第16話-十五-初詣
「……るあ、さん」
その名を、かすかな声で呼ぶ寝言が聞こえた。琉亜は、ほんのわずかに驚いたようにまばたきをする。視線を横へ向けると、美冬の唇が微かに動いたあと、また静かに閉じられていた。
(寝言で名前呼ぶか……)
冗談めかして笑うでもなく、けれどどこか胸の奥がくすぐられるような感覚だけが残った。美冬の呼吸は深く穏やかで──こたつのぬくもりに包まれながら、まるで夢の中でも、誰かの存在を確かめているようだった。
時間はすでに深夜。けれど、このまま帰るのは、なにか違う気がする。むしろ、今から一緒に初詣へ向かう方が自然だろうと、琉亜は思った。
──ふと。
「……あれ?」
美冬のまぶたが、ほんの少しだけ持ち上がる。ぼんやりとした光が瞳の奥に差し込み、まだ夢と現のあいだを彷徨っているようだった。
「起きたか?」
琉亜が小さく声をかけると、美冬は一瞬きょとんとしたあと、ゆっくりと頷いた。
「……うん。……わたし、寝てました?」
「ああ。ちょっとだけ」
琉亜の声は、少しだけ抑えられていた。美冬は恥ずかしそうにこたつ布団の端を掴み、頬を隠すようにうつむいた。
「ごめんなさい……せっかくの年明けなのに……」
「別に謝ることじゃないって。俺はここにいたし」
その言葉に、美冬は一瞬だけ目を見開いて──それから、小さく笑った。
「……そうですね」
まだぼんやりとした頭で、それでも心だけは、あたたかく目を覚ましていた。時計の針は、すでに午前1時を回っている。
「初詣……どうしますか?」
その問いは、美冬のほうからだった。こたつ布団を少しだけめくりながら、琉亜の顔を見上げる。琉亜は一瞬黙ったあと、そっと頷いた。
「行くか。せっかくだし」
新しい年の始まり。誰と、どこへ行くかよりも──今、美冬とこの夜を過ごすことが、なにより自然だった。
着替えを終えた美冬が階段を降りてくると、琉亜はすでに玄関前で待っていた。
彼は持参していた黒のロングコートを羽織っていた。ウール素材のそれは身体にほどよく馴染み、立ち襟を折ったまま、前は開けたままにしている。
中にはダークグレーの暖かそうなシャツが覗き、濃紺のマフラーが首元でゆったりと巻かれていた。コートの裾は膝下まで届き、動くたびに柔らかく揺れていた。
全体的に装飾のないシンプルな形だが、そのぶん落ち着いた印象が際立っている。色合いも含めて、どこか都会的で洗練された空気をまとっていた。
薄墨色に近い髪は少し乱れていたが、濡れたような艶を帯びており、室内の灯りに淡く照らされている。視線を伏せたときに見える睫毛の影が長く、どこか涼しげな顔立ちは、寒空に溶け込むような静けさを纏っていた。
「待たせてすみません」
「いや、待ってない」
自然に返されたその言葉に、美冬はほんの少しだけ口元を緩めた。自分と同じように、彼もまたこの時間を穏やかに過ごそうとしてくれている──それが、わずかな言葉からも伝わってきた。
玄関先で上着を手に取った美冬は、グレーのダッフルコートを羽織りながら手袋をはめる。マフラーを軽く巻いたあと、足元を確認するように小さく頷いた。
「じゃあ……行きましょうか」
「ああ」
ドアが開け放たれると、夜の冷気がさっと入り込んできた。澄んだ空気の中に、雪の気配がまだ残っている。空を見上げれば、雲はなく、星の瞬きがわずかに見えていた。
門を出て、並んで歩き出す。街灯の明かりに照らされながら、ふたりの影がアスファルトの上に細く伸びていく。住宅街はしんと静まり返っていたが、ところどころに人の気配があり、遠くから笑い声が風に運ばれてきた。
「……元旦って、いつもこういう感じなんですかね?」
美冬がふと口を開く。足元を見つめたままの声は、どこか迷い混じりの響きを帯びていた。
「前……って言っても、4、5年くらいかな。親に連れられて初詣とか行ってたけど……ここ数年は、家で寝てたな。人混みが嫌で」
