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パンダ以上の体温

作者: かえるん

 春の気配が失われつつある梅雨前の中途半端な時期、夕日が影を落とした寂しげな公園に男女二人の高校生がいる。情景的な完成度は全く望むべくもないような時期ではあるが、状況だけを説明すれば何だか恋人たちの密かな逢瀬のように思われる。だが、二人が勝手知ったる幼馴染で片割れが奇天烈で衝動的である場合穏やかな恋のような解りやすい形に納まるわけもない。いや、納める方法がないわけではないのだが、とても勇気ある行動が必要になるのだ。恋人たちのささやきに相応しくない片割れのテンションをぶち破り、互いが互いのことを恋愛の対象として意識する雰囲気を作るには。そう、彼女は子ども番組に出てくるお姉さのテンションを常時保ち続ける優れた名士である。


「やほーい!」


 子ども用の搭乗系遊具に無理やり搭乗した挙句ぐわんぐわんと激しく揺して楽しんでいるのが環理だ。環理が搭乗しているのはパンダで、僕が搭乗しているのはゾウだ。そう、僕も環理に付き合いゾウに無理やり搭乗している。環理が登場しているパンダのバネから悲鳴のような音を聴きながらパンダはこんなに激しく動かない動物であることを考えていた。僕ら以外にこの小さな公園に誰もいないとはいえ、女子高生が遊具ではしゃぐ様子は誰かに見せてはならないようで、僕は公園の入口の方にときどき目を寄越していた。僕はゾウらしくゆっくりとバネをきしませていたが、塗装の剥げかかったゾウはいかにも歳を感じさせ、ゾウの老体を労わるように少しだけ速度を落とした。


「少年!何ぼけっとしとるん?はよおせんかいな!」


「ええ…。」


 環理はいつも元気いっぱいだ。だが、あの時から環理はどこか無理をして元気に振舞っているように見えてしまう。環理は小学校の頃から陸上をしていた。中学校ではなかなか華々しい成果を収め、高校での活躍を期待される選手だった。しかし、三年生が止めて二年生のこれからという時期に事故で大けがをしたのだ。そう、運転手が脳梗塞を起こした車が制御を離れて歩道に突っ込み、環理は壁と車に挟まれる形で足に大けがをしたのだ。幸い足の骨が綺麗に折れていたこともあり、足のけがの回復は順調そのものであるし、歩行に障害が残ることもないのだが、しばらくの間は歩行さえできなかった。環理は病院のベッドの上ではきはきとした様子で陸上部を辞めて受験勉強に励むことを口にしていた。


「パンダが可哀想だよ。」


「いいや、違うね。久しぶりに遊ぶ人が出てきて、パンダも相当張り切ってるさ。」


「どうして環理に分かるのさ?」


「パンダ、こいつとは以心伝心の仲なのさ。」


「さっき出会ったばかりなのに?」


「過ごした時間の長さが重要なのではない。過ごした時間の濃さこそが重要なのだよ。」


 なあ、僕は環理と以心伝心できないから、僕は環理の友として失格なのかな。なあ、パンダ。環理は今何を考えて何を感じている?ゾウと同じように剥げかかったパンダはうんともすんとも口にしてはくれない。ああ、パンダ。見た感じは僕と同じような立場なのに、何故お前は環理と以心伝心できる?これは僕とパンダの間に隔たる歴然とした差だ。そう、パンダ。お前が環理を幸せにしてくれればいいのに。悔しくても悲しくても僕は環理の心を晴らすことができない。もう、パンダ。俺は立派なパンダになって見せようと思うよ。アルミ缶のように軽々しく蹴り上げられてぼこぼこにへしゃげてしまう僕は君の希望になれなくとも君のおもちゃにならなれそうだ。


 環理はパンダに飽きたのか揺れが止まるのを待ち、足をゆっくりと地面に下してブランコに向かう。ブランコもまた小さな児童用に作られているため、環理が遊ぶにはちと小さすぎるように見えるが、無理に遊ぼうと思えば遊べなくもない大きさだ。環理は僕の名前を入れた変な歌を歌いながらブランコに近づき、ブランコの椅子にゆっくりと座った後全身を使って漕ぎ出す。僕は衰弱したゾウの歩みを止めて、ゾウから降りた後ブランコに向かう。僕は身体だけが大きくなったかのように思われた。僕は今も無力なまま空中を漂う雲のような存在である。僕の生活には環理以外のきらめきを見出すことは難しい。環理が僕を必要としなければいずれ僕は太陽を失うことになる。


