第四章 動乱
週刊春秋の記事が出てからネット上では騒然となった。SNS上では憶測を含んだコメントが様々に出回り、炎上するサイトも多くみられた。しかし日本とアメリカの大手ニュースメディアにおいては簡単な記事が載った程度でSNS上での騒ぎを取り上げることはなかった。そのメディアの報道姿勢がさらにネット上で陰謀論を助長する結果となった。また管轄地域の知事である東京都知事の福島百合子の対応も責任逃れの感を免れないものであった。東京都では二人の死者が出た一連の逮捕劇に全く関与していない。八王子の障害者総合ケアセンターに関しても知的障害者に対しての食事療法や新しい学習プログラムの導入という診療方針の試みに対して認可しているのであり人体実験に関して知事は全く認識していなかったというものだ。そして最後には自衛隊の特殊作戦群を投入したのは大沼総理の判断なので総理に詳しく聞いてくれとどこか他人事のような対応だったので都民に限らず国民全体から批判の声が絶えることはなかった。また事件の詳細を積極的に取り上げようとしない大手メディアに対しても批判が続出した。特に東京経済時報は大沼政権たたきには熱を上げるがこの事件の報道はほぼ皆無に近い状況であったので、東京経済時報の社主新井正と五代幹事長の関係がSNS上で大々的に取り上げられることとなった。
そう言った一連の騒動の中で白川久男は天台座主渡辺、大沼総理の秘書宇梶実および内調勤務の玉木大輔と東京でのデモの詳細を話し合った。その結果、敵の一番弱いところ、東京都知事の福島百合子解任を目的としたデモを行い、都知事リコール運動につなげる戦略をとることにしたのである。その第一段階として日本で最大のSNSプラットフォームであるZOO ZOOタウン内での世論誘導を行った。その内容は週刊春秋で報道された二千万人の移民受け入れ計画を利用することである。中国国内で戸籍のない黒戸をまず来日させてその上で黒戸たちに遺伝子書き換えを行い、おとなしい性格に改造し移民として受け入れるといったものが移民受け入れ計画の実態というものである。その黒戸来日に関与しているのが五代礼三幹事長と青木キャサリン副総理兼財務大臣である。また八王子の施設の設立には都知事福島百合子が関与し五葉重工グループに出資させて行わせたというものだ。そしてその計画の第一弾として京都府知事の孫英玲の移民百万人政策であるとの筋書きである。もちろんこれは事実の断片を寄せ集めた白川たちの創作ではあるが、都知事の無責任な対応に不満が爆発寸前の都民にはこの話は自然と受け入れられ、ZOO ZOOタウン内では半ば公然の事実として扱われることとなった。
一方天台座主の渡辺は関東圏内の天台宗徒を中心に来る土曜日の午前中に都知事糾弾のためのデモに参加するようにとの依頼を行った。天台宗徒からは五百名ほどの参加者が見込めるとのことである。また総理秘書の宇梶は極秘裏に新民党党首となった田代健司と会談し打倒五代と青木のためにデモへの協力を要請した。田代は五代との関係はあるのだが政権奪取の足掛かりとなりそうな都知事糾弾デモを好機と捉え新民党支持者から三百名ほど参加させることを承諾したのである。これで八百人規模のデモが来る土曜日に都庁前で行われることとなった。白川はデモの規模としては物足りないものを感じたがZOO ZOOタウン内でも参加者を募っており、プラスアルファが見込めること、それと今回は第一回ということで柚木をはじめメディアに大々的に取り上げられることにより今後の拡大が見込めそうなことを考慮して土曜日の午前十時に新宿西口を出発して中央通りを都庁まで進み中央公園で都知事解任のシュプレヒコールを行う計画を承認した。
新宿西口の高層ビルにあるホテルのラウンジに島村瑠璃は栗林最愛と対峙していた。瑠璃は毎週水曜日新宿にあるカルチャーセンターで江戸後期の庶民文化についての講座を持っている。担任教授の宮本から紹介された講師であるが生徒数も多く結構実入りのいいバイトなので瑠璃にとっては学外の空気も味わえ、気に入っている仕事である。講座は午後三時には終わるので普段は一人で新宿の街を散策するのだが今日は久々に栗林から誘いがあったのでこのホテルのロビーでお茶することにしたという次第である。注文したロイヤルミルクティーとケーキのセットが来た。栗林は一口飲んだ後で瑠璃に話しかけた。
「瑠璃、最近きれいになったわね。きれいというか、なんか美しいという感じかな。お釈迦様みたいに後光がさして光り輝いてる感じよ。なんかあった?」
「いいえ、特には」
「太といい感じって聞いてるわよ。兄夫婦も瑠璃のこと気に入っているみたいだし」
「ええ、夏休みに太君の実家に二週間ほど滞在したんです。長野はいいところですね。空気がさわやかっていうんですか。東京のようなべたついた感じじゃなくて」
「単なる田舎なのよ、で、太とはどうなっているの?」
「うーん、モアさん、しつこい。せっかく話しそらそうとしているのに」
「いいじゃない、あなたの気持ち聞かせてよ。太、結構落ち込んでいたわよ。せっかく意を決してプロポーズしたのに、太がちゃんと社会人になるまで待っててねって、行ったそうね」
「太君、そんなことまで話したんですか。もう、男のくせにおしゃべりなんだから。でもやっぱりそういうことはちゃんと生活基盤を築いてからでないと、私もすんなりハイって言えません。モアさん、そうでしょう?」
