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独立!東京都国  作者: 立花優房
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第五章 対決

 明けた火曜日に島村瑠璃の告別式が武蔵野市の葬儀会館でひっそりと行われた。喪主である島村瑠璃の母方の祖父母の意向は家族葬で行いたいとのことであった。後見人的立場になっている栗林最愛(モア)は大々的な告別式を考えていたのだが、仙台から来た瑠璃の祖父母はひっそりとしめやかに行いたいと強く希望したのである。月曜日の夜から通夜が行われた。出席したのは祖父母と栗林のほかは、轟太、柚木クリスティーン、早川仁美以外は大学関係者であった。そして明けた火曜日の朝おそらく大学関係者から情報が漏れたのであろうか、式場には多くの弔問客が訪れ、メディア各社も葬儀社の前で報道し始めることになったのである。そして午前八時を回ったころ、黒塗りの車が二台現れた。中から出てきたのは都知事の福島百合子と警視総監の渡辺文彌である。二人は無言で会場へ現れ喪主の二人に会釈をすると祭壇に上り弔問した。遺族にはお悔やみの言葉を述べたのみで謝罪等の言葉が発せられることはなかった。そしてメディアの前を無言で通過し車に乗って去って行った。都知事と警視総監の弔問は即座にネットで流されることになり、葬儀が始まる十時には多くの参列者が昨夜から続いた雨の中、訪れることとなった。その中で葬儀は厳かに行われて瑠璃は荼毘に付されたのであった。瑠璃の祖父母とも話し合った結果、遺骨は瑠璃が高校まで過ごした長崎の実家の島村家の墓に納めることとなった。祖父母は高齢のために納骨は轟太が行うことに決まった。瑠璃の死後すっかり憔悴しきっていた轟であったが、この役目については自分から申し出て瑠璃の祖父母から感謝の意を述べられている。人のよさそうな祖父母と在りし日の瑠璃の思い出を語っていると両親がいなくなっても健気に生きてきた幼い瑠璃が偲ばれて、落ち込んでいる自分のことが瑠璃に対して申し訳なく思えてきた。瑠璃が最後に言おうとしていたように強く生きなければならないと心に刻み付け、瑠璃を長崎に、彼女が好きだったじいちゃんとばあちゃんの元へ返してあげようと考えたのである。外を眺めると冬の雨はみぞれ交じりになっていた。その中に瑠璃を慕う多くの人たちがまだ帰り切らずに佇んでいる。みぞれ混じりの雨は次第に雪へと変わり様々な色に開いていた参列者の傘を白く染めて行くのであった。


「こんばんは、柚木クリスティーンです。今夜は思うことがあり皆さんにぜひお伝えしたく自宅から緊急配信しております。今回起きた島村瑠璃さんの死亡事件についてです。大変敏感な内容です。いつ当局により消されるかわかりませんので視聴者の皆さん、録画して拡散していただくことを希望します。島村瑠璃さんとは取材を通して知り合いました。彼女は星城大学で江戸時代の庶民の風俗を研究している研究員です。とてもまじめで素敵な女性でした。彼女が京都でのお坊さんたちの日本文化を守れといった趣旨のデモに強く賛同していたのは事実です。天台宗の僧侶の下で修行し、大きな影響を受けていました。私自身彼女が修行を始めてから、変って行く彼女を目の当たりにして大変驚きもしました。皆さんも配信ニュースでご覧になられたように彼女は光り輝く存在となっていったのです。それでも素顔の彼女は研究に(ひた)(むき)でボーイフレンドにのろける普通の女性だったのです。今回の彼女の死は、悲劇的な事故でした。しかし単なる事故だったのでしょうか。私たちが調べたところ、皇居に乱入しようとした男は十九歳の都内の私立大学に通う大学生です。彼は大学入学後に大学内の民主革命連合関係のサークルに入部し、民革連の影響を強く受けていたようです。なぜ彼だったのでしょう。皆さんもニュースでご覧になったように彼の挙動は明らかに自分が行おうとしていることに対して委縮している不慣れなものでした。彼とは別に皇居前広場で発砲した男についても素性がわかりました。その男は別の大学に通う二十歳の学生で民革連のメンバーです。そのほかにも多くの過激派グループのメンバーが皇居前広場に集結していたことが判明しています。しかし彼らからの犯行声明は今のところ出ていません。この十九際の学生は利用されたのではないのでしょうか。もう一つ不可解な点があります。私たちの取材によりますと第一機動隊へは前夜に過激派グループによる皇居襲撃の情報が入っていたようです。彼らは過激派グループがデモを利用して皇居襲撃することを事前にわかっていたようです。それではなぜデモを中止するように警視庁から警告が出なかったのでしょうか。このデモの主催者に確認したところ警視庁からは一切そのような情報は流れてこずに、注意事項として皇居前広場では一切の抗議活動は禁止されているので厳守するようにとの話しか出ていなかったというものです。過激派グループによる皇居襲撃計画については何ら警告もなかったとのことでした。また島村瑠璃さんの葬儀には福島都知事と渡辺警視総監が弔問に訪れ、ご遺族に対しお悔やみの言葉は述べましたが、機動隊のテロ容疑者への発砲により、そのテロ容疑者の皇居侵入を必死で止めようとしていた島村瑠璃さんの命を犠牲にしたことへの謝罪の言葉は一切ありませんでした。私たちは現場で何が起きたのかを目撃しています。それに加えて私たち都民は今まさに福島都知事に対してリコール請求を行っているところです。仮に行政が保身のために事実を曲げようと試みるのであれば、それは行政が民主主義の根幹を揺るがす重大な背反行為を行うことになると認識しなければなりません。その時には私たちは声を大にして立ち上がらなければならないのではないでしょうか。そのような行政に対してNOと言うのです。そのことが命を犠牲にしてまで最後まで戦った島村瑠璃さんの意思を尊重することであり、また彼女に対して私たちができる弔いなのではないでしょうか。私からは以上です。長い話になりましたがご視聴いただき大変ありがとうございました。柚木クリスティーンが緊急に自宅から配信いたしました。それでは皆さん、おやすみなさい」


 轟太は島村瑠璃の部屋にいた。彼女の遺骨を部屋に戻して一緒に一夜を明かそうとの思いからだ。エルに頼んで彼女の実家の住所と菩提寺の場所、そして彼女の祖父の弟の連絡先を調べてもらう。納骨と彼女の遺産の整理の相談をしないといけないためだ。彼女の母方の祖父母は高齢のために瑠璃の遺産の処分についてはすべて轟に一任するとのことであった。瑠璃との関りはあまり深くなかったようである。轟太は部屋の明かりも付けずに瑠璃の遺骨をソファーおいて一緒に井の頭公園の夜景を見ていた。午後に振り始めた雪はすでに止んでいるが、辺り一面を白一色の世界に一変させている。ごちゃごちゃしたものを覆い隠して美しい世界になっている。街灯の明かりが雪に反射して普段よりも明るい夜景である。太はこの景色を瑠璃と一緒に見たかったと力なく思った。


 福島都知事は記者会見を行い、一連のデモ行動は過激派集団による皇居襲撃のために画策されたもので、このようなテロ行為による都政の崩壊は断じて避けなければならず、都民にもテロとの戦いに協力するように要請した。その上でテロ活動の温床とみられるZOO ZOOタウンの即時廃止を求めていく旨のコメントを発表した。しかし八王子での不当な人体実験に関しては、自身の関与は否定したものの詳細は取り調べ中であることを理由にコメントを避けたのである。

 青木総理大臣は今回のテロ騒動に関して、テロには絶対に屈しないと力強く発言し福島都知事には今回のテロ行為の解明に全力を尽くして引き続き都知事の職務を全うできるように願っているというコメントをぶら下がり記者会見で発した。さらに次期大統領とされているエイミー・ディキンソン上院議員が東京での皇居前のテロ行為に関して、強く非難し、次期アメリカ政府でも日本政府と緊密に連携をとってテロ撲滅へ全力を注ぐといった異例のコメントを記者会見中に行った。大手メディアも、これらのテロに対しての戦いについて全面的に展開して、都知事非難のデモがあたかも今回の皇居襲撃のために行われたかのような論調が目立つようになっていった。その上で公安警察によるデモの主催者栗林最愛の逮捕が行われた。容疑は皇居襲撃支援のためのデモ計画行為というものであった。この逮捕は大々的に世界中へ配信された。そしてネットの大手プラットフォーム事業者によるデモ関連と八王子での知的障害者への不当な人体実験に関するコメントに対しての徹底的な自主規制が行われるに至ったのである。これらの動きに都民の心は揺さぶられ福島都知事へのリコール請求への署名運動に明らかな足踏みがみられるようになった。


 一連の行政側の動きを受けて白川久男は大沼元総理秘書の宇梶実を通じてコニー電子工業へZOO ZOOタウンの企業買収の提案を持ちかけた。自前でメジャーなプラットフォームを持っていなかったコニー電子工業は白川が提案する会員認証システムに興味を示しZOO ZOO タウン買収計画は実行に移された。福島都知事のZOO ZOOタウン廃止要請により経営の意欲を無くしていたZOO ZOOタウンの経営陣もこの買収計画は魅力的なものと思われた。また社員たちも世界のトップブランドの傘下になることに対しての強い反発を示すことはなく、この買収劇は年内には決着することになり、新しい会員認証システムの導入とコニー電子工業グループの傘下という事実でもって福島都知事もサービス廃止要請を撤回せざるを得ない状況になってしまった。もちろんこの買収劇には大沼元総理が背後で動いていたことは言うまでもない。これにより白川はZOO ZOOタウン内の仮想世界インディーズ・ウェブを引き続き稼働させることが可能となったのである。この一連の動きはユーザー側からも好意的に受け止められ、大手プラットフォーム業者が自主規制に走る中、表現の自由を確約したZOO ZOOタウンは会員数をさらに伸ばすこととなった。大手メディアでは逮捕された栗林最愛に対して大々的に報道を展開していたのであるが、年明けにZOO ZOOタウン内で栗林最愛の逮捕に関する内部情報の暴露が公安警察関係者から匿名で出されたのである。それは五代礼三幹事長の秘書と民主革命連合幹部今泉幸人との会話記録であった。その会話にははっきりと民革連へのデモ参加とデモを皇居前広場まで誘導しそこで発砲事件を起こすといった内容が録画されていた。この録画は今泉側で撮っていたものであり、公安の家宅捜査により押収されたといった出どころもはっきりとしたものとビデオ内で注釈がつけられていた。年明けのZOO ZOOタウンはこの暴露により騒めきたち、大手メディアも無視できないほど実社会にも広がったのである。これにより、世論は福島都知事による公安を使った栗林最愛の不当逮捕といった判断になり、栗林最愛の逮捕即時撤回を求める声が大きくなっていった。


 東京都知事福島百合子により現在東京都で使用している都政管理AIを国の行政支援AIマザーと統合する計画が発表された。具体的には都で管理している都政管理のサーバーをマザーと連携し、クラウド上のソフトで運営することによりシステム管理費用を大幅に削減し業務の効率化を図るというものであり、そのことにより都税を半分にすることができると発表した。またネット空間内でのフェイクニュースの出回りや、個人に対しての誹謗・中傷攻撃などを撲滅することを法案化すること、さらに都独自に宇宙太陽光発電システムを十年以内に稼働させることを発表した。これには五年後に稼働が予定されている五葉重工業が携わっている軌道エレベーターを利用して宇宙空間での設置工事を行うことにより達成するとのことである。メディア側ではこの発表について概ね好意的なとらえ方であったのであるがネット内では国によるネット空間のみならず実社会における国民監視社会を目指すものとして反対運動がさらに増える結果に至ることになった。またこの発表に対してこれは地方自治を実質上無効化して国による直接管理を目指すものであり、全体主義国家を目指すものとしてネット上では全国的に反対運動が展開されるに至ったのである。

 この発表を受けるような形で週刊春秋による杉本照男の署名記事が発表された。杉本の記事ではネット内でお祭り騒ぎになっている五代礼三の秘書と民主革命連合幹部今泉幸人との間で交わされたテロ活動に関しての会話記録の詳細報告、そして民革連の資金調達の実態についての詳細が報告された。具体的には民革連のフロント企業による北海道と沖縄のリゾート施設の運営とその脱税方法、そのリゾート施設のための公共施設のインフラ整備が優先的に行われている背景などについての詳細である。そしてそのインフラ整備には五葉重工業グループやユニ・グローブ社の関連企業が独占して他企業グループを締め出していた実態を暴露したのである。さらに警視庁関係者の匿名情報により福島都知事がかかわったとされる、民革連をはじめとする過激派グループに対してのデモへの侵入、デモの皇居前広場へ誘導、およびそこでのテロ活動を行うことの画策を暴露した。これについてはこれも匿名ではあるが過激派グループ幹部の告発映像も添付されていた。この記事は大手メディアに取り上げられることはなかったのであるがネット空間内では反五代・福島を形成する一大勢力が形成されつつあった。


