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青綴り  作者: 遥
第壱章-俺と私の心が重なるまで
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第17話-十六-気持ち

 1月2日、月曜日の午後。陽はまだ高いはずなのに、空気はどこか夕方の匂いを帯びていた。窓の外に風の気配はなく、カーテン越しの陽光が淡く部屋を包んでいる。白石美冬は、こたつに入ったまま文庫本を開いていた。けれどページは途中で止まり、指先でなぞる文字の意味も、頭には入ってこなかった。思考は遠く、彼の面影ばかりを追っていた。

 ──あの夜から、まだ一日しか経っていない。

 年越しそばを一緒に作って、初詣へ出かけて、朝方になって、彼は「またな」とだけ言って玄関を出ていった。特別な言葉を交わしたわけではなかったのに──あの穏やかな時間が、終わってほしくないと心から思った。 

(……好き、なんだと思う)

 胸の奥が、きゅっと小さく震えた。声にこそ出していないのに、それだけで自分の輪郭が少し変わった気がした。恋という感情には慎重だった。けれど、気づけば自然に彼を想っていた。


 最初の出会いは屋上の、それこそ何気ない瞬間だった。何となく視線で追ってしまった。彼の「幻想性」とでも言うのだろうか、強く惹かれていた。

 彼の姿を、様々な場所で見かけてきた。教室の片隅で、屋上の陽だまりで、誰にも気づかれない場所で──彼はいつも少しだけ世界から距離を取っているようだった。周囲とは違う空気を纏いながら、決して孤立しているわけでもなく、それでもどこか“特別”な存在として、彼はそこにいた。

 その特殊性に、美冬はいつからか気づいていた。そして、あの日──教室で起きた出来事。いじめと呼ぶにはあまりにも悪意に満ちた加害行為。学校という枠の中では曖昧に処理されようとしていたそれを、彼の目は違う次元で見つめていた。まるで、それが“事件”であると当たり前のように理解しているかのように。

 彼の瞳に宿っていたのは、冷静でありながら深い感傷だった。その目に自分が映った瞬間──美冬は、なぜか涙がこぼれそうになった。助けてくれたことだけではない。自分の苦しみに、正面から目を向けてくれた彼のまなざしが、なによりも救いだった。

 そして、美冬は気づいていた。あの瞳の奥にある孤独を、自分も抱えているということに。傷のかたちも、深さも違っていたかもしれない。けれど、ひとりで抱えていた暗がりのようなものに、そっと寄り添うように在ってくれたその存在が──どれほど自分の心を支えてくれたか。だからこそ、美冬にとって、彼が“倉本琉亜”であるということが、何よりも大きな意味を持っていた。


 ──それでも、怖い。


 言葉にしてしまえば、今の関係が壊れてしまうかもしれない。そう考えるたびに、気持ちは立ち止まりそうになった。こたつの上には、昨日のおみくじがそのまま広げられている。「中吉」の文字。“焦らず、誠実に行動すべし”という一文が、白い紙の中央に静かに残っていた。

(……誠実に)

 その言葉に、不思議と琉亜の姿が重なった。飾らず、まっすぐで、自分の内側を大事にする人。あの夜、名前を呼ばれた瞬間の感覚──胸の奥で波紋のように広がった温もりが、まだ残っていた。

 何を言えばいいのか、どんな言葉を選べばいいのかはわからない。でも、もしかしたら──「好きです」と伝えることが、いちばん誠実なかたちなのかもしれない。たとえ、今の関係が変わってしまったとしても。それでも、この想いは伝えたいと思った。

 あの夜、彼が見せたあたたかい表情が忘れられない。寝言のように自分の名前を呼んだ、あの静かな声。名前に触れられたことで、私の中に芽生えた感情に──きちんと、応えてあげたかった。

「……よし」

 静かに立ち上がる。決意というには小さな声だった。でも、それはたしかに、美冬の中で輪郭を持った意志だった。机の引き出しを開け、便箋とペンを取り出す。まだ、渡す日は決まっていない。でも、ちゃんと書こうと思った。言葉で、自分の心をかたちにして。


