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独立!東京都国  作者: 立花優房
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第三章 愛と正義の狭間

 土曜日の午後六時、島村瑠璃は自宅で夕方のTNNニュースを見ていた。そこではアナウンサーが今日の午後行われた比叡山と京都府内の僧侶たちが中心となって行っている京都御所でのデモが十万人規模に拡大したと話していた。府民の間でも僧侶たちへの賛同は着実に広がっているようである。しかし孫英玲知事の支持率は依然六十パーセントという高いものでもある。ネット内では情報操作が行われているのではないかとのもっぱらの噂だ。熊田大僧都の演説を流していたのだが、画面はアナウンサーの立花香織に切り替わった。その背景では国際的音楽家の細田真二の顔が映し出されている。立花はニュース原稿を読み上げている。

「京都の僧侶によるデモについて各界から様々な批判の声が上がってきております。まずはニューヨーク在住の細田真二さんの声です」

「日本に居ると実感が持てないのかもしれませんがニューヨークでは、いえ、ここに限らずアメリカ全土で京都のお坊さんたちによる人種差別ととれるデモについて大批判が繰り返されています。タイム・ターナーのニュースサイトでは連日のように日本国内での人種差別事件のニュースが大々的に取り上げられているのです。日本人として相当肩身が狭い状況にあることを日本に居る人たちには理解していただきたいですし、日本政府にはしっかりとした対応をとって欲しいというのが僕の考えです」

「続いてパリ在住のデザイナー森田和美さんからのメッセージです」

「パリでは日本の僧侶の人種差別デモに反対するデモがエッフェル塔広場で明日行われる予定です。お坊さんたちの訴えは日本人として理解できるのですが、やはり今の国際情勢を顧みない前時代的な行動とパリ市民からは受け取られています。もっと世界に目を向けてくださいと京都のお坊さんたちには言いたいですね」

「大変手厳しいお言葉が各界の著名人たちから続々と寄せられております。他にはMETAL BoysのギタリストTOSHIROさんや、テニスの福田直美選手、プレミアム・リーグの新原直人選手、カンヌ映画祭でパルムドール賞に輝いた小島昌子監督、作家の太田和代さん、そして世界的建築家多田仁さんなどから京都御所でのデモについて批判的な声が届いています。今日はゲストとしてジャーナリストの久富幸太郎さんにお越しいただきました。久富さん、今回の京都でのデモについて国内では同情的な声もあるのですが海外からは批判的な声が目立ちます。それについてどうお考えでしょうか」

「あのね、まず言いたいのは京都の坊主たちは何で時代錯誤のことをやっているんだということだ。坊主なら慈愛の心でもってどーんと移民を受け入れるべきでしょう。大体自分たちのことしか考えていないから歴史的に見ても信長に攻められているじゃないか。いま、世界は男女や人種の区別もなくして、そのうえで国籍もなくし世界中の人々が一つの国に固まらないように人口の再配分をしていくことで貧困を撲滅していこうとしているんだよ。そのための百万人移民受け入れ計画なんだ。今後は日本からアセアン地域への移民が計画されることになるはずだ。東京も大阪も外人の人口が四十パーセントに達しようとしている中、京都や福岡、札幌などは積極的に移民を受け入れないといけないことがわかってない。たいへんけしからん。それに」

「あ、すいません。ここで速報が入ってきました。中国東方電視台によりますと今日、午後四時に海南電子有限公司の魏偉総経理が中国警察に逮捕されたようです。容疑は海外要人への総額五十億円にも上る不正献金とのことです。その中にアメリカ合衆国大統領クリストファー・マッコイ、日本の大沼広樹総理大臣、ドイツのエレン・シュミット総理はじめ、先進諸国のリーダーたちの名前が挙がっております。大沼総理へはトミー電子工業への融資という名目で迂回献金として五億円を不正に献金したと報告されています。久富さん、これが事実とすれば世界中が大混乱に陥ることになりかねませんね。いかがでしょうか」

「うーん、誠にけしからん。大沼君一刻も早く辞任したまえ」

 島村瑠璃はこのニュースに驚愕した。彼女たちが立ち向かおうとしているその相手の大きさを思い知らされたようだ。マッコイ大統領の件はあらかじめ白川から聞かされていたので驚きではないのだがまさか、大沼総理やドイツのシュミット首相にまで及ぶとは想定外であった。しかし釈然としないのはマッコイ大統領や、大沼総理そしてシュミット首相はいずれも親中派と考えられているリーダーである。彼らを失脚させることにどのようなメリットが中国にあるのだろうか。今、内乱中の中国であるがそれは国際金融の影響力を排除しようとして起こった内乱のはずである。それなのに彼らの失脚により国際金融とより近い、エイミー・ディキンソンやキャサリン青木が政権の座に就けば共産党政権にとって大変憂慮すべき国際情勢となりその政権崩壊につながり兼ねないこの逮捕である。そう考えると呉亮国家主席と敵対する国際金融と結びついた勢力によるものであるのかもしれない。瑠璃にはこの事態の急転がどのような意味を持つのか全く想像できなかった。それに加えて久富幸太郎が話していた国籍をなくして人口の再配分を行い、人口の平準化でもって世界から貧困を無くすという計画も初めて聞くものである。そのような世界になれば世界中の民族が培ってきた歴史や文化そのものが壊滅的に破壊されて一般の人々の生きる拠り所のようなものが失われるのではないだろうか。その結果が招くものとしては一部の人たちだけが富を独占してそれ以外は新たに植え付けられた価値観のもとに生きることを強制される世界になるのではないかと瑠璃は漠然と思いを巡らせた。それを阻止するためには今インディーズ・ウェブ内で行われている教練を拡大させ全国的な組織に一日も早くしなければならない。もはや残された時間はないように瑠璃には思われた。そしてこの運動は日本国内だけの展開では巨大な敵に立ち向かえるはずがないことも今日のニュースで思い知らされたのである。まだ第一歩を踏み出したばかりだというのに早すぎる展開に戸惑うばかりであった。