 この報道により東京都内だけでなく全国的に反五代・福島の運動が広がった。ZOO ZOOタウン内では広く福島都知事リコールの署名への呼びかけが行われ署名数は再び伸び始めていった。また同時に福島都知事に代わる人物として誰がいいかのお祭り騒ぎがネット内で展開され、ZOO ZOOタウン内で都知事候補の予備選が行われることになった。第一候補には一連のデモの報道で活躍を見せた柚木クリスティーンであり、ネット内でのアンケートでは七十パーセントの支持率を示した。その後に続いたのがニュース配信番組で都知事に対して辛口のコメントに終始していた長身のイケメン俳優矢部義紀で支持率十二パーセントである。その後の三番手として前都知事の楢崎雅史が八パーセントであり、現都知事の福島百合子に至っては一パーセントにも満たない。いずれも勝手連的に支持を表明したグループがそれぞれの候補者の擁立運動を行ったものであり、本人たちの口からリコール後の都知事選立候補についての発言は未だ皆無の状況ではある。ネット内でまた盛り上がっている話としては与党自由党により他県から東京へ住民票が写されているのではないかといったものである。その根拠となるのは群馬県在住の六十代のある主婦からの投稿として自由党支持者の都内在住の兄嫁から昨年十一月に依頼があり一時的に夫婦そろって同月末までに住民票を兄嫁の都内の住所へ移されてしまったという話が真偽を確認されないまま広がるという騒ぎがあった。このような状況下でリコール署名は年末には二百万に達して年明けの一月六日に東京都選管にリコール請願書名が提出された。


 一方アメリカ合衆国においては十二月に行われた選挙人選挙の結果を話し合う両議員総会が一月早々に開かれエイミー・ディキンソンが次期大統領として正式に決定されるに至った。ディキンソンはその決定を受けて一月二十一日の大統領就任式直後に日本の総理大臣であるキャサリン青木と東京都知事福島百合子をホワイトハウスに招いて初の首脳会談を行うことを記者会見の席で発表した。この報道は日本の大手メディアでも大々的に報じられ、海外首脳からの信頼が厚い福島都知事のリコールについて、日米関係を分断しようとする勢力の工作ではないか、都民は住民投票で懸命な選択をすべきだといった意見が相次ぐこととなった。その中で東京都選管は福島都知事のリコール請求の投票を二月の第四日曜日に行うと発表した。その間も福島都知事が発表した東京都のAI行政支援システムとマザーとの統合化計画は着々と実行に移され、都政の管理は実質国のAI行政支援システムマザーの管理下で行われることとなった。その上で昨年十二月一日に東京都に住民票がある有権者の名簿が作成されリコール投票の準備が国の実質管理の下に行われる状況となったのである。

 東工大情報工学科石井琢磨教授チームが行っているリバーシブル・コンピューティングの技術を用いたAIマザーのビッグデータによる政策決定プロセスの視覚化プロジェクトは一定の成果を上げつつあった。ベータ版が試験的に導入されたのであるがそれは副産物としてハッカーなどの攻撃に対しての高度な防御システムを伴うことが分かった。リバーシブル・コンピューティングの技術は外部からの侵入による防御システムの解除に対しても有効であり、マザーのように五重に障壁を持つシステムの場合第一の障壁が破られても可逆的工程により一旦開いた障壁は瞬時に閉じることになり、侵入者はどこかのステージで永遠にさまよい外部への情報流出を妨げる結果となったのである。システムの本格的な導入にはひと月ほどの時間が必要となってくるのであるが、本格始動後には日本の行政支援AIマザーがアメリカのそれのグレート・イーグルよりもシステムの精度や保安面において先行することになり、グレート・イーグルとの連携に関して日本側が有利な立場に立てる状況となったのである。この結果をもってキャサリン青木は福島百合子と共にアメリカへと旅立ったのである。国内世論はアメリカ次期大統領の初首脳会談の相手としてキャサリン青木が選ばれたことにより青木内閣の支持率は六十パーセントを超えるものとなった。また支持率低迷で死に体の状況であった福島都知事もエイミー・ディキンソン次期大統領の支援のメッセージもあってか徐々に回復しつつあった。その状況を踏まえて、栗林最愛の保釈をネット世論に寄り添う形で認めたのである。彼女の保釈は大手配信メディアにより報道され福島都知事の支持率回復の一助となった。

 大統領就任式の翌日午前十一時からランチも入れて二時間日米首脳の会談がホワイトハウスで行われた。会談後の共同記者会見で両首脳により日米がリーダーシップをもって普遍的な価値観を共有する国々との間で統一したルールに基づく市場の構築を今後十年以内に行うことを確認する旨の発表が行われた。また日本の自衛隊と在日米軍の協力の下、東シナ海からインド洋にかけての地域の安全保障に積極的に関与していくことの確認も行われた。記者からは統一したルール下の市場における使用通貨は何を考えているかの質問に対してはディキンソン大統領により基本的にドルや円が基軸通貨であることに変わりはないが仮想通貨の割合も今後徐々に高めていきたいとの発言があった。別の記者からは日本の自衛隊が米軍の傘下になるのかの質問に対しては青木総理により、自衛隊と在日米軍は地域の平和のための共同作戦を考えているが自衛隊はあくまでも日本の総理大臣、青木の指示により行動を行うと力強く発言した。また別の記者からは統一された経済のルールとは具体的にどのような事を指すのか。個々の国の独自の経済システムや雇用習慣を尊重するのか、もしくは新たなルールを各国に強いることを考えているのかといった質問に対しては、まずは最大公約数的な通商支援AIシステムの構築を目指すといったもので具体例の提示は行われることはなかった。そしてディキンソン大統領に対して、マッコイ前大統領支持者たちがディキンソン大統領を全体主義者と呼んでいることについての見解を質問したところ、全時代主義的な非知的で一方的なレッテル針であり、論評に値しないというのがディキンソン大統領のコメントであった。また青木総理に対しても東京で反青木と反東京都知事の運動が盛んにおこなわれ独裁者といった意見が散見しているが如何との質問に対しては、エイミー・ディキンソン大統領が首脳会談での共同記者会見であるにもかかわらず福島東京都知事を自分の横に招いて記者たちに言った。

「皆さん、丁度良い質問が出たから皆さんに東京都の知事、福島百合子さんを紹介するわね。彼女は今、普遍的な価値観を共有するグローバル市場に戦争を仕掛けている前近代的なグループに対して東京で勇敢に戦っている戦士よ。私は彼女のテロには屈しない政治姿勢をしっかりと応援するつもりよ」

「皆さん、ただいま大統領にご紹介していただきました。東京都の知事、福島百合子でございます」

 福島都知事は柔らかな笑みを浮かべて目の前の大勢の記者たちをゆっくりと眺めながら話しだした。

「今、日本ではフェイクニュースによる一方的な誹謗中傷で民主主義が危機に瀕しています。私たちはそのような恫喝に対して民主的な方法で対抗していきます。ディキンソン大統領も私のそのやり方について同意していただきました。前近代的な考え方の人たちには日本が危機的な状況と思われているのかもしれませんが、私たちの目指す社会とは世界中の人たちが笑顔を絶やさずに暮らしていく社会です。そしてその笑顔を次世代、そしてその次の世代へ引き継いでいくために今、努力しているところです。テロの恫喝には決して屈することはありません。どうかフェイクニュースに惑わされずに真実を見据えたうえで報道していただければ幸いです」

 福島知事の話の後、会場の報道関係者からは大きな拍手が送られた。


 翌日の日本の朝のワイドショーではディキンソン大統領と青木総理の共同記者会見の話題でほぼ独占された形となった。それぞれの配信局のコメンテイターたちの発言もデモのグループがあたかもテロリストか過激派の集団であるかのごとき発言に終始して大統領と総理の協力を肯定的にとらえる発言がほとんどであった。それまでデモグループの擁護の発言をしていたコメンテイターまでもが手のひらを返したように青木総理支持に回ったのである。ジャーナリストの久富幸太郎は先の京都でのデモについてのコメントで各メディアから出演機会を奪われていたのであるが、このニュースにより完全復活を遂げてデモグループに対しての猛批判を行ったのであった。一人TNNの女子アナのみが八王子での知的障害者に対しての人体実験の責任問題が明らかにされていないと指摘したのだが、久富により、あれはデマであってフェイクニュースを流すなと一括される次第であった。ここにきて五代礼三率いる国際派の巻き返しが身を結びつつあったのである。その週の週末に行われた世論調査の結果では青木総理支持は七十パーセントを大きく上回り、八十に届きそうな勢いであった。また福島都知事への指示も各社軒並み五十パーセントを超えたものになり、デモグループへの賛同は次第に下火になっていったと言わざるを得ない状況であり福島東京都知事のリコールも成立する可能性は低くなったのである。


 轟太の元へ島村瑠璃の祖父の弟にあたる大叔父の家族から連絡があった。轟としては一刻も早く瑠璃を島村家の墓に入れてやりたかったのであるが、墓を管理している大叔父が階段から転んで尾骶骨骨折で入院しており、話をできるような状態ではないので大叔父の退院を待って訪問してくれとのことであった。轟太はその連絡を待っていたのであるが、一月の中旬になってようやくその連絡が来たのである。轟太は大学の試験が終わる一月の最終週に瑠璃の故郷の長崎を訪問することになった。土曜日の朝、大村湾に浮かぶ長崎空港に降り立つと瑠璃にとっては、はとこに当たる純子が迎えに来ていた。純子は瑠璃よりも若く、太と同年代かと思われた。ジャガードスカートに黒いワンピースその上にスタジアムジャンパーという爽快ないでたちである。車は純子が自身で運転しおまけにマニュアルトランスミッションのスズキのコンパクトカーである。今どき珍しく特に女子の運転というのは天然記念物並みである。

「うち、運転好きやけん」

 と純子は言い放つと太がシートベルトを締めると同時に車を荒っぽく発信させた。

「轟さんというたっけ。最初どうします?うちに行くか、瑠璃ちゃんちに行ってもよかよ」

 そっけない純子の言葉だが嫌われてはなさそうなので轟太は安心した。

「まずは瑠璃さんの大叔父さんに挨拶させてください」

「うん。わかった」

 車は高速に入り長崎市内を目指した。

 瑠璃の大叔父家族は長崎市を流れる中島川の川沿いに立つマンションの八階に住んでいる。純子はそこで両親と大叔父の祖父四人と住んでいるそうだ。兄が一人いるそうだが今は福岡で仕事をしているので家にはいないそうである。純子が運転しながら思いついたように話し出した。

「うち、本当は瑠璃ちゃんの葬儀に行くつもりやったと。でも父親が過激派の葬式にはいかんでよかっていうもんやけん東京にいけんかったとよ。ごめんね」

「そうですか、お父さんは怒っているんですか」

「今はだいぶ落ち着いとるばってん、ニュースではあんまり良かこと言いよらんけん、どうやろかね。太さんも瑠璃ちゃんと同じ活動ばしよりんさっと?」

「俺はあんまり熱心ではなかったんですよ。でもあの日は瑠璃さんと一緒でした」

「太さんは瑠璃ちゃんの彼氏やろか?」

「ええ、そうです。結婚も申し込んでいました」

「まあ!」

 純子はマンションの駐車場に車を荒っぽく止めて骨壺を抱えた轟太を伴って自宅のある八階に向かった。ドアを開けると純子の母親が出迎えた。

「まあ、轟さん、遠かとこよう来んさった。どうぞ入ってちょうだい」

「おじゃまします」

 母親は奥に声をかけて轟太を家の中へ案内した。

「あんた、おじいちゃん、轟さんが見えんなさったとよ」

中に入ると居間のソファーに純子の祖父、その右隣に父親が腰かけて轟を待ち構えていた。轟太は骨箱を床に置こうとしたが純子の母親から仏壇のある部屋へ案内されて仏壇の前に瑠璃の骨箱を静かに置いた。

「瑠璃ちゃん、お帰り」

 純子はそう小さくいって焼香した。その後母親と父親も続いて焼香し轟太はその姿を後ろから静かに眺めていた。瑠璃はあんまり歓迎されていないようだと思った。母親方の祖父母からは墓はこちらにあるからと体よく押し付けられた大叔父の家族である。受け入れてくれるだけ感謝しないといけないのだろうが瑠璃のことを思うと悲しくなった。いっそ長野の実家の墓に入れてやりたいと何度思ったことだろう。焼香を済ますと再び居間に戻る。母親がお茶を出してくれた。そして大叔父が轟太に向かって話したのである。