「確かにね。でも就職のことなら心配しないで。白川のところに行くことになると思うから」
「白川さんのところで太君何やるんですか?彼、文系ですよ」
「この話は白川から私のところに来たの。まだ太には話していないので彼には黙っててね」
「ええ。でもどんな仕事なんですか」
「私は上手く説明できないのだけれど、白川がやっているAIの進化にはどうしても文系的な考え方を数値モデル化させる必要があるんですって。今彼がやっていることも深層学習の一種でAIに人の思考パターンを認識させてAIが出した結果を説明させようとするものじゃない。でも次世代のAIはAIそのものに人と同じように考えさせて結論を導き出させたいんだって。そのためには文系の思考をどのようにロジック化するかが課題で太にはその仕事をやってほしいって言っていたわ」
「おもしろそうですね」
「でしょ、だから経済的には心配しなくても大丈夫よって今日は言いたかったの」
「優しい、叔母様ですね。」
「でしょう?」
「でも私七歳も年上ですよ」
「気にしない。七歳上だと丁度一緒に死ねるんじゃないの?」
「太君といるときは楽しくて幸せなんですけど、一人になると、なんて説明したらいいかわかりませんがもっと世界の、いいえ、この宇宙の深淵を理解したいといったそのようなものにだんだんと引かれているんです。私、何言っているんだろう。ちょっと変ですよね。今言ったこと忘れてください」
「いいえ、あなたの気持ちわかるような気がするわ。白川も言っていたけど、瑠璃がどんどんと大きな存在になっていっているってね。そのうち世界を導く救世主になるんじゃないかって半ば心配していたわ。私もそう。この世界を紹介したのは白川だけど、いろいろと瑠璃に教えたのは私じゃない。だから瑠璃が救世主の道選んだら本当にあなたにとっていいのかなっても思うわけよ。瑠璃が選ぶ道なんだけどね。あなたにとっては太がこの世界にあなたを引き留めて置ける存在じゃないかしら。私の言っていること考えてくれたらうれしいわ」
「わかりました。まだ一年ちょっと時間ありますから、それまでに結論出します」
「何か脅迫しているみたいだわ。悪くとらないで、瑠璃は瑠璃が選んだ道を行けばいいのよ。そこに太の存在があれば私は嬉しいけどね」
冬の日没は早い。だんだんと日の光が赤く染まってきて街灯が点灯しているのも構わず女二人の会話は終わることなく続いていった。
土曜日の朝が来た。瑠璃はジーンズに黄色のスエットの上からカーキ色のダウンジャケットを着こんで頭にはジャイアンツの野球帽を被った格好で新宿駅に降り立った。轟太は補講があるため参加していない。今は九時半である。中央線を下りた瞬間は冷気が頬に突き刺さったのだがプラットフォームにまであふれかえる人の熱気ですぐに体は暖かさを取り戻した。それにしても凄い人である。白川からは多くて千人規模だろうと聞いていたので新宿駅のプラットフォームにまで人があふれかえることは想像もしていなかった。人々は手に都知事糾弾のプラカードをすでに抱きかかえた状態なので余計に身動きが取れなくなっている。JRの駅員が速やかに移動するようにアナウンスしているが身動きできない状況で誰もが戸惑っているばかりである。少しずつは移動できているのだが十時までに集合場所の西口のバス停前にたどり着けるかは疑問である。瑠璃はデモの準備のためにすでに集合場所に到着している栗林最愛に連絡を入れた。
「モアさん、人が多すぎて遅れそうなんだけど」
「瑠璃、分かっているわ。今、警備の警察の人と話をしてすぐに出発することに決めたの。都庁前の広場でシュプレヒコール上げる予定もキャンセルで中央公園にみんな集まることにしたから。瑠璃は後からついてきて。各地区のリーダーにもその旨連絡を入れておいたわ。近くにいるデモの参加者に伝えてくれないかしら」
「了解」
先頭部隊はパトカーに先導される形で中央通りを進みだした。上空には警備のドローンが数台旋回しているのが見える。瑠璃はようやく新宿駅を出ることができたのだが西口は人の群れで溢れかえっている。すでに車は遮断され中央通りは地下道も含めて歩行者天国となってしまっている。だらだらと歩く人の群れからは様々な怒号が飛び交っている。
「福島ヤメロー!」
「人権を守れー」
「青木の総理絶対ダメー!!」
それらの怒号にこたえるように「おー」とか「そうだそうだ」といった大声も聞こえてくる。瑠璃はただひたすら群衆に従ってついていくことしかできない。人にもみくちゃにされながら自分が歩く場所を確保するのが精いっぱいの様子である。空には報道用のドローンも飛んでいるので数えきれないくらいのドローンが羽音を唸らせながら旋回している。瑠璃は気づいていないのだがネットのライブニュースでは瑠璃のアップがたびたび流されている。上空からのドローン撮影の映像である。なぜ大勢の中から瑠璃を探し出せたのであろうか。それは遠目からもはっきりとわかるほど瑠璃の姿が輝いて見えるからである。体が発光しているのではないのだが引きの映像でも大群衆の中で瑠璃の顔だけが浮かび上がって見えるのである。ネット上ではお祭り騒ぎである。
「誰、この娘?」
「東京の女神さま?」
「光の国の美女!!」
