第19話-十八-歯車
【倉本琉亜】
今日の帰り、少し時間をもらってもいい?
──そのメッセージが美冬のスマホに届いたのは、五時間目と六時間目のあいだだった。
画面に映る「倉本琉亜」の名前に、美冬の胸は唐突に跳ねた。
“答えはいらない”と手紙に書いたのに。どうして、こんなふうに、気持ちを乱すのだろう──なんて、思わず心の中で悪態をつきそうになる。
けれどそのすぐあとに、彼がそんな中途半端な“逃げ”の誘導に乗る人ではないことも、美冬はよく分かっていた。
そういう人だ。だからこそ、惹かれてしまった。
【白石美冬】
昇降口前で待ち合わせにしましょう
【白石美冬】
授業が終わったら向かいますね
一つのメッセージにまとめようとして、段落を下げるつもりで確定を押したら──誤って、途中で送信してしまった。
小さく息をのんでから、すぐにもう一つのメッセージを打ち直す。
そのままチャット欄をそっと閉じて、美冬はスマホを机に戻した。
気持ちの余韻を胸の奥に押し込むようにして、次の授業へ向けて、静かに呼吸を整えた。
六時間目のチャイムが鳴って、教室がざわつき始めた。
課題を提出する音、椅子が擦れる音、誰かが笑う声。そのすべてが少しだけ遠くに思える。
美冬は、鞄を手に取り、静かに立ち上がった。
心の奥でずっと微かに鳴っていた緊張の音が、次第に輪郭を持ち始める。足取りは変わらないはずなのに、胸の奥だけが少しずつ早鐘を打っているようだった。
昇降口に着くと、午後の光が差し込むタイルの床に、制服姿の男子がひとり、壁際に立っているのが見えた。
ブレザーの袖が微かに揺れていて、彼の影がまっすぐ床に伸びている──倉本琉亜だった。
彼はスマートフォンを見ていたわけでも、誰かと話していたわけでもない。ただ、そこに“いた”。
静かな沈黙の中で、昇降口の高い窓から差し込む光をそのまま受けながら。
──変わらない人だ。
美冬はそう思って、ほんの少しだけ微笑んだ。
自分でも気づかないほどの、小さな呼吸の変化だった。
「お待たせしました」
足音を立てずに近づきながらそう声をかけると、琉亜はゆっくりと顔を上げた。その灰がかった瞳に、美冬の姿が映った。
そして、短く一言。
「……いや、今来たところ」
嘘だ。でも、たぶん、その嘘は悪いものではない。
「倉本さん、返事は要らないって──書いてありましたよね?」
美冬は、ほんのわずかに眉をひそめてそう言った。
言葉の端に、悪態と照れ隠しがほんの少しだけ混じっていた。
「……ああ。そんなことも、書いてあったな」
琉亜は曖昧に笑うわけでもなく、まっすぐにそう返した。
もちろん読んでいないわけではない。
けれど、美冬の言葉の中に並んでいた“それ以外の感情”の方があまりに綺麗で──その行間に意識が奪われていた。
「……ちゃんと、読んでます?」
その返しに、美冬は思わず彼の顔を覗き込んだ。
問いかけというより、呆れと不安の中間のような声音だった。
すると、琉亜はわずかに肩をすくめながら、静かに答える。
「人聞きの悪いことを言うなよ。……読んでるよ」
その言葉の温度が、思いがけずまっすぐだったから。
まるで、この場で美冬の気持ちに名前をつけてしまうような響きがあって──彼女はふいに視線を逸らした。
そして、頬に熱が広がっていくのを自覚しながら、唇を引き結んだ。
「白石──こっち、向いて」
学校から離れて、帰り道の途中だった。琉亜の低い声が、美冬の耳にそっと触れた。
彼の言い方はいつもと変わらないはずなのに、不思議と胸の奥が波立つ。
美冬はゆっくりと身体の向きを変え、正面から彼を見つめた。
目が合う。逃げたくなるような、でも逃げたくないような。そんな、まっすぐな眼差し。
「俺も──好きだよ」
一拍の沈黙。その言葉が意味するものが、美冬の胸の奥にゆっくり沈んでいく。
「……色々と言いたくないっていうか、恥ずかしいことも、あるんだけどさ」
そう言って少しだけ視線を逸らす琉亜の姿に、美冬は一瞬、息を呑んだ。