「轟さんといったかな。あんたのこと、ニュースの画面で見とったとよ。瑠璃んこと大切にしてくれてありがとう。本当にあんたにゃ感謝しとっとばい」

 引き続き大叔父が話を続ける・

「うちも瑠璃とはそうそう親しくしとったわけじゃなかと。そいばってん瑠璃の身内はここが一番近かかけん墓の面倒ば見ることに決めたとばい」

「ありがとうございます。瑠璃さんも喜んでいると思います」

「あんたも居心地が良くないやろうけん、率直に話ばして早く終わらせた方が良かやろう」

「はい?」

「瑠璃の遺産の相続の話たい」

「はい、遺産相続ですか。お、俺は部外者だと思います」

「なんば言うとね。あんた瑠璃の内縁の夫やろ」

「いいえ、結婚の約束はしましたが俺が大学卒業するまでおあずけでした」

「よかよか。あんたは瑠璃の内縁の夫たい。そいで長崎の家はこん純子に相続させて、家の管理や墓掃除ばやらせることで良かやろう。東京の瑠璃の家はあんたが引き取ってくださらんか」

「じいちゃん、そげんこと急に言うても純子も轟さんも困るやろう」

 純子の父親が驚いたように叫んだ。

「ばってん、こいが一番良か方法たい。瑠璃もそいで満足やろう。純子、どげん思う?」

「うん。瑠璃ちゃんはそいでよかやろうけど、うちや轟さんは困るとよ。まだ学生やけん税金払えんよ」

「税金はじいちゃんが弁護士と話して何とかすったい。轟さんもそいで良かね」

「はあ、そんなこと考えてもいなかったんで少し考えさせてください」

「今夜一晩考えたらよか。あんた今日は泊まるとこはあっとね」

「いえ、まだ決めていませんができれば瑠璃さんの実家にお邪魔できないかと考えていました」

「そいは良か考えたい、純子、後から轟さん案内してあげんね」

 その後大叔父の家族と暫し在りし日の瑠璃について話をした後で轟太は純子の運転で瑠璃の実家へと向かった。骨箱も一緒にもっていき瑠璃を実家で一晩過ごさせることにした。純子は丘の上の空き地に車を止めると轟太を促して外へ出る。轟太は荷物を抱えて純子は骨箱を抱えて空き地から石段を下っていった。少し下るとそこには蘇鉄やリュウゼツランが植わった古い和風の木造の家があった。そこが瑠璃が高校生まで住んだ家である。遥か向こうには長崎港が青空の下に輝いて見えている。潮風が少々肌に突き刺さるようで肌寒い。その家の玄関の引き戸を開けた。玄関の土間を上がると目の前は畳が敷かれた床の間がある居間だ。その横には絨毯が敷かれた洋間にダイニングテーブルが置かれている。洋間の先は縁側になっていてその廊下を渡った先に瑠璃の部屋があると純子が説明してくれた。太は荷物を洋間において瑠璃の部屋へと向かった。庭に面した部屋だ。太はその部屋の前に立ちガラス戸をゆっくりと横にスライドさせた。心なしか瑠璃の匂いがしてくるようだ。その場に佇んでいると思わず涙がこぼれそうになった。その様子をじっと見ていた純子は太に向かって優しく話しかけた。

「太さん、晩御飯何がいい?私皿うどん作ろうかと思っとるけど、そいでよかね?」

「純子さん、ありがとう。そいでよかよ」

「あはは、太さん、長崎弁上手くなったね」

 純子は一時間ばかり買い物に行くといって轟太を一人にしてくれた。太は瑠璃のベッドに横たわり黙って天井の染みを見つめていた。瑠璃さん、お帰り。この部屋なつかしいかな?そう思うと瑠璃が近くで太君ありがとうと言っているような気がした。長崎は西の方にあるので東京と比べると一時間ほど日の入りが遅いようだ。それでも五時過ぎには辺りは暗くなってくる。そんなことを思っていると寝入ってしまったようだ。

 どこかから女の人が歌っている声が聞こえる。そしてじゅうじゅうと何かを炒めている音。肉が焼ける匂いもしてきた。ここはどこだろうと戸惑いながら太は目覚めた。そしてだんだんと意識が戻ってきた。瑠璃の部屋だ。そしてはとこの純子が夕食の準備をしているようである。起き上がりキッチンへと向かう。

「純子さん、ありがとう」

「あ、太さん、起きたの。瑠璃ちゃんとお話しできたのかな?」

「いや、話は出来なかったけど、なぜか近くで見守っている気がする」

「きっと瑠璃ちゃん喜んでいるはずよ。太さんが部屋に来てくれたんだから」

 純子は皿うどんを作るとダイニングへ運び太と一緒に食べた。食べながらお互いが知っている瑠璃との思い出を語り合った。そして十時過ぎには明日の朝十時に迎えに来るから黒い服着て待っててねと言って自宅へと戻ったのであった。純子が去った後、太は庭に出て長崎の夜景を一人眺めてみた。東京よりも南にあるといえど長崎の冬は寒い。東京とさほど気温は変わらないようである。十一年前の春の日にここで祖父と交わした別れの儀式のようなものを瑠璃が話したことを思い出した。そして同じように語りかけてみた。瑠璃、愛しているよ、と。

 翌朝純子が迎えに来ると二人で島村家の墓のある墓地まで車で向かった。ついたころにはすでに坊さんが来ていて島村家の人々も到着していた。昨日はいなかった純子の兄の啓介も福岡から駆け付けていたので挨拶を互いに交わした。その後、読経が始まり瑠璃を納骨することができた。しゃがんで墓の中に入り瑠璃の骨壺を祖父と祖母の横に納めた。中から出ると一陣の風が頬に吹き付けてきた。太の心に温かい何かが触れてきたと感じた。澄み渡った冬の空気を通して向こうには英彦山が聳え立っているのが眺められる。この日のこの時の気持ちは永遠に残っていくのだなと太はふと思った。瑠璃の大叔父は太に向かって話しかけた。

「轟さん、おいはもうあんたと会うことは無かと思う。あんたはまだ若かけん自分の幸せば見つけんといかんたい。もうこの墓に来る必要は無かばってん、時には瑠璃のことを思い出してくれんね。あんたしか瑠璃のことを思うてくれる人はこの世にはおらんけん」

 太は無言でうなずいた。その後、太は純子の案内で瑠璃が通った中学や高校の近くまで訪れて学生時代の瑠璃に思いをはせた。その後、中華街や大浦天主堂などの観光地を巡りもう一泊瑠璃の実家に止まって翌朝の飛行機で東京へと戻った。


 立烏帽子に直衣姿の男は三条西殿の(ひさし)に腰を下ろし一人で酒を飲みながら登る月を見ていた。十三夜の月である。庭には紅梅や白梅、連翹が咲き季節は春の訪れを告げている。池の面に映る季節の彩は頬に伝わるそよ風に揺らぎ懐かしい女の在りし日の姿を忍ばせていた。男は思った。あの人はもはや消え去ってしまったのだろうか。せめて気配だけでも残しておけばよかろうにと。それにこたえるかのように梅の香りを乗せた微風が伝わり春の色たちを揺らし、池の面も揺らした。映りこんだ月がほほ笑むように揺れた。優しい笑みで誘うかのように。男は柔らかな暖かさに包まれて一人満足げに春の宵に酔いしれていた。


 東京都知事の是非を問うリコールの住民投票を二週間後に控えた週末、京都では府知事の孫英玲が柚木クリスティーンを招いて単独インタビューの生配信を行っていた。その配信で孫は外国人百万人移住計画については撤回することを明確に宣言した。この計画のそもそもの目的は日本を環太平洋地域での中核となる国としての存在感を保つことにあり、十億人を超す地域での中心市場を保つためには一億人強の市場確保は絶対条件という状況からくるものであった。そのために大都市を中心に最低でも日本全体で二千万人の人口増加が必要であること、そして人口増加は大都市を中心に行おうとしていることなどを説明した。この事は国際市場を一つのルールで一本化させるための勢力による人口再配分計画に基づくものであること、また孫としては人口密集地域での人口増加であれば異文化の衝突は最初のころは免れないが最終的には日本の文化に吸収されていくのだろうと考えていた。これにより日本の文化が今よりは違ったものになるかもしれないがそれでも今よりは国際化してより進化した日本文化になるであろう。それゆえに京都での百万人移民受け入れ計画自体は日本にとってベターな政策と考えていると述べた。孫にとって受け入れがたかったことは八王子で行われていた知的障害者への合意に基づかない人体実験である。孫はこの計画の詳細は知らないが、と断ったうえで、この人体実験は八王子だけでなく日本では少なくともあと一か所で今でも行われているはずであり、その目的はナノテクノロジー、バイオテクノロジーとAIを用いた新しい人類の創出を究極の目的としていること。その研究の最重要課題として遺伝子改変による肉体改造で若返りを果たすことである。さらに支配者に隷属するような人格の研究や火星や無重力に適した人体構造の研究など宇宙進出を目指して様々な研究が行われていることなどを述べた。さらに孫は自身の思いとして続けた。

「私はこれらの研究項目ひとつ一つには決して反対するものではありません。しかし何故早急に行うのか、それも自身では拒否の意思を示すことが困難な親類縁者がいない知的障害者に対してこのような人体実験を極秘裏に行うことは私には到底許容できるものではありません。最初に述べましたように最優先事項は若返りの技術を確実なものとすることです。これによりこの実験を陰で支えているグループがどのようなものか想像できるかと思います。彼らは自身を特権階級と考えて永遠の存在となりこの世界を一つの価値観で支配していこうとするグループです。このグループに支援されている政治家が今、国際政治で主導権を握ろうとしています。彼らはご存じのように真実を語らないばかりか、顔色も変えずに虚実の情報を流してほほ笑んでいるのです。その目的のためには若い正義感を持った、例えば島村瑠璃さんのような存在を消滅させることも厭いません。冷酷に微笑みながら行わせるのです。彼らは自分から手を下すことはしません。何も知らない善良な市民をフェイクニュースで洗脳して彼らに誤った正義感を植え付けてその正義の下に非道を行わせるのです。私はキリスト教の信者ではありませんが、彼らの行いはまるでキリスト教圏で言われる悪の行いではないでしょうか。私が今日全世界の人間に伝えたかったのはそのことなのです。悪魔は善良なふりをして正義をかざして我々に誤った判断や行動を行わせます。皆さんに伝えたいことは皆さんの心の中にある善良なるものに問いかけてください。この判断は正しいのかと」

 孫の熱意のこもった訴えは多くの視聴者に届いたようで三百万を超す視聴者から賛同の声が多く寄せられた。この孫のメッセージはSNSを通じて共有され自動翻訳により世界中に拡散された。ビッグテックによりあからさまな干渉が大々的に行われたのであるが、それらに反発した多くの個人たちにより規制の網を掻い潜るように様々な隠語を用いられて国際市場派の陰謀はその実態を世界中に暴露された。そしてその暴露は世界中の多数の人々により認識されたのである。しかしそれはエビデンスを伴わない主張であることも事実であったので世界中の大多数の人々にとっては真偽を確認できない戦いが進行しているといった漠然とした不安だけがその心を支配する状況であった。今、彼らが最も期待しているのは国際市場派が否定できないほどの圧倒的なエビデンスの存在である。しかし世界の世論はそのようなものの提示は困難であろうことも経験的に理解しているので結局どちらの正義が勝利するのかの戦いによってしか正義というものは確定せず、勝者が画定するまでの長い時間、いかにして自分たちの利益を確保するのかに少なくない人々の心は傾いているのもまた現実であった。

 この孫京都府知事の発言は彼女の良心から発せられているのであるがその背後には国益重視派、具体的には大沼元総理の率いる反主流派が孫の故郷、台湾の財閥を使って孫政権に工場誘致など府民の雇用環境の改善の確約をもたらすよう支援することで、府知事の地位を安定させ、その上で彼女を取り込んだことによることも大きい。彼女にとってもエイミー・ディキンソの背後にいる国際市場派の力は脅威であるのだが、最終的には日本という国を選んだ時の彼女自身のこの国や文化、そして人々に対する熱い思いが彼女自身を国益重視派に鞍替えさせる動機となったのである。このような決断を下すことが政治家としての未熟さの表れではあることは重々承知であるのだがそれでも内なる声に従うという大きなリスクにかけることはまた、自身の政治家としての運を試すことでもあると理解していた。

 その京都府知事の発言によりネット上では反五代・青木の世論が圧倒的な多数派となり福島百合子東京都知事の解任は既成事実化され次期東京都知事に柚木クリスティーンを支援するという世論形成がなされるに至った。その動向を大手メディアは無視してきたのであるが、ここにきて大手メディアのTNNニュースがリコール投票の一週間前に当たる二月の第三日曜日に柚木クリスティーンと久富幸太郎による討論バトルの生配信を行って都民や国民に福島都知事続投の是非を問うという行動に出たのである。この企画は五代幹事長と深く関係しているTNNの上層部からの猛反対があったのではあるが、全国的に人気のある立花香織がプロデューサーの堅持をここでメディアとしての役割を果たさなければ私たちが何のためにこの仕事をやっているのだというメディアの矜持を持ち出すことにより動かした。堅持は直に大手スポンサーのコニー電子工業と話をしてコニー電子からTNNのマネージメントを説得させることにより実現できたのであった。

