ときはめぐる
【第1章】―うごきだす―2020年7月―
倉本沙奈絵は倉本楽とリビングでくつろいでいた。
楽は紗奈の一人息子だ。結婚し一年後に楽が生まれたが、職を転々とし、不安定な元夫との修羅場をくぐり抜け離婚していた。2005年1月のことだった。それ以来、紗奈絵の両親に協力してもらいながら楽を育ててきた。楽は高校三年生になり、大学進学について考える時期になっていた。
「母さん、俺、星阪大学に行きたいと思ってるんだ」
「えっ?星阪大学がいいの?レベル高いんじゃない?」
楽が話始め、紗奈絵は一瞬驚いたが質問で返した。
「スポーツフロンティア入試があるからそれに合格できたらだけど…」
楽はラグビー選手、小さい頃からプロを目指して日々練習に励んできた。
「他の大学から推薦はもらえないの?」
沙奈絵は高校が推薦入学だったし大学もいけるのではと踏んでいた。
「そんな簡単じゃないって大学は。自分の実力を試せる機会だしやってみたい」
楽は気持ちが固まっているようだった。
「どうしてまた星阪大学なの?」
「強いクラブでやってみたい。あと家から通えるし」
「…と言うことは学部は情報学部にするの?」
「そのつもりだけど。勉強で行くのは無理だと思うから、スポーツフロンティア入試に合格したらね」
楽は強い決意があって話してきたんだろう、紗奈絵は私情を挟むべきではないと思った。
「監督も賛成してくれているなら頑張ってみれば?応援するよ」
「監督が薦めてくれたんだよ。好きなプレースタイルだし、それで興味持ち始めた」
「そっかわかった、それなら頑張れ!」
沙奈絵は自分で進路を考え始めた楽を頼もしく思いながらも「星阪大学か…」と、こんな時が来るとは想像しないことはなかったが、懐かしくもあり胸騒ぎを隠せないでいた。
「母さん、どうかした?」
「ううん、上手くいくといいね」
「やることをやるだけだから!」
息子の成功を願いつつ、紗奈絵は昔のことを思い出していた。
―2021年4月―
楽は星阪大学スポーツフロンティア入試に無事合格し、情報学部の入学が決まった。トップリーガーを目指しているが、セカンドキャリアも見据えてシステムエンジニアを目指せる学部を選択したのだった。楽は入学式前のガイダンスでキャンパスにやって来た。受付に立っている男性が名前の確認を行っている。
「お名前は?」
「情報学部の倉本楽です」
「倉本…?」受付の男性が楽の顔を見つめる。
「はい…」楽は男性の自分を見つめる顔に違和感を覚えた。
「あっ、いや、情報学部ですね、ではこれを」男性から案内書類を渡された。
「ありがとうございます」楽は首をかしげながらその場を去った。
男性は楽の後ろ姿をしばらく見つめていた。
その頃、沙奈絵も仕事を午前中で終わらせて、楽の入学式を見るために星阪大学に向かっていた。楽から星阪大学に入りたいと言われた時は驚きを隠せなかった。子どもの人生を自分の過去のことで止めたくない。紗奈絵はあのことは自分の胸にだけしまっておこうと決めていた。式典開始前ギリギリに到着した沙奈絵が会場の中に入ると、今まさに式典が始まる時だった。
「間に合った!よかった…」
独りごとを言いながら紗奈絵は席についた。
子どもの入学式に参加するのはこれが最後だなと紗奈絵は噛みしめていた。あんなに小さかった我が子が大きく成長し、スポーツに打ち込む青年になってくれた。スーツもなかなか似合っていて、これから四年間この大学でより一層成長して欲しいと沙奈絵は願った。そんな思い出を振り返っているうちに式典が終了した。保護者の参加はここまで、紗奈絵は帰路に向かうべく会場を後にした。星阪大学と言えば、この辺りではマンモス大学と言われており、就職先ではOBが必ずいるというほどだった。紗奈絵の勤める会社の同僚にも星阪大学出身者が多くいた。沙奈絵がそんなことを考えながら歩いていると、後ろから声をかけられた。
「あの、すみません…」男性が声をかけてきた。
「はい?」沙奈絵は聞き覚えのある声だと感じながら振り返った。
「倉本じゃないか?」
沙奈絵にとってやはり懐かしい声の相手だった。その声を聞いた時、沙奈絵の頭の中で「うるさい!」と叫んだ声、その男の運転する車の助手席で聞いた話し声、そして留守電メッセージから聞こえてきた最後の言葉が一瞬で蘇ってきた。
「お久しぶりです先生…」懐かしい気持ちを抑えて沙奈絵が返事を返した。
「倉本の子どもが入学か?」
「そうなんです、お世話になります」
その男とは紗奈絵の恩師、阿南隆夫で22年ぶりの再会だった。阿南も沙奈絵も容姿は22年という時の経過は感じるが、声はあの(・・)時のままだった。
「うちの学部に倉本楽という名前を見つけたが息子さんか?」
「そうです」
「名前が…」
「あっ離婚したんです、子どもが2歳の時に…」
「そうだったのか、同じだな…」
「そうですね…」と沙奈絵が返すと2人は見つめ合った。
阿南はそれ以上言葉を交わさなくとも、沙奈絵が苦労してきたことは目を見ればわかると思った。
「お元気でしたか?」一瞬、目を逸らしてから沙奈絵が阿南に問いかけた。
「あぁ、倉本も元気そうだね…」
その後二人は、近況報告をすませてから別れた。
大学を後にする沙奈絵の後ろ姿を見ながら阿南は、あの時、沙奈絵から送られてきた2通のハガキのことを思い出していた。
【第2章】―はじまり―1997年5月20日(火)―
沙奈絵はコンピュータールームにいた。四月に花咲短期大学に入学してからできた友達の久木令子、佐藤夏菜子、南希穂の三人と行動を共にしている。高校時代は友人関係で悩みの多い時期を過ごした沙奈絵にとって新しい環境に飛び込んでできた友達だった。令子たちは内部進学組。夏菜子と希穂は初等部からというお嬢様だった。
友達になったのは、令子が入学式当日に紗奈絵に声をかけてきたことがきっかけだった。
沙奈絵の見た目に興味を持ったらしい。おとなしそうに見えて髪型が三つ編みパーマと、そのギャップがツボだったようだ。
沙奈絵たちが談笑していると、次の授業の講師が部屋に入ってきた。学生たちを見下したような目つきでやってきたのが阿南隆夫との出会いだった。そして、紗奈絵の恋の針を進めることになろうとはこの時は知る由もなかった。阿南は星阪大学の助教授であり、紗奈絵たちが通う花咲短大では非常勤講師だった。形式的な自己紹介を終えた後、淡々と授業を行っていく阿南。沙奈絵たち世代の女子にとって阿南の授業は退屈で仕方がなかった。パソコンに興味を持ち、自らこの大学を選んで入ってきた沙奈絵と違い、令子たちは高校の延長線上で授業態度はすこぶる悪く、ついに見かねた阿南の様子が変わった。
「お前ら…うるさい!興味ないなら帰ってもらって結構」
そりゃそうなるだろう…と紗奈絵は思った。阿南が一喝入れた後、授業はまた淡々と進めれた。
授業が終わり、令子たちの不満が爆発する。
「何あいつ?最悪じゃない?」
「あれはない!」希穂が煽る。
「まぁ、ちょっとうるさかったかもね…」紗奈絵が二人をなだめた。
「非常勤だしすぐいなくなるって、気にしなくていいよ」夏菜子も大人な態度だった。
「でもあいつ、星阪大の助教授でしょ?」
「短大だからって見下してんじゃないの?」令子は納得いかない様子。
阿南が在籍している星阪大の情報学部は令子の家の近所にあった。沙奈絵も令子の家と近く星阪大のことはよく知っていた。
「まぁ星阪大の学生と比べられるとね…」と紗奈絵は令子に返しておいた。
「あーあの授業は単位落としてもいいかなー」と言いつつも、不満を口にしたことでだんだんと怒りのトーンが落ち着いてくる令子だった。
沙奈絵は「言葉にすると感情が落ち着くものなのかな…」と心の中で思った。
―1997年6月3日(火)―
阿南の授業の日がやって来た。あれから、阿南の授業はみんな静かに授業を受けるようになっていた。
「案外、みんないい子だよね」と紗奈絵は思っていた。
沙奈絵はコンピュータールームでの授業が好きだった。練習すればするほど上達できるタイピングが好きだった。与えられた文章を打ち込む作業は集中力が必要だ。制限時間内に課題の文字数を入力する授業は紗奈絵は「誰にも負けないぞ!」とひそかに思っていたのだった。
沙奈絵は授業が終わった後、阿南に声をかけられた。
「君、タイピング早いね」
「え?あーそうですか…」
「手が蜘蛛みたいに動いてた、蜘蛛手の女と呼ばせてもらおう」
「はっ?なんですか?それ…」沙奈絵は阿南から突然話しかけられ「蜘蛛手の女」と命名されてしまった。
阿南と紗奈絵のやりとりを見ていた令子が吹き出した。
「いや先生、今のボケたんですか?沙奈絵、天然なんでわかってないですよ!」
「ボケていない、褒めたつもりだったんだが…」
「抜き打ちテストの時と比べて格段に速くなってるからな」阿南が釈明する。
「先生、私も早くなったでしょ?褒めてくださいよー」と希穂も賞賛を乞う。
「あぁ、全体的に速くなってるよ」と阿南がフォローした。
冷たい人間に見えていた阿南が、沙奈絵にかけた言葉がきっかけとなり生徒たちの阿南への見方が変わっていった。
阿南も生徒たちに対する態度が軟化し交流を持つようになっていった。
阿南の授業を受けている生徒の中でも、特に沙奈絵たちグループが特に仲良くなっていった。阿南もまた、淡々とした授業を盛り上げてくれる沙奈絵たちグループに目を光らせつつも非常勤講師として行う授業を楽しむようになっていた。
教壇に立ち十数年が経つが女子生徒の扱いを特に苦手に感じていた阿南だったが、歩み寄ってくれる沙奈絵たちに救われていた。
―1997年11月18日(火)―
沙奈絵と令子は次の授業まで学内のカフェで待っていた。そこに阿南がコーヒーを買いにやってきた。
「おう!さぼりか?」阿南が二人をからかう。
「違いますよ!次の授業まで時間があるからくつろぎタイムです!」令子がすかさず返した。最悪の出会いから半年が経ち、冗談が言い合える関係になっていた。
「先生も次の授業で終わりですか?」
「あぁ、そうだが」
「今日は星阪大学に戻るのですか?」
「あぁ論文の締め切りが近くてね、今日は泊まりだな…」
阿南が覚悟を決めた表情をして返事した。
「じゃ、私たち一緒に乗せて帰ってくださいよー」
令子がお願いポーズを繰り出す。
「え?あーお前たちの家はうちの大学の近くだったな」
「沙奈絵が星阪大学の近くでバイトしてるんですけど、今日はギリギリになりそうで…」
沙奈絵の名前を出して、令子が上手くねだった。
「どこでアルバイトしてるんだ?」阿南が沙奈絵に聞く。
「フラーワハウスです」
「あぁ!あのお好み焼き屋さんか、うちの学生がよく行ってるみたいだ」
「そうなんですね、学生のお客さん多いですよ」
沙奈絵が答える。
「仕方ないな…わかった、それじゃ十七時過ぎに駐車場まで来てくれるか」
と言いながら阿南は授業のある教室へと戻って行った。
「いいんですか?ありがとうございます」
阿南の後ろ姿に沙奈絵が礼を言うと、阿南は振り返ることはせず手を挙げて返事を返した。
「ラッキー!」
令子が沙奈絵の方を向き喜びのポーズをとる。
十七時、授業を終えた沙奈絵と令子は学内の駐車場にやって来た。少しの間待っていると阿南の運転する車が沙奈絵と令子の前で停まった。
「お待たせ、どうぞ」
「ありがとうございます、お願いします」
沙奈絵が阿南へ会釈をし後部座席を乗り込んだ。
「先生!お願いしまーす!」
令子も沙奈絵に続いて後部座席に座った。
「運転手みたいだな…」
阿南は少し皮肉っぽく呟いた後、車を走らせた。
車が出発して少ししてから令子が阿南に質問した。
「先生は火曜日以外は星阪大学にいるんですよね?今度ごはん連れて行ってくださいよー」
「はぁ?たかる気か!」阿南が突っ込む。
「沙奈絵の働いてるお店、行ってみたいんですよ」令子がねだる。
「何度か行ったことあるが確かに美味いな、あの店は」
「そうなんですね、噂では聞くんですけど行ったことなくて」
「久木は近所だし、いつでも行けるだろう」
「あ、希穂と夏菜子も誘いたいんで…」令子が阿南に食い込む。
「えっ?来るの?恥ずかしんだけど」二人の会話を聞いていた沙奈絵が拒む姿勢を見せる。「まぁ、私の論文が仕上がって、君たちのテスト次第だな」と阿南が条件を提示する。
「よし!それで決定ですね!ちゃんと単位取ればいいってことですよね?」令子がハードルを下げた。
「いや、優を取れたらだな」阿南は右の口角を上げていたずらっ子目で沙奈絵たちをミラー越しに見た。
「えっ!いやそれは無理でしょ…」令子は背もたれに一瞬うなだれたが諦めず話を続ける。
「じゃ、希穂と夏菜子も入れて四人で優が取れたら、先生のおごりでどうです?」
「南と佐藤もか!まぁいい、優が条件だぞ」阿南が折れる形で約束が成立した。
沙奈絵は阿南と令子のやり取りをまるでテニスのラリーを見るように見つめるしかないくらいとんとん拍子で話が進んでいった。
「よし!沙奈絵がんばろう!」令子が声を張り上げた。
「うん…でも恥ずかしいんだけどな…」沙奈絵がは呟くしかなかった。
食事に連れて行ってもらう約束のやりとりをしている間に阿南の車は沙奈絵のアルバイト先の店前に到着した。