「観音様の来迎である!」
中央公園上空から都庁の向こうに新宿駅が見える映像に切り替わった。道路中を埋め尽くす人の群れだ。様々な色彩が緩慢に移動している。その中でも瑠璃の存在は見て取れるほど輝いている。
「あ、女神様見っけ!!」
「ほ、ほんとだ。光り輝いている」
「奇跡が起こりましたあ!!」
ネット上ではお祭り騒ぎの中、昼を回ったころ自然消滅的にデモは終了したようである。ニュースサイトでは柚木クリスティーンが興奮を抑えられない様子でリポートしている。
「全国の皆さん、いや、全世界の皆さんご覧いただけたでしょうか。福島都知事解任のデモが今終了した模様です。推定参加者は優に十万人を超えたと思われます。この人々の声を都知事はどのように聞いたのでしょうか。今後の都知事の対応が問われることになりそうです。JCNの柚木が都庁前からお送りいたしました。では皆さん、よい週末を」
週の明けた月曜日大手ニュース配信メディアから日曜日に行われた世論調査の結果が発表された。それによると大沼政権支持率は各社とも大幅に増えて四十パーセントを超え、五十パーセントに近い支持率の結果もあった。それに引き換え与党自由党の支持率はついに二十パーセントを切り十パーセント近くの物もあった。しかし野党の支持率は相変わらず一から四パーセントの間ですべて足しても十パーセントに満たない数字と低調な結果に終わった。国民の大沼広樹に対しての信頼度は持ち直して来ているのであるが既存政党への不信感というものは失墜したといわざるを得ない状況である。また次期総理候補として五十パーセントを超える支持率があったキャサリン青木であったが今回の世論調査で二十パーセント台まで落ち三枝英人官房長官の支持率と同レベルにまでなってしまった。これにより翌週の火曜日に控えた自由党総裁選挙の行方はどのようになるのかわからなくなり日本の政界は混とんとした状態に陥ったのである。
その打開策であろうか、月曜日には謝罪及び退任会見が相次いだ。まず障害者総合ケアセンターの顧問、井上義男が一連の騒動を引き起こした責任者として謝罪し、顧問の座を年内いっぱいで退任する旨の会見を開いた。しかし国内では医師免許を持たないアメリカ人たちに医療行為をさせていたこと、および知的障害者に対しての同意を得ていない人体実験がなぜ行われたかについては内部調査中で現在回答できないという内容の会見であった。
五葉重工業の社長小野寺勲も会見を開き、五葉グループとしては知的障害者への障害緩和のための総合医療センターという理念に共感し社会貢献の一環として資金提供していたものが結果として非合法な人体実験を生み出してしまったことへの道義的責任を痛感して謝罪するとし、自身は次の株主総会において社長職を辞職する旨の会見を行った。しかし自身やグループとしての事件への関与は否定したものであった。
同じく月曜日には三澤彰人厚生労働大臣が一連の事件の道義的責任を取る形で辞任し次の内閣組閣までの間、三枝英人官房長官が兼任することとなった。また厚労省では柳田勝彦事務次官が罷免された。
一連の謝罪会見が一段落した月曜日の午後、キャサリン青木がメディア向けの記者会見を開き、週末行われた新宿でのデモについては与党自由党への批判として重く受け止めると反省し、自身の事件への関与は全面的に否定した。また事件の詳細については調査中でコメントを控えるがSNS上での噂の一人歩きおよび根拠が明白でない民間人への誹謗中傷については強い懸念を表明した。さらに自身が総理になった暁には事件の真相究明に全力を尽くす旨の強い決意を述べたのであった。この会見は大手メディアによって編集されたものが配信され、世界中から視聴された。一日で視聴回数は一億回を超えるものとなり、ネット内では五代派による視聴回数水増し疑惑がいたるところで持ち上がることとなった。ネット内での次の総理候補としてのアンケートでも三枝官房長官をダブルスコアで引き離す結果となりこのアンケートにも疑惑の目が向けられるなど国民の多くは何が信じられることなのか判断しづらい状況に困惑の度を深めていった。
さらにSNS上では障害者総合ケアセンター関連で五葉重工業やキャサリン青木と関連付ける会話を行うと、管理会社からユーザー規定に反するとの警告が出される状況が相次ぎいくつかのアカウントは停止にまで追い込まれたという情報が行きかった。ZOO ZOOタウン内でもこのうわさは広がり、隠語を用いてしか事件関連の話ができなくなっている状況にすでに突入してしまった。誰もが表現の自由について不信感を抱き始めたのである。
アメリカ合衆国ではマッコイ大統領による次期大統領に内定しているエイミー・ディキンソン上院議員への攻撃が始まった。彼はディキンソンとユニ・グローブ社の結びつき、特にハイテク関連での排他的な事業展開に対しディキンソンがユニ・グローブ社を支援していること、そして今回日本で逮捕された科学者のリーダー的存在であったジェーン・マックガヴァンとの過去の密接な関係などを暴露する内容の動画をSNS上で発表したのであるが、このことは米大手メディアからは無視されて、小規模のメディアのみが取り上げるに過ぎなかった。さらに動画アップ後二十四時間で削除されるといった措置が管理会社からとられた。これについてはアメリカのみならず、日本を含む世界中でメディアの横暴だといったコメントが多数見られたがそれらも即時削除の対象となった。障害者総合ケアセンターについての大手メディアの一連の対応は世界中の人々にその背後で何が起ころうとしているのか大きな不安を抱かせる要因となったのである。