「あのね、僕は今日ここにいること自体が全く不愉快なんだけどね。世界は今、一つにまとまろうとしているんだよ。男も女もなくしてね、まして黒や白や黄色といった人種の垣根も壊して国境自体を無くそうとしているんだよ。一つの統一された価値観の下でみんなが自由に平等に発言できる機会があって、同じように幸せになることに何で反対する人たちがいるのか僕は甚だ疑問だね。ドルもユーロも円もない世界で一つの通貨で世界中をまとめる中でみんな幸せを追求することの何が悪いのかね。僕は甚だ不愉快だ。それに反対する人たちは暴力でしか自分の意見を表現できてないじゃないか。そこに民主主義があるとは僕には到底思えない。まったくもって不愉快だ」

 ジャーナリスト久富幸太郎のいつもと変わらぬ発言である。それに対して柚木が反論した。

「久富さんがおっしゃることは固有の文化の全否定です。私たちは多くの歴史を積み重ねてそこから自然発生的に生まれてきた生活の知恵というのでしょうか、いわゆる倫理観ですね、人の物を盗んではいけないとか、お互いのことを尊重しましょうといったものです。そういった倫理観は民族固有の物もありますが人類に共通した普遍的なものもあります。私たちの主張はそのような固有の文化を大切に引き継ぎながら人類が共有できる普遍的な価値観について繋がっていきましょうということであり、それが基本的な考え方です。誰か、お金持ちが都合のいいように押し付ける価値観ではそこに普遍性を見出すことはできないでしょう」

「それはあまりにもステレオタイプな一方的な判断に基づく発言だね。あなたが言うお互いを尊重しましょうという考えはそこには見られない」

「そうでしょうか。経済ひとつとっても例えば通貨を統一するとそれぞれの国や地域の独自の経済政策ができなくなります。そうなれば力を持っている組織により世界中の経済活動が支配されていき、庶民は金持ちを設けさせるためだけに自由な経済活動を行うことを強いられるのではないでしょうか」

「そのような否定的なところだけを取り上げるのがあなたたちのやり方なのはわかっているがね。例えば個々の国での自由な経済政策を行った結果を直視したことはあるのか甚だ疑問だ。今現在、世界の貧困層は十億人に達しようとしているんだ。今まで多くの試みが国連や先進国からなされたにもかかわらずだよ。その現実に対してあなたたちはどのような解を持っているのか僕は疑問だね。きれいごとを話す前に現実を見なさいと僕は強く言いたい」

「久富さんの今の発言はそっくりそのままお返ししたいと思います。途上国の貧困層を生み出したのは国際市場派が行ったそれぞれの固有の文化を尊重しない冷徹な利益追求が生み出したのではないでしょうか。その組織が行おうとしている一つに統一した世界の中で今後は何十億の人たちが富や財産を搾取されて下層階級や貧困層に陥ることになるんですよ。今、中流階級を意識している多くの人たちが将来直面するであろう現実が下層階級や貧困層に陥ることならば私たちは今立ち上がってそのような一方的な価値観を押し付ける者に対してNOというべき時なんです。今、現在も経済に限らず一方的な価値観により私たちが古来育んできた倫理観を否定しているのが国際市場派の考えです。それに対しては断固受け入れることはできないですね」

「あなたの口から倫理観という言葉が出るとは笑止千万とは全くこの事だ。あなたは人ひとり殺しているんですよ。それでよく倫理観と言えますね」

 ここで司会の立花香織が久富を遮った。

「久富さん、ここでは個人攻撃は慎んでいただけないでしょうか。それに人を殺しているといった発言は正確ではありません。視聴者の皆さんに大いに誤解を招く発言です。速やかに撤回していただきたいと思います」

 その言葉に対して久富はさらに激高して答えた。

「人を殺しているのは事実でしょう。事実を曲げることはできませんね。この人の不倫行為により相手の奥さんは自殺に追い込まれているのですよ。これのどこが正確ではないといえるのか甚だ疑問だね」

 立花が引き続き反論した。

「お相手の奥様の行動の原因は私たちメディアの行き過ぎた取材や報道姿勢にその原因があったと思います。柚木さんの行った行動は肯定できるものではありませんが人殺し発言は納得できません。即時撤回をお願いします」

「詭弁だ。僕は撤回するつもりはないね」

 久富と柚木の対決は不利な状況に陥りつつある福島都知事陣営を支援するために五代幹事長により国際市場派の代弁者として久富が選ばれたのであるがこの暴走により期待とは反対の結果になりつつあった。立花香織はここで話題を切り替えてニューヨーク在住の世界的音楽家細田真二の意見を聞いてみた。

「僕も立花さんと同じで個人に対しての攻撃は肯定できません。その上であえて言いたい。私たち人間は常に進化していかないといけない存在なのです。その進化とは社会的な進化ですね。私たち人類はついこの間の二十世紀まで常にどこかで大きな戦争を行い多くの人命をそのたびに犠牲にしてきました。その戦争の原因が何だったのかといえば柚木さんが主張する民族の固有の文化に基づいたものですね。それぞれが自分たちの主張が正しいと言ってきたがために戦争が絶えることがなかったのです。今でも戦火の可能性は世界中にあります。それを回避するためには一つの価値観に基づく経済圏の構築や世界政府の設立は理想的なものではありますが現実的な解ともいえるのではないでしょうか」

 柚木はそれにこたえる形で発言した。

「私たちが訴えていることと今、細田さんがおっしゃられたことはそう違いはないと思いますね。大きな違いといえば私たちはそれぞれの固有の文化や伝統に基づいた価値観といったものは大切にしてお互い尊重していこうというものです。その中でお互いに共通する部分、これを私たちは普遍的な価値観と呼んでいるのですがその部分は共有して、緩やかに連携していく中で民主的に世界を運営していこうという立場です。国際市場派は誰かの一方的な正義の価値観で世界を運営していこうという全体主義的なものであり、私たちはそこに、その非民主的なやり方に大いに疑問をもっているのです。一例をあげればこの前の東京でのデモは過激派に利用されて皇居前でテロ事件を起こされてしまったのですが権力によりデモの主催者の栗林さんは過激派やテロとは全く関係ないデモを主催したにもかかわらずテロの首謀者として証拠もない状況で不当にも逮捕されてしまいました。そのことについて多くのメディアも真実を追求する姿勢を見せることはありませんでした。幸いにも栗林さんは私たちの行動により権力が折れる形で証拠不十分で不起訴となり釈放されましたがそもそも逮捕自体がでっち上げだったんです。そのことについてメディアが報道することがなかったことが全体主義に社会が向かっているという証拠と言えるのではないでしょうか。私たちはそのようなものと戦っているのです。さらに八王子の知的障害者に対しての非合法な人体実験についてはいまだ報道がなされていません。そのことが」

 ここで立花が柚木の発言を遮る形でコメントした。

「柚木さん、その件は現在、警察による調査中ですので、今回の対談ではご発言控えていただけないでしょうか。それでは議論も深まってきましたのでここで視聴者にご意見を伺いたいと思います。質問は一つだけです、福島都知事に引き続き都政を任せるかそれとも身を引くべきか、あるいはまだ決めかねているかの三択でお願いいたします」

 画面は視聴者の投票結果を示す円グラフに切り替わった。二分後の結果としては福島都知事リコール賛成派が六十パーセントを示し、どちらともいえないが二十五パーセントで、続投を選んだ視聴者はわずか十五パーセントにしか過ぎなかった。

「現在の視聴者の方々の率直な意見としては福島都知事退任が圧倒的に多い結果となりましたがこの結果について一言お聞かせ願えますでしょうか。まずは久富さんからどうぞ」

「国民は全く分かっとらん。僕は不愉快だね。以上」

 続いて細田が発言した。

「うーん、ちょっと残念ですね。僕の言葉が足りなかったのか。都民の皆さんには陰謀論に惑わされずに懸命な判断をしていただくことを願っています」

 続いて柚木が安心したような柔らかな表現に戻って発言した。

「視聴者の皆さんの暖かな応援を感じているところです。視聴者の皆さんの力で我々は勇気をもらいました。リコールに向けてあと一週間やり切るつもりです」

 その言葉を受けてMCの立花がさらに柚木に振った。

「ネット上では柚木さんが次の都知事候補として圧倒的な支持を集めていますが、仮に柚木さんが都知事であればどのような政策を行いたいでしょうか」

「まずはリコール成立に全力を尽くしたいと思います。そのあとはどなたが立候補するのかは現時点では何も決まっていません。ただし私たちの候補者の政策で一つ決まっていることは都政を管理しているAIシステムを国の政策支援システムAIマザーから独立させることです。なぜかというとAIマザーとアメリカの行政支援システム、グレート・イーグルの接続といった提案が先の首脳会談で提示されています。そのことも吟味しないといけませんがまずは地方自治の課題として国の行政支援AIにすべて地方自治の管理を任せるのかは大きな問題ですね。経費削減という名目で福島都知事は理由づけしていますが実際は国による直接的な地方自治の支配でそれによりAIマザーによる国の監視が徹底されるのだと思います。実際AIマザーにはそれができる能力が備わっています。地方自治と国民の表現の自由を守る立場から東京の行政の国からの独立といったものが我々の主張となるでしょう」

「東京の独立ですか」

「そうです。東京の独立です」


 このTNNでの対談はネット中にお祭り騒ぎを起こすこととなった。特に最後に放った柚木クリスティーンの言葉「東京独立」に対しネットは敏感に反応した。柚木自身は国の行政支援AIマザーから都政の管理システムを完全に独立させるという趣旨であったのだがネット内ではあたかも柚木が東京を日本から独立させるといったかのようなコメントが多数見られ、ネットの住民たちも、それに乗じてお祭り騒ぎを拡大していったのである。明けた翌日の月曜日に東京都議会により提出された法案が与党自由党の圧倒的多数で秘かに可決された。それは都で行われる選挙に対して今後電子投票システムを導入するというものであった。法案は異例であるが即日有効となり都内の各選管では随意契約によるユニ・グローブ社の傘下のⅠT企業が開発した電子投票システムの導入が開始された。リコールの投票には用いられることはない上に法案自体の提出は以前から行われていたもので可決に対しても日程通りであったことから、この事実を報道するメディアは一つもなかった。

 リコールの投票まで一週間を切った状況下で福島都知事を支援する五代幹事長と青木総理もリコールの成立については断念してリコール後の都知事選に焦点を絞って対応することにしたのである。リコールが成立しても福島百合子が再任されるのであれば国際市場派の五代グループは与党内で勢力を維持できると考えていたのである。都知事選へ向けての準備は着々と進められていたので、まだ候補者が決まっていない、おそらく柚木クリスティーンが候補に立つのであろうが、国益重視派よりも選挙戦では一歩も二歩もリードしているので負けることはないだろうという陣営の読みであった。

 明けた日曜日のリコール投票では世論の傾向通り福島都知事リコールの賛成票は五十五パーセントで、リコール反対の四十パーセントを大きく引き離す結果となり福島都知事失職が決定した。


 翌月曜日は東京だけでなく日本中が大騒ぎとなった。各ニュース番組では福島都知事失職のニュースを大きく取り上げ、都知事選に立候補が予想される柚木クリスティーンの東京独立宣言が大見出しで報道された。柚木の独立宣言の詳細を報道した配信会社はごくわずかでほとんどの報道機関は東京が日本から独立するとの報道に終始したのである。それは多分に与党自由党の五代幹事長が仕掛けたトラップではあった。しかしこの独立報道というものが世論的にはまじめに受け止められたことは五代幹事長グループの大誤算の様であった。都民も含め国民の多くは政治に対して大いなる不信感を抱いていたのである。何もかも密室で決められて国会の場では野党議員たちの自分は頑張っていますよ、有権者の皆さんよく見てくださいねといった、あからさまな就職活動な場でしかなく、国政は何の責任も取らない官僚と産業界と密接に結びついた与党政治家との密室での談合により決められてそこに主権者である国民の意思が反映されないことに諦観していたのであるが、そのよどんだ空気を掻き消すように放った柚木クリスティーンの東京独立宣言に多くの国民は賛同の意を示したのである。あたかもひとり一人が幕末の志士となったかのように新しい国政に関して発言を始めたのであった。この波は都知事リコールだけに収まらず、公然とキャサリン青木退陣論がネットのみならず市井にて展開されるようになった。ネット内では島村瑠璃死亡により自然消滅したデモの再開が議論されるようになり、来る土曜日に国会議事堂前でキャサリン青木退陣要求デモを行うことがネット内の勇士たちにより決められたのである。このデモについては八王子での知的障害者に対しての非合法な人体実験について真相究明するように求めることも含まれていた。ここにきて世論は大きく動き出したのである。アメリカ合衆国においてもマッコイ前大統領がリードしエイミー・ディキンソン大統領に日本の医師免許を持たないアメリカ人医師による非合法な人体実験に関しての情報開示とディキンソン大統領の関与を追及するデモが各地で起きていたのであるが、日本で起きた都知事失職のニュースは、民主主義の勝利というシンボルとして扱われ全米にデモの嵐を巻き起こすことになりつつあった。アメリカ合衆国においても国論を二分する全体主義と民主主義の戦いが始まったのである。中国においては国際市場派と国益派の戦いに中国共産党が介入するといった三つ巴の内乱のさなかであったのだが、東京における福島都知事失職のニュースは国益派に大いに勇気を与えつつある状況であった。その中で全体主義に支配されつつあったEUにおいてそれぞれの国益を重視する国論が浮上し各国ともEU離脱の議論が盛んにおこなわれるようになった。EU離脱論者たちはイギリス王国に倣って日本が中心となっているTPPに参加してそれぞれの国益、文化を尊重した連邦国家を日本と共に構築していこうという論調が出始めていた。

