【短編】ごめんなさい。わたくし、お義父様のほうが……
婚約者のアルマンから、突然の呼び出しがありました。面倒ですわね、と思いつつ、わたくしイヤイヤ赴きましたの。そうしたら、
「君との婚約は解消させてもらおう」
ですって……。魅力に欠けるキンキンした声が、ガランとした大広間に響き渡りました。わたくし、呆然とアルマンの艶々した黒髪を眺めるしかありませんでしたわ。
黒髪は丁寧に編み込まれ、長い一本のお下げとなって腰まで垂れています。その腰に腕を回しているのは、金髪のマルグリット……とおっしゃったかしら?……えと……どこかの……確か男爵令嬢だったかしら?? ごめんあそばせ。領地を持たないお家のことまでは、さすがに存じ上げないのです。
そばにはアルマンの父、ピヴォワン侯爵もいらっしゃいます。侯爵はグレーの口ひげをワナワナ震わせておりました。アルマンは侯爵をチラ見し、話を続けます。
「わかっているんだからな! 君の実家が借金まみれってことは。君の父親は金目当てで婚約の話を進めたのだろう!」
「あのぅ……じつは……」
「ふん! 言い訳など不要だ! もともと、僕はこの婚約に乗り気じゃなかったんだ! 君みたいな地味メガネは僕には不釣り合いさ。自分にふさわしい結婚相手を探してもらうんだな!」
地味メガネ……なんだか幼稚な罵倒の仕方ですわね。もっと言いようがあるでしょうに……。アルマンは文学に親しんだこともないのかしら? わたくしが、がっかりしておりますと、調子に乗ってしゃべり続けようとします。
「父上、ここにいるマルグリットは家格こそ低いかもしれませんが、美しく、聡明で気立ても良いです。何より僕と愛し合っている。どうか、彼女との結婚を認めて……」
アルマンは最後まで言うことができませんでした。なぜなら、ピヴォワン侯爵がアルマンを殴り飛ばしたからです。
侯爵の鍛え抜かれた上腕筋はアルマンを三メートルほど吹き飛ばし、石の柱に衝突させ、流血させました。「キャアアアア」と、マルグリットが品のない悲鳴をあげます。けれど、アルマンをかばおうとはせず、デコルテの開きすぎたドレスの裾をつまみ、今にも逃げださんとしていました。
侯爵はそんなマルグリットを尻目にアルマンに迫ります。
「お待ちください!!」
止めたのは、わたくしでした。侯爵の立派な肉体と貧弱なアルマンでは、天と地ほどの差があります。頭に血が上った状態で殴り続けては、アルマンを死なせてしまうと思いました。
「おとうさま、おやめください。わたくしは構わないのです。アルマンの望みどおりに致しますので、どうぞ二人の結婚をお認めくださいませ」
この言葉に聞き耳を立てたのは、逃げようとしていたマルグリット。真っ赤な唇の端を、いやらしく歪ませました。
「あら? まだ結婚もしていないのに、“おとうさま”呼ばわり? 貧乏令嬢は高慢ね? 金目当てで侯爵家に近づくさもしい身の上のくせに、物わかりよくて薄幸な婚約者像を演出してんじゃないわよ!」
わたくし、ハッとしてマルグリットの派手な造りの顔を見つめました。アルマンより、語彙力があるかもしれません。言葉遣いは下品なのですが、地味メガネよりはセンスがありました。
それはそうと、おとうさまはマルグリットの無礼な物言いにカチンとこられたようです。氷のような視線をマルグリットに向けました。戦場で何人もの敵兵を亡き者にしてきたおとうさまです。その一瞥は氷刃より鋭かったのでしょう。マルグリットは真っ青になり、縮み上がりました。
でも、おとうさまは一瞥しただけでした。この国にいるどんな貴族よりもジェントルなおとうさまが、女性に対して暴力を振るうことは決してありません。
ここで暴力と申すのは、肉体、言葉、両方を含みます。恐れをなしたマルグリットが失禁しても、おとうさまは知らんぷりをされていました。さして、興味も持たれていないのでしょう。戦地で英雄と称えられたおとうさまにしてみれば、蚊がブンブン飛び回っている程度の認識なのでしょうね。
おとうさまのお怒りはふたたび、息子へと向かいました。
「アルマンよ。おまえが成長するまでの間、私は戦地におり、教育してやれなかったことを心苦しく思う。どうしてそんなにも想像力乏しく、軽薄で情けない人間に育ってしまったのか……女性を平気で傷つけ、裏切るような真似をする卑劣な男になってしまったのか。私は悲しい」