無口で冷静に見える彼が、今こうして言葉を探しながら話している。その事実が、胸に温かくてくすぐったい痛みを生む。
「でも──初めて話したときから、気にはなってたんだよ。なんとなく、だけど」
それは曖昧な表現だったかもしれない。でも、美冬にはわかった。彼の“なんとなく”が、どれだけ慎重に積み上げられてきた気持ちの結果なのかを。
琉亜は、屋上で美冬と出会ってからというもの──意識せずに、彼女にまつわる言葉や行動、そんな些細な断片を拾ってしまう自分に気づいていた。
否応なく視線が向いてしまう日々に、きっと彼はずっと戸惑っていたのだろう。
「じゃあ──」
美冬が声を発しかけたその瞬間、琉亜が少しだけ視線を落として、言葉を挟んだ。
「……でも、俺はさ」
一拍、間を置く。
その沈黙には、うまく言えないものを抱えたまま、それでも言わなければならないという誠実さがあった。
「普通の家庭に生まれたわけじゃないから」
言葉を選ぶように、慎重に口にしたその声音には、どこか苦笑にも似た照れと、ほんの少しの痛みが滲んでいた。
「付き合うってなると……少し、いや──正直に言うと、かなり不安なんだ」
美冬を見つめたままの瞳は、真剣だった。
自分の過去を言い訳にしたいわけじゃない。ただ、彼は“相手に背負わせるもの”を、無視できない人なのだ。
「……もちろん、不幸だった、なんて言うつもりはないんだけどな」
言いながら、琉亜はわずかに口元を引き結んだ。
事実として過去はある。でも、それを盾にしたくはなかった。彼女の前でだけは──特に。
「俺の人生が特別だなんて思ってないし、誰かと比べたいわけでもない。
ただ……自分でも、ちゃんと向き合えてるかどうか、わからない時があるから」
言葉を重ねるたびに、その声音は少しずつ素直になっていった。
飾らず、偽らず。けれど、伝え方にはずっと慎重なまま。
それが倉本琉亜という人だった。
美冬は、琉亜の言葉を黙って聞いていた。
言葉の一つひとつが、丁寧に選ばれていたことがわかった。
彼は自分の過去を“重み”として押しつけてこない。
けれど、その背景に確かに“傷”があることも──わかってしまう。
「……私も、似たようなものです」
美冬はそう言って、ゆっくりと瞳を上げた。
淡い黒の瞳が、琉亜の灰がかった瞳にまっすぐ向かう。
「両親を事故で亡くしました。中学一年のときに、急に──何の前触れもなく」
言いながら、美冬の声は少しだけ震えた。けれど、それでも彼女は言葉を止めなかった。
「ずっと、誰かと深く関わることが怖かったんです。失ったときに、またあの痛みを味わうのが嫌で……。でも──それでも、きっと私は……」
一度だけ、目を伏せた。
そして再び顔を上げたときには、ほんのわずかに、けれど確かに微笑んでいた。
「あなたとなら、怖いままでも前に進んでみたいって思ってます」
その言葉は、静かで、あたたかくて、そしてとても強かった。
「……だから、手紙を書いたんです」
声に出した瞬間、自分の鼓動が一段と強くなった気がした。
それでも美冬は、しっかりと前を向いていた。
気持ちは、伝えたいときに伝えなければいけない。
それをしなければ──きっと、いつか必ず後悔する。
そしてその後悔は、自分の中で一生消えずに残ってしまう。
だから。
「……だからこそ、“返事はいらない”って、言ったんですよ?」
静かな語調だった。
強がりに見えたかもしれない。
でもそれは、彼の気持ちを試したわけでも、逃げたかったわけでもない。
“伝えること”そのものに、意味を見出していたからこその言葉だった。
自分の気持ちは、自分の意志で完結させる。
彼からの返事がなくても、伝えることを選んだ自分を、誇りに思いたかった──それなのに。
今、こうして隣にいる彼は、自分の言葉にしっかりと向き合ってくれている。
その事実が、美冬の胸の奥に、じんわりと温かな痛みを生んでいた。
琉亜は気が付いた。