 瑠璃は動揺する気持ちを静めながら静かに床に着座して座禅を組んだ。自分の往くべき道筋が見いだされるといいのだがと思いながらも雑念をすて瞑想に耽るのであった。


 永田町にあるホテルのレストランのVIP専用の個室である。ここはVIP専用の駐車場からエレベーターで直通なので人目を気にせずに会食できるようになっている場所だ。中華の円卓には孫英玲京都府知事、福島百合子東京都知事そして五代礼三自由党幹事長が着席していた。五代は北京ダックをライスペーパーで包みながら話した。

「孫さん、坊主連中が大騒ぎしている中、支持率六十パーセントとは恐れ入ったな。その秘訣を大沼総理にも教えて欲しいもんだね」

「幹事長、その節は大変お世話になっております。特に各界の著名人の支援には感謝しきれません」

「僕は何もやっとらんよ。皆さん、京都の坊主どもの行いに憤ってのことじゃあないのかね」

「幹事長、東方電視台のニュースは事実なのでしょうか」

「僕は知らんよ。捕まったのは事実のようだから向こうですでに絵は描けているんじゃないのかな。とにかく、マッコイはもう終わりだろうし、大沼君も不正献金が有ろうと無かろうとマッコイと共に退場だろう。そうなればエイミー・ディキンソンと相性の良い青木君が次期総理だろうね」

「キャサリン青木ですか。若すぎやしませんか」

 福島百合子が訪ねる。

「福島君、男も女も老いも若きもましてや人種もない時代だよ。実力があれば女性で若くても適任じゃないかね」

「実力ですか」

「そう実力。この世界誰に付くかも実力のうちだろう」

「そうですね」

「僕はあと十年は今のポジションにいるつもりだ。そうすれば青木の次は誰でその次はどうか、楽しみなことだな。はっはっは」

「今日この席に呼んでいただきまして光栄です。幹事長」

「僕もだよ。将来の総理候補二人にそれも美女に囲まれて中華を食べるなんて至極の極みだな」

 孫英玲が五代に尋ねた。

「幹事長、それにしても久富さんのあの発言は問題ではないでしょうか。京都府民の反感を買いかねません。私は台湾からの帰化人ですが、この国の文化は好きですし国民を尊重しています。あの久富の発言は府民どころか国民の反発を招きかねません」

「確かに久富の奴は口が軽すぎるな。彼はもういい年だから引退してもらうのが一番かもしれないね。フェイクニュースを流したことを謝罪したうえで引退してもらおう。ただし百万人の移民計画は粛々と進めてもらわんと困るよ。そのための支持率六十パーセントだろう。各界の著名人があれだけ京都の坊主の蛮行を非難したからおそらく明日の世論調査では七十近くまで行くかもしれない。君たちに言っとくが我が国は十年以内にあと二千万人の人口増加が必要なんだよ」

「二千万ですか」

「そうTPP内で強いリーダーシップを維持するためには少なくとも一億人以上の市場を確保していなければならないのだ」

「無理じゃないでしょうか」

「無理してでもだ」

「なぜそこまで無理して人口増加しなければならないのですか」

「GDPを増やすためだよ。いくら無人工場で生産しても消費市場が小さくてはGDPすなわち国力が伸びないからだよ」

{TPP域内での市場拡大では足りないのですか}

「そうだ」

「ど、どうしてでしょうか」

「ここだけの話だがね、孫君、近々NCCの稲垣会長と浪花自動車の名和社長が君の所へ面談に行くはずだ。舞鶴での新規工場建設の議題でね」

「はい、アポは受けております」

「関西繊維で今後、カーボン・ナノチューブの生産が始まるだろう。浪花自動車では軌道エレベーターの貨車を新工場で作る予定になっている。NCCではその全体の制御を行う装置などの製造だ」

「軌道エレベーターですか」

「そうだ。五葉重工のロケットと合わせて軌道エレベーターの実用化を十年後目指してやる計画なんだよ」

「大きな計画ですね。アメリカはこの計画に入っているのですか」

「アメリカの協力は考えていない」

「政治的な了解がなければ実現は難しいのではないでしょうか」

「だから大きな市場確保が現在の最大の課題なんだよ。まあ、現実的なことを言えばアメリカのビッグテックとは相互に協力していくことになるだろう」

「国際金融との協業ということですか」

「想像に任せるがね。ただし計画はその先がある。火星への移住だ。そのための軌道エレベーターの設置であって、その先の火星へのシャトル計画を五葉グループが担うことになる」

「あまりに大きな話でついていくのが難しいです」

「はっはっは。今夜のところはそのようなほら話を真剣に考えているということを心に留めておけばいいだろう」

「わかりました。微力ながらも力にならせてください」

「孫さん、あんたの日本愛はよくわかった。ただ心を鬼にしてでも百万人の移民計画は実効してもらわなければいけませんな」

「鬼にですか」

「そうだ、僕はこの国のためならいくらでも鬼に魂を売ることは厭わないつもりだ」

「わかりました。尽力いたします」

「それでこそ将来の総理大臣だ。誠に頼もしい。はっはっは。そうそう、せっかくのおいしい中華が覚めてしまう。話はこれくらいで美味を堪能してくれたまえ」

 五代は物事がとりあえず彼の描いたシナリオに沿って進んでいる様なのでいつになく饒舌である。二人の女性知事はここまでの話を五代から聞かされてもう後戻りができないことを悟ったのであった。後戻りは直ちにその政治生命どころか自身の生命の終わりと感じ取った。あまりにも壮大な計画に心は重く押しつぶされそうになり中華の味をもはや楽しむ余裕は露ほども無かったのである。


 首相官邸ではアメリカ大統領クリストファー・マッコイから緊急で電話会談の要請が入ってきた。大沼は即座に別室に向かい通訳も付けずに一人で対応することにした。

「ヒーロー!随分ご無沙汰だけど元気か?」

「元気なわけないだろクリス。明日からどう対処していこうか今考えているところだ。そっちはどうだい?大統領選に相当影響しそうだが」

「そうだな。タイミングが悪すぎる。選挙まで二週間余りしかないタイミングで国民への影響は大きいだろうし、それをひっくり返すには時間が限られすぎているので全く不利な状況だ」