「ちっ……父上っ!! お聞きくださ……」
「ルイーザの実家、ジェラーニオ伯爵家の借金はもう返済されている」
「は!?」
「ルイーザが自身の力で返済したのだ」
驚くアルマンから目をそらし、麗しのおとうさま……ピヴォワン卿はわたくしを慈愛のこもったグリーンアイで見つめます。わたくし、体中がほてって、のぼせたようになってしまいました。ああ、おとうさま……すべて、おとうさまのおかげです……
一年前――
ピヴォワン侯爵の一人息子、アルマンとの婚約が決まり、わたくしの両親は諸手を上げて大はしゃぎしておりました。と申しますのも、ピヴォワン侯爵は王国の北の三分の一を有するほどの大領主で非常に裕福だったからです。また、侯爵は先の戦争で名を馳せた英雄でもありました。
そんな名家との話が決まって、鉱山経営に失敗してしまった両親は天にも昇る心地だったでしょう。両親だけではありません。兄も妹も喜んでおりました。
この良縁が決まったのには訳があります。
一つは事業に失敗してしまったとはいえ、我が家は紛れもない大貴族。広大な領地を所有しておりますし、親戚には廷臣が何人もおり、王室との関わりもございます。しばらくの間、失態を覆い隠すぐらいのことは可能でした。
当初の両親の計画では領土をいくらか手放し、兄の結婚相手の持参金とピヴォワン家の財力を手に入れれば、借金はなんとかなると考えていたようです。
二つ目は、母マリアンヌの人脈でしょうか。
母は社交界ではかなり有名な才女で、頻繁にサロンも開いてました。母主催のサロンに招かれることは、貴族社会では一つのステータスとなっていたようですね。
そのような経緯でわたくしはシックな藍色のドレスに身を包み、ピヴォワン侯爵邸を訪ねたという次第なのです。
わたくし自身は、あまり乗り気ではございませんでした。母のように学問を究めたいという気持ちもございましたし、十五歳。デビュタントもまだなのです。結婚前に、もっと世の中のことを知りたいという欲もございました。
最初から鬱々としていたものですから、邸宅の玄関ホールにアルマンが現れた時は、輪をかけてガッカリしました。
だって、艶々した黒髪は美しいと思いましたが、ヒョロヒョロした体に女顔、髭も生えていないんですもの。でも、人のことは申せませんわね。眼鏡をずり上げ、暗い色のドレスをまとったわたくしはアルマンの目には地味と映ったようです。明らかに落胆した顔をしていました。
一方で、玄関ホールに出迎えたアルマンを見て母は、
「まあ! きれいな方!! ルイーザ、緊張しちゃうわね!!」
そう言って小躍りします。わたくしにそっくりな見た目の母は才女なのですが、イケメン大好き……世俗的なところもある人なのです。若作りの父は苦虫を噛み潰したような顔をしていました。
アルマンに案内され、わたくしはトボトボと大広間に足を踏み入れました。パーティなどが行われる大広間には大きなシャンデリアが何個もぶら下がり、連なる柱の間には金に縁どられた格子窓がはめ込まれています。貴族の邸宅らしいきらびやかな佇まいでした。
ですが、王城にお呼ばれしたこともございますし、わたくしたち家族にとっては、王都にある我が家よりちょっと贅沢だなと思う程度です。
金目当てで結婚する――卑しい立場のわたくしにとっては、スタンダードな美男子も豪勢な大広間も、下手な画家が描いた絵画と同様でした。無味乾燥でつまらない。
そんなわたくしが、まさか我を忘れるほど、心奪われることになろうとは……
目の前に現れた彼を見たとたん、わたくしの時間は止まりました。
眼鏡をずり上げるのも、呼吸も忘れ、彼に見入りました。
短い髪は均一にグレーで、同色の口ひげは先がクルンと丸まっています。見上げるほどの長身にジュストコール、ジレの上からでもわかる隆々とした筋肉。物憂げなグリーンアイに捉えられ、心臓がキュンと収縮しました。微笑むと目尻と口元に知的な皺が寄ります。
――なんて素敵な方なのかしら……
わたくしが心奪われたのは婚約者の父親、ピヴォワン卿でした。
†† †† ††
わたくし、もともと年配の殿方が大好きなのですよ。ちまたではオジ専……というのかしら?
