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青綴り  作者: 遥
第壱章-俺と私の心が重なるまで
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第10話-九話-転機

 十二月二十日、火曜日。

 午後四時五十五分。空はすでに深く沈み、校舎の窓に映る空は夜の気配を濃くしていた。放課後の教室に残る人数は、まばらだった。

 白石美冬は、ひとり自分の机の前に立ち、筆箱の中身を静かに整えていた。

 プリントをまとめ、鞄にしまい、椅子を机に収める。何もかも、いつも通り──のはずだった。


 ──カタン。


 後方のロッカーが、微かに鳴った。振り返ると、ロッカーの影から江藤由梨が現れる。その後ろに、数人の女子生徒が並ぶ。無言で、表情を貼り付けたように。だが、いつもの「取り巻き」たちの雰囲気は、どこか違っていた。視線が定まらず、落ち着かない。

「白石さん、さあ……ちょっと、いい?」

 江藤は口元に笑みを浮かべていた。けれどその声には、明らかに力が込められていた。美冬は微かに首を傾げた。けれど、拒絶の言葉はなかった。

「……どこへ、ですか?」

「いいから。すぐ終わるからさ」

 江藤の手が、美冬の腕を取る。細い手首を強く、指で挟み込むように。見れば、廊下にはもう生徒の姿はなかった。昇降口も、事務室も、すでに人の流れは途絶えている。

 そのまま、美冬は力を込められるままに引き出される。階段を下り、視線の少ない校舎裏の渡り廊下へ。周囲に教師の影はなく、空気は冷えていた。

「ねえ、白石さん」

 突然、江藤が立ち止まり、美冬の前に回り込む。その顔に浮かぶ笑みは──もはや形だけのものではなかった。

「ずっと気になってたの。何でさ、そんな風に“無傷”でいられるのかなって」

 問いではなかった。ただの吐き捨て。美冬は立ち止まり、真正面からその言葉を受け止める。表情に変化はなかった。

「……私が、あなたに何かをしましたか?」

「そういうとこ、ほんとムカつく」

 その言葉と同時に、江藤の手が動いた。手のひらで、乾いた音が響く──頬を打たれた。

 その瞬間、美冬の視界が一瞬揺れた。だが彼女は崩れない。足を踏みしめ、唇をわずかに引き結ぶ。

 江藤の手は、そのまま美冬の肩を掴んだ。もう片方の手で、制服の前を小さく引き寄せる。

「なんで黙ってんの? 謝れば許してあげようか?」

「私は、あなたに謝ることはありません」

 静かな声音だった。その静けさが、江藤を激昂させる。

「……は? なにそれ、なに様のつもりなの!?」

 もう一発、乾いた音が響く。今回は頬ではなく、腕だった。制服越しに鈍い痛みが走る。

 さらに、突き飛ばされた美冬の身体が、渡り廊下の手すりに背をぶつける。

 ごつ、と骨が軋んだ。

 それでも──彼女は、倒れなかった。

 乱れた前髪を指で払うと、ゆっくりと姿勢を戻した。

「……あなたが、私に何をしても構いません。でも、私が折れることはありません」

 その言葉には、痛みを抱えたままでも消えない意思があった。江藤の目が、ほんの一瞬だけ泳ぐ。

「……はあ? 何それ……マジ意味わかんない」

 けれど次の瞬間、背後から声が飛んだ。

「──何してんだ、お前ら」

 乾いた男の声。驚いたように振り返ると、そこには──倉本琉亜がいた。

 影の中から現れたその姿は、風に揺れた前髪の隙間から淡い灰色の瞳を覗かせていた。

 視線はまっすぐ、江藤を射抜いている。乾いた声が響いた瞬間、渡り廊下に張りついていた空気が、ひときわ冷たくなった。

 振り返った江藤由梨の顔に、明確な“焦り”が走る。

 制服のポケットに手を突っ込んだまま、倉本琉亜がこちらへ歩いてくる。夕暮れの光が彼の背後から差し込み、その影が細く長く床に伸びていた。

「……また来たの? 本当、うざ……」

 江藤が吐き捨てるように言いかけたが、琉亜はその言葉を無視するように、美冬の姿に視線を向けた。

 制服の肩口がわずかにずれている。頬には小さな赤い痕。そして──左手の指先が、かすかに震えていた。握られているのは、肘のあたり。無意識の防御だ。

「……白石」

 その名を呼ばれた瞬間、美冬はわずかに瞬きをした。けれど、それだけで、表情は崩れない。彼女は、琉亜の視線をまっすぐに受け止めていた。

「……一つ、頼みがある」

 琉亜の声は静かだった。だが、その言葉に込められた意志は、確固としていた。

 彼はポケットからスマートフォンを取り出す。レンズには小さな擦り傷があったが、必要な記録には十分だった。

「──写真、撮ってもいいか」

 美冬は一瞬、目を伏せた。けれど、すぐに顔を上げ、頷いた。

「……はい。必要なことなら」

 それだけを言って、立ち姿を崩さずに静かに受け入れる。琉亜は深く頷き、無言でカメラを構えた。

 頬に残る痕、制服の襟元、かばう左腕、後ろ手につけた柵の跡──、一枚一枚、必要最低限の角度で記録していく。無駄はなく、無情でもない。

 それは、目の前の現実を“否応なく証明する”という意思の動作だった。

 撮り終えた琉亜は、スマホの画面を閉じて静かにポケットへ戻す。

「──昨日の件、あれだけのことがあって、“学校側は対応する”とは言った。でも……俺は、証拠の一枚も渡してない」

 江藤が、驚いたように琉亜を振り返った。

「え……?」

「昨日の時点で、机の上の痕跡や、椅子の落書きはあった。でも、あれは教師がその場で見てたからな。あえて俺が写真を出すまでもないって判断した。──そもそも、教師の誰一人、俺に証拠の提出を求めなかった」