「ブランコってさ、生命みたいね。」


「唐突に文学的だね。」


 何を恨むべきか教えてくれさえすれば多少は気持ちが晴れる気がする。全てそれのせいにしてしまえばぼんやりした気持ちもなくなる。ブランコを生命のアナロジーとして利用するのなら、今環理はどういう状態にあるのだろうか。環理は直線的で爽快な動きを忘れた不規則さを称えながら僅かな振幅を止めているブランコだろう。公園の隅で縮こまりながら公園の子どもたちを観察していた僕と遊んでくれたのは環理だ。環理は公園にそびえたつジャングルジムのように凛々しい存在なのだ。環理が陸上で活躍できないことは残念でならないが、環理が活躍の舞台を陸上に限定する必要はないのだ。僕は環理がこれから切り開いていくはずの輝かしい未来を見てみたい。僕は環理の幼馴染ではなくただのファンなのかもしれない。


「私、近くの国立で工学部に入ろうと思う。」


「へえ。」


「君はまたついてくるのかな?」


 ブランコをこぎながら話しているので、どこか明るいニュアンスで聴こえる。


「さあね。」


「君は私のことが本当に大好きだからねえ。」


「…。」


「全然素直じゃないね。」


 僕が素直になることは環理に良い影響を与えるだろうか?僕は環理の人生を通して人生とは何たるかを経験させてもらう環理の寄生虫みたいな存在だ。僕は環理のことが好きなのは確かなことだけれど、僕と環理とでは釣り合いがとれないのだ。僕は環理が幸せになるためなら、どのようなことでもするだろう。何故なら僕が環理の寄生虫である限り環理の幸せだけが僕の幸せになり得るのだから。環理が近くの国立の工学部を目指すのであれば、僕と環理が適切な学力を身に付ける必要がある。ただ、僕は環理について行けるように勉強を欠かしたことはない。環理もまた早めに受験勉強を始めているので、僕も環理も少し余裕があるくらいだろう。


「君はさ、いくら私のお尻が可愛いからってさ、私のお尻ばっか追いかけてんじゃないよ。君には君の未来とか自由とかがあるわけだからさ。」


「そうだなあ。」


「こら、ちゃんと聴いてるの?お母さんね、あんたのためを想って言ってんだからね。あんたが話をちゃんと聴かないなら、お母さんもう知らないからね。」


 僕は僕の未来や僕の自由なんて考えたくもない。「自分の未来」や「自分の自由」が要求する代償の大きさがどれほどのものか、それらを疑いようもなく享受していた環理こそが理解しているはずなのに。確かに、「自分の未来」や「自分の自由」を放擲する代償もあることは理解している。どんな選択にも必ずその代償があるのだから。そもそも、もともと僕が僕の未来や僕の自由を放擲する選択を決めていたところに、環理を崇拝するとても幸運な派生形が生じてきたにすぎないのだから、環理が僕に読み込んでいる論理関係は事実とは逆さまなのである。ただ、環理が僕の密かな歪んだ想いに気づいて、居たたまれない気持ちになるのであれば、何か対応策を案出する必要が出てくる。


「僕は何だかんだ幸せなの。暇だから君といるだけさ。」


「そう?」


「ああ。環理は自分のことを心置きなく考えていればいいのさ。」


「むう。そうなのかなあ。」


 珍しく引き下がる環理に僕は少しばかり動揺している。僕はいつまで環理の近くにいることができるだろう。大学まで追いかけるのもすでに変すぎるし、就職まで追いかけるのは気味が悪すぎる。ただ、環理が僕に向けている感情は僕が偶々環理の近くにいて、環理が大変な時にも傍にいられたからに過ぎない。いや、環理が大変な時に傍にいたことは関係を変化させるには十分な要素ではあるのか。僕には当たり前のこと過ぎて、そんなこと気にも留めずに、足しげく面会していたのだが。僕は環理に愛されたいのだろうか。それとも愛されたくはないのだろうか。ありきたり過ぎて恥ずかしい限りだが、僕は環理の前では陳腐な毒虫に過ぎない。そう、僕は環理に愛される資格があるのかに恐怖しているのだ。


 いつの間にか環理はブランコをこぐことを止めていた。環理は珍しくしおらしい様子で下の地面を見つめるように俯いている。僕はこれから起きるはずのことに期待よりも恐怖を感じていた。僕は心が落ち着かないので、ブランコを強くこぎ始めた。ブランコをこいでいるのにも関わらず爽快な気分に全くなることができない。こんなのは一時的な逃避行動に過ぎないではないか。夜の天幕が降りてくるような時間になりつつある。僕は環理を置き去りにしたまま、走り去ることもできるだろう。ただ、環理を目の前にして環理の気持ちから逃げるために走ることがどんなに酷い行為か理解している。僕はブランコをこぐことを止めて、ブランコが止まるに任せていた。ああ、万有引力の法則というものはかようなるものであるか。僕の諦めが可視化されたように、ブランコが正位置に垂れ下がる。