「ありがとうございました」沙奈絵が礼を言いながら車から降りた。
「じゃ先生、約束ですよー」令子が念を押す。
「わかった、わかった、まぁテスト頑張りなさい」阿南は星阪大学に向かって車を出発させた。出発した直後、ルームミラーで後ろを見ると、沙奈絵の視線がそこにはあった。その後車が見えなくなるまで見つめるその姿に阿南は胸の高鳴りを感じた。
―12月22日(月)19時「フラーワハウス」―
沙奈絵たちは阿南がやって来るのを待っていた。沙奈絵はアルバイトが休みの日に店に来たのは初めてだった。
「やっぱ恥ずかしいな」と沙奈絵が呟いた。
「食べ物屋さんで働いていればよくあることよ」
希穂が沙奈絵の肩をポンとたたいた。
阿南が出した条件を見事クリアした沙奈絵たちは、阿南にご馳走になるべく店の前で待っていた。沙奈絵が遠くの方を見つめていると視線の先に阿南の姿が見えた。そしてその姿がだんだん沙奈絵の方に近づいてきた。
「お待たせ、出席率100%か」
と阿南が皮肉った。
「先生、お腹すきました!早く食べましょうよ」
普段口数の少ない夏菜子が切り出す。
「あぁ、わかったよ」
阿南が先頭を切って店の中に入っていく。沙奈絵は照れくさい気持ちを抑えながら、阿南の後に続いて店の中に入っていった。
席に座り、それぞれが食べたい物を注文して出てくるのを待っている最中に阿南が沙奈絵に声をかけた。
「大阪の人は、お好み焼きをおかずにしてご飯を食べるのは本当か?」
「みんなではないと思いますが…そういう人も多いかと…」
阿南の唐突な質問に沙奈絵は驚いた表情で答えた。
「炭水化物オン炭水化物だな…学生たちはお腹いっぱいになっていいだろうが、私のような年齢になるとさすがに厳しいな…」
「ここはご飯はおいてないんです、ご飯の代わりに焼きそば食べる人が多いですね」
「なるほど、焼きそばだったら食べれるかもな、そう言えば以前来た時もご飯がないと男子学生が言ってたかな…」
「なになに?お好み焼きトークですか?」阿南と沙奈絵の会話に令子が割って入って来た。
「あぁ、大阪人の習性の確認をね…」
「大阪人って、先生も京都ですよね?関西人はみんな同じでしょ?」
「いや、違う!」
阿南が否定し始める。
「そうそう、違うと思う!ねぇ夏菜子?」
希穂が阿南に続く。
「そうね…」
夏菜子が遠慮気味に同調する。
「うぁ京都人が結束し始めた!沙奈絵、どうする?」
令子が一気に大阪代表に名乗り出た。
「まぁまぁ…落ち着いて…」
沙奈絵が苦笑いしながらなだめている所に注文していた料理が続々と運ばれてきた。
料理を目の前にした五人は、対立しそうになった会話も忘れて食事を楽しんだ。
―1998年2月17日(火)―
沙奈絵たちは阿南の非常勤講師準備室にいた。昨年の食事会以降、阿南との距離がより一層近くなっていった。週に一回やって来る阿南を授業前に訪ねてはからかって過ごしていた。阿南もまた花咲短大へ出向く度に準備室にやって来る沙奈絵たちに、口では早く戻るように促しつつも授業前の息抜きになっていた。この日は阿南が沙奈絵たちにある提案を持ちかけた。
「急なんだが今週末、お前たちスケジュールは空いているか?」
「何々?デートのお誘いですか?」
希穂がからかう。
「いや、うちのゼミの生徒たちをスキーに連れて行く予定だったが、生徒の一人がケガをしてしまって取りやめになったんだ」
「実は甥が長野に先に行ってるから俺も行くんだが、お前たちスキーをやると言っていたからどうかと思ってね」
「長野?いいですね、みんな都合どう?」希穂が沙奈絵たちに聞く。
「あー私、無理だなーバイト入ってる…」
「じゃ、令子は難しいか…」
希穂が返す。
「沙奈絵と夏菜子は?」
「私は大丈夫だよ」夏菜子が答えた。
「沙奈絵は?」
「うん、大丈夫なんだけど家に確認しないと…」
沙奈絵が返す。
「先生、夏菜子と私は大丈夫、沙奈絵は確認次第だって」
希穂が阿南へ報告した。
「そうか、交通費は車だからいらないし宿泊代も俺の別荘だから大丈夫だ。」
「個人で行くから完全プライベートなんだが、親御さんには必ず報告しておいてくれよ」
阿南が言い放った。
家に帰宅した沙奈絵は、旅行のことを母親に相談した。
「お母さん、今週末希穂たちと旅行に行っていい?」
「え?旅行?また急にどうしたの?」
「星阪大学の先生が長野に別荘持っててそこに泊めてくれるから旅行代はいらないって」
「現地まで車で連れて行ってくれるから費用かからないし」
「え?先生?なんでまたそんな話に?」
「ゼミの学生さんを連れていく予定だったらいしいけどケガして行けなくなったんだって」
「令子はバイトがあって無理なんだけど、希穂と夏菜子も行くしいいかな?」
「うん希穂ちゃんと夏菜子ちゃんも行くのね、わかったわ」
沙奈絵の母、美佐子は女友達が一緒に行くなら大丈夫だと思いOKを出した。
「ありがとう!お土産買ってくるね」沙奈絵は高鳴る鼓動を抑えながら喜びを噛みしめた。
―1998年2月21日(土)―
急な誘いだったが、令子以外は参加、阿南の車に乗り込み長野へ出発した。
まず最初の関門は、阿南の運転する助手席に誰が乗るかということだった。沙奈絵たちはじゃんけんで座る席を決めることにした。最初の試練を受けることになったのは沙奈絵だった。
先生とは言え、男性が運転する車の助手席に座るのは沙奈絵にとって初めての経験だった。口数の少ない沙奈絵に対し、後部座席の希穂と夏菜子はテンションが高くはしゃいでいた。そして、ついに阿南の雷が落ちる。
「うるさい!!人が運転している時に!ここで降ろすぞ!」
「えー鬼だ!」希穂が言い返す。
「ちょっとはしゃぎすぎたね…」沙奈絵が希穂たちをなだめる。
「頼むからおとなしく乗っててくれ」阿南も落ち着きを取り戻し、沙奈絵へ声をかける。
「もう少しで到着するから標識見ておいてくれ」
「わかりました…」
阿南の車は別荘のある白馬へ向かった。
―15時―
阿南の別荘前に到着した沙奈絵たちは、別荘から出てくる男へ視線を移した。年齢は沙奈絵たちよりも少し上に見えた。阿南が沙奈絵たちに男を紹介した。
「甥の淳だ」
「初めまして平野淳です、よろしく」淳が軽く会釈をし、沙奈絵たちも会釈した。
「歳はお前たちより少し上で院生だ」
「へーすごーい!頭いいんですねー」と希穂が淳を褒めると、淳は照れた表情で手で頭を撫でた。
「ほら、さっさと中に荷物を運んでくれ」阿南は沙奈絵たちに促した。
「お邪魔しまーす」
沙奈絵たちは別荘の中に入ると、想像以上の広さに沙奈絵たちは驚きを隠せなかった。
「すごい広いじゃないですか!ねぇねぇどこで寝る?」
希穂はまたテンション高く、沙奈絵と夏菜子に問いかけた。
「お前たちはここで寝てくれ」阿南が指さした部屋はリビングの横にある大広間だった。
「二階は俺の書斎と寝室だし、もう一つの部屋は淳が使ってるから。一応、お前たちは女性だしな」
阿南はしっかり線を引くように念を押した。
「一応って…わかりましたー!じゃ、荷物そっち持っていこう」
希穂が仕切り始め、沙奈絵たちを大広間へ誘導した。
「落ち着いたら買い出しに行くから準備しておいてくれ」
阿南は沙奈絵たちに声をかけてから二階の寝室へ向かった。
別荘に着き一時間ほど経つ頃、阿南は沙奈絵たちを連れて別荘近くのスーパーにやって来た。
「夕飯は何にするんですか?」夏菜子が阿南に聞いた。
「何か食べたいものあるか?焼肉でもしようと思っているんだが」
「やった!肉、肉、肉~」希穂が喜んだ。
「それなら野菜もあった方がいいですね、探してきますね」沙奈絵が野菜コーナーへ向かっていった。
「あっ、僕も行きますよ」沙奈絵の後を淳がついて行った。
阿南は沙奈絵と淳が歩く後ろ姿をじっと見つめていた。
食材が揃い別荘へ帰る途中で阿南が車を停車し外へ出て行った。薄暗くなってきたので見えにくくなってきていたが、阿南の視線の先にはついこの前行われた長野オリンピックで日本中が沸いたジャンプ台が見えた。
「せっかくだし少し見ていこうか」
阿南が車を降りてジャンプ台へ向かっていく。日の丸飛行隊が大活躍した場所を前に沙奈絵たちも興奮している。
「わぁすごいねーこんな近くで見れると思わなかったー」
希穂と夏菜子は、阿南を追い越してジャンプ台に一直線に向かっていた。
「待ってよー、いきなり走らないで」沙奈絵が追いかけようとするが追いつけない。沙奈絵があきらめて歩き始めた時、阿南が後ろから声かけてきた。
「倉本はやっぱ南や佐藤とは物の見方が違うな、しっかりしている、今日でよくわかった」
阿南は沙奈絵の目を見つめた。
「そう…なんですかね…」
沙奈絵は驚いた顔で返答するしかなかったが、心の中では阿南が自分のことを気にかけてくれていることに嬉しさを感じていた。
この時すでに沙奈絵は阿南に淡い恋心を抱いていたのだった。
―1998年4月28日(火)―
沙奈絵と令子は花咲短大コンピュータールームで授業が始まるのを待っていた。2回生になり、いつも希穂と夏菜子を含めた四人で行動を共にしていたが、選択する授業も変わっていた。沙奈絵と令子は二回生になっても阿南の授業を選択していた。令子は長野の旅行には行けなかったが、旅行から帰ってきた後から沙奈絵の様子が変わっていることに気づいていた。阿南と話すときの沙奈絵の顔が明らかに怪しいと感じていた。沙奈絵に聞いてもはぐらかされてばかりだった。令子はとうとう今日、ある計画を実行しようと企んでいた。
「先生お久ぶりです。旅行に行けなくて残念でした、次は必ず行きますから」
令子は阿南の様子も確認したくてあえて旅行の話を振った。
「あぁ、でも来年って言ったらお前たち卒業じゃないのか?」
阿南は忙しくなるであろう沙奈絵たちを気遣った。
「卒業旅行の一つにしますから!ぜひ連れて行ってくだいさいね」
沙奈絵は令子の横で話を聞きながら頷いていた。
「沙奈絵、今日バイトなかったよね?」
「うん」沙奈絵が返答する。
「先生、今日も大学戻るんですか?」
「いや、今日は戻らない」阿南が即答した。
「じゃ沙奈絵、先生にご飯連れて行ってもらいなよー」
令子の計画はこれだった。何か動き出すとすれば、二人になる時があった時だと考えていた。「え?なんでよ」明らかに沙奈絵が動揺している。
「先生、いいですよね?たまには」令子が阿南を煽る。
「倉本は予定ないのか?」阿南は意外と乗り気だった。
「予定はないですけど令子は行かないの?」
「彼とデートなのよね、ごめんね!」
「じゃ、先生そういうことで沙奈絵の(・)こと(・・)よろしくお願いしまーす」
令子は阿南の前に沙奈絵を連れてきた。
「軽く食って帰るか?」阿南は頭を掻きながら沙奈絵に向かって言った。
「はい…」沙奈絵の顔が頬のチークの赤さ以上に赤くなっていた。さすがに学内の駐車場から沙奈絵を乗せていくのは周りの目もあるため、少し離れた場所で待ち合わせすることになった。。
阿南は離婚経験者だ。同じ大学に勤務していた女性と結婚したが研究者同士、多忙ですれ違いが続き別れを選択したのだった。離婚した原因を聞くことになったのは、長野旅行からの帰りの車中だった。一人で運転していた阿南の眠気を掻き消すように、助手席に乗った令子が根掘り葉掘り聞きだしたのだった。沙奈絵も阿南の過去の話を聞きながらせつなさを感じていた。
~長野旅行帰りの車中~
沙奈絵と希穂と夏菜子の三人が降ろしてもらう京都駅まであと一時間ほどになった頃、助手席当番だった夏菜子が阿南の過去について切り込んだ。夏菜子は質問上手で根掘り葉掘り阿南に質問した。
「阿南先生は結婚しないんですか?」
「あっ言ってなかったな…私は離婚経験者だよ」
「そうなんですか!知らなかった…どうして別れたんですか?」
「質問タイムか?あと一時間くらいだしいい眠気覚ましになるな…性格の不一致!」
「元奥さんはどんな方だったんですか?」
「同業者…研究職で生活リズムも似ていたから合うと思ったんだけどね…」
「お子さんはいるんですか?」
「いないよ…性格の不一致は、性の不一致だからね」
「なるほど…深いですね」
阿南と夏菜子のやり取りを後部座席に座っている沙奈絵は黙って聴き、希穂は眠りについていた。
ルームミラー越しに阿南と目が合った沙奈絵は咄嗟に逸らす。
「若い君たちには刺激が強すぎたかな…」阿南が夏菜子や沙奈絵に問いかけた。
「いいえ、初めて聞いたので驚いただけです」沙奈絵が阿南に返す。
「先生、離婚する時って大変だって聞きますけど、やっぱり大変でした?」
夏菜子がまた切り込む。
「結婚の時の倍くらい大変って聞いたことがあります」沙奈絵も続く。
「いや五倍だな…五年間の結婚生活だったから…子どもがいなかったからその分の苦労はなかったけど、財産分与とか色々大変なんだよ」
「離婚してどれくらい経ったんですか?」夏菜子が聞く。
「もうすぐ二年かな」
「再婚は考えたりするんですか?」
「いや、今は全く考えてないね」
「いい人に出会ったらわからないですよね?」
「それはそうだね…君たちも男を見る目はちゃんと養っておくんだぞ」
阿南はまたルームミラー越しに沙奈絵を見たが、沙奈絵は俯いていた。