「この件は国際金融側が一挙に日本、アメリカとEUを支配下に置こうという謀略だろう。用意周到に計画が練られてきたようだ。中国の内乱を上手いこと利用している」

「ヒーロー、この電話の後、呉亮とも話す予定になっているがヒーローも付き合ってくれるか」

「ああ、了解した。こちらも確認したいことが山ほどあるのでね」

「それにしてもありもしない不正献金を事件化しようとは、敵は準備万端で宣戦布告してきたようだ。こちら側では大口の献金先と海南電子からの迂回献金がないか大至急調べているけれども、今のところその可能性はないようだ。小口献金であればもはやお手上げとしか言いようがない」

「クリス、こちらの状況も同じだ。トミー電子の古賀会長の方で海南電子関連の取引を確認しているところだ。古賀の話では会計上は問題ないということだが国際金融の工作員が入り込んで架空取引を巧妙に隠している可能性はあるかもしれないということだ。どちらにせよ身の潔白のためにというよりは、お互いの国益のために国際金融の謀略を表にさらけ出す段階にきているのかもしれんね」

「ああ、そうならないことを祈るばかりだ。こっちはてっきり息子のハニトラ・スキャンダルで打ち止めと思っていたのだが考えが足りなかったと反省しているよ。敵はなりふり構わずに攻勢をかけてきているようだな。仮に大統領選で負けても国民レベルの運動でエイミー・ディキンソンを退任に追い込まなければならないと考えている。彼女の政策の目玉である仮想通貨グローバルポケットの五十パーセントの普及は絶対に阻止しないと国の存在がなくなることにつながり兼ねない。敵の狙いはそこにあるのだろうな」

「クリス、まったく同感だ。こちらも最悪の事態を考えて市民レベルの運動は考えている」

「あのブッディスト・マンクのデモか」

「ああ、そうだ。あれは私が計画したものではないのだが今、秘かに支援をしている。仮想通貨の件を大々的にぶち上げる東京での大掛かりなデモの計画は考えているところだ」

「五代の様子はどうなんだ?」

「相変わらずだ。キャサリン青木を総理にするために党内で蠢いている。五葉重工を通して財界は一本化しつつあるらしい。クリス、よくわからないのだが五代と五葉重工が東京の山奥でユニ・グローブと組んでやっている知的障害者への人体実験のことだが、あの目的は何か知っているか?」

「こちらの解析ではどうも遺伝子情報の書換えによって人畜無害の人間を作り出したいらしい」

「その目的は?」

「おそらく火星移住だろうとこちらのシンク・タンクは読んでいる。彼らエスタブリッシュメントがテラフォーミング後の火星に移住するための試験移住としての人材を遺伝子情報書換えにより作り出して送り出すことではないかとね」

「テラフォーミングはそんなに早く実現できるのか?」

「ああ、十年後には移住環境が整うらしい」

「考えていたよりも早いな」

「我々は貴族と奴隷が住む火星は断じて許容できない。今、彼らを弱体化させないと手遅れになりそうだ」

「わかった。そのためにお互いこの難局に対処しないといけないな」

「ああ、そうだ。丁度呉亮から連絡が来ている。ヒーロー、OKか?」

「クリス、こちらはOKだ」

 中国の国家主席呉亮が会話に入ってきた。

「ニーハオ、クリスとヒーローさん、ウー・リャンだ。今日は中国の不満分子による魏偉の逮捕があったがこちらで処理しているところだ。そちらへ問題が広がることはないだろう」

「もうすでにフィラデルフィア・デイリーが速報を流し始めている。問題は大ありだ。どのような処置を行ったんだ?」

「長安電気汽車の李平を国家反逆罪で逮捕した。これで国際金融はこれ以上動けないはずだ」

「リャンさん、ヒーローだ。李平を十分に保護下に置かないと、重慶警察へはドラゴン・クローのスパイが多数入り込んでいると聞いている。偽装自殺を防ぐよう全力を尽くしてくれ」

「ヒーローさん、無問題。こちらは万全を尽くしている」

「何とか李平とエイミー・ディキンソンの癒着を立証してくれ。たとえ大統領選に間に合わなくとも選挙人選挙前までに彼女が国益を無視した大統領不適格者と立証できればそのバックにいる奴らの陰謀を阻止できる」

「クリス、分かった。全力を尽くす」

「リャンさん、国内の内乱状況はどうなっている」

「ヒーローさん、無問題。すべてこちらの管理下で処理されている」

「リャン、早く収束することを願っているよ」

「謝謝。クリスとヒーローさん、再見」

「グッドナイト」

「グッドナイト」


 開けて月曜日、臨時国会は大沼総理への中国海南電子有限公司の迂回献金疑惑のため大波乱の様相を呈していた。党首討論で新民党代表白麗美が大沼総理の不正献金疑惑を鋭く追及していた。

「総理、中国の東方電視台のニュースによりますと広州の海南電子有限公司よりコニー電子工業を通じて過去十年にわたり総額三億円もの献金が総理の政治資金管理団体へ迂回献金されていたと報じられていますがこの件の真偽についてお答えください」

「土曜日のニュースを受けて調べてきましたがそのような事実は見つかっておりません」

「私たちの調べではコニー電子より毎年一億円もの献金が党の政治資金団体へ献金されているではないですか。その中の五千万円が海南電子からのものではなかったのですか」

「コニー電子は三十年以上にわたりわが党へ一億円の寄付をしていただいております。この件は情報開示しており透明性をもって資金管理しておりますので海南電子からの迂回献金でないことは間違いありません」

「十年前といえばあなたが総務大臣であったころ6Gの通信インフラに海南電子の設備を導入していますね。その時の見返りとしての献金ではないのですか」

「NCCのインフラに関してのお問い合わせかとは思いますが当時は競争入札でNCC側が適正価格で最終的な業者の選定を行ったと理解しております。私がその採用に関わったという事実はございません」

