四十五 師匠と弟子
何だか最初の嫌悪感がウソのように平和であった。
どのくらい時が過ぎたのだろう。というか、どのくらい時が流れているかなんてどうでもよかった。牢越しとは言え、私たちは雑談で時間を過ごしていた。
ただ、次第に話題も尽きてきて、似た話ばかりになると会話が途切れることも増えて来た。
そんな時、ルージュの一言で状況が一変した。
「外、出ちゃダメかな?…逃げたりしないから」
太陽の光を浴びたい気持ちは分かる。それに、時間感覚が狂っていて、ここに来て何日目かも分からない。不安が無いかと言えば無いわけではない。
しかし、その一言がリッツから笑みを消して、無感情な声が返って来た。
「もし、あなたを外に出して、その時仲間が来たらどうなるかくらいは分かるでしょ?」
この声と言い方は優しいリッツではなく、初めて私に尋問した声と言い方。思わず体が震え出した。
「ご、ごめんなさい…もうワガママ言わないから…」
ルージュも泣きそうな顔になっていた。きっと私も同じ顔をしていると思った。
それを察したのか、リッツは少し悲し気な顔をして言葉を付け足すように話してきた。
「こちらこそごめんなさいね。もうすぐ仲間も来るはずだから、ちょっと仕事モードになっちゃったみたいね」
謝ってきたリッツに私とルージュは胸を撫でおろした。もうあのリッツは見たくないし、あんな思いはしたくない。
「お詫びと言っては何だけど、少しクッキーあるから食べない?」
私とルージュは顔を見合わせたが、クッキーという言葉に私たちの顔が明るくなった。甘いものがここで食べられるとは思わなかった。
「分かるわ。甘い物って幸せな気分になるものね」
笑顔になるリッツ。またこれで今までのように平和に。
「誰!」
リッツの顔が険しくなる。誰か来たらしい。仲間だろうか?
壁に姿を隠しながらゆっくりと部屋の奥に進むリッツ。かなり警戒しているようである。
リッツの姿がここから見えなくなった。その直後、声が聞こえた。聞こえたのは聞き覚えのある声であった。
「まさか懐かし顔に出会えるとは思わなかったな」
少し驚きが混じる低い声にリッツは鼻で笑いながら答えた。
「こちらこそ、もうお迎えが来てこの世にいないかと思ってましたわ」
聞こえてくる会話からリッツの知り合いのようである。しかも最近会ってない相手で皮肉が言える相手。少し知ってるという感じではないようである。
だが、この年配だが芯の通った低い声、心当たりがある声だが、ここにいる理由が分からない。
「ここにエルフの女性がいるだろう?会せてもらえないだろうか?」
低い声の男にリッツは「理由は?」の一言を返す。
「頼まれたから。連れて帰らなくてはならない」
その後沈黙が数秒続いた。
「分かったわ。もし『本人が帰りたい』と言うならね」
リッツの返答の後、こちらに二つの足音が向かってきた。
そして、私はそこで懐かし顔に再開した。
「ジールさん…取り合えず無事そうで何よりだ」
「エアマス…どうしてここに?」
と言ってはみたものの、きっとイアランに頼まれたんだろうな、と予測はついた。
「さあ、帰ろうか。帰ってくれないとイアラン様が毎日死人のような顔をしていてな。見ているこちらも気の毒に思えるほどだよ」
冗談のように言っているが、本当にそうなってそうである。
確かにルージュを連れて託児所に連れて帰るのがいいとは思っていた。だが、黙って消えた私が今更どんな顔で戻ればいいのか分からない。
「まあ、ジールさんは私より年上だが、一つ教えときましょう」
エアマスはスッと牢の中に手を入れて来た。
「過去の行いを責めるような者が、あなたを探すのに部下に対して懇願することはない」
言われなくてもイアランはきっとそうなのだろうことは分かっている。だが、師匠や師範、ウィン様やアルビオ、何となくぎくしゃくしていたヘキサに会うのは恐い。クアンタは変わらない気もするが、それでも内心いい気分がするわけはないだろう。
「神の箱庭の者たちにも頼まれた。ゼフィは…私に頭を下げて頼んできたよ」
驚きである。
正直「好きにさせておけばいい」と言ってるかと思っていた。自分勝手なことをした私に怒っているのかと思っていた。