「いや、佐藤の質問攻めにベラベラしゃべってしまったな…他言無用だぞ!」
「わかってますって…」夏菜子が返事した。
ちょうど会話が途切れた時、ラジオからELTの「Time goes by 」が流れてきた。沙奈絵はこの曲は一生忘れないだろうと思いながら聴いていた。
この時、沙奈絵は阿南を好きな気持ちを確信していた。
「倉本、お待たせ」
沙奈絵が長野旅行帰りの出来事を思い返しているところに、阿南の車がやって来た。
「いいえ、失礼します」沙奈絵は助手席に乗った。
「何か食べたいものあるか?」
「うーん何がいいだろう…あっパスタが食べたいです」
「パスタか…わかった、あの店にしよう」阿南は店に向かって車を出発させた。
これは完全にデートだと沙奈絵は思った。そう思った瞬間、沙奈絵の胸の高鳴りはMAXになった。車のエンジン音が大きくてよかったと沙奈絵は思った。
令子の計画にまんまとハマってしまった。阿南と初めての2人での食事だ。長野旅行で、阿南が沙奈絵に向けて声をかけてくれて以来の二人きりだ。沙奈絵はうれしい気持ちはあるのだが、いつもは令子たちが阿南を質問責めにすることが多い。だが今日は違う。聞き役に回ることが多い沙奈絵。不思議と2人だと会話が穏やかに流れた。阿南が自分の仕事のことや趣味のことを語り始めると沙奈絵は頷きながら微笑むのだった。阿南もそっと自分の話に耳を傾けてくれる沙奈絵の雰囲気に癒されていた。
食事を終えた2人は車に乗り込み、最寄り駅まで沙奈絵を送ってくれようとしていた。「もう少し時間大丈夫か?」阿南が切り出した。
時間は20時を過ぎたところだった。
「はい…門限は22時なんです」
沙奈絵が答えた。
「わかった、そんなに遅くならない。少しドライブしよう」
阿南の車は川沿いを走っていた。川の上流に到着すると阿南は車を停車させた。
「少し休憩しよう」
阿南が運転席のシートを少し後ろに倒しながら言った。
「はい…運転疲れましたか?」沙奈絵が胸のドキドキを抑えながら阿南を気遣った。
「いや少し食べすぎたかな、眠気が…」と言いながら阿南があくびをする。
街灯の光が川に映りキラキラと輝き、ゆっくりと二人の時間が流れていく。
沙奈絵が川の流れを見つめていると、阿南はそっと沙奈絵の肩を抱き寄せた。
「…」
沙奈絵は阿南に身を任せた。
そして阿南は沙奈絵にそっとキスをした。
「一線を越えてしまった…」
阿南は照れを隠すように言い車を走らせようとした。
「大丈夫です…私は先生が好きなのでうれしいです」
沙奈絵のファーストキスは阿南だった。阿南39歳、沙奈絵19歳、春の出来事だった。
この出来事がきっかけで沙奈絵は阿南と連絡を取るために携帯を初めて持つ決心をした。高校時代、友人はみんなポケベルを持っていたが唯一、沙奈絵だけは縛られているようで持つ意味を見出せずにいたからだ。しかし今は、ただ阿南と話したい、連絡を取りたいという気持ちが、沙奈絵を突き動かした。
「ポケベルと携帯電話は違う」と自分に言い聞かせていた。
阿南もまた沙奈絵に学内のメールでやり取りするよりも直接連絡が取れる方が良いと考えていた。沙奈絵が携帯を持ったことで二人の距離は一気に近づいていった。
阿南と連絡を取るために携帯を持った沙奈絵。友人たちは恋人と長電話することが多い中、沙奈絵は阿南とのやり取りは次会う約束に使っていた。約束の日を決める時、耳元に聴こえてくる阿南の声に毎回ドキドキした。多忙な阿南の都合に合わせて会う日を決めることが多かったが沙奈絵は、それでも会えることがうれしかった。
ある日、授業を終えて阿南との約束の時間まであと二時間というところで街中で歩いているとキャッチセールスで無料エステの勧誘を受けたこともあった。所要時間は一時間少々と言われ、阿南に会う前に綺麗になれるかもしれないと思い、ついて行ったこともあった。阿南と会った時に綺麗だと思ってもらいたい…沙奈絵はその一心だった。
一方、沙奈絵と付き合い始めた阿南には、葛藤の日々が始まっていた。阿南と付き合うことになり舞い上がる沙奈絵に、阿南の苦悩は知る由もなかった。
―1998年8月18日(火)―
学生時代最後の夏休みを楽しむため、沙奈絵、令子、夏菜子、希穂の四人で原付バイクに乗ってキャンプ場にやってきた。沙奈絵は今日、令子たちに阿南とのことを告白しようと決めていた。あの日のドライブでの出来事から、沙奈絵は阿南と付き合い始めた。
それでも立場は先生と学生、公にはできない。秘密にしてきたが、そばにいる友達には知っていてもらいたいと沙奈絵はずっと思っていた。
日が暮れて食事も終えくつろいでいる時に、沙奈絵が切り出した。
「実は私、付き合っている人がいるんだ」
「沙奈絵、いきなりどうした?どうした?」希穂が驚いた表情で聞き返す。
「彼氏いたんだね、秘密主義だもんねー沙奈絵は」夏菜子も聞く姿勢を見せる。
令子は薄々感づいている様子で沙奈絵を見守っている。
「相手の人なんだけどね、阿南先生なの」沙奈絵は意を決して告白した。
「え?そうだったの?最近みんなで集まらないなーって思ってはいたけど、そういうことだったんだね」
夏菜子は合点が言ったようだった。
「もっと早く話そうと思ってたんだけど、先生の立場もあるから…」
沙奈絵は阿南を気遣った。
「今日一の衝撃だわ…」
希穂は、全く気がついていなかったが、遅くなったが大切な友達に阿南とのことを知ってもらえて沙奈絵はほっとしたのだった。
―1999年1月15日(金)―
沙奈絵の誕生日は三月、成人式は十九歳で迎えた。地元の市民会館で行われる式典に参加した沙奈絵は久しぶりに友人たちとの再会した。写真と撮ったり昔話で話が盛り上がった。
懐かしい気持ちと少し(・・)せつなさ(・・・・)を感じながら沙奈絵は、一生に一度の成人式を終えた。
友人たちと別れて帰宅した沙奈絵は洋装に着替え、阿南との待ち合わせ場所へ向かった。
成人式の夜、2人は会う約束をしていた。
阿南は、沙奈絵の晴れの日を祝うため、いつものデートとは違ったお洒落なレストランを予約していた。
レストラン前で待ち合わせをしていた2人、沙奈絵が先に到着。阿南が来るのを待ちながら沙奈絵は成人式で友人たちと久しぶりに再会した時に感じたせつなさの理由を考えていた。成人式も終わり世間的に大人の仲間入りできたが、阿南との年の差は縮まらない。
当たり前のことだとわかっていても、追いつくことはできない20歳という年の差の現実がせつなさを感じた理由なのだと沙奈絵は思った。それでも人生の節目である成人の日に仕事の合間を縫って沙奈絵との時間を作ってくれる阿南の気持ちが嬉しかった。
「早く会いたい…」沙奈絵は揺るぎない気持ちで阿南が到着するのを待っていた。
間もなくして阿南が到着、2人は店の中に入った。予約席に座り一息ついたところに阿南が予約したコース料理が運ばれてきた。
「成人の日おめでとう、大人の仲間入りだね」
「ありがとうございます」
「あっでもまだ20歳になってないからお酒はなしね」阿南が念を押す。
「わかってますよ!」
「四月からは社会人だな、最初は慣れるまで大変だろうけど頑張れ」
「はい、やっと決まった会社ですからね、頑張ります」
沙奈絵は、花咲短大を卒業後は古都銀行への就職が決まっていた。
阿南との関係が先生と生徒でなくなれば、これからは堂々とデートもできるようになる、沙奈絵はそんな日を楽しみに過ごしてきた。その第一歩が成人式だと思っていた。
そしてその先には阿南と結婚もできるかもしれないと沙奈絵は密かに思っていた。
1999年3月、紗奈絵たちは花咲短大を無事に卒業、それぞれの道へ進んでいった。
―1999年5月―
古都銀行に入行してから一カ月が過ぎ、少し落ち着いてきた頃だった。阿南から連絡があり沙奈絵はいつものカフェで待ち合わせをすることになった。
「久しぶりに阿南に会える…」沙奈絵は阿南に話したいことがたくさんあった。
阿南の車に乗りこんだ沙奈絵は、久しぶりに会えたことが嬉しくてに話したいことも忘れてにやけていた。会う約束が決まってからの沙奈絵は、お肌のお手入れやダイエットも頑張ってこの日を迎えていた。
阿南は助手席に座る沙奈絵の横顔を見て、1ヶ月しか経っていないのにどんどん綺麗になっていく沙奈絵を見て嬉しさと共に焦りを感じていた。
その気持ちを掻き消すように車から流れてくる音楽について沙奈絵に話しかけた。
「この曲知ってるか?」
「はい、宇多田ヒカルのFirst Loveですよね?去年デビューしたばかりの、一気に有名になりましたね」
「この子まだ16歳って知ってた?」
「はい、妹と同い年なので、すごいですよね」
「倉本の妹と同じ年か…」
沙奈絵には四つ下に妹の亜里沙がいる。阿南からすると娘でもおかしくない年齢。沙奈絵と付き合うことへの戸惑いに拍車をかけることになった。
「仕事、少しは慣れた?」阿南は沙奈絵に聞いた。
「はい…まだまだ覚えることは多いですけど」
「徐々に慣れていくよ」
「そうだといいですけど…」沙奈絵が微笑んだ。
「これから五年くらい仕事して結婚するんだろうな…」阿南は呟いた。
阿南の言葉に沙奈絵は固まった。まるで他人事、阿南は沙奈絵との結婚のイメージはなかったのかとショックを受けた。
「そうなのかな…」沙奈絵はこう返すしかなかった。
沙奈絵はそれからの会話は上の空で、話したいことがたくさんあったはずなのにただ時だけが過ぎていった。
阿南の言葉の意味は、まだ20歳の沙奈絵には推し量ることはできなかった。
―1999年11月―
あれから半年が経った。沙奈絵から阿南へ連絡することはなくなった。阿南もまた自分からは連絡することはしなかった。
阿南の言葉にショックを受けて以来、沙奈絵は仕事に打ち込んでいた。連絡しようかどうかと迷いながら気がつけば半年が経っていた。沙奈絵はこの半年の間、心の中で阿南のことを思いながらも新たな出会いもあり、阿南とは区切りをつけようと思っていた。
阿南もまた20も年が離れていて、しかも教え子の沙奈絵を好きになり、沙奈絵のこれからの人生を縛りつけたくないと思っていた。そのことよりも沙奈絵の気持ちが変わることも恐れていたのだった。
沙奈絵からぱったりと連絡が来なくなった頃、沙奈絵の通っていた花咲短大では、阿南と卒業生が付き合っているという噂が出回っていた。
阿南は一貫して否定し、事なきを得たが事実とは異なる。しかしここ最近沙奈絵からの連絡はなく、自分から連絡を取ることもプライドが邪魔をしてできずにいた。
会いたい…声が聞きたい…と想いが募っていた頃に発覚した噂だった。気持ちにブレーキをかけざる負えない状況だった。他にいい人が出来たのか?あらぬ妄想もよぎる。いっそこの噂で迷惑がかかっていると伝えて離れるように仕向けた方がいいか…とも思った。自分が悪者になることで沙奈絵が次に進めるのではないか。いろんな感情が阿南の頭を駆け巡った。そして遂に沙奈絵に電話をかけてしまう。
「もしもし…倉本です」
「あぁ私だ、今いいか?」
「はい…」
「花咲短大で倉本とのことが噂になっていて困っている。誰かに話したか?」
「誰にも話していません!」
「久木や佐藤たちにもか?」
「あの子たちは絶対しゃべりません!」
「そんなことわからないだろう!」
「…」
「まぁいい、誤解だと伝えておいたから…」
「誤解…わかりました…」
「それだけだ…じゃ」
電話を切った阿南は沙奈絵の落胆した様子が手に取るようにわかり胸が痛んだ。
久しぶりに聞いた沙奈絵の声が遠く感じた阿南。未来のある沙奈絵を縛りつけておく訳にはいかないと思った。
あの電話から一週間後、とうとう阿南は沙奈絵の携帯に連絡し別れを告げることにした。
阿南は沙奈絵がもう自分の電話には出ないだろうと思い、留守電にメッセージを残すことにした。
「阿南です、この前は申し訳なかった。これからの倉本が幸せならそれでいい元気でな」
沙奈絵は電話に出ることなく留守電のメッセージを聞き、心の中で阿南に別れを告げた。
【第3章】―けいけん―1999年10月―古都銀行食堂
沙奈絵はあれから阿南の言葉を忘れられずに過ごしていた。落ち込んだ表情で昼食を取る沙奈絵に一人の男が声をかけてきた。
「隣いいですか?」
「あっはい、どうぞ」
沙奈絵は返事をして男が座りやすいように右にずれた。
「ありがとうございます」
声をかけてきた男の胸元の名札には「梨田」と書かれていた。
その男は梨田久志といい、沙奈絵の勤める銀行の現金輸送を担当する警備会社の社員だった。
「ここの食堂のご飯おいしいですよね」
「そうですね」
「新入行員の方ですか?」
「はい、倉本と言います、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
その後も食堂で会うたびに積極的に話かけてくる梨田に沙奈絵は戸惑いながらも少しずつ心を開いていった。
阿南への想いを断ち切ろうとしていた時に現れたのが梨田だった。梨田は沙奈絵より10歳年上だった。