「私、晴臣のこと好きだな。」


「環理、それはただの代償行為に過ぎない。」


「違う!」


 環理は顔をこちらに向けて、とても怒った表情を見せた。


「陸上ができなくなったから、僕に逃げ込んでるだけだよ。」


「違うもん!」


「じゃあさ、一体どういうこと?」


 僕は環理を傷つけたいわけではない。僕の方が環理を怖がっているだけだ。


「私はただ当たり前のように傍にいてくれる君の存在のありがたみに気づいただけなの。」


「僕は金魚の糞みたいなものだよ。」


「やっぱり私のお尻を追いかけてるんじゃん。」


 環理は楽しげに笑いかけてくる。果たして環理が元気のないように見えたのは陸上ができないのもあるだろうが、環理が僕への気持ちに気づいた恥ずかしさを感じていたからかもしれない。学校で一緒に勉強し一緒に帰るところまではいつも通りだ。ただ、環理が公園に立ち寄ることを提案して、公園に立ち寄ったのはイレギュラー。相手が恋愛ぶち壊しマスターのハイテンションお姉さん環理だから、こんなイレギュラーもたまにはあるだろうと勘違いをしていた。環理は告白をするためにこの場所に僕を連れ込んだのだ。環理がブランコから立ち上がり、僕の目の前に立ちはだかる。環理は僕よりも体格がいいので、少なからず威圧感があるが、スタイルの良さが目についた。環理は僕に両手を差し出し、僕に可愛く目配せをした。


「ねえ、付き合お?」


 僕は唐突に泣き出した。僕は純粋に感動していたのだ。環理がまた幸せを勝ち取るために自分で選択をしたことに対してである。僕は環理が身を以て教えてくれる生命の力強さに畏怖さえ覚えている。僕はこのような純粋な感動のためだけに泣いたわけではない。環理がまた幸せのための選択に裏切られるかもしれないことに恐怖したからだ。僕は今でも環理が陸上を取り上げられた悲しさを想像しただけで涙が溢れて止まらない。だが、環理は人生を過ごす中で選択を続けていくしかない。僕はまた環理の苦しみを感じただけに泣いたわけではない。僕は環理が与えてくれたこの機会を初めとして僕の人生を始めることができるからだ。人生の苦しみは自分の人生を生きている者にしか与えられない。また、人生の楽しみは自分の人生を生きている者にしか与えられない。


「どうして泣いてるの?」


「さあね。」


 僕は環理が差し出した両手を掴んで立ち上がる。僕は僕よりも少し身長の高い環理と視線を合わせる。僕が環理に与えられたものは一体どのようなものだろうか。僕は環理に与えられてばかりでいつも申し訳ないように感じていた。環理の言うことを素直に信じるとすれば、僕は環理に居場所を与えていたことになる。だが、今回は環理が僕に返し切ることのできない大切なプレゼントをしてくれた。だから、僕が泣いているのは環理に単に感謝をしているからかもしれないし、環理に恩を返し切れない申し訳なさを感じているからかもしれない。いや、やはり人類が産まれた時に産声を上げるように僕は人生に産まれた時に涙を流すのだろう。環理と僕は名残惜しいような様子で繋いでいた両手を離した。環理が僕の涙を手でふき取り、頬に手を添えるようにする。


「返事を聴かせてくれる?」


 環理は環理にはできそうにないと思われた聖母のような顔をしていた。


「僕も環理のことが好きだ。こちらこそよろしく願う。」


 環理は顔を赤くしたと思えば、僕に勢いよくキスをしてきた。あまりにも勢いが良すぎて、二人の唇が二人の歯に挟まれて、環理も僕も唇を痛めてしまう。だが、環理は懲りることなく僕にキスをしてくる。僕は飼い主の顔を舐めまくる犬のような環理をただ受け入れていた。キスしながら開いた眼で遠くを見やると、梅雨前の中途半端な時期ではあるが、新緑の時期でもあることを思い出し、公園の木々が芽を出しているのに気づく。夜に入る夕方のぎりぎりの時間帯で、遠くの方に夕焼けがかすかに見えた。環理は僕にキスをするのを止め、少し離れたところで空に向かい、勝利の雄たけびをあげだした。どこまでも環理らしい行動ではあるのだが、聴いているこちらが恥ずかしくて死ぬ。


 公園のベンチに置いていたカバンを持ち、二人手を繋いで帰路につくことにした。僕は公園を出るタイミングで立ち止まり、立ち止まる僕を不思議そうに眺める環理に、今度は僕から不意打ちでキスをした。環理はキスの不意打ちを喰らい、恥ずかしいやら何んとやらで、僕を空いている手で叩いた。僕はこれまで感じたことのない満足を感じ、環理と歩調を合わせながら家の方に歩く。今僕はパンダ以上の存在に瞬く間に昇格することができたのかもしれない。いつの間にか見上げていたはずの存在を超特急で追い抜かす気分はとても気持ちがいいものだ。ただ、環理に引き上げてもらうただの贔屓で昇格したに過ぎないことは肝に銘じておかなければならない。僕は環理と繋いだ手に環理の体温と僕自身の体温を感じていた。



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