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青綴り  作者: 遥
第壱章-俺と私の心が重なるまで
15/19

第15話-十四-新年

 日付:12月31日(土)

 時間:午後6時42分


 窓の外はすっかり暗くなり、街には年の瀬らしい静けさが漂い始めていた。リビングの照明は少し落とされ、間接照明がやわらかく空間を照らしている。白石美冬は、こたつからそっと立ち上がると、声をかけた。

「そろそろ……お蕎麦、作ろうかなって思うんですけど」

 琉亜は読んでいた本から顔を上げ、美冬の方を見た。

「お、そばって……あれか。年越しそば?」

 琉亜が軽く問いかけると、美冬は小さく頷いて、手元の器を整えながら答えた。

「はい。……こういう季節の行事だけは、毎年ちゃんと続けてきたんです」

 美冬は微笑んだ。その口調はあくまで穏やかだったが、そこには“ひとりで”という言葉が含まれていることを、琉亜は何となく察した。

 キッチンに立つ美冬の背中は手慣れていた。食器棚から丼を取り出し、出汁の材料をそろえている動きに無駄がない。けれどその手順は、どこか丁寧すぎるほど丁寧で──長年の習慣に寄り添うような静けさがあった。

「手伝うことあるか?」

 琉亜が声をかけると、美冬は少し驚いたように振り返り、それから小さく首を傾げた。

「じゃあ、お湯を沸かすの、お願いしてもいいですか?」

「ああ、それくらいなら」

 琉亜はすっと立ち上がり、キッチンの端に置かれた電気ケトルを手に取ると、蛇口から水を注ぎはじめた。軽やかな動きと共にスイッチを入れ、湯が沸くまでの静けさの中でふと呟く。

「……そば、作るのは初めてかも。毎年食べてはいたけどな」

「そうなんですか?」

 包丁を手にしていた美冬が、手元から一度視線を外し、琉亜のほうを見た。琉亜は肩をすくめるように笑って言葉を続ける。

「うち、年越しそばは出前だったんだよ。手作りって考えたことなかった」

 美冬はふっと目を伏せると、再びまな板の上に並べた具材に目を落とし、丁寧に人参の端をそろえながら静かに言った。

「私は、ずっと自分で作ってました。作らないと、一人だけ時間に置いていかれる気がして」

 それは語るというより、漏れた心のひとひらだった。声音に力はなかったが、そこには薄く染み出すような寂しさがあった。

 琉亜は何も言わず、電気ケトルの湯気越しに、美冬の横顔をじっと見つめた。その言葉の奥に触れるには、沈黙のほうが正直だった。

「でも、こうして誰かと一緒に作るのは、初めてかもしれません」

 美冬は乾麺の袋を開け、ふたりぶんの量を計りながら、わずかに頬を緩める。ストーブの音と、ケトルの湯が沸く音が静かに混じる空間は、寒さとは無縁の、やわらかい空気で満たされていた。

「薬味、ねぎとしょうがくらいしかないですけど……」

「十分だろ。むしろ、それ以上あったら本格すぎて緊張する」

「ふふ……」

 美冬は、琉亜の言葉にほんの少しだけ肩を揺らして笑った。その笑みは、どこか安心したようで──けれど、すこしだけ照れくさそうだった。

 静かな台所で、ふたり分の蕎麦がゆっくりと湯の中でほどけていく。湯気の向こうに、年の終わりが、すこしずつ姿を現し始めていた。


 麺が茹で上がる頃には、窓の外にちらちらと細かな雪が舞い始めていた。

 琉亜が時間を見計らって火を止めると、美冬はさっと冷水を準備していた。茹でた蕎麦をざるにあげ、流水でぬめりを取りながら、美冬は自然な所作で指先を動かす。流し台にあたる水の音が、ふたりの距離に柔らかなリズムを与えていた。

 盛りつけの準備は、美冬が中心となって進めていたが、琉亜も「器これでいい?」と声をかけながら、ごく自然に手を貸していた。白と藍の丼に湯気をたてるそば、刻みねぎとおろししょうがをそっと添える。出汁の香りがふわりと立ち上がると、ふたりの間にほっとした空気が流れた。

「──できました。どうぞ」

 美冬が差し出した器を受け取り、琉亜はダイニングの椅子に腰を下ろす。テーブルの上には、ふたつ並んだ丼。照明の下、出汁の色が淡くきらめいていた。

「うまそう。……ってか、普通にちゃんとしててすごいな」

「え? ……そんなに本格的ではないですよ」

「いや、そういうことじゃなくて。ちゃんと“手作りのごはん”って感じがする」

 思ったままを言っただけだったが、美冬は一瞬だけ視線を揺らして、それからゆっくりと頷いた。

「……いただきます」

「いただきます」

 ふたりは、ほぼ同時に箸を取った。ひと口、出汁を啜る音がして、次に、蕎麦をすする静かな音。言葉はなかったが、その一瞬に込められた満足感は、目の前の食事以上の意味を持っていた。

「……あったかいな」

 そう呟いた琉亜の声は、蕎麦の温度というより、いまここにある空気に向けられたものだった。

「はい。……なんだか、ほっとします」

 美冬もまた、丼を両手で包み込むように持ちながら、やさしく笑った。

 年越しを控えた夜の、静かな食卓。テレビもつけていないその空間には、ふたり分の湯気と、心地よい沈黙だけがあった──それは、誰かと過ごす冬の夜を、初めて“あたたかい”と思えた瞬間だった。