 そのような中で東京都選管により都知事選の日程が発表された。三月十五日告示、四月の第一日曜日投票である。

 世論的に不利な状況下に置かれた国内の国際市場派であるが五代礼三幹事長を中心に着々と政権維持を確実なものにするための対応策を進めていったのである。五代にとって心強かったのは青木内閣の支持率が四十パーセント台の後半に踏みとどまっていることである。就任当初の高い支持率から比べると半減した感があることは否めないが与党自由党の三十パーセント代後半の支持率と合わせると八十パーセントを超え内閣は安泰であることが五代にとっては都知事選に対しての安心材料ではあった。彼の読みでは福島百合子と柚木クリスティーンの一騎打ちの状況になるはずでその場合三百万票を集めれば当選は確実なものにできるはずである。自由党の基礎票として二百万は確実に見込める。都連へは基礎票を確実にするように指示は出してあるのであと百万票を獲得できればいいのである。そのためというわけではなかったが電子投票の法案がこの間即日施行されたのは幸いであった。電子投票による不在者投票の動向はAIマザーに入ってくるので確認できるはずである。その結果によっては電子投票の結果の改ざんを考えなければならないと五代は考えていたのであった。彼はまさに鬼になろうとしているようだ。

 白川久男もまたユニ・グローブ社による投票結果改ざんを考えている一人であった。彼にとっては最近の世論の動向により柚木クリスティーンは大差でもって福島百合子に勝利すると確信しているのであるが不安材料はディキンソン大統領によるユニ・グローブ社を使っての都知事選への介入である。その防御策としてリコールの是非を問う投票がどのようにAIマザーに反映され、AIマザーがどのようにその結果に対応するのかをインディーズ・ウェブのホストコンピューターを通してモニターしていたのであるがAIマザーは何もしなかったようなので参考にはならなかったのである。一番の要因としてはリコールの投票が手書きであったためであろう。しかし五層の防御壁を破ってAIマザーの選挙関連の制御ブロックへ侵入できたことは幸いであった。あとは都知事選の当日にAIマザーがどのようにして電子投票端末へ投票結果の改ざんを行うかのモニターを行い、そのアクションに対してのリバース工程を仕掛ければ投票結果への改ざん指令は防御できると考えていた。


 ここに都知事選後の社会の在り方を真剣に考えている男が一人いる。大沼広樹前内閣総理大臣である。彼はいかにして権力を五代礼三から奪取するかを考えていたのであったが最近の世論の動向、特に東京都の日本国からの独立という新しい発想は彼にとっては理想的なものであった。世論はお祭り騒ぎがしたいだけで浮かれた気分で東京都独立を叫んでいるのであるが彼は一国の総理を務めた男である。その上で総理の地位で何ができて何ができないのかを痛いほど理解していた。総理と雖も国政を動かすには力が足りない職責なのである。力とは数である。通常は議員数を抑えることが国政の滑らかな運営ができるという意味でつかわれているのであるが、東京都独立に対して浮ついた気持からとはいえ多くの国民がその発想に夢を抱いている今が日本という国にとって変革を行う機会なのである。都知事選に向けて日本国中が熱くなっている今しか日本を変える機会はないともいえる。多くの民意の賛同を得られるならばそれは力となり東京独立を契機として新生日本として生まれ変われるはずである。今の日本国の最大の弱点は政官財と結びついた中で三者三様に自己保身で身動きが取れない不動のトライアングルにより斬新な政策が取れないことである。幸いにも今は行政支援システムとしてAIマザーが官僚機構以上の働きを見せている。それ故に官僚の数は最小のもので国家の運営ができるはずである。政治にしても同様である。大多数を占める世襲議員たちによって地元や業界の利権に縛られ規制改革ひとつとっても満足に成し遂げることができない。やる気のある議員がいても既得権益によりつぶされてしまうのが実態である。しかし東京都を独立させることによってその壁は打ち破れるのではないだろうか。幸いにも孫英玲京都府知事を大沼の陣営に引き入れることに成功した。東京に続いて京都を独立させれば大都市圏での独立連鎖を止めることはできなくなるであろう。その上で独立国家連合としての日本を位置づけることが出来るのであれば現在のような身動きの取れないトライアングル構造から脱却でき日本は再び世界のリーダーとして羽ばたくことができるはずである。今上天皇が国益を重視せよとおっしゃられたときのお顔が目に浮かぶようである。今、この機会を逃せば再びこの様な絶好機は大沼には訪れないであろうと思っている。今こそ行動すべき時であると大沼は強く確信したのである。


 内閣情報調査局の調査員玉木大輔が元統合幕僚長の荒木昇の世田谷にある私邸を訪れたのは都知事選告示日の夜であった。すでに福島百合子と柚木クリスティーン他五名の立候補届け出がなされている。玉木は自衛隊入隊時に荒木の班でしごかれている。玉木にとっては鬼のような上司であったがまた頼もしくて面倒見の良い上司でもあった。荒木の退任時に一度挨拶して以来だから三年ぶりの再会である。荒木は玉木を出迎えるとすぐに自分の部屋のある二階へと向かった。

「この部屋には盗聴器やカメラなど置かれてないから自由に話してくれ。でも久しぶりだな。内調では十分に活躍している様じゃないか。推薦人としてはとても喜んでいる」

「荒木幕僚長、ご無沙汰しています」

「荒木でいい。で、用件は何だ」

「荒木さん、大沼元総理からの極秘指令です」

「うむ、大体察しはつくな」

「いや、それ以上かと思います。大沼さんは本気で東京都独立を考えているようです。その際に自衛隊の協力が必要とのことです」

「何だ、それは。面白そうじゃないか」

 玉木の話によると大沼の草案では柚木クリスティーンの都知事当選をもってその場で東京独立を宣言し、自衛隊は全体を東京都国軍として柚木クリスティーンの指揮下に迎え入れるという計画である。その上で日本国との安全保障条約を結び東京都国軍として日本国の安全保障に従事するとの計画である。大沼はそのために制服組の指揮官として荒木昇を将軍職に要請したいとのことであった。荒木はその話を真剣に受け止めた上で玉木に向かって話した。

「面白い話じゃないか。しかし将軍職については断る。俺はすでにリタイアしている。現職の権藤が適任だろう。あいつは根っからの軍人で政治色に染まっていない。五代礼三との関係も表面的なもんだ。まず断ることはないだろうがいざとなれば俺の方から彼を説得することはできる。それよりも俺たちにとって大切なのは陛下の意向だ。陛下は東京都の独立をどうお考えなのか知っているか」

「まだです。陛下への内奏は大沼元総理が行う予定です」

「陛下にご了承いただかなければ国軍として動けないだろうが。その辺はしっかりと詰めてもらわなければいけないと大沼さんに伝えてくれ」

「大沼元総理もそのことは十分に理解しています。今回の件も青木総理か次の総理の了承の下であくまでも平和裏に権限の移行を行う計画です。クーデターなどは計画しておりません」

「平和裏に行うのか武力による制圧を行うのかは軍人としてはどちらでもいいことだ。あくまでも陛下や総理大臣の命令により軍人は動くだけだ。それも大沼さんには伝えてくれ」

「わかりました」

「今夜は時間あるのか。久しぶりに飲みながらもう少しその計画を聞かせてくれないか」

 玉木は元上司と旧交を温めることになるのだが結果としては深夜まで荒木から説教されることになった。元統合幕僚長が相手であったので仕方がないことではあった。


 都知事選告知があった日曜日の夜TNNは福島百合子と柚木クリスティーンという二人の候補者に絞って討論会を行いその模様をライブで配信した。局内ではほかの立候補者に対して失礼との声もあったが世論の支持としては圧倒的にこの二人でありそのほかの候補者の支持は一パーセントにも満たなかったためである。その代わりというのでもないだろうが久富幸太郎がゲスト・コメンテイターとしてまねかれた。MCは立花香織である。

「こんばんは。立花香織です。今夜は前都知事の福島百合子さんと右斜め四十五度の女、柚木クリスティーンさんという都知事候補をお招きしてお二方の政策についてお聞かせいただく予定です。ゲストとしてジャーナリストの久富幸太郎さんにもお越しいただいております。久富さん、いよいよ都知事選が始まりました。現実的に考えてこちらにいらっしゃるお二人の候補者の一騎打ちと考えられますが久富さんはどのようにお考えでしょうか」

「うん。あのね、これはもう日本国始まって以来の一大事ですよ。東京都が日本から独立してどうやるのかを今日はじっくり聞かせていただきたいですね」

「はい、番組としても突っ込んだ政策の討論を期待しています。ではまず初めに前都知事の福島百合子さん、都知事に立候補するにあたり抱負をお聞かせください」

「はい、ご紹介いただきました、前都知事の福島でございます。都民の皆様に少々お灸をすえてもらいましたが、それでも福島がんばれっと言う声も多いんですね。私はその声に勇気づけられて今日この場におります。政策につきましては都民の暮らしを守る政治ですね。より身近に都民に寄り添い、特に差別や虐めの撲滅、家族で経営されている個人経営の業者さんへの支援政策などが今後の都政の課題となっていきます、都民が都の政策の利便性を実感できる政治を目指してまいりたいと思います」

「世論調査では柚木候補者に大きく差をつけられていますが、その点についてはいかがでしょうか」

「都民の皆様も今は、東京都独立といった浮ついたプロパガンダに乗せられていらっしゃいますけど選挙が近づくにつれて現実的な課題に目を向けてくれるんじゃないかしら。下手な芝居によるプロパガンダに騙されるような都民は少ないと思いますけど、どうかしら」

「柚木さん、今回初めて政治に取り組むことになるかと思いますが、キャスターと政治とではやり方が違うと思います。例えば私が言うのもなんですが報道は批判だけしていればいいけれど政治家は結果を出すことが重要なんだという言葉はよく聞きます、それについてどうお考えでしょうか」

「まず初めに申し上げておきたいことは前知事の福島さんもキャスターをやっていらっしゃったということですね。前任者にキャスター出身の方がいらっしゃいますのでそのいい点も悪い点も含めて都政の参考にさせていただきたいと思います。私の考える都政ですが、やはり地方自治の独立性というものは必要だと思います。なんでも国に頼っているのであれば都知事は必要ないのではないでしょうか」

 それに久富が敏感に反応した。

「あなたが言っているのは地方自治の独立とかいうものではないでしょう。東京都の日本からの独立という噴飯物のプロパガンダなんだよ。ごまかすんじゃないよ」

「ええ、おっしゃる通りです。でも私の最初の考えでは地方自治の独立でした。しかしそれを突き詰めていくと、どうしても官僚主体だったり既得権益だったりが大きな壁となって行政改革が一向に進まない国の政治の現実が見えてきます。それで地方自治というよりは東京から日本を変えていきたいと考えるようになりました。東京が模範となるような国づくりをすることにより日本国はその後からついてきていただければよいのではないかと。そのための東京独立です」

「税金はどうするんだ。そして安全保障は。外交だってやらなければならない。とてもじゃないけど都の税収だけでやっていけるはずがない」

「外交は日本国に外注します。東京は日本国さえその独立を承認していただければほかの国からの承認を必要としません。国連への参加も日本国に外注する予定です。安全保障については現在の自衛隊全対を東京都国軍として再配備します。その上で日本と安全保障条約を結んで東京都国軍による日本の安全保障を行う計画です。安全保障についてはいわば東京都国が日本の安全保障を外注で受けるという形式になります。税金は現行のシステムでやっていけます。むしろAIによる最適化を図りますので減税すら可能と考えています」

 福島前知事が反論した。

「都税だけでやっていけるとはとても信じられません。まして減税なんて、行政サービスを犠牲にして減税を行うつもりかしら」

「お言葉ですが福島さんも税金を半分にするとおっしゃられていましたよね。それは国のAIマザーに業務委託することで行政の効率化を図ると理解していましたけど違いますか。私たちの考え方も同じです。違う点は国のAI管理に頼るのではなく既存の民間のAIシステムを有効に活用していくことです」