「……わかります。私も、ここ数年は行ってませんでした。でも──」
そこまで言って、美冬は少しだけ琉亜の横顔を見上げた。
「……今日は、行きたかったです。倉本さんと一緒に、年の始まりをちゃんと迎えたくて」
言い終えたあと、美冬は少しだけ視線を逸らした。けれど琉亜は、歩く速度を緩めることなく、短く返す。
「そっか。……なら、来てよかったな」
それは気の利いた返しではなかったかもしれない。けれど、誠実だった。飾りのない言葉なのに、そこに込められた“受け取る姿勢”が、美冬にはきちんと伝わっていた。
川沿いの緩やかな道を歩いていくうちに、ふたりの前方に朱塗りの鳥居が姿を現した。闇に浮かぶように立つその姿は、年の瀬から新たな時の境目を告げる門のように見えた。
石畳の脇に並ぶ灯籠には、蝋燭の光がともされていた。風もなく、淡く揺れる炎は輪郭を保ったまま、静かに夜の空気を照らしている。参拝客の姿はまばらで、騒がしさのない境内には、ひとつひとつの足音さえ、やさしく雪に吸い込まれていくようだった。
その場の空気には、喧騒ではなく、静けさに満ちた“年の始まり”の気配が、たしかに息づいていた。
鳥居をくぐった瞬間、空気がわずかに変わったように感じる。外の通りと比べて、境内はひときわ静かで、木々の間を通る風がかすかに葉を揺らしていた。
石段を上がると、小さな拝殿が正面に見えてきた。飾りすぎない造りの神社だったが、その簡素さがかえって荘厳な雰囲気を漂わせている。木製の鳥居から奥へと続く参道の両脇には、奉納された提灯が並び、ほのかな灯りを放っていた。
拝殿の前に着いたふたりは、自然と立ち止まった。石畳の下に雪はなかったが、空気はひんやりとしていて、吐く息が白く宙に揺れる。
「……五円、ありました」
「こっちも、なんとか」
ふたりは自然と目を合わせると、並んで賽銭箱の前にそっと足を止めた。境内にはいくつかの人影があったが、列ができるほどではない。静けさの中に、遠くの鈴の音だけが微かに響いている。
美冬はコートのポケットに手を入れ、小さなファスナーつきの財布を取り出した。琉亜もまた、ズボンのポケットから、使い込まれた無地のレザーウォレットを引き出す。その所作に無駄はなく、ふたりとも、ごく自然に小銭を探っていた。
指先で硬貨を選ぶ動作は慎重で、どこか祈りの前にふさわしい静けさを伴っていた。美冬は五円玉を、琉亜は百円玉を指先に取り、そっと手のひらに載せる。その銀色と黄味がかった光が、灯籠の明かりにほのかに反射した。
──からん、と。──しゃらり。
わずかな硬貨の音が、澄んだ夜気の中にやさしく溶けた。
──礼。
ふたりはゆっくりと、深く頭を下げた。
──もう一度、礼。
ふたたび、慎ましく頭を垂れる。背筋を正し、ふたりの手が同時に胸元で合わさる。
──拍手。
ぱん、ぱん。
夜気のなかに、ふたつの音が澄んで響いた。美冬は静かに目を閉じ、手を合わせたまま、心の中で願いごとを唱える。琉亜もまた、短く目を伏せ、胸の内で何かを結ぶように、静かに祈っていた。
──そして、一礼。
最後の礼を終えると、ふたりは自然と顔を上げた。どちらからともなく目が合い、小さく笑いあう。
「……ちゃんとできましたね」
「まあ、たぶん。忘れてなくてよかった」
そう言って肩をすくめる琉亜に、美冬は小さく笑った。
境内の脇には、小さな休憩所のような東屋があった。ふたりはそちらへと歩を進め、並んで腰を下ろす。
背後からは、他の参拝客たちの足音や、かすかな会話が聞こえていた。それでも、その東屋には穏やかな静けさがあった。
手をこすりながら、美冬が口を開く。
「……おみくじ、引いていきますか?」
「そうだな。せっかく来たしな」
ふたりは立ち上がり、おみくじの並ぶ台へと向かった。