「ジールさんならこんな牢を脱することができるはずなのにここにいるのは、気持ちの問題と…隣の獣人族が理由なのだろう?」
見て察することができるのは、さすが諜報活動をする者と言ったところである。思わず私の手がエアマスに伸びる。
「ジール、帰るの?」
私の手がビクッとして止まった。
今のリッツの声は…私に恐怖を思い出させる声であった。震えた手は、すぐにエアマスの手に向かうのを止めた。
「ほら、ジールは帰りたくないのよ。分かったでしょ」
恐る恐るリッツを見ると私の事をじっと見ている。これはエアマスの手を取れば…また、あの地獄が再び行われる。そう思わせる目である。
また、体が震えてくる。背中に嫌な汗が流れだす。
「…リッツ、貴様、仕込んだな」
鬼のような形相になるエアマスがリッツを睨む。
「さあ、何のことでしょうね」
舌打ちをするエアマス。しかし、すぐに表情を落ち着かせ、私に再び手を差し伸べた。
「いいか、ジールさん。リッツは戦闘能力は高くない。だが、幻覚魔法と洗脳スキルの手練れだ。言葉と幻覚魔法で恐怖を相手に植え付けて、その後に希望を与えて相手を操る。心当たりはないか?」
もっと早い段階で今の言葉を聞いていれば耳に入ったかもしれない。
だが、今のエアマスの言葉より、リッツの目線が恐くて恐くてリッツの機嫌を取るためにどうすべきか?ばかり考えている。
答えは一つであった。
「私は…ここにいるわ…」
そう、私がここにいれば…そうだ、今でも生きていくのは問題ない。贅沢を言わなければ何も問題は無いのである。
「ほら、ジールの言葉、聞いたでしょ?帰ってくれまれませんか、師匠」
動揺している私でもそこは聞き逃さなかった。
「リッツは…エアマスの弟子…なの?」
私のつぶやくような声にリッツは「黙れ!」と言わんばかりの睨みで私を見る。私は這いずるようにして牢の壁まで逃げた。
「そうよ。私の師匠よ。私にここまでの技術を仕込み…私から大きなモノを奪っていった鬼の師匠よ」
リッツの恨みがましい目に対してエアマスはため息を一つもらして肩をすくめた。
「それは逆恨みだ。お前が情報を持っている捕虜の女に尋問と称して自分の欲を三日三晩ぶつけて自害させ、その上その情報が得られなために依頼してきた国が敗北したんだ。根源を切り捨てたのは当然だろう。命があっただけありがたく思われても恨まれる筋合いはないと思うがな」
根源?切り捨てた?
思考が追い付いていない。
整理しよう。
つまり、リッツは捕虜の女性に何かをした。
それによって女性は自害した。
ゆえに情報が手に入らなかった。
だから情報を得るように依頼してきた国が滅びた。
その責任を取らせるために…根源?
繋がらない…。私の頭では理解できない。
「エアマス、ごめんなさい、リッツの根源って?」
私の質問にエアマスは「あぁ、分からないのか」と言うと苦笑いを浮かべて説明をしてくれた。
「リッツの性器を切り落とした」
そういうことか。分かりやすい説明ありがとうございます。
好奇心は猫をも殺す。
そんな言葉を文献で読んだことがあった気がする。分からないことは解消したい探求心あふれる私の心は、リッツの心に余計な何かを生み出したようである。
「無駄口を聞いてんじゃねぇよエルフ!もし私のモノが付いてたら、お前ら二匹は今頃性奴隷としてその牢の中で汚らしく這いつくばって白目向いてんだよ!!」
今までの比ではなかった。怒りと言うより狂気にも似た恐さ。必死に私は首を振り「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」と小さな声で唱え続けた。
「さてと、そんなことはどうでもいいが、これは強制的に連れ帰るしかないようだな。ジールさん、悪いがそうさせてもらうよ」
エアマスは牢に手をかけると力任せに開閉部分を開けようとした。
「止めといた方が身のためですよ、師匠。その牢を開けたら、あなたを殺しますよ?」
リッツの声を無視してエアマスは牢を力任せに開閉部分を引きちぎった。そして、牢に入り、私の手を握り引き起こした。
「さあ、帰ろう、ジールさん」
まだ実感がわかなかったが、これで解放された…ということだろうか?