好意を向けられること。それに応えること。あるいは、応えられないこと。どちらも、相手の心に何かを刻んでしまうことを。
──だから、人を好きになるということは、決して良いことではない。甘くはない。
好きになったそのときから、自分の言葉も、沈黙も、何気ない仕草さえも、相手を傷つける可能性を孕む。
それを、見て見ぬふりはできない。
そも、それだけは、絶対にしたくない。
──そうか。
人を好きになるってことは、人を傷つけてしまうことに、敏感になるってことなんだ。
優しくなろうとすることじゃない。
強くあろうとすることでもない。
ただ、目を逸らさないこと。
それが、今の自分にできる、最初の「好き」の形だった。
その気づきが、胸の奥で静かに形を持ったとき、琉亜はふと、美冬の方を見やった。
彼女は黙って彼を見つめ返していた。何も言わず、けれど、否定もせず。
もう言葉を交わす必要はないのかもしれない──そう思えるほどに、そこにあった沈黙は、あたたかかった。
でも、琉亜は口を開いた。言わなければならない、そう思った。
「……ありがとう。伝えてくれて」
それは、美冬の気持ちに対する返事であり、彼女の勇気に向けた敬意だった。
美冬は少し驚いたように瞬きをして、それから、ゆっくりと頷いた。
「こちらこそ……ありがとう、ございます」
彼女の声は静かで、けれどその瞳の奥に、わずかな潤みが光っていた。それを琉亜は、見て見ぬふりをした。
二人の間に、また沈黙が訪れる。けれど、それはもう気まずさではなかった。
「……帰ろう。一緒に」
その言葉はただ、ごく自然な呼吸の延長のように交わされ、二人はゆっくりと歩き出した。
夕暮れの風が頬を撫でる。互いに触れることはなくても、その距離はもう、遠くなかった。
駅の入り口まで、美冬と並んで歩いた。
互いに多くを語ったわけではない。でも、それでよかった。沈黙の中に流れる空気が、どこか穏やかだったから。
駅の階段の手前で、美冬が立ち止まった。
振り返った彼女の顔に、少しだけ名残惜しさが滲んでいるのが、琉亜にはわかった。
「……また明日」
そう告げた琉亜の声は、夕暮れの駅前にそっと溶けていった。
その言葉には、無理に気負った色はなく、けれど確かに、彼の中に芽生えた何かが込められていた。
美冬は一瞬だけ目を伏せて、それから顔を上げた。そして、柔らかな声で静かに返す。
「……はい。また明日」
笑ってはいなかった。けれどその瞳には、安心にも似た、あたたかい光が宿っていた。
それは、もう一度会いたいと思える人に向ける、静かな約束のようだった。
美冬が改札へと歩き出す。その背中を、琉亜はしばらくのあいだ見送っていた。
制服の背に揺れる髪が、駅の照明にふわりと照らされる。美冬が振り返ることはなかった。けれど──それでもいいと思えた。
言葉よりも、声よりも。今は、あの“また明日”だけで、十分だった。
彼女の姿が改札の奥へと消えたあと、琉亜はひとつ小さく息を吐き、それからゆっくりと踵を返した。
駅のホームで電車を待っていた美冬は、送るべきか送らざるべきか悩みながら、けれども、最後にはメッセージを送信した。
【白石美冬】
今日は駅まで、ありがとうございました。
これからも、どうぞ、よろしくお願いいたします。
少しだけ堅く、形式ばったその文章は──いかにも彼女らしかった。
言葉の端々に、慎重さと誠実さが滲んでいる。
まるで、自分たちの関係をそっと“定義づける”ための、一通の宣言のようにも見えた。
【倉本琉亜】
よろしく、美冬。
その返事は、短くて、あたたかくて──そして、彼が初めて彼女の名前を呼んだ瞬間だった。
スマートフォンの画面に表示されたその一文を、美冬はしばらく見つめていた。
ほんのわずかに、唇の端が緩む。これ以上は電車の中で見ていられないと思い、胸の奥に灯った熱を抱きしめるように、そっと画面を閉じた。
一旦完結にします。
来月か再来月かに、完結を解いて再投稿を始めます。