なぜかというと、父が貴族社会では有名な美男子で、しかも若作りなものですから、スタンダードなタイプは見飽きているのです。今年で三十二歳だというのに、父は二十台前半に見えます。アルマンと同じく黒髪ですし、優男タイプ。父の方が美しいため、どうしてもアルマンは見劣りしてしまうのですよね。
そんな父のせいでわたくしは、ご年配の殿方の魅力に目覚めてしまいました。髭も濃いほうが良いのです。白髪はセクシーですよ。皺は知性を表します。老いてもなお、体が頑強ならば、魅力は倍増するでしょう。
わたくしはピヴォワン卿に会いたいがため、婚約者の屋敷へ足しげく通うようになりました。
幸いにもアルマンはいつも留守です。大きなお屋敷に使用人の他は二人っきり。ピヴォワン卿は三年前に奥様を亡くされていました。初めて会った時のグリーンアイが物憂げだったのは、そのせいだったのです。
新芽が芽吹くころから、夏の終わりまでが貴族の社交シーズンです。秋冬はそれぞれの領地に帰るのが通例でした。
社交シーズンの間、夜会やサロンが頻繁に開催されます。昼間は王議会に参加したり、接待か自宅で事務仕事をする程度なので、ピヴォワン卿が在宅の確率は高いのでした。
彼は肉体的に優れているだけでなく、知性も持ち合わせた人でした。
「今日も息子は留守でね、こんなオジサンが相手で申し訳ない」
苦笑するピヴォワン卿は色気たっぷりのグリーンアイで、わたくしを雁字搦めにします。その目に捉われると、わたくしは毎回、心の臓が止まってしまいそうになるのですよ。
赤くなっているであろう顔を下に向け、わたくしは懸命に対戦の申し込みをします。幸運にも、わたくしたちには“チェス”という共通の趣味がございました。
仕事を片付けてから、または来客が帰ってからと待たされることも、たびたびありました。そんな時は大広間の階段の裏で、わたくしは読書をして待つのが常でした。
手が空くと、侯爵とわたくしは何時間でもチェスに没頭しました。わたくしが勝つことも負けることもありました。ゲームに熱中している間は冷静でいられます。ときおり、盤上をにらむ彼の顔をのぞき見しつつ、わたくしは体を熱くしておりました。
「まーた、君が勝ったね? いやいや、たいしたものだ」
「いいえ。勝敗はトントンですわ。父相手だと、九割方、わたくしが勝ってしまいますもの」
歯を見せて笑うピヴォワン卿のお顔に見とれていたら、ふと真顔になられました。
「しかし、愚息は何をしているのだ?……先ほど帰ってきたようだが、挨拶もしないで引っ込んでしまって……」
あら? アルマンたら、帰ってきていたの? わたくし、まったく気づきませんでした。
風通しのよい大広間にて、小テーブルに向かい合うわたくしたちの横をアルマンは通り過ぎていったようです。夏場は広い所のほうが涼しいので、大広間にいることがほとんどでした。
呼び寄せようかとおっしゃるピヴォワン卿をわたくしは止めました。
「疲れた顔をされていましたし、声をかけなかったということは、ゆっくり休まれたいのでしょう。ソッとしておきましょう」
もちろん、嘘ですが。尊い時間をわたくしは奪われたくなかったのです。ピヴォワン卿は深いため息をつきました。
「いつも気を使わせてしまい、申しわけない。愚息には婚約者を大事にするよう、強く言い聞かせておこう」
「お気遣いは不要です。わたくしはピヴォワン卿とチェスができて、充分満足しております」
そこで、彼は腕組みし、しばし思考されました。こういう、さり気ない所作からも大人の魅力が滲みでており、目を奪われてしまいます。
長い指でたくましい上腕をトントン叩くさまは、ずっと見ていたくなります。一定のリズムを刻む彼の指には、白と黒の毛が半々に生えていました。