「ジール、エアマスと行くの?」
解放された気分は失せ、私の心に恐怖が広がった。
リッツの今の声は…尋問の時の…今も脳に焼き付いた恐怖の声である。
私はエアマスの手を慌てて振りほどいた。
「ごめんなさい、エアマス。私は…行けないわ」
自分でも分かるほどの震え、呼吸の乱れ、心臓の早い鼓動、今にも心がおかしくなりそうである。
もう、あんな思いはしたくない。
でも…エアマスには勝ったことがある。
イアランと一緒だったが、今なら私には白銀竜の覇気がある。何としてもあんな思いをするのだけはごめんである。
「ずいぶん激しく仕込んだな、リッツ。これはお前を…恐怖の元を消すしかないようだな」
短刀を構えるエアマス。そんなエアマスを前にリッツはニヤリと笑う。
「ねぇ、ジール、このジジイ倒してくれない?」
その言葉を発すると同時にエアマスは地面を蹴っていた。その突撃は鋭く、早い。
だが、その突撃はリッツの目先で止まった。
「ジールさん、止めるんだ。そいつを助けても地獄は終わらない」
私は無意識だった。だが、気が付けばエアマスとリッツに間にいて、短刀を持つ手を握り、リッツへ刃が届くのをのを抑えていた。
「さすがね、ジールちゃん。もし、このジジイ倒せなかったら…分かるわよね?」
最後の「分かるわよね?」の言葉だけが頭に残る。また、体が震えてきた。汗も出てくる。もう、あんな思いしたくない…。
「ごめん、エアマス…」
だが、エアマスは全く怒りもせず、やれやれとため息一つ付くだけだった。
短刀を鞘に収めると含みある笑みを見せながら言った。
「まあ、リッツを見た時から想定してたから問題はない。ところで…あの獣人族はジールさんのお連れなのかな?」
状況を飲み込まず視点が行ったり来たりするルージュを指さすエアマスに「そうよ」と軽く答えた。
「厄介な弟子を持つと師としては苦労するな」
後ろ頭をぽりぽり掻くエアマス。ただ、焦った様子は無い。何か仕掛けて来るのだろうか?
「ここでは狭いから外に行こうか」
親指で外を指差すエアマス。だが、それに対してリッツは「ダメよ」と提案を拒否した。
「こんな所で戦ったら、建物が壊れて生き埋めになると思うんだがね。まあ、そういうつもりなら…」
エアマスの目つきが変わる。あれは私と戦っていた時の目である。
私はその目を見た瞬間、エアマスに蹴りを放った。
「少し体に無駄がなくなったようで何より。蹴りが以前より鋭くなって侮れないな」
私の蹴りはあっさり空を切った。やはり多少の生命エネルギー解放では、正面から戦うエアマス相手には気休めくらいのようである。
だが、そのまま体を回転させて地面に両手を付き、二連撃の蹴りを放つ。
しかし、それもエアマスは紙一重でかわす。
「小柄なジールさんの方が、この狭い空間では有利か。まあ、それでもまだ問題無い範囲ではあるか」
私の攻撃は流され、避けられ、受け止められた。まるで組み手のようである。
改めて思うが、一対一での格闘だと、エアマスはとんでもなく強い。何だかんだ言っても元ゴッドキラーである。
生命エネルギーの解放上限を増やしても、同じであった。
まるで当たらない。
速度は上がっているのに当たらない。本当に人間なのか怪しく思えるくらい息も乱れず軽くあしらわれる。
「いつまでやってんのよ、ジール。あまり遊んでると…ルージュが大変なことになるけど…いいの?」
ビクッと私の体が止まった。ゆっくりと後ろを振り向くと、リッツはいつの間にかルージュの肩に手を回し顎を優しく撫でながら、ニヤニヤと笑っている。
相反してルージュは涙をぼろぼろ流し、かすれた声で「助けて…」と何度も何度も体を恐怖で震わせながら呟いていた。
何とかしてあげたいが、普通に戦ったとしても勝てそうにない。それだけ、エアマスの強さは異次元で、あの時勝てたのが嘘に思えてくるくらいである。
牢にしばらく沈黙が流れた。
打つ手の無い私は動けない。それに対してエアマスは気迫ある目で私を睨みつけている。
「あ、そう。ジールはルージュを見捨てるわけね。ルージュも可哀想ね。あなたはジールと違って肉体的にも辛い思いしたのに…また、あんな目に合うのよね」