「中国側ではこの件ですでに逮捕者が出ているのですよ。総理、もはや言い逃れはできない状況ですよ」

 白麗美の追及は終わる様子を見せずに最後にコニー電子会長古賀大三の参考人招致を要求して四十五分の持ち時間を終えた。

 その後も野党党首による大沼総理の献金疑惑の追及に終始して国会は混迷を極め与野党国対委員長の会談によりコニー電子会長古賀の国会招致が翌週月曜日に決まったのであった。その後配信ニュースは連日のように大沼総理とコニー電子、NCCの癒着と海南電子がどのように日本市場への参入に両社の支援を受けたのかの報道がなされた。それにより国民の支持が四十パーセントを超えていた大沼内閣であったが支持率急落が予想される展開が起こっていたのである。その最中の木曜日週刊春秋が配信された。そのトップ記事は何と第一野党党首白麗美への中国長安電子汽車有限公司による迂回献金疑惑である。年間一千万円が日本のダミー企業を通して過去五年にわたり続けられたという報道である。そしてこの不正献金には与党自由党の大物政治家が中心的役割を果たしたという内容だった。この報道に大手のメディアは沈黙を守りひたすら大沼政権批判を繰り返していたのだがネット内では徐々に自由党の大物政治家による大沼降ろしとそれに対抗した大沼側の権力闘争との見方が広がっていった。その間に各メディアが行った週末の世論調査では大沼内閣の支持がかろうじて四十パーセントを保つといった結果になった。同時に行われた政党の支持率では与党自由党は十ポイント落として三十パーセントをかろうじて守ったが野党第一党の新民党は十五パーセント落として一ケタ台に入るといった結果に終わった。

 明けた月曜日の午前八時に東京国税局査察部が白麗美の個人事務所に入ったという一報が国会内を駆け巡った。十時にはコニー電子会長古賀の参考人質問が行われ、新民党副代表の田代健司がトップバッターとして質問を始めたのだが古賀から重要な言質を取ることはできなかった。昼前には参考人質問は何の成果もなく終了したのだがその間マルサにより白麗美の私設秘書が脱税容疑で摘発されたという大ニュースが国会内に入ってきた。事態は大混迷を迎えてしまったのである。メディアも含め国民は白の逮捕そして自由党の大物政治家まで司直の手が届くのか注目していた。白の第一秘書金田吉美は脱税及び私文書偽造の嫌疑で逮捕された。検察の追及は弁護士の立ち合いの下、行われたのであるが真相まで及ぶことはなく金田個人による犯行として送検され金田自身は逮捕後七十二時間後に保釈された。保釈後弁護士に付き添われ自宅へ向かった金田であったが木曜日の朝、担当弁護士により金田の遺体が浴槽で発見された。ダイニングに残された彼女の通信端末には遺書らしきものが残され、それには白代議士に迷惑をかけたことへの謝罪が書かれていたのであった。これにより一連の不正献金疑惑は真相まで行き着くことができずに世論に大きな不満を残したまま幕を閉じることになった。この政治の不誠実な動向は世論の反発を招きその週末の世論調査では大沼内閣と自由党の支持は二十パーセント前半にまで落込んだのである。しかし同時に行われた野党の支持率はすべて足しても十パーセントに満たないと惨憺たる結果に陥り世の中は政治不信という大嵐に突入していった。

 アメリカの大統領選挙も混乱の中にあった。中国当局による長安電気汽車有限公司総経理李平の逮捕とアメリカ大統領候補エイミー・ディキンソンへの不正献金疑惑は全共網により世界中に配信されたのであるがアメリカのメジャーな配信局は取り上げることはなくマイナーな配信局のみで配信されたのであった。ネットを中心にマッコイ大統領支援が行われていたのだが一度反マッコイに傾いた世論を動かすには時間が十分とは言えず十一月の第一火曜日である五日の選挙を迎えたのである。即日開票が行われたのだが結果はエイミー・ディキンソンが現職のクリストファー・マッコイを獲得選挙人数二百七十八対二百六十という僅差で破りアメリカ合衆国大統領の座を射止めたのであった。選挙結果が出た後マッコイ大統領は日本で起こった白麗美の秘書の長安電気汽車からの不正献金疑惑での逮捕とその不審死を公表しエイミー・ディキンソンに対し長安電子汽車総経理李平との関係を説明せよと公開質問を行うに至った。このメッセージに対し大手ニュース配信局は沈黙を守ったのだがネット内で反ディキンソンの運動を起こさせることになりそのうねりは静かに広がっていった。

 一方、エイミー・ディキンソン当選のニュースの翌日日本では支持率低迷の大沼総理降ろしの動きが水面下で行われていた。野党第一党の新民党党首白麗美は秘書の送検とその後の自殺により党首の座を退くとメディアに向け発表した。その後の衆議院本会議において白は最後の仕事として内閣不信任案を提出したのである。不信任案自体は否決されたのだが過半数を優に超える自由党の議席にもかかわらず自由党側からも不信任支持に回った造反議員が多数いたためかろうじて否決する状態に至ったのである。その翌週に行われた世論調査により大沼内閣の支持率は二十パーセントを切り、与党自由党の支持率もかろうじて二十パーセントを維持する状況であった。この状況を踏まえて与党幹事長五代礼三は大沼広樹に対し勇退を求めたのである。大沼は自身の勇退と引き換えに懐刀の三枝英人官房長官への禅譲を条件とするが政党支持率が低迷している中、三枝では政権がもたないと五代に即座に却下される。党内は大沼対五代の闘争に至ろうとしていた。そこに登場したのが重鎮である神足修一大勲位である。彼による裁定で大沼にキャサリン青木への禅譲を決定したのであった。ただしここまでの筋書きはすでに大沼の中でも描かれていたものであり、神足の裁定により大沼はある意味党内勢力を維持しながら反主流派として自由に活動できる位置を確保できたのであった。このような中で国会議員及び党員による総裁選挙をひと月後に行うことが決定された。