曹洞宗管長である総持寺の富田善幸禅師がデモを東京にまで拡大したことに対し比叡山の渡辺座主を非難する声明を発表した。その内容は仏教徒とは世界の平和や人々の安寧を祈願するものであり、政治に口を出すものではなく、ましてや人心を煽って国家を転覆させることは言語道断、決して許容できるものではないという趣旨のものである。京都における日本文化を守るためのデモについてはある程度理解できるが東京での都知事降ろしのデモは宗教家として全く許容できるものではなく、戦国時代における織田信長により行われた比叡山焼打ちの愚行を再び繰り返すのかといった強い口調での避難であった。その動画についてもネット上では賛否両論であり、人々は仏教界の政争にもお祭り騒ぎではやし立てる者もいれば、国を二分するようなこの政争に嫌悪感を示すものも多数いた。
ネット上では何が真実で何が虚偽なのかの判別もできないまま、多くの人々が中傷し合い、コメントは削除されるかアカウントが停止されるようなことが繰り返された。その一方で政治は一連の謝罪会見で幕引きを図ろうとしており大手メディアも真相を究明するような行動も起こすことなく時間だけが浪費されている状況である。
その中で土曜日を迎え二回目のデモが行われた。前回の大混雑を踏まえて警視庁からはデモの主催者、栗林最愛へ分散開催の要請が事前になされていた。都はデモのために新宿御苑公演を無料開放するので都庁ではなくそこを目的地とすること、また代々木公園と上野公園もデモの開催地に指定された。デモの時間は午前十時から十二時までで栗林により各地域にどこを目的地とするかの指示が出され、粛々とデモ行進は行われたのである。しかし分散したからと言って混雑の状況が緩和されるかといえばそのような状況にはなく想定参加者は合計で三十万人規模のものとなった。
デモの拡大を確認した白川は第二弾の戦略として福島知事リコールの請願署名活動に踏み切った。目標は都民二百万の署名である。
そして明けた月曜日には自由党の総裁選が行われ接戦の末、国会議員票で三分の二の票を獲得した青木キャサリン・ストイコヴィッチが総裁に選出された。ここにきて世論の青木に対する反発と自由党に対する諦観が強まった。その反動で福島都知事リコール署名は徐々に盛り上がりを見せ始めた。リコール署名は栗林最愛が発起人となり行ってきたのであるが、柚木クリスティーンも取材の形でリコール運動の拡大に大いに貢献している。そして柚木が大きく取り上げたのが島村瑠璃の存在である。島村瑠璃は署名収集受任者として街頭に立った一人にしか過ぎないがデモ映像で女神扱いされた本人としてネットを中心に評判が広まり島村瑠璃のファンが急増するにつれて若い世代の署名が一挙に増え始めていった。状況は徐々に五代礼三率いる国際協調派と大沼広樹率いる国内優先派とに国論は二分されて行きつつあった。経済界は大手企業ほど国際市場を重視した国際協調派に属していると見られているが、国際協調派のあからさまな言論弾圧の傾向に一歩下がった立ち位置を取り始めている。世論による国際協調派の企業に対しての不買運動を恐れてのことである。経産連の会長である岡崎モーターズ会長二葉昭は、経済界からの苦言として国論を二分するような政争をしている猶予は日本に残されていなく互いに納得できる国益を重視した政策を掲げて難局を乗り切るようにと政治家へ求める声明を発表した。この声明は大手メディアに大々的に取り上げられたのであるがネットの反応としては不買運動を避けるための体裁だけの意味をなさないコメントとの酷評が相次いだ。老害は去れとの辛辣なコメントも見られたのであった。
アメリカ合衆国の状況もマッコイ派とディキンソン派に分かれて政争を繰り替えしていた。しかし一般有権者による選挙での得票数でも獲得選挙人数でもエイミー・ディキンソンに敗れたクリストファー・マッコイの戦略は熱烈な支持者に支えられてはいるが一般的には大統領にふさわしくない潔くない態度とみられていた。しかしながらディキンソン支持層においてもその背後に見え隠れする国際金融の政略、一方的な正義漢の押し付けであるポリティカル・コレクトネスの行き過ぎに不快感を覚える者たちも少なからずいたので、選挙人選挙の結果はいまだ混とんとした状況の様には思われた。しかしながらマッコイを支持する保守党の中にもディキンソン政権下でどのようにして保守層の盛り返しを図るかに戦略を切り替えるべきだとの意見も多数出ているようである。国内重視派にとって国際派の政策はもはやアメリカという域を超えて世界政府を作り出そうとしているように映っているのは確かである。その世界政府の中にアメリカを愛する心が見いだせるのか否かによってアメリカ分断という選択肢も視野に入れるべきとの意見も出てきているようである。