食堂で会う頻度が増えた二人は自然と距離を縮めていった。梨田の紗奈絵への積極的なアプローチが功を奏した。受け身の沙奈絵にとって阿南とのデートは、ほとんど自分からの誘いだったことに寂しさを感じていた。しかし梨田は沙奈絵を積極的にデートに誘って来た。そして梨田から結婚を前提にした交際を申し込まれた。
結婚を意識していた阿南からは聞くことができなかった「結婚」という言葉。沙奈絵は阿南との恋に疲れていた時に欲しい言葉をくれた梨田と結婚を前提につき合うことにした。そして2001年6月、沙奈絵は22歳で結婚、梨田沙奈絵になった。
―2001年8月初旬―
沙奈絵と夫の梨田は次の休日の相談をしていた。
「今度の休みどこに行く?ディーラーにでも行く?」梨田が沙奈絵に提案する。
「またディーラー?コーヒーばっかり飲んで、また胃がムカムカしそう…」
梨田は無類の車好きだった。現在乗っている車も高く売って新しい車に乗れるよう大事に乗ってきた。休日の予定が決まろうとしていた時にインターホンが鳴った。
「はい!お待ちください」
「誰?」
「宅配みたい」沙奈絵は玄関に向かった。
戻って来た沙奈絵に梨田に聞く。
「何が届いた?」
差出人を見た沙奈絵が「あぁ」という表情で答える。
「結婚報告ハガキ出来上がったみたい」
「やっとできたのか!どれどれ…」
梨田はつい二ヶ月前のことだが懐かしそうに出来上がった結婚式の写真を見つめていた。梨田の表情を見つめながら、裕福ではなくても、ささやかで幸せに暮らせればよいと思った。
「結婚報告ハガキ出す人、この前リストアップした人で大丈夫かな?」
「あぁ、沙奈絵に任せるよ」
「わかった、来週中には出せるようにするね」
沙奈絵は梨田には伝えていないある人物に出すことを決めていた。
―2001年9月―
結婚して三カ月が経った頃、沙奈絵の妊娠がわかった。梨田の実家で沙奈絵の妊娠を祝し食事をしていた夜、テレビで見た光景は映画でも見ているような信じられない光景だった。9・11アメリカ同時多発テロが起こった日だった。
沙奈絵はテレビに映る信じられない光景を目にしながらお腹に手をやり「この子は何があっても守る」そう誓った。
横にいた梨田も沙奈絵のお腹に手をあてて「心配しなくても大丈夫、安心して生まれておいで」と声をかけた。
ここ最近、精神的に不安定で感情に波のある梨田の言動に疲れを感じ始めていた沙奈絵にとって、目に映る悲惨な光景には申し訳なく感じていたが、ほんの少し心が安らぐ時間になった。
―2002年5月12日―
沙奈絵は第1子となる男児を無事に出産、名前は楽と名付けた。妊娠中も梨田から向けられる言動に苦しんだ。感情の波のピークには暴力を受けることもしばしばあり、実家に帰ることもあったが感情の波が落ち着くと、心優しい梨田に戻るため謝られると許してしまい家に戻るということを繰り返していた。きっと子どもが生まれれば落ち着いてくれる、変わってくれると信じていた。
―2002年12月―
楽が生まれて半年が経った。楽の存在は沙奈絵の心を強くしてくれた。楽に向ける梨田の優しさは本物だと思うことができた。楽の成長も著しく、生後2カ月で寝返りをし、八カ月で立ち上がり歩き出した。しかし「ハイハイ」を十分せずに歩こうとするため、よく転んでしまっていた。子どものケガに異常に反応する梨田は沙奈絵を怒ることもしばしばあった。
そんな日々を過ごしていたある日、沙奈絵は家族が増えたことを報告するため、楽の写真を載せた年賀状を作った。そしてこのハガキもある人物に送ることを決めていた。
結婚報告ハガキを出して、返事が返っていたのは1カ月後のことだった。沙奈絵は達筆な文字が書かれたハガキを受け取っていた。懐かしい文字だった。
~ご結婚おめでとうございます!倉本さん、とてもキレイで輝いています。明るい家庭を築かれることを心から祈っています。私もと稼業と主婦業を一人でやっていますが、主婦業は大変です。ガンバってください!末永くお幸せに。~
阿南の書いた文字を久しぶりに見た沙奈絵は、当てつけのように送ってしまった結婚報告ハガキにも返事を返してくれる優しさに心から感謝した。
今度は当てつけではなく、阿南に今の自分を知ってもらいたいと素直に思っていた。そして楽が生まれたことを報告する年賀状を送ってしまった。しかし返事が来ることはなかった。
―2003年9月―
楽はすくすくと成長して一歳四カ月になった頃、沙奈絵は家計を支えるため働きに出ることにした。銀行勤務の経歴を買われ派遣会社に登録、銀行事務の仕事に就き始めた。
夫の梨田は結婚後、職を転々としており収入はその度に下がっていた。専業主婦の母に育てられた梨田は沙奈絵には専業主婦として家計を支えて欲しいと結婚当初から言っていたが、楽が生まれてからの生活は苦しくお互いの親に援助してもらうこともしばしばだった。梨田の自尊心を傷つけないように、沙奈絵はやりくりしながら家計を支えていた。しかし梨田の浪費癖も重なり家計は更に圧迫、限界を迎えていた。
「派遣なんだけど9時~17時で働ける銀行があるから行こうと思うんだけど…」
「楽はどうするんだ?」
「近所の保育園にこの前、見学に行ってきたんだけど入園できそうだから」
「まだ小さいのに保育園に入れて、家族以外の人間に見させるなんて大丈夫なのか?」
「…それはそうなんだけど、派遣で働ければ月二十万くらいはプラスになるし保育料払っても家計の足しにはなると思う」
「そんなに稼げるのか?」
「時給だから出勤日数で前後するとは思うけど…」
「俺もその保育園の見学に行くよ、それで決める」
「わかった、次のお休みに見学できるように連絡してみる」
次の休日に梨田を連れて保育園の見学に行って雰囲気を確認。自分の目で様子を確認した梨田も納得して沙奈絵の仕事復帰が決まった。無認可保育園の上に乳児の保育料は高額ではあったが月十万でも家計の足しになれば、楽に習い事もさせてあげられると沙奈絵は思っていた。
―2003年12月―
紗奈絵が働き始めて三カ月が経った。楽も保育園での生活に慣れてきていた。
その頃梨田は福岡での仕事が増え出張で家を空けることが多くなっていた。週末だけ京都の自宅へ帰って来るという生活になっていた。平日は沙奈絵と楽、2人での生活にも慣れてきた頃、梨田の福岡への転勤が決まった。沙奈絵も働き始めて生活も少し余裕が出てきて、楽も保育園に慣れて生活のペースができ始めていたところだった。
「今まで通り週末京都に帰って来るのはできないの?」沙奈絵が梨田に聞く。
「これ以上週末だけしか楽に会えないなんて耐えられないよ」
「楽も保育園に慣れて来たところだし、私もやっと仕事慣れてきたところで…」
「俺がどうなってもいいのか?」
「そういうわけじゃないけど…」
沙奈絵は楽との二人の生活リズムに心地良さを感じ始めていたため単身赴任もありだと思っていた。人事異動で夫が転勤となった場合、まだ子どもが小さい時は着いて行くべきという梨田の両親の意見もあり、沙奈絵は仕事を辞めて福岡へ一緒に着いて行くことになった。この引越が沙奈絵と楽の運命を変えることになるのだった。
―2004年6月―
沙奈絵たちが福岡に引越して半年が経った。
引越後、沙奈絵は派遣会社の計らいで福岡の信用金庫で働けることになった。楽も近所の保育園に預けることができ、慣れない土地で環境は変わったが生活リズムができ始めていた。梨田も福岡に家族を連れてくることができ仕事にも精を出してくれていた。
そんな矢先、楽が高熱を出した。坐薬を入れても1週間以上も下がらず、ついには入院することになってしまった。沙奈絵は仕事を休み、楽が入院する病院に泊まり込みで看病した。入院後すぐに楽は点滴の準備に入った。まだ2歳にもなっていない子どもに点滴の針を入れるには看護師2人で子どもを抑えつけて行う必要がある。沙奈絵は部屋から出るよう促され外で待っていた。抑えつけられて泣き叫ぶわが子の声に胸が締めつけられる思いだった。沙奈絵はこの時、環境が変わり大人でも順応するまで時間がかかるものなのに幼い子どもにそれを強いていた自分を責めた。本当は家にいてたっぷり愛情を注いであげないといけない時間を生活のために取ってあげることができなかった。
このことがきっかけとなり沙奈絵は仕事を辞めて家で楽を育てることを決めた。そして自宅でできる仕事を探し始めた。学生時代に習得したパソコンスキルを活かし、タイピングの仕事などを始めた。しかし派遣で働いていた頃の収入を得ることはできなかった。もっと良い仕事をインターネットで探していたところ、沙奈絵のタイピングを活かせるライブチャットという仕事を見つけた。専用コンテンツにログインし待機、入室してきた人とタイピングで会話をするというものだ。話す人数、時間で収入が決まる出来高制だ。タイピングの速さは学生時代、かつての恋人にお墨付きをもらうほど沙奈絵の得意分野だった。入室してくる客も沙奈絵の反応の早さに驚いた。言葉で会話しているのと変わらない感覚になっていた。待機時間は楽を寝かしつけてからの数時間だったが月に10万近く稼ぐようになり、派遣で働いていた頃と変わらなくなっていった。
「最近、洋服派手になってない?」
久しぶりに外で家族三人食事をしている時、梨田が沙奈絵に聞いた。
「この服装の方がお客さん入って来てくれるから」
沙奈絵は悪びれもなく答えた。
「楽を寝てからだと沙奈絵はちゃんと寝てないんじゃないのか?」
「夜の方がお客さんたくさん入って来てくれるから」
「あまり無理しないでくれよ」
「わかったよ、大丈夫」
梨田は沙奈絵の変化に気づきつつも、家で仕事をしてくれているならと目をつぶっていた。
そんな沙奈絵に異変が起きたのは家族で食事をした数週間後のことだった。
いつものように楽を寝かしつけた後、ライブチャットにログインして待機していると、初めてらしき人が入出してきた。
「こんばんは!レイです」
沙奈絵が真っ先に文字を打つ、チャット名は「レイ」と名乗っていた。
「こんばんは~」
入室してきた人物もすぐ返答する。
チャット名は「KAI」と表示された。
レイ 「KAIさん、初めまして!」
KAI「初めまして、なんか緊張しますね、初めて話すのは…」
レイ 「そうなんですね、私も最初は緊張しましたが慣れてくると楽しいですよ」
KAI「そういうものなのですね!」
レイ 「色々とお話できるといいなと思っています、KAIさん、質問してもいいですか?」
KAI「どうぞ」
レイ 「KAIさんは、男性ですか?女性ですか?」
KAI「女性も来るものですか?」
レイ 「いえ、ほとんどが男性の方です」
KAI「私も例外なく男性ですよ」
レイ 「そうなんですね」
KAI「なぜ、うすうす男性だと思いながらそのような質問をしたのですか?」
レイ 「決めつけはよくないと思いまして…」
KAI「マジメな方ですね」
レイ 「褒められちゃいましたね、ありがとうございます」
KAI「私からも質問してもいいですか?」
レイ 「もちろんです、どうぞ!」
KAI「レイさんは、なぜこのライブチャットを始めたのですか?」
レイ 「いきなり核心をついてきましたね…」
KAI「いや、今こういうライブチャットは流行っているけど、待機している女の子たちはギャルっぽい子が多いですよね、レイさんは明らかにキャラが違います」
レイ 「芋っぽいですかね?やっぱり」
KAI「そういう訳ではないんですよ、気に障ったのならごめんなさい」
レイ 「冗談ですよ!大丈夫です、気にしてませんから」
KAI「今どきの若い子とおしゃべり出来たら少しは仕事のストレス解消になるかなと思って最初は始めたんです」
レイ 「そうだったのですね、お仕事お疲れさまです」
KAI「ありがとう、お疲れさまって文字でもうれしいものですね」
レイ 「そう言ってもらえると、私もうれしいです」
このライブチャットでの出会い以降、KAIと名乗る男は、レイ(沙奈絵)の待機するライブチャットへ頻繁に来るようになった。入室してくる客の中には如何わしい要求をしてくる人物もいて対応に困ることもあったが、KAIと名乗る男はいつもレイ(沙奈絵)に対し紳士的に接してくれ会話を楽しんでいた。
お互いのことを話している内に沙奈絵は、初めての会話の時には始めた理由をはぐらかしていたが、生活のためにこの仕事を始めたこと、そして夫も承知の上であること、子どもがいることなどもKAIに伝えていた。
KAI「こういう言い方はご主人に失礼かもしれないけど、奥さんがこの仕事をしてることを許しているのって僕はちょっと考えられないな」
レイ 「そうですかね…」
KAI「レイさんを好きで入ってくる人だっているはずでしょ?僕が言えた義理ではないけどね」
レイ 「そうですね、困った要求してくる方もいますね」
KAI「そういうことが目的のヤツがほとんどだよ」
レイ 「KAIさんはいつも紳士的に対応してくださるので安心してお話できます」
KAI「うれしい言葉だね、僕はレイさんと話すのが楽しいから」
レイ 「ありがとうございます」
沙奈絵は結婚して以来、夫の梨田以外の男性と話す機会はほとんどなかった。