 食器を洗い終えたシンクには、わずかに残った湯気と、清潔な静けさが残っていた。

 琉亜は布巾で手を拭きながら、洗い終えた器をひとつずつ丁寧に食器棚へ戻していく。洗い物はほとんど美冬がしていたが、拭いて片付ける役目は、自然と彼に任されていた。

「……ありがとう、助かりました」

 背後からそう声をかけられ、琉亜は軽く首を振った。

「別に。うちでもこれくらいはやってる」

 実際、その手つきは手慣れていた。動作に無駄がなく、器の扱いにも余計な遠慮がない。迷いのない所作が、かえって美冬に小さな驚きを与えた。

 ──あ、そっか。倉本さんも、一人暮らしなんだ。

 ふとした瞬間に思い出されたその事実が、静かに胸の奥に落ち着いた。

 拭き終えた最後の箸を元の引き出しに戻すと、美冬は深く小さく息をついた。

「これで、あとは……ゆっくり年越しを待つだけですね」

 声は少しだけ緩んでいた。年の終わりという節目がもたらす、名残惜しさと、ほんのわずかな安堵が混じっていた。

「そうだな」

 琉亜はキッチンから一歩下がり、リビングへ目を向ける。こたつには掛け布団が整えられ、湯たんぽが仕込まれていた。テレビはすでに点いていたが、音はごく小さく、賑やかな映像だけが画面の中で静かに動いていた。

 午後11時をとうに過ぎた夜。まだ、年は越えていない。けれど、もうすぐだった。


 時間:午後11時56分


 テレビの画面には、賑やかなカウントダウン番組の映像が映っている。けれど音量は落とされていて、部屋にはほとんど音がなかった。

 こたつの中で膝を抱えるようにして座っていた白石美冬は、ちらりと隣を見る。倉本琉亜は、足を組んだ姿勢のまま、静かに画面を見つめていた。時おり目を細めたり、ふと視線を外したりするが、なにかを期待するでもなく──けれど、そこにいることを拒んでいる様子もなかった。

 時計の針が、静かに、しかし確かに、進んでいく。

 ──あと、三分。

 美冬は手元のマグカップをそっと抱えなおした。冷めた白湯のぬくもりはもう残っていない。それでも、その重さだけがなぜか少し心を落ち着かせた。

「……もうすぐですね」

 ぽつりと呟いたその声に、琉亜はわずかに頷く。

「ああ。あとちょっとだな」

 それきり、言葉はなかった。けれど、それでよかった。沈黙が、気まずさではなく、やさしい予感のように流れていたから。

 ──あと、十五秒。

 美冬は胸の奥が少しだけ高鳴るのを感じながら、テレビ画面を見つめた。

 ──十、九、八……

 テレビの中では派手な演出とカウントが始まり、歓声が混じる。けれど、その騒がしさは、ここには届かない。

 ──三、二、いち──

 静かに、新しい年が始まった。


「……あけまして、おめでとうございます」


 美冬が、琉亜の方を見て、ゆっくりと頭を下げる。琉亜は一拍だけ間を置いて、同じように軽く頭を下げた。


「あけましておめでとう。……今年もよろしく」


 ことさら丁寧な言葉でもなければ、柔らかい笑顔があったわけでもない。けれど、その声には嘘がなかった。

 ふたりの間に、しばらく言葉はなかった。けれどその静けさは、寒さのなかの毛布のようにあたたかかった。

「……一緒に年を越せて、よかったです」

 美冬が言ったその言葉は、ごく小さな声だった。琉亜はそちらを一度だけ見て、それから視線を前に戻した。

「俺も。ありがとな」

 それだけの言葉に、美冬は少しだけ、視線を伏せて笑った。

 窓の外では、遠くの町から花火の音が聞こえた。ほんのわずかに、夜空が光ったような気がした。


 窓の外に広がる夜は、先ほどまでの年末の顔つきをそっと脱ぎ捨て、新しい年の静けさを湛えていた。遠くの花火は、もう音だけを残していた。

 こたつの中で、美冬は毛布に包まれるようにして座っていた。両膝を抱えるようにして体を丸め、頬をほんのり赤らめたまま、まぶたをゆっくりと閉じていく。数度、浅い瞬きが続いたあと、ついにそのまま動かなくなった。

 琉亜は、その様子を隣で静かに眺めていた。テレビの光が美冬の横顔を淡く照らし出す。眠ってしまったらしい。肩口までかかっていたこたつ布団が、彼女の動きに合わせて少しだけずり落ちていた。

 琉亜は小さく息をついて、そっと体をずらす。こたつの掛け布団の端を手に取り、美冬の肩にふわりとかけ直す。指先が直接触れないよう、慎重に──風が入り込まないように、やや深めにかぶせる。

 毛布が彼女の肩に馴染むのを確認してから、琉亜は再び姿勢を戻した。


 ──大丈夫そうだな。


 新年最初の静けさは、こたつの中にこもるやわらかなぬくもりと、深く穏やかな呼吸と共にあった。琉亜はその横顔をひととき見つめ、やがて視線をテレビ画面へと戻した。画面の中では、新年の特番がにぎやかに進んでいたが、音は最小限。代わりにこの部屋には、眠る人と起きている人が一緒に過ごす夜だけに生まれる、あたたかい静寂があった。

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