中国の場合はさらに悲惨な状況である。国際金融に支援された国際派グループと、共産党政権そして新興の国粋主義派の三つ巴の様相を呈してきている。すでに内乱状態であるがディキンソン政権誕生後は国際派が主導権を握るのではないかと市場は予想しているようだ。しかし軍事力に勝る共産党政権を打倒するためには内部からの切り崩しが必要であり、国粋派はそのための勢力として国際金融が支援しているのではないかというのが市場の専らの解釈である。世界はもはや二極化するのではないかとさえ市場関係者の中では噂されるようになってきている。
東京稲城市にある倉庫の地下である。ここに秘密の射撃練習場がある。過激派団体に使用されている場所だ。そこに二人の若者が短銃の試射を行っている。一人はずんぐりとした体形の若者で百瀬健太郎十九歳、明和経済大学の一年生だ。もう一人はスリムな長身である田代智樹20歳、平成電気通信大学の三年生だ。二人は民主革命連合に所属しているいわゆる過激派グループの構成員である。その背後には五十をとうに超えている男が二人の射撃訓練を見守っている。今泉幸人だ。民主革命連合(民革連)の幹部である。
「百瀬、もっと脇を占めてしっかりと狙いをつけろ。
怒号が飛び交う。パン、パンと銃声がとどろく。二人とも的を外しているようだ。今泉はゆっくり二人に近づいて行った。
「もう、それくらいにしとけ。今日はスポンサーから支援が入ったから今から飲みに行くぞ。明日はしっかりと落ち着いて行動してくれよ」
今泉は二人を連れて倉庫を出る。辺りを確認するがどうやら公安は見張っていないようだ。彼らもデモ騒ぎで今泉の処まで手が回らないのかもしれない。今泉のグループは新民党の田代健司から要請を受けて東京でのデモに三十人ほど人を出している。これは単なる平和的なデモ要員の要請であった。しかし今週に入ると別の組織から、おそらく外国勢力だと思われるが、から接触がありデモの最中に騒ぎを起こして欲しいとのことである。謝礼が五百万円と破格の好条件であったので、民革連の名前を売り出すにはいい機会だと考えて快諾したのであった。予定では学生二人がデモの最中に発砲してデモを攪乱させるだけのものであった。単なるアルバイト感覚で大金が入るので今夜は太っ腹である。そのまま二人を連れて夜の街に消えていった。
同じころ轟太は島村瑠璃の部屋にいた。試験が今日終わって解放感でいっぱいである。明日土曜日は瑠璃と一緒に日比谷公園でのデモに参加するのでゆっくりできるのは今夜しかない。本当は吉祥寺に繰り出したかったのであるが最近瑠璃がネット上で女神さまと崇められて顔ばれもしているので二人で落ち着いて外を歩けないという困った問題が起きてしまったのである。それでも武蔵境にある彼のアパートよりは井の頭公園が見渡せる瑠璃の部屋は快適で眺望もよい。残念ながら公園の木々は冬支度が終わって枝がむき出しの枯れた景観であるのは季節柄仕方がないことである。
瑠璃は料理をしないのであるがフードマシンで大概のものは調理できる。しかし太の本物の肉が食べたいといった要望で瑠璃は近くのレストラン、プリミ・バチから宅配してもらうことにした。イタリアンの店だ。前菜とパスタ、メインは太がサーロインステーキで瑠璃がラムロースにした。二人でソファーに座り明かりを落としたリビングから夜景を眺めゆっくりワインを飲んでいるとほどなくドローン宅配がベランダに到着した。そのままリビングまで運んでもらう。食事を皿に移し替えるとちょっとしたレストランの雰囲気が出てくる。二人で夜景を見ながら食事をした。食事は申し分なくとてもイタリアンで二人はワインの心地よい酔いとオリーブオイルの滑らかな青さが柔らかい赤身の肉を品よく仕立て上げている味わいがもたらす愉悦のひと時を堪能した。食事が終わると瑠璃が昔の映画が見たいというので映画配信のメニューから椿三十郎を選んだ。白黒の相当古い映画である。瑠璃にとってはこの映画は故郷の長崎で祖父と一緒に見た楽しかった日々の思い出の映画である。どことなく愛嬌のあるいかつい浪人役が主演の三船敏郎だ。侍たちが部屋の中に集まって敵に聞こえてはまずいので声を出さずに喜び踊りまくる場面が滑稽で面白い。そしてラストの決闘の場面一太刀で相手を切り倒し、その胸元から鮮血がほとばしり出る場面、もっとも白黒なので黒い液体が噴出しているのだが、そしてあばよと去って行く。たまらなく日本男子のカッコよさが出ている映画だ。映画が終わるとどちらからともなく体をまさぐりあった。柔らかい瑠璃の体は太の指がやさしく触れるたびに敏感に反応している。瑠璃も太の引き締まった細身の体に触れて優しく愛撫する。ゆっくりと官能の囁きが二人をいざないどちらからともなく服を脱ぎ始め、お互いを確かめ合うように愛撫する。そしてソファーの上で二つの感情はもつれあい絡み合った。このまま二人繋がったまま時が止まるといいのだけれども、時は残酷にも止まることなく静かに流れ過ぎて行くのであった。
土曜日の午前十時、芝公園前に集まった群衆は日比谷通りを日比谷公園に向けて歩き始めた。警察により道路は封鎖され大群衆が行進を始めた。鈍色の雲がどんよりと不安が充満している世の中の気持ちを反映しているかのように低く立ち込めている。いくつものメディアのカメラが群衆を追っている。上空にはメディアや警察のドローンが舞っている。そのような中でのゆっくりとした行進であるが参加している人々の顔には笑顔があふれ、どこかお祭り気分で浮付いた雰囲気があることは否定できない。多くの若者たちがカップルで参加している。歴史的なイベントに参加することによって自分たちも何か大きな存在になったかのような気持ちの高ぶりが見て取れるほどだ。その中に島村瑠璃と轟太の顔もあった。二人とも他のカップルたちと同じ様に自分たちで国を動かすことができるのではないかといった高揚感をその表情に浮かべながら歩いている。
