第12話-十壱-連絡
日付:12月27日(火)
時間:午後9時12分
暖房のついた部屋の中で、白石美冬はソファの上に膝を抱えて座っていた。部屋着の袖から出た指先には、ひんやりとしたスマートフォンの質感が残っている。
画面は暗い。けれど、ほんの数分前まで、LINEのトーク画面を開いていた。
相手は──倉本琉亜。
名前の横には、まだ一度も文字のやり取りがない証、空白の履歴。
ディスプレイに表示された「メッセージを入力…」の欄に、何度か文字を打ち込んでは、削除していた。「こんばんは」と打ったあと、指を止める。けれど、それに続く言葉が思いつかない。
──何を送れば、変に思われないだろうか。
──そもそも、終業式の日にあんな風に感謝を伝えたばかりなのに。
心の中には、送ってみたいという気持ちと、それを制止する声がせめぎ合っていた。「突然すみません」──と続けてみたが、文字を打つ指がふと止まり、次の瞬間には全て消去されていた。
胸の奥で、弱い鼓動が小さく打つ。冬休み。会うことも、声をかける機会もない今。けれど、連絡先を交換したのは事実で──。
──このまま何も送らなければ、たぶん倉本さんからも来ない。
それは分かっていた。だからこそ、今、自分が動かなければこのまま静かに終わってしまうかもしれない。けれど──それでも、と美冬は唇を噛む。
「私が送って、迷惑じゃないかな……」
小さく呟いたその声は、誰にも届かない部屋の空気に溶けていった。
スマホを抱えるように胸元に戻す。背中を丸めた姿勢のまま、もう一度だけ画面を開いた。
──メッセージを入力…
その欄に、そっと指を置く。今度こそ、言葉が繋がるかもしれない。けれど、まだ彼女の指先は、そこにとどまったままだった。美冬はそっと息を吐いた。
──このままじゃ、きっと何も変わらない。
小さくうなずくようにして、スマートフォンの画面に視線を戻す。
「こんばんは」
それだけを、もう一度、丁寧に打ち込む。今度は、消さなかった。
送信のボタンに親指を置く。鼓動がひとつ跳ねる。
──送る、送らない。
その境界を、そっと越えるように。軽くタップした。すぐに吹き出しが画面に表示された。
──ただ、それだけのこと。
けれど、美冬の胸の奥に、ほんの少しだけあたたかい何かが灯っていた。
スマホの画面に「既読」の文字が浮かんだとき、美冬の胸の奥がふっと跳ねた。
──送ってしまった。
けれど後悔よりも先に、小さな音が鳴る。トーク画面に、新しい吹き出し。
【倉本琉亜】
こんばんは
それだけの短い返事。けれど、返ってきたという事実が、胸の奥にやわらかく染み込んでいく。
──続けてもいいのだろうか。迷いながらも、美冬は再び指を動かす。
【白石美冬】
寒い夜ですね
そちらは、雪とか降ってませんか?
送ってから、ほんの少しだけ不安が胸をよぎった。
窓の外には、しとしとと小雨が降っている。季節の空気は十分に冷たいけれど、雪が降るほどではない──それは、美冬自身にもわかっていた。
それでも、“雪は降っていますか?”と尋ねたのは、言葉のきっかけが欲しかったからかもしれない。
少し間を置いて、スマートフォンがかすかに震えた──返事は、思っていたよりも早かった。
【倉本琉亜】
まだ降ってない。けど空気が重いな
その言葉を目で追いながら、美冬の口元に、ごく微かな笑みが浮かぶ。
【白石美冬】
なんだか、屋上の風を思い出しました
あそこも、寒かったですね
一度スマホを置いて、少し息を整える。画面が再び光った。
【倉本琉亜】
あの時の風、けっこうきつかったろ
白石、ああいうの苦手そうに見えた
【白石美冬】
冷えるのは、少し苦手です
でも、不思議と、あの場所は大丈夫でした
言葉を重ねるたびに、胸の内のこわばりがほどけていく気がした。
誰かと繋がることに、こんなに慎重になる自分を、どこか可笑しく感じながら──それでも、この会話が途切れないことを、心のどこかで祈っていた。
画面に並んだ短いやり取り。そのどれもが、静かな夜の空気の中で、確かに“誰か”と繋がっている感覚を美冬に与えていた。
琉亜からの返信は、間が空くこともあれば、すぐに返ってくることもある。
けれどそれが気になることはなかった。たとえ時間が空いても、ちゃんと返ってくる──それだけで、美冬の心はどこかあたたかかった。
【白石美冬】
……倉本さんは、冬休み中もずっとそちらに?
