赤と青
共感覚。それは、神経系の働きによって、ある刺激が別の種類の刺激を引き起こすことである。
ある数字・文字・音が特定の色や味の感覚を呼び覚ましたり、曜日や日付が特定の性格を持つように感じられたりする。
200人に1人、決して低いとは言えない割合で、シナスタジアを有する人々が存在する。
◇
「第74回『タロン・ジュニス』グランプリは、桧山蒼司さんに決定致しました」
スーツを着こなした審査員の言葉に共鳴するように、会場には割れんばかりの拍手が響く。人々は新しい才能の誕生に心震わせ、その場に居合わせた興奮に酔いしれている。
その喝采の中、淡々と僕は進む。幾つもの大きな「目」に体の隅々まで覗かれているような感覚にゾッとする。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
形式に則った感情の無い言葉と渡されるトロフィー。それを渡してくれた審査員と目を合わせることすら、今の僕には苦痛だった。
「ここで、見事グランプリに輝いた桧山さんより一言、感想を頂きます」
司会のアナウンスに導かれて、僕はステージの中央、ライトアップされたマイクの前に立つ。
「えー……」
「僕はこの賞を最後に、音楽を辞めます」
◇ ◇ ◇
いずれ歴史に名を刻むとまで言われた天才ピアニストの突然の言葉は、今や最も世間を賑わせる話題となっていた。
彼、桧山蒼司が通う学校でも当然、その話題が溢れかえり、生徒達の話のタネとなっていた。
「ねぇ聞いた?桧山くん、ピアノ辞めちゃうんだって」
「私、応援してたのにな」
「前からあいつのことは気に食わなかったんだよ」
「それな。天才だかなんだか知らないけど、何か周りのこと見下してる感じするよな」
そして、そのどれもが彼の想像する限りの非難と悲嘆に染まっていた。
◇
「元気、無いのな」
「……」
どれだけ著名な賞をとっても、僕は普通の高校生だ。そして、登校中に彼、篠原赫太と出会うことも、特段珍しくない。
「天才ピアニスト、突然の引退宣言!……なんて、引退も何もデビューしてないってな」
「その方が人目を引くんだろう」
「この人の書き方って悪意あるよなー。全部読んだけど、結局お前のこと何も分かって無さそうだし 」
「篠原は、分かるのか。僕が何を考えているのか」
「全然。でも、桧山が何も考えずにこういう事するとは思ってないよ。それに、本当に音楽辞めるのか?」
「……辞めるさ」
僕はそう彼に言い残して、校門をくぐって自分の教室を目指す。そこに行くまでにすれ違う人は皆、顔を見合せて僕の事を話しているらしい。
人で溢れかえっているはずの廊下も、僕が通る時だけ自然と道が出来た。静寂もついでに訪れる。
(静かな方が助かるな……)
僕は特別気にすることも無く自分の教室へと入った。
先日の騒動の影響は既に教室にも広がっているようで、クラスメイト達がコソコソと話をする度に、僕の心は擦れていった。
その日は一日、痛い程の視線と陰口をその身に受け続けた。
◇
好奇の目に晒された放課後、僕は学校の音楽室に用事があり、すぐ近くにある階段を上る。
音楽室というのは不思議なもので、大抵の学校が3階だとか、4階にそれを置く。しかし、中にはグランドピアノなどの大型の楽器が詰め込まれている。
下の方の階にすれば、これを運ぶ手間はもっと少なくて済んだのではないだろうか。誰が言い出したかは知らないけれど。
音楽室の前に立ちドアノブに手を触れた僕は、そこで一つの音を耳にした。
♪〜
そしてそこから始まる、綿で包み込まれているかのような優しい音。決して上手い音じゃない。だけど、確かに「懐かしい音」がそこにはあった。
「……っ!」
僕は居ても立っても居られなくなり、ドアノブを思い切り自分の方に引き込んで、中で音を奏でる人物に目をやった。
誰だ、こんな音を弾けるのは。誰だ、僕の心を優しく掴むのは……!
「どうしたんだよ、そんなに焦って」
「篠原……」
「なんか、お前がここに帰ってくる気がしてた。正解だったみたいだな」
篠原は清々しい笑顔を見せ、丈夫な椅子に座ったまま背伸びをした。
「『タロン・ジュニス』聞きに行ったよ。ベートーヴェンのピアノソナタ第12番。でも、俺だけかな……お前が、舞台の上で悲しそうに見えた」
「……!」
「英雄アキレスの死を弔うソナタ。お前が第12番を選んだのは、自分の弔いのためなのか?」
「それは君の妄想だろ。僕はグランプリを取るためにあの曲を選んだだけだ」
認めたくなかった。僕の心の内を理解してくれる人が居るなんて、思いたくなかった。あの曲に僕が込めた想いも全て、篠原は見透かしているようだった。
「自殺しようとしてたんだろ、あの曲と」
あぁ、やっぱり君も、『そう』なのか……?
「お前の音は確かに凄かった。でもそれは、自分の身も削るような、そんな雰囲気でもあったよ」
でも、篠原は僕に寄り添ってはくれなかった。同じ痛みを共有できると思っていたのに。
「……お前に」
「え?」
「お前に僕の何が分かるんだよ!少し顔馴染み程度の存在で、僕が抱えてることなんか一つも分かってないだろ!」
分かってないのは僕の方だ。篠原に八つ当たりしてもこの世界は変わらない。僕が僕で居続ける限り、呪いから逃げられることなど出来やしない。
そう、思っていた。
「分かんねぇよ、そんなの。だからこうやって聞いてんじゃん」
篠原は、何とも情けない顔でそう言った。その表情を見て、言葉を聞いて、僕の中の怒りはその矛先を向ける相手を失ったみたいだった。
「何に苦しんでるかは分からない。でも、だからこそ俺は知りたいんだよ」
「どうして、そこまでするんだよ……」
「昔からファンなんだよ、桧山の」
そう言って篠原は照れくさそうに笑った。俺は、再び懐かしい想いに駆られていた。賞を取るためではなく、自分の楽しさのためにピアノを引いていた頃を。
それを思い出させてくれたのは、篠原が弾いた幾つかの音だった。
共感覚。それは、神経系の働きによって、ある刺激が別の種類の刺激を引き起こすことである。
ある数字・文字・音が特定の色や味の感覚を呼び覚ましたり、曜日や日付が特定の性格を持つように感じられたりする。
200人に1人、決して低いとは言えない割合で、シナスタジアを有する人々が存在する。
天才と称されたピアニスト桧山蒼司がこれに該当し、身の回りに聞こえる音が、自分に触れているように感じるシナスタジアの持ち主だったことがこの後に判明した。
それに対して篠原赫太は、普通の人間だった。