しかしKAIやライブチャットに入室してくる人々とのやり取りを通して今まで梨田の常識の中で生きていたことに気づいてしまった。所謂洗脳状態だった。沙奈絵自身の価値観ができ始めたある日の夜、梨田とついに衝突してしまう出来事が起こってしまった。
最近は落ち着いていた梨田が精神的に追い詰められた様子で帰宅した。
「ただいま…ごはんは?」
「おかえりなさい、今準備するね」
沙奈絵は梨田の様子がおかしいことに気づきながらもそこには触れずに夕食の準備を始めた。
「楽は?もう寝た?」
「うん、もう寝たよ。昼間よく遊んだから疲れたみたい」
「あ、そう」
スーツを脱いた梨田が食卓の前に座った。
梨田が座ると同時に料理を食卓に並べた。
「ビールは?飲む?」
「あぁ、飲む」
沙奈絵が冷蔵庫から缶ビール、冷凍庫から凍らせたコップを取り出して梨田に渡した。
凍らせたコップにビールを注いで半分まで一気に飲んだ後、梨田は食卓に並んだ料理を見て沙奈絵に言い放った。
「夕飯ってこれだけ?」
「そうだけど…」
「疲れて帰って来てるのにこれだけ?家に一日いるんだから、飯くらいちゃんとしてくれよ!」
「いつも同じくらいの量でも何も言わないのに、何で今日はそんなこと言うの?」
この日の夕食は、豚肉のソテー、ほうれん草のお浸し、厚揚げの味噌汁、白米だった。
今までの沙奈絵であれば、ごめんと返すところだが言い返してしまったことが火に油を
注いでしまう。
「外で働くのがどれだけ大変かわかるか?いろんな人間関係とか理不尽なこととかあるんだよ!」
「私だって仕事してるからわかるよ」
「お前の仕事?愛想振りまいて男の相手してるだけだろ!一緒にするな!」
沙奈絵の中でプツンと糸が切れた。今まで家族3人の生活のために寝る間を惜しんで、嫌な要求してくる客にも耐えて頑張ってきたが、夫がそんな風に見ていたのかと愕然とした。
「お前やっぱり今の仕事して変わったな。洋服も派手になって、男が喜ぶことしてるんだろ?今までは俺の言ったことに言い返したりしなかったのに」
「もういいよ、楽が寝てくれててよかった、こんなところ絶対見せたくないから」
沙奈絵は溢れる涙を拭いながら梨田に告げて楽の眠る寝室に向かった。
寝室に入った沙奈絵はすやすやと眠る楽を見つめながらある決心をしていた。
翌日、梨田はいつも通り仕事に出かけた。仕事の支度をしている最中も昨日のやり取りがなかったかのような素振りだった。しかし沙奈絵の決心は固く、梨田が仕事に出かけた後、2004年9月、「実家に帰ります」と書置きを残し、楽を連れて実家に戻った。
実家に戻った沙奈絵は両親に事情を説明した。
梨田との結婚に最後まで反対していた沙奈絵の父、倉本龍二は、やつれた姿の沙奈絵を見て一言だけ発した。もう戻るな、家に帰って来いと。結婚前から梨田とのことを相談していた沙奈絵の母、倉本美沙子も帰っておいでと続けた。
沙奈絵は溢れる涙を拭いながら無邪気に笑う楽を抱きしめながら両親に告げた。
「ダメだった、ごめんなさい。頑張ったんだけどダメだった」
「今日はゆっくり休め。楽は俺たちが一緒に育てる、そんな気がしてたよ、なぁ美沙子」
「お父さん、ずっと言ってたわよね、本当になってしまったわね」
「沙奈絵、でもな、結婚してなかったら楽は生まれてないんだからな、それは忘れるな」
沙奈絵は結婚に反対していた父親からの「帰ってこい」という言葉を聞き、梨田と離婚することを決意した。着の身着のままで飛び出してきてしまった沙奈絵は楽の荷物がないことが気になっていた。
仕事から帰宅した梨田は、沙奈絵が残した書置きを見て激高、沙奈絵の携帯に電話をしても出ないため、最終の新幹線で沙奈絵の実家に乗り込んで来た。
「沙奈絵と話をさせてください」
梨田の声がインターホン越しに聞こえて来た。梨田の声を聞いて怯える沙奈絵の様子を見た龍二が梨田と話をするため玄関に向かった。
「久志くん、悪いが沙奈絵は疲れてもう寝てるんだ。今日のところは自分の実家に戻ってくれないか?」
「昨日少し言い合いになってしまったんです、話をすれば大丈夫だと思うので」
「少し?そんな風な感じではなかったけどね…」
「だったら楽に会わせてください!楽は連れて帰ります」
「楽もさっき寝たところだから」
「楽は僕の実家に連れて行きます!」
「起こしたら可哀そうだろ!今日は帰ってくれ!」
龍二が語気を強めて梨田に告げたところ、梨田の表情が変わり龍二の胸倉をつかんできた。すかさず龍二はつかんだ手を振り払った。梨田の振り払った手は龍二の手形が赤く残っていた。
「今日は帰ります、また明日の朝来ます」龍二の腕力に驚いた梨田は自分の実家に帰っていた。
「沙奈絵、大丈夫か?今日のところは帰ってもらった」
「ごめんなさい…」沙奈絵は涙を流し、怯えながら龍二に謝った。
「明日の朝また来るって、話できるか?」
「今は話したくない…怖い」
「楽のこと連れて帰るって聞かなかったよ、別れるにしても楽のことは話さないとな」
「楽は絶対私が育てる!私が産んだんだから!」
楽の話になり沙奈絵が取り乱した。
「わかってるよ!でもな、久志くんは楽の父親だろう?」
「絶対イヤ!!」
沙奈絵の叫び声を聞いて目が覚めた楽が沙奈絵の元にやって来る。
「ママ…?」
楽が目をこすりながら沙奈絵の顔を覗き込むと不思議そうに沙奈絵の顔を見ている。
「楽、ごめんね…起こしちゃったね…ビックリしたね…」
沙奈絵が楽を抱きしめながら言った。
「沙奈絵、今日はもう休みなさい、久志くんには連絡しておくから」龍二が沙奈絵に寝るよう促した。
沙奈絵が寝たのを確認した龍二は梨田に連絡を入れた。沙奈絵の精神状態が落ち着くまで実家で面倒を見ること、話しができる状態になるまで待ってあげて欲しいことを伝え梨田も了承した。沙奈絵と楽は梨田と距離を置くことになった。
―2004年11月―
沙奈絵と楽が実家に戻り2ヶ月が経った。沙奈絵は実家に戻ってから、梨田に会うことはなかったが、梨田からの電話やメールに苦しめられた。電話に出なければ辛辣なメールが送られて来たかと思えば、楽を気遣うメールが届くなど梨田の感情の起伏を受け取って沙奈絵の精神状態は不安定な日々が続いた。お互いの両親が同席の元、話し合いの場を何度も持った。最初は梨田が離婚することを拒み復縁を望んでいた。しかし沙奈絵の決意が固いことに渋々折れ、離婚についてはお互い合意するまで来ていた。だが楽の親権だけはお互い一歩も譲らず離婚成立は困難な状況だった。梨田は楽の親権を自分が持つことが沙奈絵を引き留める唯一の方法だと考えていたが、一度決めたら梃でも動かない沙奈絵の性格を梨田は理解していた。これ以上引き延ばしてもお互い疲弊していくだけだと最後は梨田が折れ、ある提案を沙奈絵に申し出た。その提案内容はというのは調停離婚とし離婚後もお互い楽の親として役割を果たしていくために決めごとを記しておくことだった。沙奈絵も楽の親権が自分になるならと調停離婚に同意した。そして、親権が沙奈絵になること、成人するまでの養育費の金額、梨田と楽が月に会う回数などお互いが納得いく内容を決めていった。そして2005年1月、沙奈絵は梨田との調停離婚が成立。沙奈絵と楽の実家での新たな生活が始まった。
■第4章―そだてる―2005年1月―
沙奈絵は離婚後から就職先を探し始めた。
小さな子どもを抱え正社員で働ける先は簡単には見つからなかった。
色々と探した結果、正社員にこだわらず派遣で働こうと動き始めた矢先、つい先日採用試験を受けて不合格だった損害保険会社から電話がかかってきた。事務職での採用は叶わなかったが、銀行経験を変われ営業職でどうか?との打診だった。
契約社員からのスタートとなるが社員登用の道もあるという好条件が舞い込んだ。
沙奈絵は最終面接を受けるため応接室前で待機するよう言われ用意された椅子に座っていた。
「次の方、お入りください」
「はい!失礼します」
面接官の声が聞こえた沙奈絵は返事をしてからドアをノックし応接に入った。
「お待たせしました、どうぞお座りください」
「倉本沙奈絵と申します、本日はよろしくお願いいたします」
面接官はライフラック損害保険株式会社大阪支社長、内坂竜一と沙奈絵が応募した事務部門のリーダー、永尾亜美の二人が応接の上座のソファーに座っていた。
「この度は弊社の採用募集にご応募いただきありがとうございました」
内坂が沙奈絵に礼を述べながら頭を下げた。横にいた永尾も内坂が頭を下げたタイミングで倣った。
「いえ、こちらこそ面接していただきありがとうございます」
沙奈絵は内坂と永尾よりも深く頭を下げた。
お互いが頭を上げたタイミングで内坂が話始める。
「最終面接ということで今日はお越しいただきましたが、弊社としましては倉本さんにぜひ入社していただきたいと思っております」
「えっ?本当ですか?」
「はい、嘘は言いません」
「あっいえそういう訳ではないのですが…」
「わかってますよ、驚かれましよね?」
「はい…今日の面接次第で結果が決まるものだと思っていましたので…」
沙奈絵の余りの驚き様に内坂と永尾も戸惑いを隠せなかった。
「そんなに驚かれるなんて何かあったのですか?」
内坂が沙奈絵に問いかける。
「実は、採用面接に落ち続けていまして自信が全くなくなってまして…」
「それは他社の見る目がないということですよ」
「ありがとうございます!ただ…お伝えしなければならないことがあります」
「はい、何でしょう?」
「履歴書にも書かせていただいていますが、2歳になる息子がいまして、1人で育てています」
「はい、存じ上げていますよ」
「子どもが熱を出たりしますと両親にも協力してもらう予定ですが、現役で仕事をしておりますのでお休みをいただくことになると思います」
「それは弊社で働く社員全員が起こりうることです、私にも倉本さんと同じくらいの年の子どもがおりますのでわかります」
内坂が沙奈絵に諭すように話した。
「ありがとうございます…幼い子どもがいることで面接に落ちてしまっていると思い込んでいました」
「そのようなことが理由で面接を落とすような会社に行かなくてよかったと思いますよ、仕事さえしっかりしてもらえれば子どもがいようがいまいが関係ありません!」
「ありがとうございます…」
沙奈絵は内坂の心強い言葉に救われた気持ちになり涙が溢れた。
そして、この会社で頑張りたいと強く思った。
「弊社のことで何か聞いておきたいことはありますか?」
永尾が軌道修正するように仕事の話に戻してくれた。永尾の言葉で沙奈絵も我に返り質問した。
「1日の仕事内容や流れについて教えていただきたいのですが…」
「はい…えっと1日の流れは…」
永尾が沙奈絵へ仕事の流れについて説明した。続いて入社までの流れや入社後研修についての説明を受け最終面接は終了した。
沙奈絵は家に帰り両親へ報告、翌日には入社する意向を会社に伝えた。
―2005年2月1日―ライフラック損害保険株式会社 大阪支社
入社当日に沙奈絵が出社すると、入社予定であろう二人の女性が既に指定された席に座っていた。案内された席に沙奈絵も向かい、同期となる二人へ軽く会釈をしてから席についた。
沙奈絵の右隣に花立久美子が座り、左隣には坂井愛が座っていた。入社する人数は3名と聞かされていたが全員女性でよかったと沙奈絵は思った。
入社初日は内坂支社長より会社概要の説明受けた後、沙奈絵たちがこれから業務を行うカスタマーセンターでの顧客対応デビューに向けた一カ月間の研修がスタートした。
終業後、会社近くのレストランで桜たちの歓迎会が行われた。
沙奈絵たちの研修で講師を担当する事務部門リーダー、永尾亜美の司会で始まった。
「それでは、本日入社した3名の方の歓迎会を行います、まずは入社おめでとうございます、これから一緒に働く仲間としてよろしくお願いします」
永尾に向かって沙奈絵たち3人は頭を下げて挨拶した。
「それでは次に乾杯の挨拶を内坂支社長、よろしくお願いします」
内坂がビールグラスを右手に持ち立ち上がった。
「花立さん、倉本さん、坂井さん、入社おめでとう!皆さんの活躍を大いに期待しています。大阪での同期は君たち3人だが、東京本社でも1人入社したから同期は四人になるね、そう言えば全員女性だな、最近の入社では珍しいね。あっそう言えば倉本さん、本社入社の人もお子さんがいるみたいだよ、来週から大阪での研修に参加するみたいだから声かけてあげて」
沙奈絵が内坂に向かって頷いた後、頭を下げた。
沙奈絵に子どもがいることを内坂の話で初めて知った花立久美子と坂井愛は一瞬目を見開いたが、その後は知っていたかのような表情で内坂の話を聞いていた。
「それでは、3人のこれからの活躍を願って乾杯!」
「乾杯!!」
内坂の乾杯のかけ声に皆が続いた後、料理が続々と運ばれ歓迎会がスタートした。
沙奈絵たち3人は順番に自己紹介し、前職のことや入社してからの抱負を語った。
ライフラックの社員はほとんどが転職組。その転職組たちの活躍が事業拡大につながり、カスタマーセンタ1人員増員のため沙奈絵たちが入社することになった。
「大阪支社をこれから一緒に盛り上げていこうね」
永尾が沙奈絵たちへ声をかけた。
「はい!早く仕事覚えられるよう頑張ります、よろしくお願いします」