ハタと顔を上げたピヴォワン卿は笑顔になりました。
「そうだ! まだ日が出ている。馬は好きかね?」
「え? う、馬……ですか?」
「天気も良いことだし、庭園を馬で散歩してみないか? いい気分転換になる」
戸惑うわたくしに、彼は身支度を勧めます。わたくしは使用人に連れて行かれ、お亡くなりになった奥様の乗馬服に着替えさせられました。
使用人に「奥様がご健在だった時のことを思い出します」と言われ、気恥ずかしいやら、嬉しいやら――
あれよあれよ言う間に外へと連れ出されてしまったのです。
厩舎に着くなり、ピヴォワン卿は「君の馬はこれだ!」と、ご自分と同じグレーヘア……芦毛の馬をお選びになりました。
芦毛の馬は頑固だとよく聞きます。じつはわたくし、乗馬は苦手なのですよ。不安で堪りませんでした。
そんなわたくしの心情を察したのでしょうか。彼は、わたくしの耳元に近寄り、囁かれました。
「大丈夫。馬の目を見てごらん」
温かい息が耳を湿らせ、わたくしは魔法をかけられたかのように、ぼぅっとしてしまいました。芦毛の碧眼は、茶目っ気たっぷりの彼の目に少し似ていました。
――怖いのかい? 大丈夫さ。もっと、おもしろがろうよ?
そう言っているようにも思えました。
夢見心地のわたくしは導かれるままに、またがります。馬の鼓動や呼気が鞍を通じて伝わってきました。
侯爵は手綱の握り方や姿勢などを簡単に指導してくださり、それからご自分も騎乗されました。
「さあ、行こう!」
先導する彼のあとについて、わたくしも疾駆します。気持ちの良い黄昏時の風が頬をなでました。赤らんだ西日が、わたくしたちを優しく照らしていました。黄金色に染められる芝や物悲しげに見える花壇の花たち、長い影を伸ばす生垣……噴水の反射の眩しいこと。それらが、目の端を高速で横切っていきます。
スピードというものは脳に快楽をもたらすのですね。わたくしたちは、門を出て屋敷の周りを一周してしまいました。
爽快でした。風を切って馬を走らせるなんてことは、初めてのことです。冗談ではなく、本当に魔法みたいでした。
数十分後、馬から降りた時、わたくしとピヴォワン侯爵の距離はグッと縮まっていました。わたくしたちは好きな本や音楽、チェスの話を思う存分にしました。彼との時間は宝石なんかより、ずっと貴重で価値のあるものでした。
ところが、彼と仲良くなればなるほど、つらい現実が待っています。わたくしが婚約しているのは侯爵ではなく、その一人息子のアルマンなのです。
侯爵とは比べるべくもなく愚鈍で貧弱。内面の卑しさが全身からにじみ出ています。どうして、このようなことになってしまったのでしょう? 少しでも父親に似たところがあったのなら、わたくしもまだ我慢ができました。ですが、アルマンには一ミリだって、似たところがなかったのです。
「どうしたんだい、ルイーザ? 最近、いつも浮かぬ顔をしてるじゃないか?」
渋い低声で我に返りました。いつもどおり、わたくしとピヴォワン侯爵は大広間でチェスをしておりました。夏、真っ盛りの蝉の鳴き声が外から聞こえてきます。
心配そうなグリーンアイに吸い込まれ、わたくしはポロポロと涙をこぼしてしまいました。
眼鏡が濡れて、さぞ、みっともなかったことでしょう。わたくしは眼鏡を外し、小テーブルに置きました。ボヤけた視界に、息を呑む侯爵のお顔が映りました。
「なにか苦しんでいるんだね? 私でよかったら、なんでも聞くよ? 君は息子の婚約者……いや、私の大切な友人だからだ」
もう、無理です。わたくしはあなたの息子ではなく、あなたを愛してしまったのです。しかも、両親は借金まみれで、あなたの財力を当てにしている――そんなセリフが喉のところまで、出かかっていました。