「福島都知事はすぐに辞任せよお!」
「おおー!」
「国は八王子の虐待の解明をしろお!」
「そうだ、そうだあ!!」
シュプレヒコールが続く中、大群衆がゆっくりと日比谷通りを移動していった。日比谷公園の噴水広場にはメディアがデモの群衆を待ち構えていた。その中には柚木クリスティーンの姿があった。
「ここ日比谷公園の噴水広場は静まり返っています。事前に警視庁により入場規制が行われたためここではいつもとは違う土曜日の朝の光景が展開されています。あ、今、デモの先頭集団が噴水広場に入ってきたようです。ご覧ください。手にプラカードを掲げています。プラカードには福島都知事の辞任という言葉が赤い文字で大きく書かれています。八王子の障害者総合ケアセンターでの不正人体実験の解明を求める言葉も見られます。そのようなプラカードを掲げ群衆が続々とここ噴水広場に集合してきています」
柚木の言葉通り群衆は続々と噴水広場に入ってきている。おそらく参加者全員が入ることはできないほど群衆は膨れ上がっている。運営側によって広場に整列するように促されているのが見て取れる。デモも三回目になると運営側も慣れてきたのか手順もスムーズになされているようだ。
「ご覧ください。群衆は乱れることなくこの広場に整列しています。その中で都知事辞任のシュプレヒコールが次々と叫ばれています。この声を都知事はどう聞いているのでしょうか」
島村瑠璃と轟太も噴水広場に入ることができた。二人はすぐに運営側が待機している野外音楽堂へと進んだ。舞台の上から見る群衆はすさまじいばかりの熱気を放っている。天気予報によれば今日の最高気温が六度ということであるが人々の放つ熱量で寒さは全く感じられない。
「瑠璃さん、凄い人の山ですね。俺、こんだけの人見たことないっす」
轟太も群衆の熱気に押されて相当気持ちが昂っているようである。瑠璃も興奮を抑えられない様子で話した。
「本当にこれだけの人が集まっているところ上から眺めると壮観だわ」
群衆の入場はとどまることなく続いている。恐らくここに入りきれない人たちが多数出るはずだ。島村瑠璃はどのように対処するのか運営と相談することにした。ここのリーダーは井尻浩というリタイアした男性だ。
「井尻さん、この広場にはとても入りきれないようですがどのように対処するんですか」
「ああ、島村さんか。警察にはテニス場や草地広場を使う許可を取っているからそこに誘導するつもりだよ。そこでも入りきらなかったら日比谷通りに待機してもらう以外ないね。皇居に入ると不味いことになるからそれだけは避けないといけない」
「皇居には入れてもらえないんですか」
「ええ、警察から許可なく皇居前で集会してはいけないと厳しく言われている。最悪の場合機動隊が出動して大ごとになるっていうんだ」
「わかりました。私は何すればいいですか」
「島村さんはアイドルだから壇上で群衆に顔を見せてくれていれば十分だよ」
話している間にも噴水前広場は人で埋まってきているので運営側によりテニス場や草地広場に誘導している。島村瑠璃はネットニュースをモニターしていたのだがその姿をドローンカメラでとらえられて、自分の姿がアップで映し出されているのを見ると少し恥ずかしい気持ちになった。再び群衆に向けて手を振りながら笑顔を振りまいた。群衆はそれにこたえるように「女神様あ」とか「瑠璃様あ」とか歓声を上げている。その姿はネットを通して全世界に配信されているのである。
デモの群衆はまだ尽きることなく日比谷公園に入場しているのだがテニス場も埋まってきているようだ。恐らくここの群衆は十万人を超えていそうである。島村瑠璃は七月から始まったインディーズ・ウェブとの関りから半年がたったことを思い出した。その半年の間に起こった様々なこと、栗林最愛との出会い、柚木クリスティーンとの出会い、そのあと一緒に天台座主渡辺と会談したこと、轟太の実家で過ごした日々、そして天台座主渡辺の下で行ったインディーズ・ウェブ内での修行、その修業がもたらした至福の喜びと、そこから始まる瑠璃の至高への渇望、そしてデモに参加した後で起こった瑠璃の全世界的な人気アイドル化、思い辿ればすべて夢の様であった。これらのことがわずか半年で起きたことが瑠璃には何か超越的なものの導きにより起こされたことと思う以外なかった。そして想像もしていなかった轟太への愛情。瑠璃は自分のことについてはファザコンならぬジジコンと認識していたのだがまさか七歳も年下の男の子と恋愛関係に陥るとは想像だにしなかったことである。瑠璃はこれからどこに向かおうとしているのかと考えた。それを思うとわくわくするようでもあり大いに不安でもある。個人的にもそうであるがこの国の将来、いや世界がどこへ向かおうとしているのかを考えると暗鬱な気持ちが込上がってくるのを抑えることができない。