第11話-十話-縁
十二月二十六日、月曜日。
冬の朝は重く、鈍い空が校舎の屋根を押さえつけるように垂れ込めていた。空気はきりりと冷たく、吐く息が白く揺れる。
校門をくぐる生徒たちは、それぞれ年内最後の登校日に向けて口数も少なく、足早に昇降口へと吸い込まれていった。廊下に響く靴音の軽さには、終業式特有の緊張と解放の入り混じった空気がある。
放送委員の声がスピーカーから流れる。
「これより、終業式を行います。一年生は体育館へ移動してください。整列順は各クラス担任の指示に従ってください」
教室の椅子が引かれ、生徒たちが一斉に立ち上がる。
冬制服の濃紺が並ぶ中、白石美冬もまた自席から立ち上がった。
けれど──その黒い瞳が、ほんの一瞬、教室の扉の方へ流れた。
その先に、姿を見かけるはずだった誰かが、いない。倉本琉亜の姿は、今日もなかった。
彼がいないことは、朝の出席確認で既に担任が確認していた。けれど、美冬の胸の奥に残っていたのは、淡い予感だった。──もしかすると今日は、来るのではないか、と。
しかし、その予感は裏切られる形で消えた。
教室を出て、廊下を進む。体育館の扉が近づいてくる。その中には、変わらずの日常と、終わりの儀式が待っている。
今日を越えれば、明日からは冬休み。それでも、美冬の足取りには、少しだけ残る迷いの影があった。
終業式が始まる。壇上に上がった校長が、マイクの前で静かに語り出す。けれど、その言葉が美冬の耳に入ることはなかった。
彼女の意識は、すでに“ここにいない誰か”を追いかけはじめていた。
終業式が終わると、生徒たちは一斉に立ち上がり、体育館から流れ出るように各教室へ戻っていった。
制服の袖に冬の空気が触れる。白石美冬は、B組の列から少し遅れて歩き出し、静かにD組の教室へ向かっていた。
彼女の歩調はいつもと変わらぬ穏やかさだったが、その足取りの中には、目的を持った確かな意志があった。
廊下を抜け、角を曲がる。やがて、D組のプレートが掲げられた教室の扉が視界に入る。
中では、何人かの生徒が鞄をまとめ、談笑していた。年内最後の登校日ということもあり、空気はどこか軽く、解放感に満ちていた。
けれど、その教室の中に──倉本琉亜の姿は、なかった。
彼の席は、黒板側の窓際。机の上には何も置かれておらず、椅子も中途半端に引かれたまま、彼が今ここに存在しないことを物語っていた。
美冬は扉の前で立ち止まり、数秒だけ静かにその空席を見つめた。
教室の中にいた男子生徒が彼女に気づき、驚いたように目を見張ったが、美冬は何も言わず、ただ軽く会釈して教室を後にした。
静かな廊下に戻る。自分の中にある想いを、丁寧にすくい上げるように、そっと息をつく。
──やっぱり、今日もあそこにいるのかもしれない。
彼が姿を見せるとしたら、教室でも、体育館でもない。
──屋上。
美冬は踵を返し、階段へと向かった。その先にある場所へ、自分の足で、確かめに行くために。
校舎最上階の踊り場で、美冬は一度立ち止まった。
階段の突き当たりにある鉄の扉。そこには「立入禁止」と記された古い張り紙が貼られている。けれど、鍵はかかっていなかった。風に押されれば動いてしまうような、緩い抵抗だけがある。
──静かだった。
誰もいない廊下に、彼女の足音だけがかすかに残る。
ゆっくりと扉を開けると、冷たい冬の空気が一気に吹き込んだ。陽射しはもう傾いており、鉄骨の手すりに細長い影を落としていた。
屋上は、冬の夕空に包まれていた。
その中央──塔屋の上に、一人の少年が横になっていた。
倉本琉亜。
制服のジャケットを肩まで脱ぎ、両手を頭の後ろに組んで、無言で空を見上げている。近づいても身動きはない。だが、美冬の気配に気づいていないはずはなかった。
風が、美冬の髪を優しく撫でる。彼女は塔屋の下に立ち、見上げる形で、静かに声をかけた。
「……やっぱり、ここにいたんですね」
その一言で、琉亜はゆっくりと身を起こした。
塔屋の縁に腰をかけ、片膝を立てて美冬を見下ろす。
「終業式、出なかったのかって顔してるな」
「……してるかもしれません」
美冬は、かすかに笑みを浮かべた。
塔屋の階段を登ろうとはせず、そのまま下に立ったまま、琉亜と視線を交わす。
「……話したいことが、あります」
琉亜は短く頷いた。
「降りようか?」
「いえ。そこにいてください。ここで、十分届きますから」
夕風の中、美冬は静かに語り始めた。
「……今回の件、あれから、学校側が本格的に動きました。あの日撮っていただいた写真と、保健室での記録。あと、先生方への聞き取り──」
「江藤は?」
「退学処分になる見込みです。今は保護者と学校が話し合いを続けているそうです。……直接、謝罪はありませんでした。けれど、それでよかったのかもしれません」
風の音に、声が一瞬かき消される。けれど、美冬は気にせず続けた。