沙奈絵が返事して頭を下げると、続いて久美子と愛も一緒に続いた。
会も終わりに近づいた頃、沙奈絵たち同期三人だけが同じテーブルに座ったタイミングで久美子が沙奈絵に話しかけた。
「お子さんいるんだね、いくつ?」
「2歳…」
「そうなんだ、確か私と同じ年だったよね?尊敬する…」
「いや、そんなことないよ…働かないと…」
「あっそうなんだ…」
久美子は察したように返事をした。今度は愛に話かけた。
「坂井さんは私たちと3つ違いだっけ?」
「はい23です」
「若い…ほぼ新卒だよね?」
「そうですね」
愛は淡々と答えた。沙奈絵は2人のやりとりを聞きながら、もうそろそろお開きだろうなと窓の外を眺めると雪がちらついていた。楽が生まれてから夜遅くに帰るのは初めてのことだった。これからこの会社で仕事をして楽を育てて行くのだ、歓迎会に参加している上司や先輩、そして一緒に入社した同期二人もきっと縁がある子たちなのだろうと久しぶりに少しだけ飲んだアルコールに酔いフワフワした気分で沙奈絵は思っていた。
―2007年1月―
ライフラックに入社して間もなく二年の月日が経とうとしていた。契約社員で入社した沙奈絵たちはこの二年、努力を重ね成長し同期三人揃って正社員登用が決まった。
定期的に同期会という名の食事会を通じて親交を深めてきた三人。正社員登用の内示を受けたこの日も同期会が行われた。場所はいつもオフィスから徒歩二分のところにあるお酒が飲めるたこ焼き屋「ターコ」。
「3人揃って正社員になれてよかったね」
沙奈絵が席に座るなり間髪入れず久美子と愛に伝えた。
「沙奈絵さんの強引さに負けて志願書出しちゃいましたよ…」
「一緒の方が絶対いいと思ったからさ」
「今となってはよかったですけどね…」
正社員登用は志願制で課題論文の提出と役員面接を経て決定する。募集が開始された時、沙奈絵は真っ先に愛へ声をかけた。久美子とは正社員を目指していることは入社当時から共有できていたが、愛は正社員への拘りがないと言い切っていたからだ。決して仕事に手を抜くことはなくむしろ責任感の強さと顧客に寄り添う姿勢は沙奈絵も一目置いていた。
「でも沙奈絵ちゃんの強引さのおかげで同期3人一緒に正社員になれたんだからね…私だったら無理だったよ…」
久美子が言葉を重ねた。
「同期で入社したのも縁だし、一緒に正社員になれたよかったよ。同期3人でこの会社盛り上げて行こうよ!」
沙奈絵は入社して2年、親に協力してもらいながらも子どもを育てながら働くことに、離婚経験者という負い目を感じていた自分に少しずつ自信が持てるようになっていた。
―2008年1月―
正社員となり一年が経過した。働きが認められた沙奈絵は主任に昇格、大阪支社長の内坂と東京本社に呼ばれていた。社長の松枝聡との面談と会食が予定されていた。
「わざわざ東京までご苦労だったね、お子さんは大丈夫?」
「はい、両親にお願いしてきましたので大丈夫です、お気遣いありがとうございます」
「内坂さんも久しぶりの東京じゃないか?」
「そうですね、大阪へ転勤して四年目に入りました」
「もう四年か…まぁそろそろだろうね…下は育ってきてるのかい?」
「はい、倉本さんのように勢いのある女性も多く大阪は活気づいてます」
「内坂さん、その表現はあまり良くないね…男性も頑張っているだろう?」
「あ…はい…それはそうなのですが…」
内坂は失言してしった焦りを隠そうと頭を摩りながら松枝の自分を見る視線から目を逸らした。
「ちょっと意地悪な言い方をしてしまったかな…」
沙奈絵は二人のやり取りに苦笑いの表情を見せた。
「倉本さんは、今回主任に昇格した訳だけど、まだ気が早いがこの次は課長代理、課長とステップアップを目指す気持ちはありますか?」
「はい、目指したいと思っています」
「まぁ、こういう質問をするとそう答えるしかないか…」
「あっいえ、本当にそう思っています」
「大阪支社でのポジションは課長代理まで、課長となると東京へ転勤もあり得るが東京で仕事する気ははりますか?」
「松枝社長、その質問はいくら何でも早すぎるのでは…」
「こうやって話す機会もなかなかないから聞いておきたかったのですよ、倉本さんどうですか?」
「はい…いつか東京で仕事をしてみたいと入社してから思うようになりました。子どもが大きくなって、チャンスを頂けるのであればぜひにという気持ちでおります」
「そうですか…よくわかりました。なぜこんなことを聞いたのかと言うと、主任になったからと言って主任の仕事だけするのではなく、課長代理が何をやっているのか、課長の仕事はどんなことかという意識で仕事をしてもらいたいからなんです」
「はい…承知しました。そのような意識で仕事していきたいと思います」
社長との面談を終えた沙奈絵たちは、会食前に各々予約していたホテルへのチェックインを済ませ、会食会場に向かった。
―2010年6月17日―
ランチに向かう人で行き交うオフィス街の一角に、オープンを明日に控えた損害保険ショップの準備に沙奈絵は追われていた。
ショップ店長として新たなスタートを切ることになった。
沙奈絵は楽を育てるため地道に仕事のキャリアを積んできた。
入社して五年、目の前のことに一生懸命に取り組んできて勝ち取ったポジション。
メンバーも気心知れた同僚や年上の部下などバラエティーに富んでいる。
若くしていくつもの修羅場をくぐってきた沙奈絵でさえも、店長として任された大きなミッションは新たな挑戦となる。
「もうすぐ本社から見学に来られるからお迎えの準備よろしく」
沙奈絵は部下に指示した。
明日のオープン前の最終確認のため本社から数名やってくることを昨日知らされた。
急遽ショップ前のホテルに泊まることにして準備した。
徹夜した甲斐もあり何とか本社の人間が来る前に形にすることができた。
「店長、いらっしゃいました」
部下が沙奈絵に声をかける。
常務の竹田祐二、秘書の尾高佐希とその後ろに初めて見る男性が店内に入ってきた。
「竹田常務、お疲れさまです、遠いところありがとうございます」
沙奈絵は秘書の尾高と後ろにいる男性に軽く会釈した。
竹田は一見温厚そうに見えるが、目の奥が笑っていない。
相手が話し始めるまでは反応しないようにと沙奈絵は決めている。
「おぉ倉本さんお疲れさま、いよいよ明日だね、準備は万全かい?」
「はいおかげさまで、何とか形になりました」
「このショップは今までどこにもない、新たなビジネスモデルを確立するために作ったショップだからね、頼むよ」
そう言って竹田は店内を歩き始めた。
その後ろを秘書の尾高がついていく。
沙奈絵も後ろに続こうとしたとき、男性が声をかけてきた。
「倉本さん初めまして、本社営業課の村田実です」
「初めまして倉本です、倉本沙奈絵です」
「来月異動で大阪に来ることになりましたよろしくお願いします」
「大阪支社に来られる村田課長でしたか、こちらこそよろしくお願いします」
「オープン前の大変な時にすみません、来月から住む家を探しに来ました」
「そうでしたか、いいお部屋見つかるといいですね」
沙奈絵はしっかり目を見て話す村田に好印象を抱いた。
大阪支社は沙奈絵がショップに異動する前まで働いていた部署。
村田が大阪に来たら、大阪支社も明るくなり活気づくだろうと期待した。
そうこうしている内に常務の竹田が店内のチェックを終えて沙奈絵に声をかけた。
「倉本さん、あそこのディスプレイはこっちに置いたほうがいいな」
沙奈絵がディスプレイの位置を指示通りに置きかえる。
「竹田常務、この辺でしょうか?」
「そうだねその辺がいいね、物の置き場所は客観的に見てどうかも大事だからね」
「はい、勉強になります」
沙奈絵は細かいな…と心の中で思いながらも、貴重な意見として受け入れた。
「じゃ、明日からよろしく頼むよ」
竹田たち3人はショップを後にした。
―2010年9月18日(土)―青地公園
ライフラック損害保険ショップが開店して3ケ月が経った。
大阪支社からショップへ異動したメンバーも徐々に仕事に慣れて来た頃、ショップメンバーの木谷ヒロからの提案で大阪支社と合同でバーベキューをすることになった。月に一度だけあるショップと支社休業日に行われた。家族やパートナー参加OKにして気軽に参加できることにした。
店長という立場上、参加せざるを得ない沙奈絵も小学2年生になった楽を連れて参加することにした。
青地公園に到着した沙奈絵と楽は集合場所に向かって歩いていた。
「お母さん、どこまで歩くの?」
「集合場所までもうすぐなはずなんだけど…」
沙奈絵が周りを見回していると自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「店長!倉本店長!こっちです!」
発起人の木谷が沙奈絵と楽に向かって手を振った。
「お母さんのこと呼んでるよ!」
楽が木谷に気づき沙奈絵に伝えた。
「うん、あっちだね行こうか!」
楽を連れて木谷がいる方へ向かった。
集合場所に到着した沙奈絵は、先に集まって準備を始めていた支社とショップメンバーに挨拶して息子の楽を紹介した。
「遅れてごめんなさい、今日はよろしくお願いします。息子の楽です、楽、みなさんに挨拶して」
「倉本楽です、よろしくお願いします!」
「楽くん、初めまして!会いたかったよー元気でいいね!よろしくね!」
木谷が楽に声をかけた。
「こんにちは!」
楽が木谷に向かって返事をした。
「楽、持ってきたボールで遊んでて、お母さん準備手伝ってくるから」
「わかった!」
「よし!楽くん、ボールで一緒に遊ぼうか!」
「うん!」
「木谷いいの?」
「大体準備はできてるので少し遊んでから始めましょう、あっ村田課長も来ました!村田課長!こっちです、こっち」
村田が集合場所に小走りでやってきた。
「あれ?集合時間間違えてた?」
「いえ、時間通りですよ、準備は僕たちが」
「あっそういうことが、それは申し訳ない」
発起人の木谷が課長の村田と店長の沙奈絵には集合時間をずらして伝えていた。
「村田課長、倉本店長の息子さんと今からボールで遊ぶんですけど一緒に遊びましょう」
村田がボールを持った少年に目をやった。
沙奈絵が楽に挨拶をするよう促した。
「倉本楽です、よろしくお願いします」
「村田課長、息子の楽です、よろしくお願いします」
「こんにちは、村田と言います、よろしくね」
楽は木谷のテンションとは違い落ち着いた雰囲気で挨拶をする村田に少し緊張した表情を見せた。
「じゃ、楽くんあっちで遊ぼうか!」
木谷の後ろを楽と村田が追いかけるように走っていった。
沙奈絵は父親以外の男性と楽しそうに遊んでいる楽の姿に喜びと痛みを感じた。
―2010年11月―
寒さも増してきた頃、沙奈絵は仕事帰りに部下たちとワインバルに立ち寄ることになった。
部下の杉原梨恵と木谷ヒロに連れられて店にやって来たがもう一人来るらしい。
杉原と木谷は部下であるが沙奈絵と年も近く、店長に昇格する前からプライベートでも仲が良かった。半年前に木谷が東京から異動してきた時からの仲。木谷の出世欲と野心に杉原が反発し、沙奈絵が仲裁に入ることもしばしばあった。だが今はぶつかり合いながらもお互いを大事な存在として将来も考えるようになっていた。
「もう1人って誰が来るの?」
沙奈絵が2人に聞いた。
「あれ?杉原、店長に言ってないのか?」
「店長、村田課長が来るって言いませんでしたっけ?」
「聞いてなかったよ…」
沙奈絵はこのような場に村田が本当に来るのかと不思議に思った。
「ちょっと意外じゃない?あまりこういうところに顔を出すような方じゃないと思ってたんだけど」
「村田課長は俺が異動前にいた部署の上司だったんですよ」
「そうだったっけ?木谷が異動してきた頃の記憶が薄れてきてるわ…たった半年前なのに…」
「あの頃は店長、開店準備で大変でしたもんね」
杉原が労う言葉をかけた。
「そうだったね…必死すぎたかも」
そんな話をしていると、村田が店に入ってきた。
「お疲れさま!少し道に迷ったよ…」
「ちょっとわかりづらかったですかね?」
木谷が申し訳なさそうに村田に聞いた。
「いや、俺もだいぶ大阪には慣れてきたんだがここは少し迷った」
「さすがですね~」
木谷が大笑いする。
村田も笑いながら、視線を沙奈絵と杉原の方に向けて挨拶した。
「こんばんは、そういえば倉本さんと飲むのは初めてだね」
「そうですね、さっきまで村田課長が来られるの知らなかったんですよ」
「あれ、そうなの?木谷、言ってなかったのか?」
「いや、杉原に伝えるように言ったんですけど…」
「また、人のせいにして!」
杉原がふくれた顔をした。
「まぁまぁ、せっかく集まれたんですから始めましょう!!」
木谷が声高らかに開会の言葉を発して四人人の会がスタートした。
お酒も進んできたところで、沙奈絵が村田に質問する。
「村田課長って、自分のことあまり話さないですよね?」
「そう?気のせいじゃないかな」
「誰にも心を開いてない気がします…」
と言いながら村田を見つめた。
「………」
村田の表情が固まった。図星だった。見透かされていたようで、ストレートに心のど真ん中に飛び込んできた沙奈絵に心が揺れた。