青木キャサリンやエイミー・ディキンソンが目指しているものは一見人種差別のない平等な社会と思われるが、実態は個々人のアイデンティティを奪うことにより民衆の自我を押さえつけて支配しようという全体主義を目指しているのではないかという悪夢のように思われる。そのような社会は全く魅力的でないと瑠璃は考える。やはりそれぞれの文化や伝統の上に瑠璃自身が存在している以上、その延長線上に人権重視や人種差別の撲滅は来るべきものである。それでなければそれぞれの国や地域に属している人たちに幸福をもたらすことはないであろう。それが現在瑠璃が至った結論である。そのために瑠璃はここにいるのだ。分不相応に皆からアイドル扱いされていることは大いに不満であるが、それでも世界がそれを求めているのであれば甘んじてその役割を演じようといった決意は彼女の中で既になされている。そのうえでいかにして多くの人々から彼女の考えに対しての賛同を得るのかが今後の彼女にとって重要な目標となるであろう、そのような考えが彼女の中で徐々に芽生えつつあった。
運営側がざわついている。どうしたのかを確認すると日比谷通りにとどまっていた群衆の一部が先の方へ進んでいるということである。どこを目指しているのか定かではないが皇居を目指しているのであれば大事であるという説明がなされた。それを受けて島村瑠璃は彼らを止めようと皇居前広場へと向かった。轟太も彼女と同行した。そのあとを追って町田総合病院の看護師である早川仁美が続いた。機動隊が出動するなら負傷者が出るかもしれないと考えたからである。予想にたがわず群衆の一部は皇居を目指しているようだ。島村瑠璃は必死で群衆に向かって日比谷公園に戻るように説得した。
「皆さん、皇居前広場でのデモは許可されていません。至急日比谷公園にお戻りください」
群衆からは島村瑠璃の説得に対して反論の声が上がった。
「日比谷に入れないんだから仕方ないだろう」
「道を開けろ、邪魔するな」
「皇居を目指せえ!!」
「天皇は不当な人体実験の責任を取って退位せよ!!」
「天皇は謝罪せよお!!」
皇居前広場に向かった群衆は殆ど暴徒化しているようだ。島村瑠璃の必死の訴えも届いていないようである。瑠璃は天皇批判のシュプレヒコールに大きな違和感を抱いた。この人たちは何者だろう。私たち、多くのデモ参加者とは異なる目的でデモに参加しているのではないか。ひょっとしたら過激派なのかもしれない。瑠璃は必死になって彼らを阻止しようとする。轟太も早川仁美も同様である。他にも運営側から行進を止めようと応援が駆け付けたが多勢に無勢であった。群衆の圧力に押されて彼らに混じって皇居前広場についてしまった。
皇居前広場では群衆が皇居に向かったという情報を受けて機動隊が緊急出動していた。二重橋前の坂道の上で対峙している。暴徒と化した群衆は機動隊に向かって何か叫んでいる。
「デモは民衆の権利だ!公権力は即刻退去せよお!!」
「民衆の権利を守れえ‼」
「天皇は不当な人体実験の責任を取れえ!!」
「天皇制はんたーい!」
「謝罪!謝罪!謝罪しろお‼」
群衆は坂道前の立ち入り禁止を示す柵の前まで押し寄せている。何もわからずについてきた群衆も次々に入ってくるので圧力で前に押しやられる。島村瑠璃たちも最前列に近いところで立ち往生している状況である。
「皇居に入れろお‼」
「天皇は民衆のために働けえ‼」
群衆は狂ったように二重橋前で叫び続けている。坂道の上にいる機動隊は盾をかまえて皇居への侵入を絶対阻止する陣形を整えている。機動隊員たちの緊張が伝わってくるようだ。これ以上進むと機動隊から威嚇射撃があるかもしれない。島村瑠璃は必死にこれ以上進まないように注意した。それでも群衆の圧力は止まらない。一歩ずつ前へと向かっている。大変危険な状態だ。その瞬間一発の銃声がとどろいた。
「バアアン‼」
群衆はその爆発音で凍り付いた。そして静寂が訪れた。機動隊員たちはその銃声に反応して陣形をさらに固め中には銃口を群衆に向けている姿も認められる。そのわずかな時間の中で一人の若者が柵の中に飛び込んだ。カーキ色のダウンジャケットを着てジーンズにスニーカーのいでたちである。ずんぐりとした体形だ。柵の中に入った彼はよろよろとしながら前へ進みだした。何かぶつぶつとつぶやいているようだ。瑠璃は若者を止めようと柵を乗り越えて若者に大声で声をかけた。
「ダメえええ、戻りなさああい‼」
その瞬間若者はダウンジャケットの内側に右手を突っ込み何かを取り出そうとしている。機動隊員たちは若者に向けて銃口を向けている。次の瞬間若者がダウンジャケットから右手を引き出した。その手には短銃が握られている。ベレッタ92だ。後ろの群衆は静まり返って何が起ころうとしているのか固唾を呑んで見守っている。静けさの中、瑠璃の悲鳴がひときわ目立った。
「いやあ、やめてえ、やめなさあい!!」
若者はゆらゆらと足取りをふらつかせ、ゆっくりと銃を構えようとしている。
第一機動隊小隊長の三上静香警部補は目の前でフラフラと歩いているおそらく十代と思われる若者に対し戸惑いを覚えていた。昨夜の大隊長の指示では過激派がデモに混じって皇居前でテロ活動を行うというものであった。武器の使用も考えられその場合は射殺してもよいとの許可が出ている。確かに群衆の中から威嚇射撃でリボルバーの発砲があり目の前の若者はダウンジャケットから短銃を取り出そうとしているようだ。しかし明らかにこの若者は場馴れしているようには見えず足元もふらついている。自分が何をしようとしているのかはっきりとした目的も持っていないようだ。射殺して彼の人生を終わらせることは果たして正解であろうか。彼は単なる末端の鉄砲玉にしかすぎず射殺してしまえば組織の上のほうまで行き着けないであろう。ここは発砲能力を奪うだけでいいのではないか。