白い箱に手を伸ばすと、木の玉が軽く転がる音がした。おみくじは、神社らしい素朴な印刷の和紙に包まれており、どこか懐かしい手触りがあった。
琉亜は少しだけ迷ったあと、ひとつを引き抜く。美冬もまた、隣でそっと一枚を選んでいた。ふたりは並んだまま、紙を広げていく。
「……どうでした?」
先に声をかけたのは美冬だった。おみくじを両手で丁寧に持ったまま、琉亜の方をそっと見上げる。
「……小吉。まあ、無難だな」
素っ気なく言いながらも、表情には少しだけ笑みが浮かんでいた。
「ふふ、そうなんですね。私は……中吉でした」
「お、そっちのほうがいいな」
「でも、“焦らず、誠実に行動すべし”って。……難しいですね」
「白石はもともと誠実だろ。……焦るかどうかは、知らないけど」
思ったことをそのまま口にすると、美冬は一瞬だけ目を見開いて──それから、小さく笑った。
「……ありがとうございます」
お礼の言葉がごく自然に口をついて出たのは、きっと、そう言ってもらえたことが、少しだけ自信になったからだ。
ふたりは、おみくじを結ぶ場所へと向かった。境内の一角には、冬の夜空に白く浮かぶような細い木の枝があり、そこにはすでにいくつものおみくじが結ばれていた。
琉亜は無言のまま、小吉のおみくじを折りたたみ、枝の先にひと結びした。美冬もまた、慎重に自分の紙を結びつける。
風はなかったが、どこか時間がゆっくりと流れていくような感覚があった。結び終えたあと、ふたりはもう一度だけ社殿を振り返った。
──今年一年、何があったとしても。
この静かな夜の記憶は、きっとずっと胸の奥に残っていく。そう思わせるような、穏やかで確かな始まりだった。
「……そろそろ、帰ろうか」
琉亜の言葉に、美冬はこくりと頷いた。
「はい。……来て、よかったです」
そう言った彼女の声は、夜気に溶けるように、静かで優しかった。
二人は並んで石段を下り、再び朱の鳥居をくぐる。ふたりは再び夜の道へと足を踏み出した。街灯の下、コートの裾がかすかに揺れ、足元から伸びるふたつの影が並ぶ。琉亜は美冬に歩調を合わせながら、ポケットに手を入れて静かに歩いていた。
その横顔を、ふと美冬は見つめる。暗がりの中でも、彼の輪郭は不思議と明るく見えた。
濃紺のマフラーに半ば隠れた首筋。夜風にわずかに靡いた黒のコート。整えすぎない無造作な髪の隙間から覗く、伏せられた睫毛の影。そのどれもが、いまの静かな時間に溶け込んでいて、見ているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。いつだったか、自分はこの人のことを「静かなひと」と思った気がする。必要以上に言葉を飾らない、でも拒絶もしない。寄り添い方を、急がない──そしてそれは、ずっと、自分が欲しかった距離感だった。
(……好き、なのかな)
不意に、そんな言葉が心の中で形を取った。
誰かを想うことに、明確な理由なんて要らないのかもしれない。ただ、その隣にいたいと思える瞬間が、積み重なっていく。その途中で気がついたときには、もう変わらない気持ちになっている。
こたつのぬくもりに包まれて過ごした夜も。
名前を呼んでしまった、あの夢の中も。
隣にいたのが倉本琉亜だったから、あんなにも、心が穏やかだった。
「……寒くないか?」
琉亜の声が、美冬の思考をそっと現実に引き戻す。
「えっ、あ……うん。大丈夫です」
思わず言葉が遅れたのは、自分の中で生まれたその感情に、まだ少し戸惑いがあったからかもしれない。けれど、それを隠そうとは思わなかった。小さく笑って、ゆっくりと彼の隣を歩き続けた。見上げれば、星が変わらぬ輝きを放っていた。
(……うん、やっぱり)
もう一度、心のなかで確かめる。
(私、倉本さんのことが──好きだ)
そう思った瞬間、美冬の頬は、夜風にもかかわらずほんのりと赤らんでいた。