 琉亜の声音には、皮肉めいた冷静さがあった。

「“大人が預かるから、あとは任せればいい”──そんな風に、俺も少しは思ってた。……だけど、今日、こうしてまた白石が傷ついたってことは、結局、誰も何もしてなかったってことだろ」

 言葉を継ぐたびに、江藤の顔が見る見るうちに蒼白になっていく。それは、恐れではない。“現実”に触れられたことへの拒絶だった。

 誰も助けに来なかった。

 今日も昨日と同じように、空気のように見過ごされていた。──そのことを、たった一人の他クラスの生徒に、はっきりと言葉にされたのだ。

 琉亜は、美冬の側にそっと立った。

 そして、彼女が隠すように握っていた左腕に手を伸ばす。

「……見せて」

 優しさでも同情でもない、ただ現実を記録しようとする手だった。

 袖をゆっくりと上げると、手首の内側にうっすらと青あざが浮かんでいる。指でつかまれた形がそのまま残っていた。

 琉亜はそれを無言で見つめると、再びスマートフォンを取り出して、一枚だけ撮影した。

 それから、スマホをしまい、美冬に目を向ける。

「──保健室、行こう。記録も兼ねて、な」

 美冬は少し迷ったように視線を伏せた。

 けれど、今度は拒まなかった。黙って、ただ一度だけ頷いた。

 その横顔には、痛みを抱えながらも、自分の足で立ち続ける強さと、誰かを“信じようとする”覚悟の光が宿っていた。


 琉亜は、もう江藤を振り返らなかった。

 その場にいた“加害者”に対しても、もはや何も言葉を投げかけなかった。


 無言のまま歩く二人のあいだに、ふと風が吹き抜けた。

 その瞬間、美冬が口を開く。

「……何故、助けてくれるのですか?」

 それは、ずっと喉の奥に残っていた問いだった。

 拒絶のためでも、感謝のためでもない。ただ、自分ではどうにもできない“理由”を、誰かに問いたかった。

 声は小さく、けれど確かに届く音量で、静かに渡り廊下に落ちた。

 琉亜は、まっすぐには答えなかった。代わりに、目の前にある窓の外を一度見やった。

 西日がガラス越しに差し込み、歩くには少しまぶしすぎる光が床に帯を落としている。

「……前にも言ったと思うけど」

 琉亜の声は、あくまで変わらない調子だった。

 日常の会話の延長線上にあるような、気取らない口調。

「昔、家で暴力受けてた。……母親から」

 その言葉に、美冬は言葉を詰まらせる。けれど琉亜は、それを気にするでもなく続けた。

「周りの大人は、誰も何もしなかった。……いや、たぶん、気づいてた。でも見て見ぬふり。いつも“分からないふり”してた」

 指先がポケットの内側を、ゆっくりとなぞる。

 その癖は、琉亜が過去を思い出すときにだけ表れるものだった。

「そういうのが、どれだけ息苦しいか──知ってるんだ。言葉にできないくらい、苦しい。……だから、放っとけなかった」

 “だから助けた”とは言わなかった。“誰かを守りたかった”とも、言わなかった。

 けれど、そこには、理由としては十分すぎるほどの重みがあった。

「白石がどうとかじゃない。ただ、俺がそうしたかっただけ。……それ以上でも、それ以下でもない」

 美冬は、静かにその言葉を受け止めた。

 彼の言葉には、飾りも演出もない。ただの“事実”としての過去と、そこから伸びた現在だけがあった。

「……ありがとうございます」

 その言葉を口にしたとき、美冬の声には微かな震えがあった。

 琉亜はそれを振り返らず、ただ少しだけ、片手を持ち上げる。

「いいって。礼を言われるほどのことはしてない」

 そして再び、歩き出す。その歩幅に、美冬が少し遅れてついていく。足音が、ふたたび廊下に並ぶ。

 何かが劇的に変わったわけではない。それでも──“一人ではない”という確かな事実だけが、二人の足元に、かすかに灯っていた。

 保健室へ向かうその道が、どこか遠くて、けれど温かい沈黙に包まれていた。




 夜、冬の日差しが斜めに差し込むリビング。窓際の床に、淡く光が落ちていた。

 制服のまま、白石美冬は携帯を耳にあて、受話器の向こうの声に静かに頷いていた。

「……そうだったの。……全然知らなかったから、驚いてしまって」

 電話の主は、美冬の祖母だった。担任から連絡を受け、今日の出来事──そして過去の一連の被害についても初めて知らされたのだという。

「ごめんなさい。心配、かけてしまって……」

 美冬の声は落ち着いていたが、その胸の奥には針を刺されるような痛みがあった。

 何も言わなかったわけではない。言えなかったわけでもない。ただ、言ってしまえば──自分の“生活”が許されなくなる気がした。

 ──迷惑をかけてはいけない。

 ──頼られているなら、それに応えなくては。

 ──一人で大丈夫な子だと思われたい。

 美冬は、自覚のないままに、それらの思いを選び取っていた。だから、言わなかった。

 痛みも、恐怖も、悔しさも──全部、静かに、抱えたままでいた。

「……なにか、困ったことがあったら、すぐに言いなさいね。あなたはもう十分頑張ってるんだから」

 優しい声に、美冬はふと、視界が滲んだ気がした。それでも涙はこぼれない。こぼし方を、忘れてしまっていた。

「……ありがとう。……大丈夫。ちゃんと、してるから」

 それは、気丈な強がりでも、嘘でもなかった。

 ただ、“一人でいる”ことに慣れすぎた少女の、たった一つの祈るような言葉だった。

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