リッツはルージュに無理やり背を向けさせ、背中をまくり上げた。
そこには、女の子の背中とは思えないほどの赤いみみず腫れや切り傷が無数にあった。しかも、場所によっては化膿してる部分もあり、見てるだけで涙が流れてきた。
ルージュと私の恐怖は違っていたのだ。彼女は私なんかより酷い目に合っていたのだ。
「ごめんなさい…何でも…言うこと聞きますから…もうやめてください」
きっと、ルージュは自分のされたことを私に言うなと言われたのだろう。
もしくは、怖くて言えなかったのだろう。
ずっと痛かったのを我慢していたはずである。それなのに、私に何も言わなかった。こんな、幼い女の子が…我慢していたのである。
「ジールさん、あれは早く回復してやらないとマズいぞ。あの傷が悪化したら地獄のような苦しみを味わうことになる」
私の心は動揺していた。
ルージュを助けたい。
でも、リッツは恐い。
だが、エアマスに勝てない。
思考が停止しており、何をすればいいか分からない。
「早くしなさい、ジール」
リッツは小瓶を出すと、蓋を取り、ルージュの背中の傷に中の液体を一滴垂らした。
断末魔。
決してあの可愛らしいルージュから想像もできない声。
そう思えるくらいにルージュは声ならぬ声を上げた。
そして、ルージュから力が抜けたようにリッツに寄りかかり、彼女の股から液体が流れて、地面に広がる。
「さて、まだやりましょうか、ジール。私もこんなことしたく無いんだけど、そこのジジイは邪魔なのよ。何とかしてよ、ジール」
また、瓶を傾けようとしたリッツに私は「止めて!」と叫ぶ。
だが、その傾きは止まらなかった。
再び断末魔。もう、まともに声が出せないのか、声がかすれて声になってないのに建物に響く。
そして、人形のように崩れ落ちるルージュ。
「相変わらずのやり方だな、リッツ」
怪訝そうな顔のエアマスに嬉しそうに微笑むリッツ。
「相手の気持ちになって考える。これ、師匠の教えですから」
頭が割れそうである。
先ほどの声が頭に残っている。
これは、リッツが私に語った尋問のやり方の一つである。
リッツは私に語った尋問方法を全てできるのだろう。物理的にも、感情的にも。
「やめて…ルージュが死んじゃう…」
頭を押さえ、頭を振る。もう何も見たくない、聞きたくない、感じたくない!!
「だそうですよ、師匠。もう止めませんか?このままだとジール、壊れてしまいますよ」
クククと笑いを漏らしながらリッツが言う。
「もし、続けるなら…ジールに早く、終わらせないと…また、お薬こぼしちゃうかもよ?」
「止めて!」
思わずリッツの元に走り出した。だが、それもリッツの鋭い眼光で足が動かなかくなった。
これ以上踏み込むと…また、ルージュに何かやりそうである。
「私ではエアマスに勝てないし…でも、ルージュに酷いことして欲しくなくて…お願い、リッツ、何でもするか」
私の口にサッと手が来て口をふさがれた。私の口をふさいだのはエアマスであった。
「女性が『何でもする』と簡単に言うものではない。まあ、男としては惚れさせてそう言わせたい願望はあるんだがね」
私の口をふさいだ手はそのまま私の頭を優しく撫でた。とても安心できる手であった。
エアマスには多くの子供がいるが、その子供を産んだ女性も見た限り、誰もが不満は無さそうに見えた。それは、こんな大雑把そうなエアマスが、どれだけ気を遣って考えているかが分かる。
そんなエアマスゆえに、私が今どれだけ不安かを察しているのと、師として弟子が迷惑かけたことをすまないと思っている気持ちの表れが今の頭を撫でることに含まれているように思えた。
「任せなさい。あの獣人族の娘も、ジールさんも助ける。それが依頼を完遂させるために必要みたいだからな」
私が招いたミスなのに…私が何とかすべきことなのに…どうしてこんなにエアマスは優しいのだろうか?その優しさが身に染みて、思わず頬に涙が流れて来た。
「困ったな。ジールさんを泣かしたら、イアラン様に一生イヤミを言われるかもしれないな」
そう言いながらエアマスはリッツに向かい構える。
「今なら見逃すぞ、リッツ。その娘を解放して逃げ出せ。弟子であったお前に、最初で最後の情けだ」
