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青綴り  作者: 遥
第壱章-俺と私の心が重なるまで
18/19

第18話-十七-告白

 1月6日、金曜日──新年初登校日。


 冬の朝はいつもより静かで、どこかまだ夢の続きのようだった。通学路の途中、白石美冬は何度目かの深呼吸をしながら歩いていた。

 制服のポケットに、昨日から入れたままの便箋が一枚。折りたたんだ紙の存在を意識するたび、胸の奥が落ち着かなくなる。

(今日、渡す……)

 そう決めていた。年が明けてから、何度も迷っては、結局この日にしようと心に決めたのだ。教室に入ってしまえば、タイミングを逃してしまいそうで──だから、美冬は朝の昇降口で彼を待っていた。

 登校してくる生徒たちの中に、彼の姿を探す。雑音のように飛び交う挨拶や笑い声の中で、美冬の耳だけが静かだった。心臓の音ばかりが、自分にだけ聞こえている気がした──そして、見つけた。

 人混みの先、無言のまま歩いてくる琉亜の姿。黒に近いコートの裾が揺れていて、濃紺のマフラーが静かに風を受けていた。少し伏せ気味の視線。だけどその目は、真っ直ぐに前だけを見ていた。

(ああ……やっぱり)

 その姿を見るだけで、決心が揺らぐどころか、確信に変わっていく。伝えたい。この気持ちを、言葉でなくても、手紙というかたちで──ちゃんと。数歩、前に出る。そして──呼び止めた。

「……倉本さん」

 琉亜がふと足を止めて、美冬の方へと視線を向けた。

「おはよう。……どうかした?」

 彼の声はいつも通りだった。でも、美冬の中では、今この瞬間だけが特別だった。

「あの……これ、受け取ってもらってもいいですか?」

 制服のポケットから、丁寧に折った便箋を取り出す。手渡す直前まで震えていた指先が、そのときだけは、なぜか穏やかだった。

 琉亜は一瞬だけ目を瞬かせたが、黙ってそれを受け取った。紙の感触を確かめるように視線を落とし、それから、美冬に問いかけることもせず、ただ静かに頷いた。

「……わかった。あとで読むよ」

 それだけの言葉だったのに、美冬の胸の奥には、音のない鐘のようなものが鳴っていた。

「ありがとう、ございます……」

 声はかすれてしまったけれど、それでも、笑顔は浮かべることができた。

 すれ違うように彼が昇降口を過ぎていく。制服のポケットに、あの手紙をしまったまま。すぐに答えが返ってくるわけじゃない。でも、それでいいと思った。

 今日、この瞬間、この小さな勇気で──ようやく、伝えることができたから。


 昼休み。

 教室の窓から射し込む冬の陽射しは、どこか鈍く、机の上に淡い光の輪を落としていた。ストーブの音と、昼食を広げるクラスメイトたちの話し声が、遠くの雑踏のように聞こえる。その中で、倉本琉亜はひとり、自分の席に座っていた。

 手には、今朝受け取った便箋。制服のポケットの中で、折りたたまれたままのそれを、彼はようやく取り出していた。触れる指先が、ほんのわずかに冷たく感じられるのは、教室の気温のせいではなかった。

 机の上に静かに置かれた白い紙。琉亜は、ゆっくりと息を吐いてから、それを広げた。

 ──最初に、名前が書かれていた。

 “倉本さんへ”という、ただそれだけの書き出し。けれど、その五文字には、言葉にできない何かが詰まっていた。

 描かれた一文字一文字が丁寧で、慎重だった。

 けれど、硬さや緊張ばかりではない。震えの裏に、迷いながらもそれでも伝えようとする意志が確かに感じられた。筆跡のひとつひとつが、美冬の人柄を映しているようだった。

 書かれていたのは──「ありがとう」と「好きです」の言葉。

 けっして長くはなかった。飾り立てた表現もない。ただまっすぐに、彼と過ごした時間のこと、年越しの夜のこと、静かな文体で紡がれていた。

 けれど、そこにクラスのトラブルのことは、一切触れられていなかった。

 琉亜はしばらくのあいだ、読み終えた紙を指先で挟んだまま、視線を落とし続けていた。便箋の余白が、不思議なくらい静かに語りかけてくる気がした。

 ──書かなかったのではない。書けなかったのだ。そう、思った。

 あのとき、美冬はきっと、誰にも助けを求められなかったのだ。求めるという発想さえ、持てないほどに、ひとりで耐えていた。誰かに委ねるという手段ではなく、ただ黙ってやり過ごすことでしか、自分を守れなかった。