 柚木クリスティーンは横浜にある孤児院明星学園に取材スタッフとともに訪れていた。町田総合病院の看護師早川仁美からひそかに転院していた知的障害者の情報を得た柚木であったが、いずれの患者も親類縁者はいないか、いても遠縁で関わり合いになりたくない状況であった。唯一八歳の城戸孝明君は誕生直後に遺棄されていたのを、ここ明星学園に引き取ったという経緯がある。園長の滝川恵子によると孝明君は生まれつき発達障害があったのだがそれでも五歳まではここ明星学園で世話をしていた。他の園児たちも彼の面倒をよく見ていて特に問題等はなかったのであるが小学校入学の年が控えていたので市の相談員と話し合ったところ設備の整った養護施設へ入ったほうがいいとの勧めに従い、三年前に川崎の幸寿園を紹介されてそこに孝明君を転園させたのであった。当初は毎月孝明君の様子を確認しに幸寿園を訪問していたのだが、彼が落ち着いた状態であったので入園後一年を過ぎたころから幸寿園の訪問は行っていないとのことであった。その理由はやはり孤児院の園長といえども知的障害者たちが集まった施設を訪問した際の居心地の悪さにいたたまれない気持ちを抑えることができずに足が遠のいてしまったというものであった。

 滝川園長にとっても城戸孝明君の幸寿園からの転出は初めて聞く話であったので少々合点がいかない様子であった。柚木が孝明君の転院先の幸寿園を尋ねてくれないか要請すると滝川は快く引き受けた。柚木とそのスタッフたちは滝川の応対に全く不自然な態度は見られずこれ以上の新たな情報が入手できそうもないので礼を述べて明星学園を後にしたのであった。

 明星学園を出た後カメラマンの森本が柚木に話しかけた。

「柚木さん、孝明君のこと考えると不憫ですね。親から捨てられて孤児院で育つも、そこにも居場所がなくなって障害者施設に入れられた後、今度は人体実験の被験者にされたんじゃ、彼が何のために生まれてきたか考えるといたたまれないです。でも仮にそこで行われている人体実験が知的障害の緩和のためにということであれば、彼らのためにもなるし多少の犠牲があっても仕方ないんじゃないですか」

「森本さん、あなたの言うことわかるわ。でもその場合なぜその研究を公にしないのかしら。極秘裏に行っているからにはその理由があるはずよね。それにそんなに画期的な治療法の研究であれば森本さんの言っているようにみんなのためにもなるんだし、ユニ・グローブがアメリカで行ってその技術を独占することで莫大な利益を生むことができるんじゃないかしら。五葉重工と組むからにはそれ以外の何か極秘裏に進めたい計画があると考えるべきよ」

「そこは僕も気になっているところなんです。でもそれ以外の何かっていうのは考えていくと恐ろしいんですよ。何か善意からくるものではなくて悪魔的な試みみたいな」

「そうね。でも今、ここでそのこと考えても正しい結論には至らないことは確かね。もっと情報を集めて真相に迫らないと彼らの計画が見えてこないわ」

「孫英玲が進めている移民計画も元々は五代礼三の考えていることじゃないですか。移民計画と今回の障害者の謎の転院は繋がっているかもいしれませんね」

「そこを公の目にさらすのが私たちメディアの役目でしょ」


 その夜、柚木のところに明星学園の滝川園長から連絡が入った。滝川によると幸寿園に城戸孝明の現状を確認したところ症状が悪化したので最新の設備が整った総合施設へ転院させたということだった。転院先を聞いたのだが、そのことは園長が一手に取り仕切っているので実務者レベルではわからないというものであった。城戸孝明の悪化状況に関しても甚だ的を射ない回答で誤魔化していることが強く感じられたようである。それ以上の情報は得ることができなかった旨の説明がなされた。柚木は滝川に幸寿園でだれか協力してくれそうな人はいないかと尋ねたところ、若い男の看護師野中慶太の名前が出てきた。彼は滝川が幸寿園を訪れた際いつでも応対してくれて、城戸孝明の状況も親切に教えてくれた。誠実さが感じられる青年とのことである。しかし野中慶太がそれ以上の情報を持っているかについて滝川は甚だ疑問であった。最後に柚木に対して城戸孝明の安否確認をお願いしますと言って会話は終わった。

 滝川とのビデオ会話の後柚木は知り合いのルポライター杉本照男に連絡を取り至急会えないか尋ねたところ明日の午前十時に歌舞伎町のルノアールで落ち合うこととなった。


 新宿歌舞伎町の喫茶ルノアールの地階である。ここは今では数少ないコーヒーと共に喫煙できる喫茶店である。都内ではもはや数えるほどしか存在していない。この喫煙室の一番便利なことは土地柄裏社会の人間も利用するので警察の強い指導にもかかわらず防犯カメラも収音マイクも設置されておらず、その手の会合には秘匿性を保てることである。新宿警察署も裏社会のみならず表社会からの暗黙の要請によりここには設置の要請を形式上行っているのみという状況である。店内ではポールモーリア楽団が奏でる音楽が静かに流れていた。

 杉本照男は店内を見渡せる一番奥の席に煙草を吸いながら座っていた。ラメ入りのライトグレーのスーツに紺のシャツ、そして明るい薄いイエローのタイを締め濃いめのサングラスをそのブルドッグを思わせる顔にかけている。頭はもちろん角刈りである。今は午前十時だが夜には会いたくないと思わせる装いである。杉本は柚木が入ってくると軽快に右手を上げて立ち上がり手招きした。

柚木がうなずきながら近づくと周りの客も一度は目を見張るのだが、場所柄すぐに目をそらして中断した会話を続けている。ここの誰もが秘匿性を持って生きているようである。

「クリちゃん、久しぶり。見たよ、坊さんのデモのリポート。相変わらずご活躍だね」

杉本は柚木に話しかけながらゆっくりとサングラスを外した。そこには目じりが垂れた潤んだ瞳があった。まるでブルドッグそのもののつぶらな瞳で、その容姿からくる威圧感とのギャップが有り過ぎ彼の存在をマイルドなものにしている。