わたくしが打ち明けられたのは、借金のことだけでした。
これで彼は愛想を尽かしてくれる。わたくしは幸せを奪われる代わりに、罪悪感からは解放されるのだと思いました。それなのに彼は……
「借金のことは気にしなくていい。私がなんとかするから」
と、おっしゃったのです。
そして、唖然とするわたくしを抱きしめてくださいました。
ほのかに立ち昇る香水と男臭さの融合に、わたくしは訳がわからなくなりました。彼の匂いを胸いっぱいに吸い込み、「ありがとうございます」を繰り返すしかなかったのです。
それから、わたくしの意識は大きく変化しました。大好きなピヴォワン侯爵に負担させたくない。自分の力でなんとかしたい、戦ってやると。
四六時中、考えて考えて考え抜きました。寝る間も惜しみ、彼の屋敷へも行かなくなりました。これも愛する彼のため。
そして、ついにひらめいたのです。
チェスと母が開くサロン。これを結びつける!!
チェスは貴族社会で人気でしたが、公式な試合というのはまだありませんでした。
賞金を用意し、頂点を決定する試合を開催するのです。人も集まりますし、夢があります。予選は無料、本戦は会員制のサロンで開き、有料にします。
わたくしはさっそく、母に相談してみました。我が家は美なら父、知なら母なのです。母には人脈もあります。
賞金を用意するのくだりで眉間に皺を寄せていた母は、最後まで聞き終えるとニッコリ微笑みました。
「いいんじゃないかしら! やってみましょう!!」
姉さん女房強し。正直な話、誰が見ても美形の父ではなく、知的な母に似ていると言われるのが嫌だったんです。でも、この時は母に似ていることが、大変誇らしく感じられました。
母の行動力には目を見張るものがあります。すぐさまサロンを開き、チェス大会の参加者を募りました。母だけでなく、父や兄妹もそれぞれの人脈を駆使し、宣伝してくれます。王家とのつながりもあるジェラーニオ家だからこそ、立てられた戦略でした。
わたくしも、ぼんやりはしてられません。久しぶりに婚約者宅へ出向きました。目的はもちろん、ピヴォワン侯爵です。アルマンはやはり留守でした。
わたくしは侯爵にチェスの大会の話をしました。
「大会を開催するにあたって、何かアドバイスがあればと思い、お訪ねいたしました」
いつもの大広間で、チェス台を挟んだ向こうにいる侯爵は顔を輝かせました。
「そういうことなら、ぜひ協力させていただきたい! 人集めもするし、賞金は私に用意させていただけないだろうか?」
賞金なんてとんでもない……。ご迷惑をこれ以上おかけするわけにはいかないと固辞しましたが、侯爵は首を縦に振りませんでした。
「君が家に来なくなって、傷つけてしまったのだろうかと、私はずっと気に病んでいた。君のためにできることならなんでもしてあげたい、そういう気持ちなのだよ? なぜだろう? 実の息子より、君のことを愛おしいと思ってしまうのだ」
こんな嬉しいことを言われて、頭を振り続けるわけにはいきません。わたくしは彼の好意を受け入れることにしました。
グリーンアイに捉われると、時が止まってしまいます。訪ねてこないことを気に病んでいたと聞いて、わたくしは昇天してしまいそうでした。
しばらくぶりの彼の碧眼には熱く燃えたぎる炎が宿っていました。以前の物憂げな感じとはちがいます。とてつもない生命力を感じたのです。彼のパワーに影響されてか、わたくしの体内にも小さな炎が生まれたようでした。それは欲望に近く、表に出すのが浅ましく感じられましたが、彼に手を握られると、燃え盛る烈火になりました。