「私は、自分のことを“誰にも迷惑をかけてはいけない”って思ってました。ひとりで暮らしていることも、祖父母に甘えていることも……ずっと、責任を感じていたから」
琉亜の灰色の瞳が、黙って彼女を見つめている。
「でも、あなたが助けてくれた時、“誰かに頼る”ということがどういうものなのか……少しだけ、分かった気がしました」
静かに、深く、一度だけ頭を下げる。
「……本当に、ありがとうございました」
その声は、届くべき場所へと、しっかりと届いていた。
塔屋の上、琉亜は何も言わなかった。ただ、どこか照れくさそうに目を逸らしながら、乾いた声で応じた。
「礼を言われるようなことはしてない。……勝手にやっただけだし」
実際問題。琉亜が独自に集めた、学校──大人が事件を認識する前の出来事については、何も提出していない。だから、本気で礼を言われるようなことはしていないと思っていた。
けれどそれでも、その言葉の奥に、彼女の気持ちを確かに受け取った色があった。
そしてふたりのあいだに、冬の光が静かに差し込む。
風がひとしきり吹き抜けたあと、琉亜は塔屋の縁から膝を抱えて座り直した。コンクリートの感触が制服越しに冷たく伝わる。
「……で。白石は、いつから“屋上に誰かいる”って思ってたわけ?」
その問いに、美冬はほんの少しだけ表情を崩す。
「十月のこと……でした。田島さんに告白された時、屋上で。あのとき、声がしたでしょう? “風、冷えるよ”って」
「……ああ」
琉亜は小さく頷き、思い出すように曖昧に目を細める。
「驚きました。あのとき、私は誰にも聞かれていないと思っていたので……」
「まあ、見てたわけじゃない。聞こえてただけだ」
「……そうだったんですね」
ふ、と。美冬の口元に、ほんのわずか微笑が灯る。
「それにしても……どうして、そんなところに寝てたんですか?」
「うるさいとこが苦手なんだよ。教室って、なんかこう……全部の音が反響してるみたいでさ」
「……分かる気がします」
「それに、授業、退屈だしな」
そう言って、琉亜はわざとらしく寝転び直す。美冬の見上げる視線の先で、制服の裾が風にふわりと揺れる。
「……でも、勉強は得意でしょう? 成績、ずっと一位だって聞いてます」
「教科書読めば分かる内容ばっかだし。出席取るだけの授業に、意味あるか?」
「それを言ってしまっては……先生が悲しみますね」
冗談のような口ぶりで返すと、琉亜は意外そうに目を開けた。
「……白石って、そういうこと言うんだな」
「私だって、たまには言いますよ」
そのやりとりの中に、少しだけ穏やかな空気が流れた。ようやく、互いの言葉が“会話”になっていた。
「……ねえ、倉本さん」
「ん?」
「……また、ここに来てもいいですか?」
その問いは、ごく自然に、けれど確かな願いを含んでいた。
琉亜はしばらく沈黙し、それから、顔だけを美冬の方へ向ける。
「別に俺の場所じゃない。好きにすればいい」
「ありがとうございます」
美冬は感謝の言葉を告げる。琉亜は"いや、だから、俺の場所じゃないから……"と戸惑っていた。
夕日がゆっくりと沈みかける空の下、塔屋の上と下──二人のあいだに、しばし穏やかな沈黙が流れていた。
ふと、美冬が制服のポケットから何かを取り出す。
スマートフォンだった。ケースは控えめな白に、角にほんの小さな擦り傷があった。
「……あの、倉本さん」
「ん?」
「よければ──連絡先、交換してもいいですか?」
その声には、いつもの丁寧さと、どこか控えめな響きが混ざっていた。けれど、迷いはなかった。
塔屋の上で横になっていた琉亜が、上体を起こす。目を細めて美冬の手元を見ると、スマホの画面には「連絡先の追加」が開かれていた。
「連絡先……?」
「冬休みのあいだ、学校では会えなくなりますから。……それだけです」
淡く言い添えたその言葉に、琉亜は少しだけ頬をかく。
そして、ポケットからスマホを取り出した。カバーも保護フィルムも付いていない、素っ気ない黒の端末だ。
「別にいいけど……俺、そういうの、返事とかマメじゃないぞ」
「それでも、構いません」
琉亜は小さくため息をつくように笑い、画面を操作する。
「じゃあ、QRコードで……」
「はい、こちらです」
美冬が掲げた画面に、琉亜のスマホが近づく。無音のまま、二人のスマートフォンが光を交わし、名前が画面に表示された。
──白石美冬。
その名が、琉亜のスマホに登録された瞬間、彼は少しだけ不思議な感覚を覚えた。
「……登録、した」
「ありがとうございます。……私も、倉本さんを、登録しました」
それだけのやりとりだった。だが、その短いやりとりの中に、“関係”というものの芽が、確かに根付いた。
「じゃあ、また来ますね」
そう言って、美冬は軽く頭を下げると、塔屋を見上げたまま少しだけ微笑んだ。
琉亜は、照れ隠しのように視線を逸らしながらも、短く頷いた。
「……勝手にしろよ」
その声は、どこかあたたかかった。
日が沈みかけた屋上には、二人の気配と、冬の風だけが静かに残っていた。