 何も語られなかったことが、逆に多くを語っている。あの便箋に込められたのは、伝えられなかった苦しみではなく──それでもなお、誰かに想いを届けたいという、静かで確かな願いだった。

(……自分は、あのときの彼女を、どれだけ見ていたのだろう)

 琉亜の胸の内に、ふと鈍い痛みが走った。

 笑っていた彼女も、黙っていた彼女も、その背中に何を背負っていたのか。本当の意味で、気づいていたわけじゃなかった。ただあのとき、自分の中にある“憧れ”が、"正義"が、"不快"の感覚が、彼女を見逃さなかっただけだった。

 ──けれど、それでも彼女は、そんな自分に手紙を託した。

 伝えられなかった過去ではなく、今の気持ちを言葉にして。

 それが、どれほどの決意に支えられていたのかを思うと、琉亜の胸の奥に、静かに何かが芽吹くのを感じた。

(……俺なんかじゃ、受け取れないんじゃないかって思ったのに)

 けれど、彼女はそれでも、渡してくれた。渡さなければ、何も始まらないと分かっていたのだろう。伝えたい気持ちが、どれほど勇気を必要としたか。

 そう考えるほど、便箋の重みが増していくようだった。

 窓の外では、冷たい風が葉を揺らしていた。

 琉亜は、手紙を静かに折りたたむ。ポケットにしまうその仕草は、無意識のうちにごく丁寧だった。

 白石美冬が自分に好意を持ってくれている。その事実が、胸の奥で確かな熱を灯していた。

 言葉にはできなかった。けれど、ほんの少しだけ──彼の呼吸は、やわらかくなっていた。

 琉亜は、便箋をそっと畳み、制服の内ポケットへとしまった。音ひとつ立てないように──まるで、それ自体が大切なものの証であるかのように。

 窓の外では、風が校舎の隅を撫でていた。木々の枝が揺れ、冬の陽が硝子越しに淡く差し込む。新年初日の教室は、いつものように雑然としているはずなのに、自分のいるこの片隅だけが静かに切り取られているようだった。

(……本当に、渡してくれたんだな)

 感情は、明確な言葉にはならなかった。ただ、胸の奥にひとつ、何かが沈んだまま熱を持っているのを感じていた。

 ──伝えることを選んだのだ。彼女は。

 過去の痛みには触れずに、それでも今の想いだけを、真っ直ぐに。

 その姿勢が、今の美冬そのものを物語っているように思えた。

(俺は、どうしたいんだろう)

 問いかけるように自分の手を見つめた。手紙を受け取ったとき、自分の指はかすかに震えていた。彼女が選んだのは「届ける」という行為だった。

(もし、俺が……)

 そこまで思い至って、琉亜はふと目を閉じる──これ以上、彼女に背を向けたくない。

 そう、思った。

 自分の中に芽生えたこの気持ちに名前をつけることは、たぶん、もう難しくなかった。ずっと心のどこかで彼女を見ていた。あの塔屋の上から、たった一人で見ていた、秋の昼休み。あのときから、もう何かが始まっていたのだと、今になって気づく。

 琉亜はゆっくりと立ち上がった。

 手紙をしまったポケットの上に、そっと手を添える──白石美冬。その名前を、誰に知られることもなく心の中で呼んだ。呼んだだけで、胸の内に波紋が広がった。

(……俺も、ちゃんと答えなきゃな)

 窓の外に目をやれば、空は青く澄んでいた。冬の空は高く、遠く、けれど冷たさの奥に確かな明るさを抱えている。この気持ちも、どこかそれに似ていると思った。


 ──答えを出すのは、なるべく早い方が良いよな


 必ず。美冬の勇気に、自分も誠実でありたいと、そう願っていた。

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