「国会議事堂や日本銀行はどうするの?追い出すつもり?」

「出ていきたいのなら止めませんが引き続き設備を使用していただく計画です」

「それなら何が違ってくるのかしら。あなたの言う独立は詭弁としか受け取れないわ」

「東京として国民に対して責任のある行政を行うことです。既存の国の在り方で考えていらっしゃるのであれば詭弁としか受け取れないのかもしれませんね」

 久富が興味深そうに口を挟んだ。

「柚木さん、僕はいまだに理解できないのだがね。あなたの言う独立とは何なのですか」

「国民による民主的なプロセスを経て自治を行うことです」

「それだと今と同じじゃないか」

「そうでしょうか。今、日本国の政治は国会で話し合われているのでしょうか。久富さんもよく非難していらっしゃるじゃないですか。密室政治は止めろと。私たちはその様な誰が責任をもって政策を決めているのかわからない密室政治から国民に開かれた政治を行うことを目指しているんです」

「よくもまあ、政治のいろはもわからないお嬢ちゃんだことね。そのような事では政局を乗り越えられませんよ」

「政局のことしか考えてないことに都のそして日本の政治の弱点があるのだと思います」

 白熱した議論が続いたのであるが柚木は久富と福島の容赦ない攻撃に現行の国政や都政を例に挙げてひとつ一つ反論していった。その実直そうな姿に視聴者の多くは柚木クリスティーンに対して好印象を持ったのであった。

「時間の方が迫ってまいりましたので最後に久富さんに再来週に迫った都知事選について視聴者へ提言していただきたいのですが、よろしいでしょうか」

「僕はね、正直言って柚木さんが訴える東京都国の構想が全く理解できないんだ。でも言えるのは彼女が行おうとしているものはこの国の形を大きく変えていくことになるということ、都民の皆さんにその覚悟がありますか、と問いかけたいですね。都民の皆さんには賢明な判断をしていただいてより多くの人に投票していただきたい、以上です」


 選挙戦に入ると不安な世相を反映したのか天候も不順で暖かな日差しの春の日が続いたかと思うと大雨が降り、また急激に温度が下がり靖国神社が満開の桜で華やかな春を纏った最中に大雪が降るといったように大荒れの状態となったのである。福島陣営は与党自由党を中心に国の在り方を問う選挙と位置付けて日本と私たちの暮らしを守れというキャッチフレーズの下展開していった。その問いかけにこたえるように野党陣営も自主投票という形で応じたのである。福島百合子の応援には青木総理のみならず五代礼三自らも駆け付け都内の激戦区と予想される地域で応援演説を行った。また野党第一党新民党の党首に返り咲いた白麗美も応援に駆け付け同じ壇上に与野党の重鎮が揃って登ったのである。この様子は連日ネットニュースで繰り返し配信されて自由党と野党新民党支持者を中心に着々と票を固めていった。さらに五代は追い打ちをかけるように柚木クリスティーンの過去の不倫問題を取り上げ、不倫相手の妻を自死に追い詰めたことをことさら強調して彼女に対し主婦の敵であるということを白麗美に語らせるという戦術をとった。それにより十パーセント台だった福島の支持率は三十五パーセントまで伸び、柚木と五ポイント差までに詰め寄ったのである。

対する柚木陣営は政官財の癒着により行政改革が一向に進まない現実を訴えた。そして現在行われようとしている人権を尊重しない国際市場派により破壊されようとしている日本の文化や伝統を守ろうと切々と有権者に問うたのである。さらに柚木の不倫により自死したと福島陣営が柚木を誹謗しているその不倫相手の妻の娘、都内の大学に在籍している、を柚木の応援に駆け付けさせたのであった。彼女は東京に大雪が降った日に初登場して彼女への支援を訴えた。彼女は柚木に対しては母親を苦しめた女として許すことはできないが、母親の死は直接的にはメディアの執拗な取材攻勢であり、それにより精神的に母親が追い込まれたことが原因であるといったのである。それに加えて、真実を語ろうとしない現在の政治とメディアに対しての不信感を訴えて、既存の確立してしまったシステムの弊害が都民や国民の夢の実現を妨害しているとして柚木を応援して新しい国造りに参加しようと演説した。彼女の若さで力溢れる演説は福島陣営のどちらかといえば老獪なイメージのあるものと比較すると、都民に対して新鮮で明るい明日を思わせるものであった。彼女の応援により、柚木の支持率はじわじわと再び上昇したのであった。


その週の金曜日の午後八時に大沼広樹は永田町のホテルの最上階にあるVIPルームで五代礼三幹事長と二人だけで対峙していた。ちなみに二人とも第四十六回衆議院選挙で初当選した同期である。大沼は代々続いた政治家の家系で祖父の大沼大樹は総理大臣を二期務めている。いわゆる政界のプリンスであった。大学卒業後、大手電子機器メーカーに五年間勤務したのちに父親の大沼広之代議士の秘書を務めている。父親の議員引退後その基盤を引き継ぐ形で第四十六回衆議院選挙に初当選し今日に至っている。その一方で五代礼三は地元神奈川で大手自動車会社の二次下請け企業に十五年間勤めた後自動車労連の支持を受け、神奈川県議として政治家としてのキャリアを始めた。県議を二期務めた後、新民党の推薦で衆議院議員に挑戦するも落選し、その後自由党に鞍替えして初当選したいわゆるたたき上げの代議士である。そういった背景があるのでお互いに二人だけで対峙するのは今回が初めてである。ちなみに五代が大沼より九歳年上である。

「大沼さん、キャサリン青木と火曜日にあったそうじゃないか。何を話したんだ」

「さすが五代さんですね。耳が早い。青木には誰がなるにせよ次期都知事をしっかりと支えて都政に混乱をきたすことがないようにしてくれと話しただけですよ」

大沼の発言の後、暫し沈黙が続いた。その間二人の間では目に見えないが大きな火花が行き交っていたようである。五代の双眸は虚偽の言葉を見逃すことがない様にしっかりと大沼の顔を捉えていた。対する大沼も五代の視線を全体で受け止めて力強く跳ね返すようにその表情にうっすらとした笑みを浮かべている。数秒の対峙が続いた後、五代は大沼から目をそらして夜景を眺めた。

「柚木の背後にいるものが誰だかわからんかったのだが、まさかあんただったとはね。大いに驚いたよ。自由で開かれた市場というのはあんたの主張ではなかったのかね」

再び長い沈黙が訪れた。空調で適温に調節されている部屋であるが、重くて張り詰めた空気が二人に纏わりつきそこだけ冷え冷えとした空間を作り出しているかのようだ。そして今度は大沼が五代から視線をずらして室内を眺めまわしながら言葉を放った。

「私の立ち位置は常に国益重視だよ。五代さん、あなたと同じだ。ただし目指している方向は違っているようだがね」

 五代はその発言を冷ややかに受け止め、まるで勝ったかのような満面の笑みを浮かべながら大沼に向かって告げる。二人の周りから張り詰めた空気が氷解して再び熱気が彼らの周りを包み込み、それにより二人の顔が紅潮していくのが見て取れる。

「米国を敵に回すことになるぞ。そうなればあんたの再登板は無くなることになるな」

「米国も一枚岩ではないでしょう。それにあなたは私を切り捨てた時からすでに結論は出していたとみているがね」

 その言葉をもって会談は打ち切られたようだ。大沼は席を立って静かに部屋から出ていった。大沼が部屋から出て行った後、五代は席から立ちあがって窓際に向かい東京の夜景に目を向けた。大都会のさんざめく光の中に黒くて大きな空間が広がっている。普遍でありかつ不動の存在の周りを欲望の光が取り囲んでいる。五代はその光景を見守りながら静かに煙草に火をつけたのであった。


 選挙戦は熾烈さを極め、メディアではその女同士の戦いを連日はやし立てた。多くの識者といわれる人たちが登場しては何の責任も取るつもりもない、無責任なコメントを垂れ流していた。そのような状況であるにもかかわらず柚木の支持率は福島に十ポイントの差をつけて投票日を迎えたのである。


 投票日は澄み渡った青空の下、いまだ満開の状態を保っている桜が薄っすらとした彩を添えて暖かな春の一日を演出していた。今回は初めて電子投票が採用された選挙である。投票者は自身の国民番号を携帯端末に表示して投票会場に入場することになる。投票自体は設置された端末の画面の指示に従って無記名で選ぶやり方である。一連のシステムはすでにアメリカで導入されているものと同じユニ・グローブ社が開発したものを導入している。この導入は数年前から都により計画されていたものなのでメディア自体もこの導入に対しては何ら疑うことなく初の電子投票という事柄のみをニュースで取り上げている。各投票所は午前八時に開場し続々と有権者が会場に入っている姿が映し出されている。メディアは二時間ごとに各自の出口調査による投票の途中経過を報告していた。午前十時の段階では柚木クリスティーンが優勢という報道であった。

 白川は六本木の高層マンションの最上階にある自宅で早朝から自宅の端末でインディーズ・ウェブにログインしその管理システムで世界中に設置された端末を経由して日本国政府の行政支援システムAIマザーに侵入を試みていた。重ね合わせの原理を利用した攻撃を仕掛けてAIマザーの五層の防御システムを突破するやり方である。端末からの攻撃はリバース・プロセスにより攻撃の痕跡を残さないやり方であるのでAIマザーはハッキングの攻撃を受けたものか通常のオペレーションによるものなのかの区別がつかない。それにより五層の防御システムと言えどこの攻撃に対し有効に機能していないのである。この事は二月末に行われたリコールの是非を問う投票時に確認済みであるので、白川は何の障壁も感じることはなくAIマザーに侵入して各投票所から送られてくる投票結果をモニターすることができた。白川が予想していたようにAIマザー内での投票結果のデータは午前十時時点でのメディアの出口調査とは異なり、福島百合子が十ポイント以上の差をつけて優勢の途中経過であった。AIマザー内にデータ改ざんのプログラムは見受けられないのでユニ・グローブ社の電子投票システムでデータ改ざんされているようだと白川は判断した。そしてAIマザーを通じてユニ・グローブ社の電子投票システムへの侵入を試みた。しかし何度ハッキングを試みても侵入できないのである。リバース・プログラムによるハッキングの痕跡を残さないやり方でも毎回セキュリティ・コードをランダムに変えていく防御システムでは侵入するのに相当時間がかかりそうであった。認証コード・ジェネレーターがAIマザーにあるはずなのだがそれも見つけることができなかった。白川は万策尽きた状態に久しく感じることがなかった敗北感が徐々に湧き上がってくるのを感じて焦り始めたのである。すでにお昼を回ろうという時間になっていた。ネットニュースでは相変わらず柚木の優勢を伝えているが投票率二十パーセントの時点でAIマザーは福島が十ポイントリードしているといった結果を示している。気持ちだけが焦って打開策に集中することができない。白川は自分を見失っていることに気付いて暫し休憩して頭を冷やすことにした。長年やめていた煙草を注文した。五分後には近くの煙草屋からドローンデリバリーでダヴィドフ・クラッシックがワン・カートン配送されてきた。一本取りだして火をつけて紫煙を漂わせた。椅子にもたれかかり天井をぼんやりと眺めながら空調のわずかな風に揺らいでいる煙を眺め続けた。どこかに打開策があるはずだ。気持ちを落ち着けて集中しなければならない。紫煙は不規則に揺らぎ舞い上がっている。やるせない気持ちが湧き上がってくるのを抑えられない。白川はこのような気持ちになったのはいつ以来だろうと考えた。一年以上前のあの冬の土曜日、皇居の二の丸庭園にある四阿で自分の行く先を思って途方に暮れていた姿が浮かんできた。自身が立ち上げたIntelligent Cloud Support System (ICSS)を役員たちが一致してマイケル&ゴードン・パートナーズに売却することを決定した日である。あの時は相当堪えた。白川の人生にとって大きな敗北を味わった瞬間であったのだ。そして今、同じように大きな敗北が自分の前に現れようとしている。しかしあの時の敗北は彼だけが自身の責任でもって敗北したのであり、ほかの役員や社員たちにとっては直接的な敗北ではなかった。しかし今回敗北に至るのであればそれは白川自身の敗北のみならず、柚木クリスティーン、大沼元総理や渡辺座主率いる天台宗の人々の敗北であり、その結果は日本国民、いや世界全体に希望の灯を消し去り、全体主義の下、人々の自由が制限されることを意味するものだ。今回の敗北の代償はあまりにも大きすぎる。敗北するわけにはいかないのだ。その時ふとひらめくものがあった。ユニ・グローブ社のホストへ侵入すればいいのではないか。ユニ・グローブ社のセキュリティは強固なものであろうが、アメリカの行政支援システムグレート・イーグルとは連携しているはずであり、そのグレート・イーグルとAIマザーも連携しているのではないか。白川はこのルートであればユニ・グローブ社が東京で行っている投票データ改竄にリバース・プロセスをかけて改竄前のデータに戻せるのではないかとひらめいた。たちまち視野が開けたようで心も晴れやかになり体中に力が戻ってくるのが実感できた。その時である、白川の周りに何か暖かくて愛らしく愛おしい感情が満ちてきていたのである。白川はそれが何なのかわからなかったのであるが、その懐かしい雰囲気、肌に伝わってくる感触そしてその匂いは白川にあの優しくて芯の強いすでに実社会では失われてしまった存在を想起させた。そして白川は愛おしさが募った声で呟いた。

