第14話-十三-来訪
日付:12月31日(土)
時間:午後1時16分
「……ここで、合ってるんだよな」
倉本琉亜は、冬の静かな住宅街の一角で立ち止まった。ポケットに入れたスマートフォンを一度取り出し、メッセージで送られてきた住所と、目の前の表札とを照らし合わせる。
──白石美冬の家。
自宅から電車で一駅。乗車時間はほんの数分だったが、駅を出たときから街の雰囲気がどこか違って見えた。騒がしさがなく、家々が整然と並ぶ落ち着いた場所。通りすがる人たちも、年の瀬らしい静けさと慌ただしさを纏って歩いていた。
美冬の家は、白を基調とした二階建ての一軒家だった。派手さはないが、手入れの行き届いた庭先と、シンプルな意匠が印象的で──どこか彼女の雰囲気に似ている気がした。
琉亜は、手袋越しに息を吹きかけてから、玄関前の門柱に取り付けられたチャイムを見上げる。
──女の子が、自分の家に男を招く。
それも、大晦日に。特別な意味は無さそうだが、特殊な日なのは理解できる。彼自身、そういうことに鈍感なつもりはなかった。ただ、必要以上に意識するつもりもない。彼女が送ってくれた誘いの言葉は、誠実だった。ただ一緒に過ごしたいと、そう伝えてくれていた。
「……別に、変な意味じゃない。そういうやつじゃない」
誰に言うでもなく、ぼそっと呟く。軽く息を吸って、インターホンのボタンにそっと指をかける。その一瞬、美冬が屋上で見せた、あのまっすぐな視線が思い出される──信じてくれた。そのことだけは、ちゃんと覚えておこう。
押し込まれた小さな電子音が、冬の空気の中でやわらかく響いた。少しだけ冷たい冬の空気に包まれたまま、倉本琉亜は静かに立っていた。
──カチャリ。
扉の内側で、錠が外れる音がした。ほどなくして、引き戸がゆっくりと開かれる。
「……こんにちは。寒かったですよね」
現れた白石美冬は、落ち着いた青のニットに白いカーディガンを羽織っていた。寒さに備えたというよりは、家の中で過ごすための、穏やかな服装だった。化粧っ気はなく、それでも整えられた髪が、今日という時間に向けた丁寧さを物語っていた。
その視線の先に立っていた琉亜は、黒に近い墨色の髪と、灰がかった黒の瞳を持つ少年だった。上品な佇まいを感じさせる黒のコートに、濃紺のマフラーを緩く巻いている。寒さに不慣れな様子は見せず、全体的にシンプルで機能的な服装。だが、無造作に見える着こなしのなかに、どこか几帳面さが覗いていた。
「ああ。日が出てたし、そこまで寒くなかった」
短く返したつもりだったが、思ったよりも声が柔らかくなっていた気がする。だが、美冬はその答えに静かに頷いただけだった。
「どうぞ。靴、こちらへ」
足元には、小さな花模様のスリッパがひとつ。新品のように真っ白で、来客用として大切にしまわれていたのだろう。琉亜は少し躊躇いながらも、無言で靴を脱いで揃え、スリッパを履く。その仕草すら、どこか慎重になってしまうほど、玄関の空気はきちんと整っていた。
「こたつ、こちらです」
そう言って、美冬は廊下をゆっくりと進んでいく。小さな陶器の花瓶、整った鍵掛け、玄関横の掛け時計──どれも派手ではないが、選ばれたものだとわかる静かな美意識があった。
琉亜はその背を目で追いながら、ふと、階段の存在に気づく。
外から見てもわかったが、改めて二階があることを認識した。間取りや造りからして──ここは、賃貸ではなく、戸建て。
それを確信したとき、改めて思う。
一軒家に、女子高生が一人で暮らしている。そして、そこに男である自分を招いたということ──軽く受け取ってはいけないことだ。そんな思いが、胸のどこかに静かに落ちた。
「……助かる。こういうの、人と過ごすの、久しぶりだから」
思考しながら歩いていたから、より一層に美冬の誘導に助けられた。自然に漏れたその言葉に、美冬が振り返る。ほんのわずかに、眉が和らいだ。
「……よかった。迷惑だったらどうしようって、ちょっとだけ心配だったので」
美冬は唐突過ぎたと、突然過ぎるのではないかと、誘ったくせに心残りだった。
「いや。むしろありがたい。ありがたすぎるくらい」
琉亜は彼女の懸念を、感謝の言葉で否定した。そのやりとりの温度が、少しだけ空間をやわらかくした。