あの時のように抱擁されたい。彼の匂いを胸いっぱいに吸い込み、厚い胸板にこの身を預けたい。クルンとした口髭や目尻の皺を指でなぞることができたら、どんなに幸せでしょう。
わたくしの勇気は体内を暴れ狂う欲望に比べたら、ごくごくささやかなものでした。
「あの……ピヴォワン侯爵……厚かましく恐縮なのですが、一つお願いを申し上げても構わないでしょうか?」
彼は疑問符を頭の上にくっつけて、少しだけ首を傾けます。それは小鳥の動きに近しいものがありました。おわかりになるでしょうか? 彼は身長も高いし、筋肉質なのです。強面の初老なのです。
そんな厳つい彼が、かわいらしい振る舞いをすることの希少価値が! いわゆるギャップ萌えというやつです。
わたくしはキュンキュンしながら、勇気を振り絞りました。
「おとうさま……とお呼びしても構わないでしょうか?」
侯爵、卿という呼び方には距離があります。わたくしはもっと彼に近づきたかったのです。
ピヴォワン卿はキョトンとした鳥しぐさから一転し、破顔されました。
「なんだ、そんなことか? いいよ、好きなように呼びなさい。君は未来の娘なのだからね……」
最後の言葉はどこか影があるように感じられました。わたくしの密やかな願望がそのように感じさせたのかもしれません。彼のそばにいられるだけで充分なのだから、欲深にならないようにとわたくしは自分を戒めました。決して叶わぬ望みを抱いても、不幸になるだけですから……
ピヴォワン卿……いえ、おとうさまは貴族以外にもチェスを広めてはどうかと、ご提案されました。
「貴族社会は案外狭いものだよ。それに一年の半分は地方に住んでいる。王都に集結するのは春夏の社交シーズンだけさ。身分関係なしに能力だけで戦える場があるとしたら、とても素晴らしいことだと思うのだけどね」
「ナイスアイデアですわ!! おとうさま! すぐにでも実行しましょう」
まずは王都から……
わたくしは様々な場所へ行き、チェスの無料講座を開きました。修道院、教会、孤児院、図書館、博物館、美術館……まだまだ、これでは庶民まで下りていません。わたくしは町の酒場と呼ばれるような場所や街頭などでもチェスを教えました。
大活躍したのが、絵で意味がわかるようにした解説書です。腕に覚えのある妹が協力してくれました。これによって、文字を読めない庶民でもチェスを楽しめるようになりました。
よその若い娘たちがデビュタントを終え、お茶会や舞踏会に興じている間、わたくしはチェスの伝道に力を尽くしていたのです。
夏が終わり、王都に集まっていた貴族たちはそれぞれの地方に帰ります。父は各地方の領主たちに印刷したチェスの説明書を何部も渡し、広めるよう依頼しました。
チェスのルール自体はわかってしまえば簡単です。五、六歳の子でも理解は可能なのですよ。難しいのはゲームの中での駆け引きや戦い方です。シンプルなルールの下でどれだけ能力を生かせるか。地位、経済力に関係なく、いまや誰にでも門戸は開かれています。
チェスの大会の予選は冬に開かれました。そして次の夏、母の開くサロンで決勝戦が行われたのです。
貴族だけでなく、国中の人がチェスの大会に熱狂しました。準々決勝あたりからは観戦したい人が多すぎて、サロンへの参加者は抽選になるほどでした。ただし、特例として国王陛下、王妃殿下、王太子殿下は優先的に招待させていただきました。あと、ノヴォジャーナル(瓦版)の記者たちは無料招待しました。彼らにはこの大会やチェスを広めるという役割があります。
当然、本戦からは有料です。偽の招待状や会員証が転売されたりもするほど、(それ自体は困ったことなのですが)母のサロンは大盛況となりました。