柚木は着席してコーヒーを頼むと、杉本に話しかけた。

「テルさん、昨日お願いした件どうだった?」

「すぐ本題とは悲しいなあ。野中慶太、幸寿園の看護師で二十七歳の男のこと?」

「そうよ。彼がどんな人でどこに住んでいるか」

「住んでいるところは幸寿園から車で二十分ほどの高津区に住んでいるようだね。同居者は妻の静香三十歳と息子浩十歳との三人暮らし」

「十歳の息子だと年が合わないんじゃないの」

「シングルマザーに誑し込まれたっていうよくあるパターンじゃないの?それで新潟市出身で両親は今でも健在で実家にいる。野中は看護大学入学のために上京してきて卒業後都内の病院勤務だったんだけど、あまりの激務に三年前幸寿園に転職したらしい」

「その幸寿園で身寄りのない障害者がいなくなっていることは?」

「それもどうも本当のようだね。連れていかれた先は八王子の山の中の施設らしい。そこでは知的障害者への学習などの最新設備が整った施設らしいんだが、まだ開設前の状況だね。ただしそれは隠れ蓑っぽくて地下で障害者に対して何か実験が行われているといった噂がある。これはまだ確証を取ったわけじゃないけどね」

「そこで何が行われているのかしら」

「さあ、そこまでは。野中が詳細を知っているとは思わないけど、彼に当たって協力してもらうことはできるかも、だね」

「それできるかしら?私が直接動きたいとこだけど目立っちゃうしね」

「いいよ、これでどう?」

 と右手を上げて開いた。

「高いわ、私もフリーランスでお金がないの、三本でどう?」

「わかった、残りは美味しいイタリアン付き合ってくれるということで」

「考えとくわ」

 そう言って柚木は立ち上がり出口に向けて歩を進めた。周りの客は一瞬その後ろ姿に目を向け柚木の容姿を堪能した後、再び中断していた会話に戻った。店内には紫煙がポールモーリア楽団の奏でる音楽の中、静かに立ち込めていた。


 その夜杉本は野中のアパートの駐輪場で彼の帰りを待っていた。街灯が明々と通りを照らす中にジーンズにスニーカーを履きブルゾンを着た野中がバイクで戻ってきた。杉本は野中の方に静かに近寄って声をかけた。

「野中さんですか。少々お話をお伺いしたいんですが」

「あ、はい、どちら様ですか?警察ですか?」

「いえ、警察のような怪しいもんじゃありませんよ。週刊ニュースに配信記事を書いている杉本照男と申します。お勤め先の幸寿園で伺いたいことがあるんですが」

「すいません。急いでますんで」と言って立ち去ろうとする。

「城戸孝明君の件なんですが」

 野中の足が止まった。

「孝明君に何かあったんですか」

「いえ、なにかあっていそうなんでお話をお聞かせ願いたい。よろしいでしょうか」

 野中は明らかに迷っているようでしばし沈黙の時間が流れた。そのあと、意を決したように言った。

「どのような話をすればいいんでしょうか?」


 野中のアパートから歩いて五分くらいのところにあるチェーンの居酒屋である。焼き鳥と揚げ出し豆腐を注文した杉本はまずビールを野中に促し乾杯した。

「単刀直入に伺います。今、八王子の山の中で城戸孝明君のような近親者のいない知的障害者を集めて何か秘密の実験が行われているという情報がありましてね。野中さん、その件で何かご存じですか」

「野中はジョッキのビールを一口飲むと話し始めた。

「うちからは四名の患者さんが送られました。ひと月程前です。チーフが園長に聞いたんですが何か国、厚労省からの指示が来てそこに患者さんを移送するようにとの話だった様です」

「近親者がいない患者さんに限ってですか?」

「そのことも聞いたのですが園長さんは偶然だろうと言ったようです」

「転院の目的について何かうかがっていますか?」

「新しい施設のほうが設備も整っていて学会の先生たちの新しいケアの方針を試験的に実行するという風に説明しています」

「まだ、その施設はオープンしていないですよね」

「表向きはそうですがすでに稼働しています。そして説明されたように新しいケアが試みられているのは確かみたいですね」

「具体的にどのようなものでしょうか」

「よくはわかりません。食事が普通のものではなくジェル状のものが何種類か出されているようです」

「内部のこと詳しいですね」

「そこに勤めている介護士と知り合いなんです。介護の実習の時に一緒のグループでしたから」

「その人からの情報ですか」

「はい、そうです」

 野中慶太の説明では、八王子にある障害者総合ケアセンターは厚労省の認可を受け五葉重工業グループの出資により設立されて、三か月前には試験的に稼働しているとのことである。杉本の記憶ではそのような施設が作られたという発表はなかったので、やはり何か極秘裏に蠢いている予感があった。表向きは日本知的障害学会の理事井上義男が顧問であり神奈川の遺伝子総合研究所にいた角田沙織がセンター長を務めている施設である。そこでは話に出た知的障害者向けの食事療法や体験学習などの新しい試みが行われていると説明がされている。ただしその中に城戸孝明をはじめ幸寿園から転入された患者の姿は見当たらないようだ。野中の友人の話ではひと月ほど前にアメリカ人らしい男女がセンターを訪問したらしいが、誰も彼らが出て行ったところを確認していないという噂がセンター内であるらしい。さらにセンターの地下に秘密の実験場があってそこで何かが行われているらしいという噂もある。その証拠としては食堂で準備されている食事がいつもきまって二十人分ほど多く、洗濯物も患者以外の入院着が、それも患者にはいないはずの子供の物が含まれているというものである。さらに最近の話では入院患者が夜中に鬼を見たとか妖怪がいると騒ぎだしているということもあるらしい。杉本は一通り話を聞き終えると何か大変なことが起こりつつあることを認識したのであった。そして杉本は礼を述べ、一万円札を二枚渡して