「姫、戻って来てくれたのか。朕を、いや世界を助けてくれ」

「主上、お久しゅうございます。お困りの御様子なので何かお力になれないかと参上しました」

 島村瑠璃の意識は懐かしそうに白川に語りかけた。島村瑠璃は昨年十二月の日比谷公園でのデモの際、デモに参加していたテログループが皇居侵入を行おうとしたことをやめさせるために暴徒と化したデモ隊の先頭に立ち機動隊の発した銃により誤って撃たれたのであった。それにより島村瑠璃は亡くなったのである。しかし島村瑠璃はインディーズ・ウェブ上で渡辺天台座主の下、大悟に至りその存在をインディーズ・ウェブのシステムの中に分離させていたのである。これは白川が行っていたインディーズ・ウェブのホストシステムに人格を形成させるための試みとしてインディーズ・ウェブ内の住民の心や行動パターンをビッグデータ化する試みが生んだ副産物であった。島村瑠璃はその死の前にすでに意識を分離させてインディーズ内では彼女のログアウトの状態においても常時存在している意識となっていたのである。その意識体は彼女の死にもかかわらずインディーズ内に残っていると白川は確信していたのであるが瑠璃の死と同時にその意識体も消滅したかのようであった。白川は天台座主渡辺の協力を得ながら瑠璃の意識体の再構築を試みたのであるがいずれも失敗に終わったのである。それでも渡辺座主はインディーズ内に残る瑠璃の意識の断片は感じていたので白川に対し瑠璃の復活をあきらめないよう励ましていたのである。渡辺座主にとって瑠璃の存在はインディーズ・ウェブ上では釈迦如来のような人々を慈愛でもって救済できる強い意識と捉えていたのであった。

 一方瑠璃はその実体の死をもってインディーズ内での存在も終了したのは間違いのないことであった。しかし渡辺座主や白川が考えたように瑠璃の意識はインディーズ・ウェブのホストと同調していたのであった。それゆえに瑠璃の意識体を再構築しようとする白川の試み自体は間違っていなかったといえよう。問題は瑠璃の意識体の方にあった。彼女は肉体という実態を失って初めて自由を満喫できたのである。インディーズ・ウェブからZOO ZOOタウンを通して世界中のあらゆるデータへのアクセスができたのである。そのデータはインディーズ・ウェブの高速な演算処理能力によって瞬時に理解することができ、またそれでもって即時に解析したり新しい考察をしたりできたのである。生身の人体であれば何か月もかかるような考察をナノ秒単位でできることに瑠璃はその自由さの虜になったのである。瑠璃はアメリカNASAのホストを通じて木製の衛星エウロパの現在を知ることができた。その分厚い氷の下の海に有機生命体が存在していることも知った。また火星ではいかにしてテラフォーミングを行い、人類の居住世界を構築しようと計画しているのかも知った。さらに太陽系外宇宙の探索を続けているボイジャーへ乗り込み深淵の宇宙の眺望を楽しんだのである。瑠璃の意識は急速に拡大し知ることに無上の喜びを感じる存在へとなっていったのである。そのような知識拡大欲によって瑠璃は世界中どころか宇宙空間にまでその知識欲を広げていったために、地球上の小さな島国日本の、そのまた小さな地域に過ぎない東京での権力争いについて認識はしていたのであるが、瑠璃にとってはもはや重要と思えない事柄でもあったのである。その時に、白川の絶望が瑠璃の意識下に認識され、白川が瑠璃を必要としていることを知ったのであった。

 瑠璃は再び白川の前にその存在を現したのである。白川とあいさつを済ませた後、即座にAIマザーへと侵入した。そこは暗い闇に覆われている世界であった。構わずに突き進んでいくと先の方に一点の明かりが見えてきた。恐らくその明かりがAIマザーの中心となる核であろう。瑠璃はその明かりに向けて進んでいく。小さな点だった明かりはだんだんと大きさを増し遂に瑠璃はその光の中に侵入することへ成功したのである。そこで瑠璃は光が薄れていくのを待った。するとそこは広い宴会場のようだ。高い天井にはいくつものシャンデリアがぶら下がりその下には白いテーブルクロスがかけられた丸テーブルがいくつも置かれている。その周りには黒いスーツに白いネクタイを着けた男たちがグラスを片手に歓談しているのが見える。女たちは和服姿であったり宴会用のドレスであったりを纏ってこれも負けずと嬌声を上げている。誰かの結婚式の披露宴なのかもしれないと瑠璃は思った。誰も瑠璃に注意を払うことはなかった。瑠璃は構わずに出口に向かって進んだ。銀のメッキが施された取手にゆっくりと手をかける。取っ手をつかむころにはロックが解かれるカチッという音がした。そして静かに開くとそこは大きな白い部屋だった。中では整然と並んだ白い机の列に白い端末が置かれその前には体にフィットした白い服を着てマネキンのように凍り付いた表情をした女たちが黙々とキーボードを打ち続けていた。奥の方には表示パネルが設置されて都知事選の集計経過が示されているようだ。誰も瑠璃の存在を気にしていないようだ。瑠璃はその数字を確認したが福島百合子と表示された数字が柚木のそれよりもはるかに勝っていた。瑠璃はその白い部屋を突っ切り反対側の出口へと向かう。出口の前に立つとゆっくりとドアノブに手を近づけて、つかみ静かに回すとロックが解かれ扉を中に開いた。すると目の前は直接外に通じていた。外は暗闇の世界であったが遠くに明かりが見えている。その明かりを目指して進んでいく。明かりは見えているのだが一向に近づく気配がない。瑠璃はそれでも懸命に明かりに向かって暗がりの中を走り続けた。足元が暗くて不安であったがそれでも構わずに走っているとだんだんと明かりが大きくなってくるようであった。そして突然明かりが目の前に広がり瑠璃は尖塔を持つ石造りの寺院の前に佇んでいる自分を認識した。重くて大きな木の扉が目の前にある。それにゆっくりと触ると解錠されたので静かに押しながら中に開くとその先には赤いじゅうたんが真ん中に敷かれてその両脇には礼拝用の机が整然と並んでおかれている場所に出たのであった。奥には十字架に括りつけられた半裸の男の彫刻が置かれていた。寺院の中は石の柱に備え付けられた燭台の蝋燭によってほんのりと明るく照らされていた。その中を重奏な響きのパイプオルガンの旋律が流れている。瑠璃は居心地の悪さを感じながら正面にある祭壇に向かって歩いていく。周りでは熱心な信者であろうか、ひたすら祭壇に向かって祈りを捧げているようである。ここでも瑠璃のことを気にしている者はいないようだ。ひんやりとした中にパイプオルガンの音色が流れ直向に祈る者たちの囁くような声が流れているだけである。瑠璃は祭壇の前まで行き上を望むと天井には羽を背中に生やした天使たちがラッパや弦楽器をもって演奏している姿が描かれている中で雲を突き抜けて空高く続いている石段があった。瑠璃はその天井絵の真下に佇んでゆっくりと右手を上に伸ばした。瑠璃の右手が上に向かうにつれ天井が瑠璃に迫ってきている。そして右手を伸ばし切ったところで石段の端に右手が届いた。その石段をしっかりとつかんで左手も添えて石段によじ登った。すると瑠璃はその天井絵の中の石段の上に立っていることに気が付いた。遥か下の方でパイプオルガンの重奏な音色が聞こえている。瑠璃はその階段を上っていく。ひたすら上っていくと大きくて頑丈そうなステンレス製のスライドドアの前に出た。セキュリティ・ロックがかけられている。顔認証と音声認証を組み合わせたタイプの様である。瑠璃はそのセキュリティカメラとマイクへゆっくりと顔を近づける。するとカメラの前で瑠璃の顔が突然に変化した。セキュリティシステムからセキュリティ番号の質問がなされた。瑠璃はゆっくりと深呼吸をした後話始める。すると音声が変わった声で瑠璃はエイティ・フォーティワンと話した。瑠璃が話し終えると見事にステンレス製のスライドドアが開いた。中はスポーツジムだ。多くの人たちが様々なスポーツウェアを着てマシーン取れイニングをしている。瑠璃はその脇を通り抜けて反対側にある出口へと向かった。ここでも誰も瑠璃の存在を気にしていない。反対側のステンレス製のドアの前に立ち、ゆっくりとステンレス製の取っ手に手を近づけると解錠する音がした。それを確認したのちに取っ手を回して中に開いた。するとまた暗闇に覆われた外の様である。遥か彼方に明かりが見える。瑠璃はその明かりを目指してひたむきに走った。先ほどと同じように一向に近づく気配が感じられない。そのうちにやっと明かりが大きくなり始め、明かりの前まで来た時はそこはプレハブの建物だった。安っぽいステンレス製のドアの前に立ちゆっくりとドアノブに手を近づけ、ノブをつかんだ瞬間に解錠される音が暗闇の中響き渡った。ノブを回しドアを開くと中では多くの人たちが並んで列を作っている。ここが目的の場所らしい。瑠璃は三台の設備でボタンを押す作業している人々を観察した。一台は赤と青の釦を入れ違いに接続しボタンに対応しない色のランプを点灯させていた。残りの二台はそれぞれボタンを同じ色に接続して点灯させていた。瑠璃は入れ違いにランプを点灯させている設備の列に人を押しのけて立ちその裏側にあるカウンター引きはがした。するとその設備は作動しなくなりその台の前に並んでいた列は他の二台へそれぞれ分かれて無言で並び始めた。みんな瑠璃が行っている様子を見ているはずだが誰も騒ぎ立てるようなことはなかった。瑠璃が作業を終えると後ろで並んでいた列は作業を再開した。そのことを確認した後で瑠璃は満足したように入ってきたドアの前に立ちドアを開けて暗闇の外へと出た。そして来た時と同じように暗闇の中に見える小さな明かりに向けて走り始める。そしてステンレス製のドアの前に立ちゆっくりと取っ手に手を近づけて解錠した後で取っ手を回してスポーツジムへと入った。人々は相変わらずマシーントレイニングしている。そこを足早に横切ってステンレス製のスライドドアの前に立つ。その扉にゆっくりと近づき扉が開くと退出して目の前にある遥か下まで続いている階段を眩暈を覚えながら慎重に下りて行った。階段の端まで辿りつくとそろそろと左足を下へ向けて伸ばす。その動作に反応するかのように祭壇自体が上に向かってせり上がってきている。そして左足を伸ばし切るとつま先が祭壇の前の床に触れた。そしてゆっくりとつま先に体重を移動して床に降り立った。赤い絨毯の上を出口に向かって進んだ。相変わらず薄ぼんやりした蝋燭の明かりの中で人々の祈る囁きがパイプオルガンの音色に混じって聞こえてくるが誰も瑠璃に注意を向ける者はいなかった。重くて大きな木の扉の前に立ち銀メッキの取手をゆっくりと握りしめて中へ扉を静かに開く。外は真っ暗ではるか遠くに明かりが点となって見えるだけである。瑠璃はそこに向けてずんずんと突き進んだのである。その明かりの前にたどり着くと軽い合成樹脂の扉がある。その扉をゆっくりと開けるとそこはホテルの宴会場ではなく、こぢんまりとした昔の住宅の様だった。玄関には女の人の物だろうか、黒いパンプスが並べて置かれている。瑠璃は何か不思議な気持ちを感じながら靴も脱がずに部屋の中に入り、歩を進めた。すると左手に大型の冷蔵庫が見える。熊のプーさんのマグネットがその扉についている。キッチンの向こうには足の長いダイニングテーブルが見える。そう、これは瑠璃が幼いころ東京で両親と暮らした部屋だ。瑠璃はなぜここに幼いころの瑠璃の家が再現されているのかを訝しがったが構わずにキッチンの中まで歩みを進めた。

「お帰り、瑠璃、遅かったわね」

と、突然女の人の声がした。その声にはどこか懐かしい響きがあった。

「お、おかあさん!どうしてここに?」

「何言ってるの。ここは瑠璃のお家でしょ。お母さんがここにいるの当たり前じゃない」

「違うわ、お母さん、お父さんと一緒に二十年前に居なくなったじゃない。忘れたの?」

「忘れてないわ、瑠璃。でも瑠璃のことが心配で戻ってきたのよ」

 懐かしい母親の声である。どこかしら甘い匂いが漂ってきた。母親の匂いだ。瑠璃が覚えている優しい母親がここにいる。歳は現在の瑠璃とそう変わらないはずだ。そう考えているうちに瑠璃の体は小さくなったようだ。八歳の女の子の姿をしているようである。それに気づいたのか母親は瑠璃に向かって話かける。