金額のつり上げは少しだけ。そんな卑しいことをしなくても、充分な額が集まりました。なにより、わたくしたちは多くの人にチェスを楽しんでもらいたかったのです。
見事一位を獲得したのはなんと! 王都で両替商を営む女主人でした。
庶民、しかも女性がナンバーワンになったというニュースは王都中、いいえ、国中に激震を走らせました。世のしがらみに囚われず、誰もが夢をつかむことができる。チェスという競技を通じて、人々は皆平等になったのです。
「まさか、こんなにも大々的になるなんてね……」
いつもの大広間で、わたくしとおとうさまはチェス盤を挟んで談笑しておりました。相変わらず、アルマンは留守です。
おとうさまはアルマンの所在をわたくしに告げなくなりました。良きことです。わたくしもおとうさまの予定を確認してから訪問するようになり、とても効率的になりました。
「でも、悔しいなぁ……君は7位。私は13位なんだからね」
「その時の体調もあるでしょう。6位差など、すぐに縮められますよ?」
「来年の大会はどうなるのかな? 君の順位に追いつきたいものだが」
「来年はさらに激戦になるでしょう。というのも、わたくしの父の案で地方でも予選をすることが決まったのです。庶民の間でも人気が高まってますし、隠れた天才が我こそはと押しかけてきますよ」
「楽しみだな」
「楽しみです」
わたくしたちは笑い合いました。どうしてこんなに、のんびりしているのかというと、すでに実家の借金は完済していたからです。わたくしたちの関心は次のチェス大会にありました。大好きなおとうさまとチェスや最近はまっている小説のお話などを存分にして、わたくしは帰路につきました。
帰ってから、アルマンの呼び出しを食らうなんて思いもしなかったのです。わたくしは自分に婚約者がいたことを忘れそうになっていました。もう長らく会っていないので、アルマンの顔さえうまく思い出せません。
翌日、わたくしは暗澹とした気持ちで婚約者宅へうかがいました。
†† †† ††
「しゃ、借金を返したって!? ウソだろう!?」
ガランとした大広間に間の抜けたアルマンの声が響きます。おとうさまは、血まみれのアルマンを冷ややかに見下ろしていました。
「嘘ではない! おまえはジェラーニオ夫人が開催したチェス大会のことを知らんのか?」
「チェス??……ああ、なんとなく、そんな大会を開いていたような気もするけど、僕はチェスに興味はないし、借金もあるのに呑気なことをしているなぁぐらいにしか……」
「馬鹿め! おまえの目は節穴か!! こんなにも世間で話題になっているのに、目を向けようとしないとは……」
おとうさまは拳を握りしめ、ギリギリと奥歯を噛みしめました。この時点ではまだ、おとうさまの怒りは婚約破棄をしようとしたことによるものだと、わたくしは誤解しておりました。婚約者を蔑ろにした息子の不誠実さに怒っているのかと。
「ち、父上……ごめんなさい……。借金の件はとりあえず、僕にはマルグリットという想い人がいるのでルイーザとの婚約は解消したいのです。ルイーザは僕と婚約しているにもかかわらず、この一年まったく交流しませんでした。もう十六というのにデビュタントもせず、夜会にも顔を見せません。マルグリットの話では、女性同士の茶会にも招かれないといいます。妻にする場合、社交的じゃないのは致命的だと思うのですが……」
アルマンの言葉は火に油を注ぐようなものでした。わたくしはおしっこ臭いマルグリットの代わりに、嫌いなアルマンを守らねばなりませんでした。でないと、おとうさまったら、本当にアルマンを殺しかねなかったんですもの。