「私はこれで失礼しますので奥さんとお子さんを呼んでご馳走してあげてください」

 と一言述べて店を後にした。

 杉本照男はその足で歌舞伎町に戻りタイ人の総元締め的存在であるマリオ・イーラムが彼の愛人に経営させているスナックへと向かった。店内は薄暗くピンク色の照明に照らされている中、タイのポップスが流れている。カウンターとテーブル席が二つ、そして奥にはパテーションで囲われたボックス席が一つある。マリオの愛人であるママは四十過ぎの目鼻立ちがくっきりした色白のタイ人でラメが入ったタイドレスを着ている。杉本は店の中に入るとママに軽く声をかけた。

「ジェーンママ、久しぶり。相変わらずおっぱい大きいね」

「あらスギちゃん随分ご無沙汰ね。どこで浮気していたの」

「アハハ、まいったな。それでマリオは?」

ジェーンママは目でボックス席を示して

「今日はね、新しい娘、チェンライから来た娘だけどいい子よ。紹介させて」

といって奥の部屋から一人の娘を呼び出した。杉本はボックス席に向かいマリオを確認するとその対面に腰かけた。マリオの隣には若いタイ人の男が座っている。杉本がソファーに腰を下ろすと直ぐに背の低い若い派手なタイドレスを着た女性が隣に座った。ヒトミと名乗った。

「杉本さん、元気そうだね。彼はナデート、八王子の山奥の病院の建設現場で働いていた男だよ」

「マリオさん、なかなか派手にやっているそうじゃない。噂はよく聞いているよ」

「そんなことないよ。歌舞伎町ではうちは新参者だからね。でもサービスはいいよ。この娘、ヒトミ、気に入ったらお持ち帰りもいいよ」

「あ、そお、ヒトミちゃんかわいい娘だね。でも今日はちょっと忙しくてね」

「杉本さん、あんまり仕事ばっかりやってちゃ息苦しいでしょ。人生楽しまなくちゃ」

 マリオはそう言って忙しいのでと断り、ゆっくりしていってくれといいながら店を出て行った。杉本はハイボールを飲みながらナデートから障害者総合ケアセンターの建設現場の情報を得た。マリオによるとその病院の建設は五葉グループの石松建設が請け負っているのだが実際の現場は石松建設の関連企業である長光建設が仕切っていたとのことである。ナデートはそこの下請けの藤岡配線工業でビルの電装関係一般の作業に従事していたと説明した。杉本の予想通り地下四階には入院施設と医療設備が整った部屋があるようである。医療施設は他の業者により深夜に設置されて、ナデートたちの会社では日中に配線関係の敷設を行っていた。杉本はナデートに頼んで地下四階の簡単な見取り図を描いてもらった。地下四階へ行くには地下二階にある駐車場の西側奥にある二トントラックが乗れる業務用エレベーターからカードキーを使ってしか行けない地下三階の駐車場へ向かい、そこから地下四階へ階段かエレベーターで向かうことができるようだ。地下三階には他に東側に非常階段があり、その階段は地上にある配電設備が設置されている棟へとつながっていて、そこから直接外へ出られるようになっている。配電設備棟へ通じる非常口は非常階段側からは自由に開けられるのだが、棟の中からはセキュリティシステムを通してしか開けることができないように設定されている。配電設備棟へ入るのもセキュリティシステムを通してしかできず、また病院の敷地のいたるところにセキュリティカメラや収音マイクが設置されているので地下四階への侵入は非常に難しいとのことであった。しかし全棟が停電した場合には、すべてのセキュリティシステムが解除されるので、その間に侵入することは可能なようである。その場合非常用電源で復旧することは可能であるが、電力が限られているのでどのシステムを復旧するかは人の手によるとのことである。地下四階へつながる場所のセキュリティシステムを最優先で復旧させる場合、最短で三分ほどはかかるだろうということがナデートからの情報であった。杉本はその情報を入手した後、ナデートに謝礼と言って数枚の一万円札をつかませて立ち上がった。二人の会話をつまらなさそうに隣で聞きながら杉本の太ももを触ったりしていたヒトミであったが杉本が立ち上がると

「お兄さん、もう帰っちゃうの。ヒトミ寂しい」

 と半泣きの顔を浮かべながら杉本の腕をつかんだ。杉本はその腕をパーシンで包まれた彼女の尻の方に向けてしっかりとつかんで、言った。

「ヒトミちゃん、今度ゆっくりとね」


 翌日に杉本から報告を受けた柚木は、その日の夜十時に白川とインディーズ・ウェブで会うことになった。柚木はアポの時間に送られてきたインビテーションに従って進んでいくとホテルの最上階のバーにたどり着いた。東京の夜景が見渡せる窓際のソファーに男が三人グラスを傾けている姿が見えた。他にはバーテンダーと接客の若い男の子以外、人は見当たらない。その三人の中に白川の姿を認めると柚木は静かに近づいていった。

「こんばんは」

柚木が声をかける。

「柚木さん、こんばんは。今日は紹介したい人がいてね」

 白川が応対する。他の二人は立ち上がって柚木に窓際の席を進めた。

「こちらは大沼総理の秘書の宇梶さん、そしてこちらは内調の玉木さんだ。玉木さんは陸自から内調に出向しているところだ」

「こんばんは。初めまして、柚木です」

 柚木は挨拶を済ませるとボーイにグラスホッパーを注文した。

 白川は京都で行われているデモを東京で行うためにどうすべきかを話していたところだと柚木に説明した。孫京都府知事が提案している移民受け入れ計画は東京にはないのでデモを行うための大義名分が必要なのだが、決め手になる案件が見つからず困っているといった状況である。仮想通貨グローバルポケットの普及について、その反対をデモの目的としようと考えてはいたのであるが、その弊害について都民から理解を得られるのは困難であり、さらに自由な経済活動を阻害するものとして反発が予想されるとの結論であった。ボーイがカクテルを運んできたので柚木は軽くグラスを傾けて乾杯し一口飲んだ。