ご実家に帰られたりは?
数分の間をおいて、通知が届く。
【倉本琉亜】
帰ってない。家にいる
こっちの方が好きだから
【白石美冬】
そうなんですね。
私も、ずっと一人です。静かすぎて、少し寂しいですけれど
それは、ほんの少しだけ本音だった。
誰かにこんなふうに話すことは、これまでなかった。けれど琉亜には、なぜか自然に言葉が綴れてしまう。
また少しの間。返事はすぐには来なかった。
時計の秒針が静かに進む音だけが、部屋の中に満ちる。そして、ふっと画面が光った。
【倉本琉亜】
……俺も似たようなもんだよ
夜が静かすぎると、逆に眠れなくなる
【白石美冬】
分かります。何か、音が欲しくなりますよね
【倉本琉亜】
そう。スマホで動画流してるときもある
そのあとの会話は、どこかゆるやかに続いていた。
【白石美冬】
もし迷惑でなければ、これから時々、こうしてお話しても良いですか?
一拍、ためらってから送ったその言葉。胸の奥で、淡い緊張が脈打つ。数十秒後、画面に小さな吹き出しが現れた。
【倉本琉亜】
いいよ。話したいときに送って
既読ついても、寝てたらごめんだけど
そのやわらかい返事に、美冬の指先から緊張が抜ける。
【白石美冬】
はい。ありがとうございます
短く送って、スマートフォンを静かに置く。
けれど──そのまま、また画面を開き直した。
【白石美冬】
倉本さんは、冬休み中は何をして過ごす予定ですか?
そう尋ねて、送信。すぐに「既読」がつく──けれど、それから数分間、画面は沈黙したままだった。
秒針の音が、静かな部屋に淡く響く。
暖房の風が、ひとつ揺れるカーテンをゆっくりなでていく。
「……寝ちゃった、かな」
ぽつりと呟いた美冬は、画面をそっと伏せる。
──そうだ、彼はそう言っていた。
“既読ついても、寝てたらごめんだけど”
ほんの少しだけ、くすっと笑う。
返事がないことが、不安には思えなかった。
むしろ、“読んでくれていた”という事実だけが、胸の奥を温かくしてくれる。もう一度スマートフォンを胸元に戻し、身を丸めてブランケットを引き寄せた。ほんのわずかに、今夜の静けさがやさしく感じられた。
日付:12月28日(水)
時間:午前5時4分
【倉本琉亜】
ごめん、寝落ちした。おはよう
スマートフォンの画面に、その短いメッセージが届く。
けれど、そのとき白石美冬はまだ、夢の中にいた。
冬の夜明け前。カーテンの隙間からは、まだ陽の気配は差し込まない。
室内は暖房のぬくもりに包まれていて、ブランケットの中の美冬は、小さく身体を丸めたまま静かな寝息を立てていた。
「んう……」
白石美冬は、布団の中でゆっくりと身じろぎながら、まだぼんやりとした目を指先で擦った。枕元に置いていたスマートフォンを手に取り、スリープ画面を解除する。
時刻は午前七時過ぎ。通知に気づき、軽くタップする。現れたのは、昨夜のやり取りの続きだった。
【倉本琉亜】
ごめん、寝落ちした。おはよう
その短いメッセージに、美冬は自然と頬を緩める。
──やっぱり、寝てしまってたんだ。
昨夜、自分の問いかけに既読がついたまま反応がなくて。けれど、その言葉が返ってきただけで、不思議と安心する。
送信時刻は、午前五時四分。随分と早起きなのだなと、思わず画面を見つめながら微笑んでしまう。そんな一面を知るのは初めてだった。
美冬は、画面の入力欄にゆっくりと指を滑らせた。
【白石美冬】
おはようございます
やっぱり寝ちゃってたんですね
指先が「送信」を押す。布団のぬくもりに身を沈めながら、そのあとの言葉をどう続けるか、少しだけ考える。
──こんな朝が、これからも続いていけばいいのに。
小さな願いが胸の奥に灯っていた。