「君島、被疑者の右肩に照準を合わせろ」
「はい」
君島は一番の狙撃手であり彼の腕であればH&Kの狙撃銃で間違いなく右肩を狙える。
百瀬健太郎は意識もうろうとした中、右手に掴んだ銃をダウンジャケットから取り出そうとしていた。昨夜の今泉との計画では田代と二人でこの場所に立っているはずであった。田代は空に向けて発砲した後、百瀬に向かっていくぞといったはずだ。でもここにいるのは百瀬一人である。体中が震えている。どうしてこうなってしまったんだろう。新潟の田舎からやっと東京に出てこられたのに。新入生セミナーで声かけてきた綾瀬先輩が悪いんだ。大きなおっぱいでかわいい顔して僕を誘ってくるから騙されたんだ。革命なんてどうでもいいことなのに、みんなちやほや持ち上げてくれるから僕は何かできると勘違いしてしまった。目の前では黒い服を着た機動隊が盾の向こうで僕を狙っているじゃないか。どうしよう。おかあさん。百瀬は体の震えが止まらない。立っているのも難しい。それでも精一杯の力を振り絞って銃を構えた。でもだめだ、機動隊の顔を見られない。綾瀬先輩、僕を頑張ったねと褒めてくださいね。震えながら引き金に指をかけた。怖くて目を瞑ってしまう。頭が重たい。誰かが後ろで叫んでいる。女の人のようだ。
瑠璃は前にいる若者に向かって必死に叫び続けた。
「君、戻りなさい。早く戻りなさい。機動隊はあなたを狙っているわ。死にたいの」
瑠璃の必死の叫びにもかかわらず若者は震えながらダウンジャケットから何かを取り出したようだ。銃の様である。本物だろうかと、とっさに瑠璃は思った。そして若者は震えながら銃を構えている。腰は引けて頭も下がってみっともない構えだ。なんという最悪の状況だろう。私たちの真剣なデモ行為をテロに利用するなんて。何をこの若者は考えているのだろう。体が大げさに震えているではないか。そんな状態で何ができるというのだ。情けない若者。上空にはドローンが数台止まっているのが見える。報道だろうか。警視庁のものかもしれない。瑠璃は意を決して若者の行動を阻止することにした。そして一歩前に踏み出した。
三上小隊長は目の前の男が銃を構えて震える指先で引き金を引こうとしているのを確認すると狙撃手に命令した。
「撃て!」
「シュッ」
発砲音が耳に届いた。それと同時に若者が倒れこんだ。撃たれたのだろうか。その瞬間、瑠璃は体に強い衝撃を覚えた。踏み出して前に傾いた体が衝撃と共に後ろへ激しく叩きつけられた。目の前にはどんよりとした鈍色の空が見える。瑠璃はそろそろ降ってきそうだなと思った。左胸が熱い。なぜかしら意識が遠のいていっているようだ。だんだんと朦朧としてくる。周りには人が集まってきているようだ。ざわざわしている。うるさいなと瑠璃は思った。静かに寝かせてもらえないのかしら。ぼんやりと考えていると懐かしい両親の顔が瑠璃に微笑んでくれている。そしてばあちゃんの顔、じいちゃんの顔、愛しているよって言ってくれた時の顔だ、じいちゃん、瑠璃も愛しているよって言いたかったのにすぐに部屋に戻った時のじいちゃんの悲しそうでいて瑠璃のことを誇らしそうに見つめていたじいちゃんの顔、そして烏帽子を被ったふくよかな白河さん、ほんとの白川さんは筋肉質でハンサムなナイス・ミドルなのに、このふくよかな白河さんが愛おしかった。胸がとても熱いのにとても寒い。体中が冷たくなっているようだ。もう何も見えなくなってきている。誰かが、必死に私の名前を呼んでいる。この声は誰だろう。そうだ。太君。私の年下のかわいい恋人。痩せていてハンサムで長髪な学内の女子大生にモテモテの恋人。太君、今朝は一緒にお風呂に入ったね。洗いっこもしたよね。太君のアレ名前みたいに太くて、たくましかったよ。太、元気でね。強く生きるのよ。私のことは忘れて取り巻きの中から一番合う子を選んで幸せになってね。私、太のことずっと見守っているから。瑠璃はだんだんと目の前が真っ白になっていき、意識も薄れていくのを感じた。
瑠璃が撃たれた。轟太は目の前で撃たれて倒れこんだ瑠璃に駆け寄った。早川仁美もすぐに駆け付けて止血を行おうとしている。しかし銃弾は心臓を打ち抜いたようで流血が止まらない。瑠璃の回りは古くてくすんだ緋毛氈が広げられたようにどんどんと赤黒く染まっていった。早川は血が止まらないにもかかわらず泣きながら一生懸命瑠璃に止血を施している。前の方では機動隊員が駆け付け若者を拘束している。そして瑠璃たちに駆け寄り無線で救急車の要請をしているようだ。太は瑠璃の横に片膝ついて必死に瑠璃の名前を叫んでいる。一瞬、瑠璃の両眼がうっすらと開いた。そして太の存在を確認すると力のない声でそれでも振り絞るように太に話しかけた。
「太、げんきでね。つ・よ・・・・く・・・・・・い・・・・・・」
瑠璃の瞳は静かに閉じられそれ以上その口から言葉が発せられることはなかった。太は早川を押しのけ瑠璃の上半身を抱き起して叫び続けていた。