2人の様子を察したようで、木谷が話題を振った。
「もう僕たち三十歳なんですけど、村田課長が30歳の時ってもう結婚されてましたよね?」
「あぁ、そうだね」
「結婚って勢いですか?」
「うーん、どうだろうね…」
「店長、どうです?」
「私に聞かないでよ!」
「俺たちもそろそろ…ねぇ?」
木谷が「はい」を促すように杉原に視線を向けた。
「もう、今その話はいいから」
「なんでよー」
2人の会話を聞く素振りを見せながらも村田はさっき沙奈絵に言われた言葉が何度も頭を巡っていた。
~誰にも心を開いていない気がします…~
村田の心の揺れに気づくこともなく、沙奈絵はいつになく気分よく酔いが回っていた。
色々な感情が交錯する中、初めての四人の会はお開きとなった。
終電を逃しタクシーで帰ることになった沙奈絵たち。木谷が助手席に座り、後部座席には降りる順番を考えて杉原、沙奈絵、村田の順番で座ることになった。
後部座席に大人3人で乗るのは結構狭い。横に座る相手の手が触れてしまうこともあるだろう。
沙奈絵は左手に温かさを感じた、何か触れていると。
その触れたものが今度は沙奈絵の手を握った。
左隣に座る村田が沙奈絵の手をしっかり握りしめた。
村田の行動に驚きつつも沙奈絵は村田の手を振り払うことはしなかった。
沙奈絵は、この時忘れていた感情を思い出してしまった。
―2010年12月―
沙奈絵はタクシーでの出来事の後から村田とは二人になることを避けていた。4人の会は杉原や木谷の手前、断ることができず第2回を開くことになり沙奈絵も出席することにした。
そしてその第2回の会で事件は起こってしまった。
和やかに始まった会もそろそろお開きに近づいた頃、木谷と杉原がささいなことで口論になってしまったのだ。そして酔いが回った木谷が4人の座る目の前にあるテーブルをひっくり返し暴れ出した。木谷の激高した姿を初めて見た杉原と沙奈絵は驚き言葉を失った。沙奈絵に至っては突然怒鳴る木谷の声に、自分に向けられたものでなくとも以前に抱いたことのある恐怖を思い出してしまったのだった。そして沙奈絵の怯える顔を見た後、木谷の首根っこを押さえ込み我に返らせたのが村田だった。
沙奈絵は後日、木谷の粗相を詫びるため村田に時間をもらえるよう頼み仕事終わりに食事をすることになった。
2人になることを避けていた沙奈絵だったが、助けてもらった御礼は直接伝えたいと思っていた。
「先日は木谷がご迷惑をおかけし本当にすみませんでした」
「倉本さんが謝ることではないよ、木谷もかなり反省してるみたいだからしばらくは大人しくなるんじゃないかな…」
「それならいいのですが…実は木谷と杉原は付き合ってまして結婚の話が出ていたようなのですが杉原が迷っていることに木谷が苛立っていたようなんです…」
「同じ部署だと恋愛だけじゃなくトラブルがあると倉本さんも大変だね…大丈夫?」
「心配いただいてありがとうございます、部下と言えど距離も近いメンバーなので今回の場合など対応に悩みます…」
「仲がいいのはショップの良い雰囲気を作れているしいいことだけど…狎れあいは良くないし…距離感が難しいね」
「はい…そう思います」
「悩みながら成長していくものだと思うし何かあればいつでも相談して」
「ありがとうございます」
「毎日帰り遅いみたいだけど、息子さん楽くんだっけ?大丈夫?」
「はい…両親に助けてもらいながら何とか…でも最近少し反抗期なんですよね…」
「子どもはお母さんのこと大好きだから大丈夫」
「そうだといいですけど…」
村田に楽のことを聞かれた沙奈絵は、自分は母であると心の中で強く言い聞かせていた。二人になることを避けてきたが、お詫びという口実を作って村田に会うことでタクシーでの出来事で抱いた自分の感情を確かめようとしていた。確かめるまでもなく沙奈絵は村田に恋心を抱いていた。村田も恐らくタクシーでの出来事の記憶はあるのだろう触れることはせずあえて子どもの話を振ることで距離を取ったのだろう。沙奈絵はこれ以上はダメ、自分は母である。この気持ちに整理をつけなければならないと強く言い聞かせながら最初で最後の村田との二人での食事を楽しむことにした。
―2013年4月―
梨田との離婚から8年が経ち楽は小学5年生になった。調停離婚で取り決められた父親との月1回の面会と養育費の支払いは守られていた。沙奈絵はショップ店長を経験した後、現在は大阪支社へ戻りマネージャーとして新人育成部署に配属となった。ショップ店長時代にお世話になった村田課長も1年前に本社へ異動となって以来会うことはなくなった。
母として生きていくことをより強く思い直すきっかけをくれた村田に沙奈絵は心から感謝していた。
楽は沙奈絵の両親の協力もあり、元気で真っ直ぐな子に育っていた。
そんな楽に新たな道の可能性が舞い込んだ。
沙奈絵の4つ離れた妹の亜里沙が3年前に高校の同級生と結婚、現在出産のため実家に帰省していた。楽に新たな道の可能性を運んできてくれたのは亜里沙の夫・瀬古尊だった。
「楽くん、ラグビーに興味ないかな?」
「ないことないよ」
「今度、体験会あるんだけど来てみない?」
「タケちゃんがコーチしてるところ?」
「そうそう、今週末なんだけどどうかな?」
「うん…ねぇお母さん、行ってもいい?」
尊から誘いを受けた楽が沙奈絵の様子を伺いながら聞いた。
「いいんじゃない?運動したいって言ってたもんね。この前サッカーも体験会行ったけど、ラグビーも行ってみて決めればいいと思うよ」
「じゃ、決まりだね。あっちゃんの予定日はまだ先だし今週末はまだ大丈夫だと思うし…」
「お母さんも私もいるから大丈夫!タケちゃん、楽のことよろしくね」
「りょうかい!楽くんすばしっこいし、走るの好きだって言ってたからきっと楽しいと思うよ」
「うん!楽しみ!」
周りの友達は小学低学年の頃からサッカーや野球、バスケットボールなど父親がやっていた影響なのか運動クラブに入っており週末は試合や練習で忙しくしていた。楽も何か運動を始めたいを思いながらも沙奈絵が週末は仕事で疲れて寝ていることが多い姿を見て言い出せずにいたのだった。サッカーの体験会も付き添いで行ったのは沙奈絵ではなく祖母の美佐子だった。美佐子からサッカーの体験会での様子を聞いた沙奈絵は、週末の楽との接し方に反省しているところだった。体験会での楽の様子はとても楽しそうにしていたようだが、沙奈絵には習いたいと言ってこなかったからだ。
次に楽がやりたいと思うのならば、全力で応援しようと沙奈絵は強く思っていた。
―体験会当日―
尊が楽を迎えに来た。
「楽くん、おはよう!準備できてる?」
「タケちゃん、おはよう!バッチリだよ」
楽が尊の車の助手席に座った。
「タケちゃん、今日はよろしくね」
「うん、任して!じゃ、行ってきます!」
「いや、私に何かないの??」
沙奈絵の後ろから大きなお腹をさすりながら亜里沙が尊に嫌味を言った。
「あぁ…あっちゃん行ってくるわ」
「ほんとラグビーのことになるとこれよ」
亜里沙が呆れた表情を見せる。
「タケちゃん、あっちゃんのことは私たちに任せて!今日は多分大丈だから」
「お願いします!」
「楽、気をつけてね!楽しんできて!」
沙奈絵が言ったと同時に車が動き始めた。
「行ってきまーす!」
窓を開けて沙奈絵に向かって楽が手を振った。尊の運転する車はラグビー練習場へ向かった。
尊は高校、大学とラグビー部の主将を務めたラガーマン。社会人になった後も地域ラグビーをしていたが怪我がきっかけとなりつい先日に引退していた。
怪我が完治した頃、大学時代の先輩に誘われ週末だけラグビースクールのコーチをすることにした。妻の亜里沙は高校時代の尊のラグビーのプレー姿が脳裏に焼きついているのか、ことあるごとに沙奈絵や楽に話していた。楽は男の人と言えば祖父の龍二と月に一回会う父親しか知らないが亜里沙の夫と接する機会が増えたことでスポーツに対する憧れを抱くようになっていった。
「楽くん、ラグビーってどんなイメージ?」
「タックルがすごい!前にタケちゃんに教えてもらったスクラムもおもしろそう」
「なるほどね~今日は体験だから基礎的なことになるけどさ、サッカーの体験よりハードかもしれないよ」
「うん!大丈夫!楽しみ!」
「さぁ着いたよ、行こうか!」
「うん!運転してくれてありがとう」
練習場所の駐車場に到着した尊と楽は、スクールの生徒たちが集まる場所へ向かった。
「先輩!おはようございます。今日は体験会に甥っ子が参加させてもらいます。よろしくお願いします」
尊が大学の先輩で監督を務める松田良太に挨拶し楽を紹介した。
「あぁそう言えば今日だったな、楽くんよろしくな」
「倉本楽です!よろしくお願いします」
楽が普段より大きめの声で監督の松田に挨拶をした。
「おぉ気持ちのいい挨拶だ!よし!がんばろうな」
「はい!よろしくお願いします!」
軽く挨拶を済ませた後、楽は他の体験会参加者と一緒にラグビースクール生徒たちの練習に参加した。基礎練習として50メートルダッシュ、ラグビーボールの使い方を教えてもらった後にパス練習、ステップの練習とメニューをこなしていった。
楽のステップ練習を見ていた監督の松田が尊に話かけにいく。
「尊が言った通りだな、筋がかなりいいんじゃないか」
「ですよね?小さい頃から一緒に遊んでいたんですけど、すばしっこい子だったので伸びると思いますよ」
「本人的にはどうだろう?」
「スポーツはしたいようです。この前サッカーの体験会に行ったと言ってましたがまだ入ってないみたいです」
「そうかぁ…うちのスクール来てくれたらなぁ…」
「姉も体験してみて自分で決めたらいいと言ってたので本人の気持ち次第ですね」
「わかった!なぁ尊、この後ミニゲームをやるから体験会参加の子たちに基本ルールだけ教えてやってくれ」
「わかりました!」
松田も尊もラグビーというスポーツに本気で向き合ってきたからこそ、強制的に始めさせて続くものではないことをよく知っていた。他の参加者も含めワクワクを感じるのか、スクールの子のようにになりたいと思うのか、それは本人次第だと考えていた。
ただ、やってみたい!強くなりたい!と思う子たちの才能を最大限引き出してあげることが指導者としての使命だと思っていた。
尊が楽を含めた体験会参加者へ基本ルールを教えた後、スクール生たちも含めて2チームに分けてミニゲームが行われた。
ミニゲームの主導権はスクール生が握っていた。体験会参加者には遠慮がちな子や基本ルールがまだ理解できていない子たちもいた。そんな中で楽がボールを持つ瞬間がやって来た。楽はボールを持った瞬間、基礎練習で習ったステップを踏みながら相手チームのスクール生を交わして独走でトライを取った。楽に抜かれたスクール生は目が点になっていた。楽はこのトライを取った瞬間、胸の中に熱いものを感じていた。
「楽くん、やったね!すごいね!」
同じチームの体験会参加の子が駆け寄って楽に声をかけた。
「うん!ボール持ったら、気づいたら走ってた」
一方、楽がボールを持って走り出した瞬間、松田と尊はお互いに目を合わせて頷き合っていた。ミニゲーム終了後、、体験会参加者とその保護者向けにスクールに入った場合の練習スケジュールなどが伝えられた。松田は体験会終了後に楽に声をかけた。
「楽くん、今日はどうだった?楽しそうだったね」
「今日はありがとうございました!すごく楽しかったです」
「ステップすごくよかったよ!トライ決めたら気持ちいいだろ?」
「すごくうれしかったです!またやりたいです!」
「そうか!練習頑張ればもっと上手くなるよ!」
「はい!がんばります!!」
「じゃ次の練習も待ってるぞ!」
「よろしくお願いします!」
尊の車で家に帰宅した楽は、真っ先に沙奈絵の元へ駆け寄って行った。
「お母さん!ただいま!」
「お帰り、どうだった?」
「すごーく楽しかった!トライ決めたよ!僕ラグビー習いたい!」
「トライ決めたの?すごいね!タケちゃんも見てたの?」
沙奈絵が尊にトライを取った時の状況を聞く。
「初めてゲームに参加したとは思えないトライだったよ」
「そう!お母さんも見たかったなー」
「次も絶対トライ取るから見に来てよ!」
沙奈絵は自分からラグビーを習いたいと言ってきた楽の姿を嬉しく思った。
母親に遠慮することなどを飛び越えたワクワクを感じたのだろうと思った。
「わかったよ、次は見に行くからね、頑張りな」
「ありがとう!がんばるよ」
「タケちゃん、入会のこととかまた教えてくれるかな?」
「もちろん!次の練習の時にできるようにしておきますね」
「よろしくお願いします」
沙奈絵は楽の新たな道を運んできてくれた尊に心の中でも感謝した。
―2017年9月―
全国中学生ラグビーフットボール大会決勝の日。
楽はあれからラグビースクールに通い始めメキメキと成長していった。中学に上がる頃、強豪中学への進学も考えたが、ラグビースクールの中心選手となっていた楽は中学でもラグビースクールでプレーすることを選んだ。
そして、いよいよ中学3年生最後の大会で全国優勝まであと一試合というところまで来ていた。