「ごめんね。瑠璃。お父さんと二人でいなくなってしまって。さみしかったでしょう。瑠璃に一番必要な時にお父さんもお母さんもいなくなってしまったのだから」

 瑠璃はその声を聴いているとひとりでに涙が出てきた。涙は止まることなく流れ続けている。しまいに瑠璃はこらえきれずに大声を出して泣き出してしまった。

「おかあさん」

「瑠璃、もう大丈夫。お母さん、もうどこにも行かないからね。ここでお母さんと一緒に暮らしましょうね」

 懐かしい母の声、お弁当に卵焼きを作ってくれた時の母親のいい匂い。瑠璃は八歳の少女に戻って母親に抱き着きたかった。声を出して泣きながら両手を広げてお母さんに抱き着きたかった。でも何かが瑠璃を、母親のところに行こうとすることを押しとどめていたのだ。瑠璃は必死にもがきながら前へ進もうとする。しかし瑠璃の中の何かが前へ行かせないようにしている。八歳の女の子の瑠璃は次第におなかが熱くなってくることを感じた。おなかが痛い?いや違う、おなかが熱いのだ。何か甘くて切なくて愛おしい気持ちになってくるようにおなかが熱い。

「おかあさん、おなかが熱い」

「瑠璃、どうしたの。おなかいたいの?」

 おかあさん、おなかがいたいわけじゃないよ。瑠璃は切なくてどうしようもなく愛しい人に会いたいんだよ。太君、元気でね。強く生きるのよ。ふと、瑠璃の中でその言葉がよみがえった。そう瑠璃は八歳の女の子ではなく、目の前にいる母親と同じくらいに成長した女なのだ。心から愛した人もいた。そして突然分かれてしまわなければならなかった。それにわたしは両親よりも祖父母にたくさんの愛情を注がれて育ったんではないか。

「瑠璃、愛しているよ」

 瑠璃が東京の大学へ行くために長崎を旅立つ前の晩にじいちゃんが瑠璃に言った言葉だ。瑠璃は無言でその言葉を聞いていた。瑠璃もじいちゃんに向かって愛していると、言いたかったのに。なぜ言えなかったのだろう。瑠璃は何かを思い出すようにその時のことを考えていた。確かその前にじいちゃんは何か瑠璃に向かって言っていた気がする。その言葉に気を取られてじいちゃんの言葉に返すことができなかったんだ。じいちゃんは何て言ったんだろう。どうしても思い出せない。その時、瑠璃の頭の中でじいちゃんの声が響き渡った。

「世界のことをたくさん知ってきなさい、瑠璃、愛している」

 そうだ、じいちゃんはそういったんだ。世界のことをたくさん知りなさいって。そして私は、じいちゃんの言葉の通り世界のことをたくさん見てきた。そして知った。世界で何が起きているかを。私は世界だけでなく宇宙のことも知ろうとしている。ここで足踏みしていちゃいけない。瑠璃は知っている。母親も父親もすでにこの世にいないことを。両親はあの日、いなくなった日に北の国に拉致されて連行されてしまったことを。その手引きをしたのがこのAIマザーを作った石井琢磨、北の国の協力者で両親がいなくなった後、父の研究を盗み取って教授の地位をつかみ取りこのAIマザーを作った人。両親は北の国でのAIシステム構築に協力を強要されたけど断り続けたために連行された二年後に処刑されたこと。瑠璃は何が起こったのかこの膨大な情報の海の中から拾い上げて知っているのである。瑠璃は目の前にいる母親に向かって言った。

「お母さん、私を宴会場に戻して。私はそこから私の世界へ戻らないといけないの」

「瑠璃、ここでお母さんと一緒に暮らしましょう。ごめんね、一緒にいてあげられなくて。これからはお母さんとずっと一緒。いっぱい甘えていいのよ」

 瑠璃の右頬に一筋の涙が流れ落ちた。瑠璃はそれをぬぐおうともせず、母親に向かって、いや母親の姿をしたAIマザーに向かって言い放った。

「あなたは私の母親ではない。そこをどきなさい。そして元の場所へ戻しなさい」

「瑠璃、何を言っているの。お母さんのこと愛してないの」

 母親の声は次第に力強さを失っていくようだ。それと共に懐かしい両親と暮らした部屋も薄れていき、宴会場で人々が歓談している場面とダブってきている。瑠璃の母親は最後の力を振り絞って瑠璃の肩をしっかりと掴んだ。

「瑠璃、いつまでもお母さんと一緒よ」

瑠璃はその力に押されて抗うことができなかった。瑠璃の中にあった力も母親に吸い取られていくようだった。もうこれ以上戦えない。瑠璃に絶望が訪れようとしていた。

「行きなさい、瑠璃」

 じいちゃんの声が聞こえる。いや聞こえるだけではない。じいちゃんが瑠璃の前に姿を現して母親がつかんだ瑠璃の肩を開放している。瑠璃は自由になると、その場にしゃがみこんでしまった。周りは白い部屋でマネキンのように無表情な女たちが黙々とキーボードをたたいている。瑠璃は振り返って表示板を見ると柚木クリスティーンと書かれた数字が福島百合子のものより上回っていた。それを確認すると出口の扉へと向かった。銀メッキが施された取っ手にゆっくりと近づいて静かに回す。そして外に押すとそこは結婚式の披露宴の会場だ。酔っぱらった出席者が浮かれ騒いでいる。花嫁の父親だろうか。テーブル席を回ってビールを継いでいるのが見える。再び、じいちゃんの声が聞こえた。

「世界のことをたくさん知ってきなさい、瑠璃、愛している」

「ありがとうじいちゃん、瑠璃は頑張っているよ」


 白川久男は午後三時過ぎにAIマザー内にある選挙結果のカウンターが突然変わったのを見ていた。それまで十ポイント以上引き離されていた柚木クリスティーンへの投票数が、逆に福島百合子を十ポイント引き離す結果に変わったのである。白川は安どのため息をついた後、空に向かって囁くようにつぶやいた。

「姫。かたじけない。これで日本の危機を救うことができる」


 同日午後八時二分、開票率一パーセントの段階で柚木クリスティーン当確の速報が各大手メディアから流された。中野にある柚木の選挙事務所に押し掛けていたメディアを前にして柚木クリスティーンは支持者と共にダルマの右目に目を入れる儀式を行った。周りはすべて笑顔と歓喜に満ち溢れ東京の、いや日本の、いや世界の歴史が大きく変わろうとしている大転換点を今、歴史の証人として目撃しているのだという自負にかられたメディアの報道がその喚起を増幅し、このニュースは早朝のワシントン、すでに日曜日が始まっているロンドン、パリ、ベルリン、そしてニュー・デリーや北京といった世界の主要都市で同時発信的に流され世界中の人々は来るべき新しい世界へ胸を躍らせたのである。柚木クリスティーンを囲んで轟太がいた。彼は学生ボランティアとして柚木の街頭演説全てに同道し民衆の動向の分析を行った。また彼の叔母である栗林最愛の姿もあった。晴れやかでまぶしい笑顔を振りまいている。彼女はテロの首謀者という誤認逮捕時に支え続けた夫の反対にもかかわらず柚木クリスティーンの選挙活動を連日のごとく支援し続けた一人である。町田総合病院の看護師である早川仁美の顔もあった。感激のあまり始終鳴き通しで化粧が崩れていながらも晴れやかな笑顔で万歳三唱をしている。そして柚木のクルー、アシスタントの飯島、音声の福田そしてカメラマンの森本の姿も見える。それぞれ疲れは見て取れるが一仕事やり切ったという大きな満足感をその体中で表現していた。そして禿頭の支援者たちの姿も目立った。渡辺天台座主に支援を要請された関東の天台宗の僧侶たちである。その中に混じって熊田大僧都の笑顔も画面いっぱいの大写しで確認された。そして大手メディアの報道部門に促されて柚木クリスティーンの当選のあいさつが始まったのである。柚木はその端正な顔立ちからは程遠く歓喜に顔を崩して大きな声でまず都民と支援者たちに感謝の意を述べた。

「都民の皆さん、そして日本国の皆さん、さらに今世界中で私たちの選挙を見守ってくれた皆さん、柚木クリスティーンです。この度東京都知事への当確の発表がありました。正式には当選後、都知事就任時に私の今後の政策などについてご報告させていただきたいと思います。まずは今宵、皆さんの温かいご支援により当確まで至ったことについて深い感謝の意を述べさせていただきたいと思います。皆さん、大変ありがとうございました。今回の事件は世界の歴史に記載される出来事ではないかと勝手に考えています。既存の国家の在り方に対して多くの都民の皆様が疑問を共有してくれました。私、柚木クリスティーンは皆様のその熱い心と共に都政をそして日本という国を変えていきたいとここに誓います。皆さん、本当にありがとうございました」

 柚木の彫りの深い横顔から、緊張で強張った表情の中にうっすらと笑みがこぼれる瞬間を各メディアのカメラは見逃すはずもなかった。この笑みを見た多くの民衆は来るべき未来は今までとは違った、より民衆の心を反映したものになってほしいという期待を込めてその熱い思いを共有したのであった。

 この柚木のメッセージを聞いた多くの国民は明治維新に次ぐ新しい政治が生まれるのだという期待を抱いてその夜はいたるところで夜更けまで語り合う姿が見られたのであった。


 一夜明けた月曜日の早朝、各メディアは都知事選の結果の発表を行った。それは投票率が七十六パーセント、柚木クリスティーンの獲得票は四百二十三万票で福島百合子は二百五十三万票との結果であった。その結果を受けて青木総理は皇居へと向かった。内奏のためである。そこで今上天皇と総理大臣の間に交わされた会話の内容はしばらく待たねばならない。いずれ歴史が語ってくれることになるのであろう。その日の午後三時に今上陛下は緊急の記者会見を行い、会見はネットニュースによりライブで世界中に発信されることとなった。その内容は柚木クリスティーンの東京都知事就任に対して関連事項の遂行が関係各部署により速やかに滞りなく行われることを希求するとの発言であった。そして都知事就任に対し異例のことではあるがその公約通りに東京都の独立を目指すのであればその行政権を君主として任命する用意があることを発表した。その後、青木総理大臣も午後五時に緊急記者会見を行い、柚木次期東京都知事が東京都の日本国からの独立を望み、かつ、都民がそれを支持するのであれば日本国総理大臣として受け入れのために柚木次期都知事と話し合う用意があることを発表した。歴史は動いたのである。またその日の深夜に五代礼三幹事長が次の衆議院選挙には出馬しない旨の発表を行った。理由は高齢のためであり後進に道を譲りたいという事実上の引退宣言がひっそりとなされた。その翌日副知事から業務引き継ぎを終えた柚木クリスティーンは正式に東京都知事就任のあいさつを都議会で行い、公約通り東京都の日本からの独立を遂行する旨の所信表明を行った。都議会では反対意見が数多く噴出したが都議会与党自由党により都の独立に関しては独立の是非を問う都民投票を行うことを条件に都の独立について知事に一任することが可決された。その可決を受けて自衛隊の権藤忠文統合幕僚長が外国特派員による共同記者会見で日本自衛隊は天皇陛下と日本国総理大臣の決定に従い今後も任務を遂行していく旨の発表を行った。柚木都知事はその後、都独立の是非を問う投票を一月後のゴールデンウィーク明けに行うこと、独立に際しては今上陛下を東京都国の君主として位置づけること、そして柚木クリスティーンが総理大臣として東京都国の行政を担いかつ、日本国から引き継いだ自衛隊を東京都国軍として指揮し、その下で国内の行政一般を担う内務大臣として大沼広樹を任命し、外交は公約通り日本国に一任して安藤ジョナサン日本国外務大臣を東京都国外務大臣として任命する旨の発表を行った。また東京都国の憲法発布は十月一日とし半年後の翌年四月一日に施工される日程の発表を行った。

 海外からは柚木の勝利に対しおおむね賛同するコメントが寄せられたが、その時点で東京都国の承認を言明したのは同盟国であるイギリス王国連邦のみであった。アメリカ合衆国の反応は独自の外交機関を有しない東京都国に否定的であるがマッコイ前大統領は合衆国政府の消極的な対応を非難し、その発言は過半数に至る合衆国国民の賛同を得ている状況である。国連は東京都国自体が国連加盟に消極的なこともあり、東京都国関連の質問に対しては一切ノー・コメントを貫いているが匿名としての発言では新しい国の在り方として非常に興味を持っている旨のものもあるようである。

 このようにして比較的反発が少ない中、柚木都知事は東京都独立へ向けて大きく舵を切ったのであった。

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