 彼と過ごした時間のぬくもりと──その先へと繋がる、たったひとつの想いを。


 便箋の余白は、白く広がっていた。ペン先を静かに紙に置くと、わずかにインクの滲む音が聞こえた。けれど、最初の一文字を綴るまでに、美冬はしばらく時間を要した。

 言葉を選ぶのはこんなにも難しい。彼に伝えたい想いは心の奥でちゃんと形になっているのに、どうしても文字にすると、どれも軽すぎたり違っていたりする気がしてしまう──でも、ちゃんと伝えたい。

 あの夜、こたつの向こうで笑ってくれた彼。名前を呼んでくれた声。ふたりで並んで拝んだ神社の夜。

 そのどれもが、自分の中で色づいている。

 「好きです」──その一言のために、思い出をひとつずつ書き起こしていく。まるで、自分の気持ちの輪郭をなぞっていくように。

 美冬の手は少し震えていた。それでも丁寧に、静かに、一文字ずつペンを進めていく。便箋の上に、彼の名前が初めて書き出された瞬間、胸が温かくなるのを感じた。まるで、その名前に向かって気持ちが伸びていくようだった。けれど、最後に「好きです」と描けなかった。


 1月3日の朝。

 空は雲ひとつなく澄み渡り、吐く息は白く舞った。空気は刺すように冷たいのに、白石美冬の胸の奥には、不思議とあたたかなものが灯っていた。

 マフラーをぎゅっと巻き直しながら、美冬は小さな公園の歩道を歩いていた。まだ誰もいない朝の公園。霜が降りた芝生の上では、小鳥がちょんと跳ねて、細い枝を揺らしていた。

 世界はすっかり冬の装いだったが、美冬の心には──静かな春が、ゆっくりと芽吹きつつあった。

 ポケットに入れたままの便箋に、指先が触れる。昨夜、自分の部屋で書き上げた手紙。まだ、渡す日もタイミングも決めていない。ただ、その文字ひとつひとつには、今の自分のすべてが詰まっていた。

 手紙をポケットに入れたまま、こうして歩いているだけでも、自分の気持ちにほんの少しだけ近づけた気がした。

(……伝えたいな)

 彼の姿が思い浮かぶ。こたつ越しに交わした視線、名前を呼ばれた瞬間のぬくもり。──それらを思い出すだけで、胸の奥がやさしく震えた。

 彼は今も、誰にも知られない場所で、変わらず静かに過ごしているだろう。けれど──だからこそ、自分はこの想いを、きちんと形にして届けたいと思った。


 同じ日の午後。

 陽が傾きはじめた時間帯、カフェの窓際の席に、美冬と永野結芽は並んで座っていた。カップから立ちのぼる湯気がふんわりと空気に溶けていく。結芽は、ストローをくるくると回しながら、優しく問いかけた。

「……で、本題はなに?」

 柔らかな声だった。けれどその視線は、いつものようにまっすぐで、美冬の顔を真剣に覗き込んでいた。

「えっと……ちょっとだけ、聞いてほしくて……」

 美冬は、目の前のカップの縁を指でなぞりながら言った。言葉が喉につかえている。でも、それでも話したかった。

 ほんの短い沈黙のあと、意を決して──口を開く。

「……私、たぶん、好きになったんだと思う」

 その言葉は、小さく、けれど確かに落ちた。結芽は目を見開いたあと、ふっとやさしく笑う。

「“たぶん”じゃなくて、そうなんだと思うよ。……美冬の顔、完全にそっちの顔してる。……前からそう思ってたけどね」

 美冬は思わず視線を逸らす。けれど、その横顔を見た結芽は、カップをそっと置いて穏やかに続けた。

「言いたいなら、言えばいいと思う。結果がどうなっても、その想いは絶対に無駄じゃない。大事に想ってる気持ちって、ちゃんと伝える価値があるから」

 その言葉は、どこまでもまっすぐで、あたたかかった。気持ちに踏み出す勇気は、いつもこうして、そばの人に少しずつ手渡されていくのかもしれない。美冬は、ゆっくりと顔を上げた。


 ──そうだ。やっぱり伝えたい。


 あの手紙を、ちゃんと渡そう。書けなかった言葉に感情をラベリングして。今はまだ怖いけれど、それでも。結芽の言葉が、美冬の背中をそっと押してくれたから。

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