沙奈絵も祖父母の龍二と美佐子と一緒に応援に来ていた。ドキドキしながらキックオフの時を待っていた。ラグビーの道に誘ってくれた尊たち家族も4歳になる息子を連れて応援に来ている。尊は抱きかかえた息子の大を妻の亜里沙に預けて選手たちの方へ駆け寄って行った。沙奈絵たち家族が座っている席とは反対の方向には、楽の父である梨田と梨田の新しい家族も来ていた。沙奈絵は目が合ったと思い梨田の方を見て軽く会釈をする。
梨田も沙奈絵に気づいたようで会釈で返した。調停離婚での取り決めであった月1度の面会は、楽がラグビーを始めてからは、週末は練習や試合で頻度が少なくなっていた。楽が本気でラグビーを頑張る気持ちを汲み、梨田も理解を示していた。そして会う時間が少ない分、ラグビーの試合がある時には楽から梨田へ連絡を入れて見に来てもらうよう誘っていた。
梨田が再婚したのは、楽が中学に上がった頃だった。その頃の面会の日を決めるのは楽に持たせていたキッズ携帯でやり取りをするようになっていた。
全国大会決勝戦は見事優勝、有終の美を飾った。楽は家族が見守る中しっかり自分の役割を果たしチームに貢献していた。仲間たちの中心で優勝カップを掲げる息子の姿を見た沙奈絵の喜びもひとしおだった。ラグビーを始めてから沙奈絵や美佐子は体づくりのため食事面をサポートしてきた。たくさん食べて当たり負けしない体になるために頑張ってきた楽の努力が報われる瞬間だった。
「沙奈絵、よかったわね!楽、かっこよかったじゃない!」
美佐子が沙奈絵の肩を叩きながら声をかける。
「痛い痛い痛いって!ほんと良かったわ。ブレずにやってきた成果よね」
「高校はもちろんラグビー部があるところに行かせるんでしょ?」
「楽はそのつもりでいるみたい、まだ決めきれてないみたいだけど…」
ラグビースクールは中学生まで、高校からはラグビー部に所属する必要があった。
楽はどこの高校へ進学するのかはまだ決めていなかった。
試合が終わり家に帰ってきた楽を、沙奈絵たち家族みんなでお祝いした。
「楽、優勝おめでとう!よかったな!」
真っ先に龍二が声をかけた。
「じいちゃん、ありがとう!優勝して嬉しかった!応援来てくれてありがとう」
「自慢の孫や!ほんとタケちゃんにも感謝やな!」
「僕は何もしてないですよ、楽もチームのみんなもほんとよく頑張ってました」
「いや、誘ってくれなかったらラグビーやってなかったと思うから」
「あぁ、そこまで遡ってたんですね」
「楽、高校はどこに行くかもう決めてるのか?」
龍二が本題に入ったぞという雰囲気を出しながら楽に聞いた。
「うん…まだ決めてなかったんだけど、今日試合終わってから監督に西河高校から声かかってるって聞いたんよ」
「西河高校?中学もラグビー部あるところで高校からやるってことか?大丈夫なんか?」
龍二が心配そうに楽に聞き返した。
「中等部のラグビー部も強いし、そこから上がってくる子たちと一緒にプレーしてみたいと思ってる」
「なるほどな…」
龍二が納得した表情で頷いた。続けて二人のやりとりを聞いていた沙奈絵が楽に聞く。
「西河高校に決めるの?楽がプレーしてみたいところなら応援するよ」
「うん、プレーしてみたいと思った。やってみたい!」
「わかった、じゃ監督に相談してみて、その後のことも聞きたいし」
「うん、次の練習の時に言いに行くよ」
「そうして、疲れたろうから今日は早めに休みな」
「うん、そうする」
次の練習日、楽は監督に西河高校への入学希望の意思を伝えた。
2018年4月、楽はラグビーの強豪、西河高校へ入学した。
新たな挑戦のステージを前に楽は「高校でも全国に必ず出る」という目標を立てた。
入学後から強度の高い練習をこなし、体格も一回り大きくなり少しずつ試合にも出るようになっていった。
―2019年10月―
楽が西河高校へ入学して一年半が経った。沙奈絵は楽が出る試合はできるだけ見に行くようにしていた。今日も家から近い大学で練習試合があると聞き一瞬迷ったが応援に行くことにした。
大学の門の前に着いた沙奈絵は「星阪大学」と書かれた看板を見つめた。あの頃、中に入ったことはなかったが、懐かしい人が働いていた場所だった。今どうしているのだろうか?そんなことを考えていた。一息ついた後、星阪大学の中へ入っていった。
キャンパス内を歩きながらあの頃のことを思い出していた。20年近く前のことなのに懐かしい気持ちと楽しい記憶だけが蘇ってくる。思い出というものは美化されると言うが本当だなと沙奈絵は思った。
ラグビー場に着いた沙奈絵は、思い出に浸っていた自分を振り払うかのように頬を手で二度叩き、楽のいるラグビー場の中に入っていった。
【第五章】―めぐる―2021年初夏
沙奈絵との再会で止まっていた時間が動き出してしまった阿南。あの頃は自分の気持ちを通すことができなかったが、今ならば向き合えるかもしれない。この年齢になってもこんな淡い期待をしてしまう自分は罪深い人間だと思ってしまう阿南だった。
講義が始まり出欠を取り始める。倉本楽、沙奈絵の息子が出席していた。沙奈絵と入学式で再会して以来、コロナ禍で授業はリモートのため、楽とも直接会うことはなかったがようやく対面で会う時が来たのだった。沙奈絵は自分のことを話しているのだろうか、いやそんなことどうでもいい。長い教師生活の中で生徒に初めて恋をしたのが沙奈絵だった。
その沙奈絵が育てた子どもに今度は自分が教えているという運命。
あの時、別れを選択したから今がある。これから自分はどう生きたいのか、何が幸せなのか。
阿南は沙奈絵との再会からずっと考えていた。まずは楽に声をかけてみよう。そんなことを考えながら授業を続けた。
阿南は授業終わりに楽に声をかけた。
「倉本くん」
「はい」楽は驚いた表情で答えたが、阿南の方へ近寄っていく。
「お母さんは元気かい?」
「え?母のこと知ってるんですか?」
「あぁ、昔ここではないが教え子だったんだよ、君の入学式の時にばったり会ってね」
「そうだったんですね、そう言えば母が前に言ってたような…阿南先生だったんですね」
「そうか、お母さんによろしく伝えてくれ」
「わかりました、では失礼します」
阿南は沙奈絵が大切に育てて来たことを確信した。
今さら、何かを求めるわけでもないが楽の成長を見守っていこうと思った。
楽は家に帰り、沙奈絵に今日の出来事を話した。
「母さん、今日大学で阿南先生に声かけられたよ」
「へぇそうなんだ」
「前に話してたお母さんの好きだった先生でしょ?」
「よく覚えてるわねー昔の話だけどね。かっこよかったでしょ?」
「いや、お爺さんでしょ」
楽のストレートな言葉が沙奈絵の胸に刺さる。
「楽からするとそうなるよね、楽のおじいちゃんと年そんなに変わらないからね」
「それにしても先生もよく覚えてたよね、何か言っておくことある?」
「コロナ落ち着いたら、ご飯でも連れて行ってくださいって言っておいて、いつになるかわからないけどね…」
沙奈絵は心の中にある阿南への想いを楽に悟られないよう精一杯お道化た表情で返した。
「オッケー了解!言っておくよ」
指でOKサインを沙奈絵に向けた後、楽は自分の部屋に入っていった。
―2021年11月―星阪大学 阿南研究室―
授業を終えた楽が阿南を訪ねて来た。入学以来、阿南と楽は、母とつながりがあったことがきっかけになり教師と生徒としての関係が他の生徒よりも良好に築かれていた。
「阿南先生、今少しよろしいですか?」
「倉本くんか、あぁどうかしたか?」
「先生、ラグビーの試合って見られたことありますか?」
「うちの大学のか?」
「はい…」
「何度かあるよ、毎年いいところまで進んでるね」
「そうなんですよ、今度よかったら試合見に来てください!」
「あぁ…都合がつけば行かせてもらうよ、次の試合はいつあるんだい?」
楽の唐突な誘いに阿南は戸惑いを隠しながら返事を返した。
「今週末です!僕はまだ出れるかわからないですけど、リザーブでメンバー入れたので」
「おぉ一年生で凄いじゃないか、予定確認してみるよ」
「はい、ぜひよろしくお願いします!その日は多分母も来ると思うので!」
「あ…そうなのか…わかった…」
阿南は楽の誘いの意図がわからず戸惑った表情で返すしかなかった。阿南の困惑した表情を確認した楽は、失礼しますと言って部屋を出ていった。阿南は、楽が自分と沙奈絵の昔のことを知っていると確信した。
2021年11月―花園ラグビー場―
楽から誘いを受けた阿南は予定に都合をつけ、花園ラグビー場にやって来た。
沙奈絵は自分が来ることを知っているのだろうか。大学側の人間として応援に出向くことは珍しいことではない。もし、知らなかったとしても偶然を装えばいい。阿南は胸の高鳴りに驚きつつ冷静を保とうとしていた。星阪大学の旗が掲げられているスタンドへ阿南は向かった。
大学一年でリザーブではあるがメンバーに入った楽を応援しようと沙奈絵はキックオフの一時間以上前からスタンバイしていた。今日は両親も妹夫婦も予定があり応援に来れず一人でやってきた。沙奈絵にとっては慣れたものだ。離婚後は、幼い楽を連れて夏休みや冬休みには車で九州や信州など旅行に連れて行った。高校時代にも遠征先まで応援に行くのが沙奈絵にとっては週末の楽しみだった。今日も試合に出られるかはわからないが、子どもが所属するチームの試合を全力で応援しようと決めていた。
キックオフまで残り20分になった頃、沙奈絵はトイレを済ませ応援席に戻ってくると、懐かしい顔が自分の座る席をどこにしようか迷っている姿が目に入ってきた。
「阿南先生!」沙奈絵が声をかけた。
「やぁ倉本…来てたのか」
「はい、子どもがリザーブですがメンバー入れたので。驚きました!先生、ラグビー観られんですね」
「あぁ、スポーツ観るのは好きだからね」
沙奈絵は自分が来ることは知らなかったのだと気づいた。偶然を装うしかないと咄嗟に思った。
「倉本も1人か?」
「はい、今日は家族みんな都合が悪くて…」
「そうか…隣…いいか?」
阿南は沙奈絵が座る席の横を指でさした。
「もちろんです、どうぞ」
沙奈絵が阿南に座るよう促した。
「ありがとう…もうそろそろ始まるのかな?」
「はい、あと十分でキックオフです」
「相手チームは強いのか?」
「えぇ強いですね、いい勝負になるんじゃないですかね」
「倉本はラグビー詳しそうだな」
「そりゃラガーマンの母なので!」
沙奈絵が得意げに答えた。
「母ちゃんしているんだな、まだ若いのに」
「先生に言うのもなんですが、もう私、40代ですよ…」
「私に比べたら若いだろう…」
「まぁそうなんですけど…あっそろそろ始まりますよ!」
試合が始まると集中する二人は、気になるプレーを見ては意見を交わしながら応援した。
試合結果は53対20で星阪大学が勝利した。初リザーブ登録となった楽の出番は残念ながら今回はなかった。
「楽君、出番がなくて残念だったね…」
阿南が沙奈絵を慮った。
「次がありますから!何よりチームが勝ってよかったですね!」
沙奈絵は清々しい表情で答えた。
「強いね…感心するよ」
「アスリートの母が一喜一憂してる訳にはいきませんよ!」
阿南は楽と初めて言葉を交わした時にも感じた、沙奈絵の子育ての正解を見た気がした。
試合終了後、試合に出ていたメンバーのケアサポートをしていた楽は応援スタンドに目をやった。沙奈絵と阿南が見つめ合って話している姿をグラウンドから見た楽は「成功した」と思った。沙奈絵には阿南が来ることは秘密にしていた。大学に入学して半年、母親の初恋相手であろう阿南と接するうち、最初は息子としては複雑な思いもあったが阿南がいい人であることはすぐにわかった。自分を育てるために一生懸命働いてくれた母が幸せになるなら応援したいと思っていた。もし「うごきだす」とすればまた再会した時だろうと考えていた。楽は自分の直感が当たっていたことを二人の姿を見て確信した。
沙奈絵と阿南は試合観戦を終えてラグビー場から出る人の流れに乗って駐車場へ向かった。
「倉本は車か?」
「そうです、先生は?」
「私も車だ」
「そうですか、では駐車場まで一緒に…」沙奈絵が切り出す。
「あぁ…そうだね」
22年ぶりに横に並んで歩く2人。思いを引きづったまま結婚を選択した沙奈絵。
沙奈絵の真意を確かめることを恐れ自ら身を引いた阿南。
あの時、結婚ハガキには返事を返せたが、楽が生まれたことを知らせるハガキの返事は出さなかった。その理由を沙奈絵に話すべきかどうかを阿南は考えながら歩いていた。
「倉本…」
「はい…」
「あっいや…また次の試合、一緒に応援しよう」
阿南は次に会った時に沙奈絵に話そうと決めた。
「次も来てくれるんですか?はい、ぜひ一緒に」沙奈絵が返事した。
沙奈絵も次会えた時には、当てつけのように阿南に2通のハガキを送ってしまったことを詫びようと考えていた。ただ今日は、また並んで歩けていることを噛みしめたいと思っていた。
22年という年月の長さを感じながらも、必要な縁はまためぐってくるものなのだと沙奈絵は思った。
「ときはめぐる」過去の経験が今を引き寄せた、過去の自分を赦し愛して生きていこう。沙奈絵は阿南の横で決意した。
完