言葉を探す時間が必要だった。
ほんの数秒の沈黙を置いてから、丁寧に、言葉を紡ぐ。
「……田島さん。お話ししてくださって、ありがとうございます。お気持ちは、真剣に受け取らせていただきました」
その声音はやわらかく、澄んでいた。けれど、そこにある静けさが、答えを明らかにしていた。
「ですが……申し訳ありません。お応えすることは、できません」
田島の眉が、かすかに寄る。風が一瞬止んだかのように、屋上に静寂が落ちた。
「……なんで?」
美冬はその問いにすぐには答えなかった。田島の声は少し低く、乾いていた。
「俺、何か変なこと言ったかな……? 嫌な思い、させた?」
「いえ。そんなことはまったくありません。田島さんが悪いわけではないんです。……私自身の問題です」
「問題……って、何?」
言葉を遮るように一歩踏み出した田島の声に、わずかに感情が滲む。美冬は一瞬だけ目を閉じ、静かに向き直った。
「私は、今はまだ……誰かと特別な関係になることを、考えられる状態ではありません」
「考えられる状態じゃないって……そんなの、言い訳じゃん」
その言葉には、少しだけ棘があった。けれど美冬は、動じることなく首を横に振る。
「言い訳ではありません。ただ……私は、“誰かを好きになる”ということを、軽々しく考えられないだけなんです」
「……俺は、軽い気持ちで言ってるわけじゃない」
田島の声音が、一段低くなった。握りしめた拳が、身体の脇で小さく震えている。
「俺だって、ずっと考えて……勇気出して……」
言葉の先を失ったように、田島は視線を逸らした。しばらくの沈黙のあと、彼は踵を返す。
「……もういいよ」
ぽつりと、それだけ残して。
扉に向かって歩き出す足音は、先ほどよりずっと速かった。
重く開かれた扉の音とともに、田島の姿が屋上から消えていく。
秋風がひときわ強く吹き抜けた。誰もいなくなった空の下で、彼女の心が静かに揺れた。
コンクリートの天板に寝転がっていた倉本琉亜は、背中に伝わる冷えと、荒々しい物音で目を開けた。
仰向けになったまま、ぼんやりと空を見上げる。高い空、乾いた風。午後の授業までの残り時間を潰すには、ちょうどいい場所だった。
人が来ることはない。ここは立入禁止。屋上からも見えない塔屋の上。この学校に通い始めてから、琉亜はずっとここをひとりの隠れ場所にしていた。
けれど今日は、違った。
微かに響いた扉の音。やがて足音。そして、短く張り詰めた会話の断片。
塔屋の真下で交わされた言葉のすべてを聞き取れたわけではない。それでも、何があったのかは察せられた。
断られたのは、男子の方。立ち去った足音は、早かった。
そして今──琉亜は、塔屋の縁からそっと身を起こす。眼下に、小さな人影があった。
白石美冬。
制服の襟元に風を受けながら、彼女はただそこに立ち尽くしていた。
何も語らず、何も動かず、風だけが彼女の黒髪をゆるやかに揺らしていた。
その姿を見て、琉亜はしばらく迷った。けれど、静かに膝を立て、塔屋の端に片手をかけると、いつもの無言を破って低く声を落とした。
「……風、冷えるよ」
屋上に、落ち着いた声が響いた。美冬は、少し遅れて顔を上げた。見上げた先に、塔屋の縁から琉亜の姿があった。
驚きよりも先に、微かな戸惑いが彼女の表情に浮かぶ。こんな場所に、人がいるなど思ってもいなかったのだ。
琉亜はそれ以上何も言わず、塔屋の上からただ、美冬を見つめていた。
声をかけたというより、つい漏れた言葉のように。美冬は、一拍の間を置いてから、ようやく口を開いた。
「……驚きました。まさか、こんなところに人がいるなんて」
美冬の声は、相変わらず丁寧で、落ち着いていた。けれど、風に吹かれるその声音には、わずかな疲労と戸惑いが滲んでいた。
塔屋の縁に腰をかけたまま、琉亜は彼女を見下ろしていた。
黒髪が風に揺れ、制服のスカートの裾が膝下でふわりと膨らむ。誰とも交わらず、孤立もせず、ただ静けさの中に立っている少女。琉亜は、彼女の名前を知らなかった。けれど、その佇まいにはどこか覚えがあった。
「……さっきの人、告白?」
唐突すぎる問いかけだった。けれど、声には余計な感情がなく、ただ事実を確認するような響きだった。
美冬は、その質問に一瞬だけまばたきをし、それから小さく頷いた。
「ええ。……よく、分かりましたね」
「だいたい、ああいうのって、見れば分かる」
琉亜は肩をすくめるようにして答えた。
「慣れてるの?」
続けて発せられたその問いには、興味というより、単なる確認の響きがあった。けれど、その言葉に、美冬はふっとわずかに口角を上げる。
「……そうですね。何度か、経験があります」
「断ったの?」
「ええ、丁寧に」
答える声には、ためらいはなかった。だが、そこには乾いた静けさがあった。
琉亜は、それ以上問い詰めることもせず、少しだけ視線を遠くへ逸らした。
風がまた、塔屋の壁に沿って吹き上がり、琉亜の髪を揺らした。
「断るのって、疲れない?」
その言葉だけが、しばらくして落ちてきた。
美冬は、返事をしなかった。けれど、わずかに視線を伏せ、長い睫毛が影を落とした。それが答えの代わりのように、静かにそこに在った。
琉亜も、それ以上言葉を重ねなかった。塔屋の縁に仰向けのまま身を預け、頭の後ろで腕を組む。
視線だけが、空の青さを横切って、ゆっくりと遠くへ流れていった。
短い静寂が、ふたりのあいだを風が通り過ぎていく。やがて、その沈黙を破ったのは、美冬だった。
「……倉本琉亜さん、ですよね?」
その声には、探るような気配はなかった。ただ、記憶の断片を一つずつ並べて確かめるように、名前を口にした。
琉亜の動きが、わずかに止まる。塔屋の縁から再び身を起こし、彼はゆっくりと美冬の方へ視線を向けた。
初めて、正面から視線が交わった。彼の瞳は淡く濁った灰色。感情を映すには静かすぎるその眼差しが、美冬の言葉を真正面から受け止めた。
「……そうだけど」「やっぱり」
美冬は、ごく小さく微笑んだ。だが、それは感情というより、ひとつの納得に似ていた。
「学年一位の方として、名前だけはよく拝見していました。何度か、成績表でお名前を見ていますから」
「……俺は、知らなかった」
琉亜は素直にそう答えた。悪気もなく、飾り気もなく、ただ事実だけを述べる声だった。
「そうでしょうね。……私は、白石美冬と申します。B組です」
美冬は一歩だけ前へ出て、ほんの浅く頭を下げた。その所作には、どこか古風な清楚さがあった。
「……倉本琉亜。D組」
数秒の間を置いて、琉亜もまた、同じように一礼を返した。
名前を交わすだけの、たった一度きりの形式。けれどそれは、ふたりの縁が始まった瞬間であった。




