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青綴り  作者: 遥
第壱章-俺と私の心が重なるまで
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第1話-零話-興味

 秋の朝は、空気が乾いていた。

 窓の隙間から差し込む光はやわらかく、しかしどこか心許ない。昨日までとは違う季節の匂いを、確かに含んでいる。

 ゆっくりと動く風が、制服の袖口をわずかに揺らした。まだ吐く息は白くない。けれど、その風は夏の名残を削ぎ落とすように、じわりと肌の熱を奪っていく。


 校門をくぐったとき、頬に触れた風が──一瞬、目を細めさせるほど乾いていた。


 肌理の細かい空気が、うっすらと水分を吸い取ってゆく。肌の内側にあった温度まで、そっと連れ去られるような感覚。

 冷たいわけじゃない。だけど、その感触は確かに「夏の終わり」だった。


 白石美冬は、その風を受けながら昇降口の門をくぐった。


 まだ冷たさを帯びきらない朝の風が、制服の裾を揺らし、髪の毛の先端をそっと持ち上げる。

 美冬はそれを気に留めたように、無言で手櫛を通す。整えるというより、整っていることを確かめるような仕草だった。


 外履き──ローファーを脱ぎ、下駄箱に収める。代わりに取り出した上履きを足に通すと、つま先を軽く床に鳴らす。


 とん、とん。


 かかとが浮いていないか、感触を確かめるように。決して神経質ではない。ただ、美冬にとってそれは「整える」という動作の一環だった。


 今朝は、普段と違う階段を選んだ。

 二階の掲示板に定期考査の結果が張り出されることは、昨日のうちに把握していたからだ。それを確認しに行くのは、彼女にとっては自然なことだった。


 気負いはない。けれど、無関心でもない。ただ、自分の立ち位置を、静かに受け止めるために。


 靴音が階段に吸い込まれていく。乾いた朝の空気の中で、その音だけが、静かに彼女の存在を告げていた。

 呼吸は一定で、足取りに迷いはない。軽やかというより、静謐。姿勢はまっすぐ。

 背筋を正すことは、彼女にとって「日常」だった。心の重心を整えるための、ごく自然な習慣。

 階段を登り切ったとき、美冬はふと、廊下の先に視線を送った。

 掲示板のある場所。人の気配。ひそやかな声。紙の揺れる音。そのすべてが、まだ静かな朝の輪郭を形作っていた。


 淡い光を映した窓のそばに、成績一覧が掲示されていた。そこに集う小さな人だかり。その輪の中から聞こえてくる、静かなざわめきと誰かの名前を囁く声。それは陰口のようで少し嫌な気分になったが、それでも美冬は感情を動かさず、ただその場へと歩を進めた。


 掲示板の前には、制服の肩がいくつか重なっていた。皆が遠慮がちに覗き込むその中心には、白い紙が几帳面に貼られている。上から順に名前と点数、合計順位が横並びに記載されていた。