私もそれを望んだ。それが一番平和的で私もルージュも攻撃されることなく物事が収束する。自分勝手な望みなのは分かるが、それでも願ってしまう。
「は?老いぼれが何言ってんの?そんなことしてオジオンに帰ったら私はどうなるか分かるでしょ?その選択肢は選ばないのを知っててよく言えるわね」
まるで退く気は無いリッツ。彼にも退けない理由があるようである。だが、格闘でエアマスに勝てるようには思えない。
しかし、そんな私の予測とは裏腹にエアマスは決して油断をしていない。険しい表情でリッツから目を逸らしていない。それを裏付けることをエアマスが言った。
「ジールさん、リッツは幻術と薬と人間心理に長けた強者だ。もし、私が倒されることがあったら、ここを破壊して逃げなさい。幻術にしても薬にしてもある程度近くにいなければ効果はないものだからな」
もしも、自分が敗北したら…それは相手が自分を倒す可能性を持っているときに言うものである。
この戦い、エアマスが勝たなければ、私もルージュもきっとリッツによって心を破壊されて、従順な人形にされることくらいの予想はできる。
私はともかく、ルージュをこれ以上、酷い目に合わせたくない。
でも、私はリッツに恐怖で歯向かえなくなっている。実に情けない。
「さてと、覚悟しろリッツ!」
言うが早いかエアマスは拳を握りリッツに向かい飛ぶ。
来ることは反応できていたリッツだが、エアマスの拳をまともに顔面に受け転がった。
そのまま、リッツは動かなくなった。
終わった…のだろうか?
「こういう姑息な手段を使うのが上手いのは変わらんな」
殴った拳を押さえるエアマス。その拳の色が赤黒くなっている。どう見ても「ヤバイ」と思わせる色。毒なのだろうが、いつの間に食らったのだろうか?
「まさか『気』を貫通する毒を持っているとはな」
相当キツイのだろう。先ほどの余裕が消え失せ、エアマスの額から汗が滝のように流れている。
「あら、追撃を誘ったのに来ないのはさすがね。バカなら動く足や手で追撃を優先して倒すという考えになりそうなのに」
殴られた部分を真っ赤に腫らして立ち上がるリッツ。決して無傷ではないが、こちらは見た目の腫れほどダメージを感じていないようである。
「その毒は調合で作ったもの。昔あなたの体内で毒を中和できたのを見て、その中和速度を上回る進行速度で広がるものを作りたくなって頑張ったのよ」
嬉しそうに口角を上げるリッツ。その笑みは私を凍り付かせるには十分であった。
とうとう毒に耐えられなくなったのか、エアマスは片膝を地面に着き苦しそうに呼吸を荒くしている。毒の周りはかなり早いようである。
「一分、耐えられるといいわね」
リッツの言葉が引き金になったかのように、とうとうエアマスは前のめりに崩れ落ちた。吐血し、手足は痙攣をしており、今にも死にそうである。
私は駆け寄りエアマスに解毒魔法をかける。
思わずやってしまったが、リッツはそれを止めなかった。
「ジールに助けられるかしら?少なくとも、その毒を魔法で治癒させた者を見たことはないんだけどね」
ゆっくりとリッツは私に近寄り耳元で優しい口調で言った。
「こうしましょ。もし、あなたがエアマスを助けられたら見逃してあげる。でも、できなかったら…」
私の前に黒い栓のされた小瓶が現われる。
「これ、ルージュに飲んでもらうわ。この薬はまだ実験段階なんだけど、体が死ぬほど痒くなるの。以前飲ませたヤツは、体が血まみれになっても搔きむしることを止めなかったのよ」
私の視界の端でニヤニヤするリッツ。この男はよく知っている。私は自分が何かされても仕方ない、自分の責任と諦めることができるということを。
だが、きっとその薬をルージュに飲ませて、その苦しむ様をずっと私に見せる気なのだろう。頭に鮮明な映像が浮かぶ。魔法を使う手が震えてくる。
「さて、楽しみましょ、ジール」
「ヒッ」
言い終わるとリッツは私の耳を甘噛みしてきた。体に怖気が走り、解毒魔法が不安定になってくる。
今にも切れてしまいそうな私の精神を繋ぎ留めながら、私は必死にエアマスの解毒魔法に魔力と祈りを込めて手のひらから魔力を放出するのであった。