美冬がリビングの扉を開けると、午後の陽光がカーテン越しに淡く射し込んでいた。整えられたテーブル、ストーブのぬくもり。湯気を立てたマグカップが、一つ置かれていた。どこか穏やかで、居心地のよい空間だった。
「お茶、今すぐ淹れますね。こたつに入っていてください」
美冬は来客用のマグカップを取りに、そのままキッチンに向かった。
「うん……ありがとう。手伝えることがあったら、言って」
琉亜はこたつに腰を下ろしながら、ふと、天井を見上げた。
一人暮らしの家に来ているという事実。けれどこの静けさの中では、それさえもどこか現実味が薄れていた。
美冬がキッチンから戻ってきたとき、琉亜はこたつに深く腰掛けたまま、静かに部屋を見渡していた。目立った装飾のない壁。窓辺の小さな観葉植物。空気清浄機のわずかな稼働音が、静けさの中にやさしい気配を足していた。
「どうぞ」
差し出されたのは、白磁のマグカップ。側面には薄い灰青のラインが入っていて、手のひらにすっと馴染む形だった。
「ありがとう」
受け取ったマグからは、白湯のやわらかな湯気が立ちのぼっていた。気取らない、けれど丁寧な選択だった。
「コーヒーや紅茶にしようか迷ったんですけど……なんだか今日は、白湯のほうがいいかなって」
美冬は、自分のマグカップも手に持ちながら、琉亜の斜め向かいに腰を下ろした。こたつの中に足を入れ、毛布の端を少し直し、足元を落ち着けるように整える。
「ちょうどいい。体あったまるし。ありがとう」
琉亜の言葉に、美冬は小さく笑った。それは控えめで、けれど確かな安堵を伴った微笑だった。
二人のあいだに、しばし静寂が流れる。けれど、それは気まずさでもなく、重苦しさでもない。互いの存在が、無理のない距離で隣り合っているという、ささやかな落ち着きがあった。
「……倉本さんって、普段から、こんな風に誰かと過ごすことってありますか?」
ぽつりと、美冬が口を開いた。マグカップに視線を落としながら、問いかけはあくまで穏やかだった。
「いや……あんまり。ていうか、ほとんどない」
言い淀んで、言い切った。
「……そうですか。……私もです」
頷いて、同調した。
それきり、美冬は続けなかった。ただ、口元にそっとマグを寄せ、湯気の温度を静かに確かめるように、ひと口だけ白湯を飲んだ。
湯気の立つマグを両手で包み込むようにしながら、琉亜はふと、カップ越しに目線を滑らせた。
「……てかさ」
ぽつんと落とされた声に、美冬がそっと顔を上げる。
「白石って、ここで一人暮らしなんだよな?」
「はい。……そうですけど」
問いに対して、美冬は少しだけ表情を引き締めるようにしながらも、無理に隠そうとはしなかった。
琉亜は肩肘をついて、背もたれにゆるくもたれたまま、特に詮索するでもなく、ごく自然な口調で続けた。詮索して欲しくないのだろうな、とも思った。
「いや、別に深い意味はないんだけどさ。二階建ての家で、一人って……なんか、広くない?」
美冬は、はっとしたように目を瞬いた。そして──少しだけ、肩の力を抜くように笑った。
「……ですよね。よく言われます」
「やっぱ言われるんだ」
「ええ。でも、もう慣れました。……最初の頃は、どの部屋の電気をつけておけば“誰かいそう”に見えるかとか、結構悩みましたけど」
「防犯対策?」
「はい。……でも、今はそこまで気にしていません。近所の方もいい人ばかりで」
琉亜は少しだけ目を細めた。語尾の柔らかさに、美冬の過ごしてきた時間の静けさが滲んでいた。
「にしても、家の中すごいちゃんとしてるよな。俺、誰か来るってなったら、まず片付けから始まる」
自分の部屋は荒れ放題だな……と、少しだけ琉亜は遠い目をしていた。
「えっ……私も、そこそこ頑張りましたよ?」
美冬は思わず目を瞬かせ、少しだけ唇の端を緩めた。意外そうな顔というより、どこか照れたような小さな反応だった。
「……ほんとに? 普通に、普段からこうかと思った」
琉亜もまた、わずかに眉を上げながら素直に感想を漏らす。
「まさか。……今日だけです」
苦笑まじりの声に、琉亜の口元も自然と緩んだ。
気取らず、距離を詰めすぎず。それでも確かに少しずつ、互いの輪郭を知っていく。
そんな緩やかな時間は、やがて夜へと誘った。