 美冬は人垣の端に立ち、隙間から紙面に視線を滑らせた。


 一位──倉本琉亜。


 二位──白石美冬。


 やはり、という感覚が先にあった。事前に解答を自己採点していたから、大きく外すことはないと分かっていた。

 けれど、数字の横に並んだ名前を見ると、それはただの成績ではなく、誰かとの交差の記録のように思えた。


 「一位の人って、あのD組の……」

 「武道やってるらしいよ」

 「毎回あの人だよね。ちょっと怖いっていうか……」

 そんな声が、小さな水音のように耳に届く。

 美冬はそれらに目を向けることも、否定することもなく、ただ掲示板を見つめていた。


 倉本琉亜。


 その名前は、成績上位者の欄で見慣れたものだった。


 入学してからこれまで、彼は常に一位の座に在り続けている。まるでその位置に名前が印刷されているかのように、一度も順位を譲ることなく、淡々と記録を積み重ねていた。


 無口で、孤立しているわけではないのに、誰にも近づこうとしない。

 目立つのに、注目されることを避けているような振る舞い。

 気配を薄くすることで、むしろ際立ってしまうという、矛盾した存在感。


 美冬にとって彼の名前は、最初はただの「学年一位の人」でしかなかった。

 けれど、見上げる紙に同じように記されるその名前が、いつしか“気配”として記憶の奥に根を張り始めていた。


 倉本琉亜の外見や雰囲気は、なんとなく把握していた。


 意図的に目を向けたことはない。けれど、学年二位である自分が、常に一位の名前に触れないというのは不自然だった。

 気にしていないつもりでも、掲示板に並ぶその名前を目にするたび、ほんの少しだけ意識の輪郭に引っかかる。

 無関心ではいられなかった──というより、無理にでも関心を持たされていた、というのが正確かもしれない。


 倉本琉亜は、男子の中でも背が高く、鍛えられた体つきのせいか、どこか輪郭のはっきりとした存在感を持っていた。

 だからなのだろう。掲示板の前に立つ彼の姿は、名前と、大まかな外見しか知らないはずの美冬の目にも、すぐに見分けがついた。

 意識して探したわけではない。ただ、視界の端で自然に“そこにいる”と分かってしまう──そういう佇まいだった。


 彼はしばらく掲示板を眺めていた。表情は読めなかったが、紙を見つめる視線には、一切の動揺がなかった。

 やがて、掲示物から目を離すと、何も言わずにその場を後にする。

 人のあいだを縫うように、無駄のない歩幅で進んでいく背中。姿勢は最後まで崩れず、すっと風のようにそこを抜けていった。


 その背中が視界から消えたとき、美冬の中に、ひとつの記憶が静かに浮かび上がった。


 オープン入試の帰り道。昇降口の隅──人の流れから取り残されるように、ひとりきりで肩を震わせていた男子生徒の姿があった。

 制服の袖で顔を隠し、誰にも気づかれない場所で、声も上げずに泣いていた。

 名前も知らない。顔もよく見えなかった。それでも、その姿だけは、なぜか美冬の記憶に強く残っていた。

 記憶の断片と、さきほど目にした後ろ姿とが、どこかで重なって見えた。

 確かではない。あのときは、顔も名前も分からなかった。

 それでも、美冬の中でふたつの像が、ゆっくりと重なり合うような感覚があった。

 昇降口の隅で泣いていた男子生徒と、今この廊下を静かに通り過ぎた彼の姿。仕草も、背中の形も、そしてあの空気のまとい方も似ていた。

 誰かに確認したわけでもない。自分自身さえ、確かにそうだと言い切ることはできない。けれど、美冬は思っていた。

(……あのときの人、彼だったのかもしれない)

 ただの偶然だと流すには、胸の奥に残るその印象が、あまりに静かで、あまりに深かった。


 思えば、入試のあとに泣いていた生徒は、少なからずいた。

 手応えがなかったのか、緊張が限界を超えたのか。

 あのとき隅で泣いていた彼も、きっとその一人だと思っていた。


 けれど──今、学年一位の常連として名を連ねる倉本琉亜と、あのときの男子生徒が重なったとき、ふと小さな違和感が生まれた。

 入試に失敗したと考えていた人間が、果たして入学後、冷静に学年一位を取り続けられるものだろうか?

 気持ちの立て直しには、もっと時間がかかるのではないか。あるいは、そうした思考の揺らぎすら持ち込ませないものを、彼は最初から持っていたのだろうか。いや、そもそも、入試で失敗した人間が全て満点なんて取れるはずがない。


 あの涙は、本当に失敗のせいだったのか。あるいは、それとはまったく別の理由──本人にしか分からない何かがあったのではないか。


 美冬は知らない。知ろうとしたこともない。けれど、記憶の中で曖昧だったはずの彼の輪郭が、いま少しずつ、色を帯びて浮かび上がっていくのを感じていた。

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