「おっまえ……まだ、ルイーザを愚弄する気か!! 彼女は頻繁に我が屋敷を訪れていたのだ! おまえが女遊びで留守にしている間になっ!」
アルマンに会いたかったのではなく、おとうさまに会いたかったんですけど……まあ、よしとしましょう。
アルマンは返す言葉もないようでした。おとうさまはアルマンの前に立ちふさがるわたくしの手を取り、ほとんど力を入れずにクルッとアルマンのほうを向かせました。
「ルイーザに謝罪しろ!! よくも彼女を地味眼鏡と罵倒したな!! 賢く、美しい私のルイーザを!! 化粧をしなくても絹のごときなめらかな肌、漆黒の髪と瞳、薔薇を思わせる唇……これ以上の美がこの世に存在するだろうか? おまえなど勘当だ!! 絶対に許さぬ!! そこにおられる……えと……どこかの娘さんと共に消えてしまえ!!」
おとうさま……今、“私のルイーザ”と?? わたくし、耳を疑いました。それに褒めすぎですってよ……自分でも赤面しているのがわかりました。
猛烈なおとうさまに圧倒され、アルマンはわたくしに頭を下げました。でも、わたくしにとってはアルマンの謝罪はどうでもいいことです。脳内では“私のルイーザ”が何度もこだましておりました。
「そういうわけでルイーザ、不快な思いをさせてしまい申し訳なかった。君にはまったく非はない。アルマンを許す必要もない。君がアルマンとの婚約を継続したいというのなら、それでも構わないし……」
「いいえ。婚約は解消させてください」
わたくしはハッキリと申しました。アルマンはビクッと肩を震わせます。柱の影でにんまりするマルグリットが見えました。「そうか」とおとうさまは肩を落とします。
わたくしは息子の婚約者。婚約を解消してしまえば、もう会うこともないと、そうお思いになられたのでしょう。グリーンアイは悲しみをたたえていました。
「君を傷つけたうえに、ずうずうしいお願いだとは思うのだが、息子との婚約を解消しても、私との交流は続けていただけないだろうか。良き友として、君のような素晴らしい才女と今後ともお付き合いしていきたいのだ」
「いいえ」
わたくしは微塵も躊躇せず、断りました。
この時のおとうさまの憔悴ぶりったら……この世の終わりに直面したみたいに蒼白な顔で放心されたのです。わたくしの願望は確信に変わりました。
「友人ではイヤという意味ですよ? おとうさま。いいえ、レオン」
わたくし初めておとうさま……レオンをファーストネームでお呼びしました。レオンは目を丸くされ、しばし固まっておいででした。彼が三十歳若かったら、そのまま数分間、行動できなかったでしょう。しかし、口元や目尻に刻まれた年輪が、彼の経験値を物語っていました。
レオンが固まっていたのは、ものの数秒でした。サッとひざまずき、グリーンアイでまっすぐわたくしを射ったのです。
「ルイーザ、どうかこの私と結婚してほしい」
わたくしは返事の代わりに微笑んで、手を差し出しました。手背にキスするレオンの色気のすさまじいこと。アルマンのようなヒヨッコには真似できない芸当ですわね。
こうして、わたくしは国の英雄、レオン・ド・ゴンクール・ド・ピヴォワンを手に入れたのです。
余談――
アルマンはその後、屋敷を追い出され、騎士団に入団させられました。マルグリットとどうなったかは知りません。
侯爵家の跡取り? あいにく、アルマンに出番はありませんよ。だって、わたくし多産体質だったんですもの! 一年後にはもう男の子を出産。その二年後の今は双子を妊娠中です。
そうそう、チェス大会の順位はなんとか7位は堅持しております。レオンは32位まで落ちてしまったわね。恋愛ボケかしら? 彼ってば、二人っきりの時は今でも“おとうさま”と呼ばせたりするの。まったく、どんな趣味なのかしらね?