「おいしい。ここでは実際に飲むよりもおいしく味わえますね。感激だわ」

「一番いいバーテンダーに作ってもらっているからさ」

「私、この世界にはまっちゃいそうだわ。それでデモの大義名分の話だけど私が今つかんでいる八王子の障害者施設の違法な人体実験はどうかしら」

 玉木が興味を示して

「具体的にどのような事案なのでしょうか」

 柚木は簡単に川崎の知的障害者施設から身寄りのない四人の患者が八王子の山奥にある障害者総合ケアセンターに転院させられており、表向きの施設の中には該当患者が見当たらないこと、地下に秘密の設備があってそこでその患者たちに何かが行われているらしいこと、そしてそのケアセンターにひと月ほど前にアメリカ人らしい男女数名が訪問したまま行方が分からなくなっていることなどを説明した。それを受けて宇梶が補足説明を行った。

「その障害者総合ケアセンターは五葉重工業が主な出資者となって知的障害者の障害度緩和のための新しい食事療法とかケアのやり方とかを研究する目的で作られていますね。地下で秘密裏に行われている人体実験については聞いたことはありませんが、おそらく総理はご存じないと思いますが五代幹事長が絡んでいるのかもしれませんね」

「アメリカ人らしき人たちはどのように考えればいいのでしょうか」

「あくまでも推測ですが五代幹事長が絡んでいる五葉工重工の案件であればユニ・グローブ社の線が浮かんできますね」

「そこで行われている人体実験とはどんなものでしょうか」

 ここで玉木が何かひらめいたように話し出した。

「米軍から聞いたことがあるのですが、脳とAIを直接つないでAI内にある膨大な情報を直接脳内に送り込む実験、また赤外線や電磁波を用いた特殊カメラでとらえた映像を肉眼で見た映像とオーバーラップさせて暗視や透視映像を脳内に送り込む実験などの計画があったようです。ただしこの計画は人体実験を伴うもので被験者のリスクが大きすぎるためにアメリカ国内では認可が下りていなかったと思います。しかし同じような計画は中国やロシアでも行われているのではないかと噂されています。それで米軍の技術的優位性が保たれるのかの議論が国防総省で行われているといった話は聞こえてきています」

 白川がそれに続いて発言した。

「ナノボットを使用した遺伝子書き換えによる脳機能の改善などは考えられないのかな。技術的には十分に実現できるレベルまでナノボットの極小化も進んでいるし脳のリバースエンジニアリングも視覚や聴覚といった感覚を制御するところまでは解明できたといったリポートを読んだ記憶はあるんだが」

「理論的には実現可能なのかもしれません。しかし被験者を募っての人体実験を行えるかといった点ではまだでしょう。動物実験などでの臨床試験での確認が先でしょうね」

「中露で行われている可能性は」

「あくまでも可能性ですが否定はできませんね。しかし脳の機能というものはまだ十分解明できているのか、例えば、我々の心とか自我とか言われるものがどのように形成されているのかは解明されていません。解明されているのは五感の情報処理にあたる分野でその情報を総合的にどう処理しているのかまでは、いくつかの仮説はあるにせよいまだ定説までは至っていない状況です」

 柚木が玉木の説明を受けて疑問を口にした。

「そのような状況で例えばユニ・グローブ社や五葉重工が極秘裏にそれも日本で研究を行わないといけない理由はなんでしょうか」

 一同黙り込むが宇梶がしばしの沈黙の後、口を開いた。

「日本で行う理由は、五代幹事長が大きな理由でしょうね。現マッコイ政権ではそのような大胆な人体実験はできないでしょう。露見すれば大問題となります。そうなれば仮にエイミー・ディキンソンの政権になってもそのような実験は困難でしょうね。おそらくユニ・グローブの背後にいる国際金融グループもリスクが大きいと考えているのでしょう。その点五代幹事長は官僚機構や大手メディアすべて抑えていますので露見するリスクは少ないと考えられます」

「でもそうまでして日本でリスクの高い人体実験を行うことの目的は何かしら?軍事的優位性?」

 玉木が意を決したように話し出した。

「これはあくまでも私個人の推測ですが今、アメリカのスペース・バッファロー社で火星のテラフォーミングの試みが行われていますよね。計画では五年以内に人類の移住が始まるとのことです。人類の火星移住に向けた準備のための実験とは考えられないでしょうか。火星移住に適した人体改造などが考えられます。軍事目的であれば米軍のハッキング能力により、たとえ中露が先行していても軍事的優位性を脅かすことはないでしょう。それにロシアの技術は優れたものがありますが彼らには資金がありませんのでこの方面で大きくリードすることはまずできないでしょう。中国はまだまだ先進技術開発能力については大きな疑問があります。やはり軍事目的というよりは火星でのプレゼンスのための研究と考えられないでしょうか」

 宇梶も思い出したように発言した。

「そうですね。現在五葉重工はアメリカの北西部で自前の宇宙基地建設を計画しているといった報告もありますね」

 白川が徐に口をはさんだ。

「火星移住計画も視野に入れているんだろうけど、もっと即物的な目標と考えられないか?」

「と、いうと?」

「例えば遺伝子書き換えによる人体の若返りとか。向こうの金持ちのお年寄り連中が長生きするためにね」

「おそらくその両方とも考えることができるのではないでしょうか」

「すると八王子の地下で行われていることはGNR(遺伝子工学、超微細工学およびロボット工学(AI))の総合的な実験かもしれないね」

 柚木が口を挟んだ。

「それをデモの大義名分とするには何らかの証拠が必要です。障害者総合ケアセンターの地下施設へ行って実験現場を押さえないといけないでしょうね。そうすればその現場をニュースで配信して世論を喚起できると思うんだけど」

 白川が宇梶に尋ねた。

「宇梶さん、大沼さんに頼んでマッコイ大統領の協力が得られないかな。マッコイにとってもエイミー・ディキンソンの背後にいる組織の謀略をさらすことができれば大統領選をひっくり返せると思うんだが。特に施設に入ったアメリカ人たちの素性は向こうの協力がないと得られないと思う」

「そうですね。選挙人選挙までが勝負ですね。何とか二週間くらいを目途にプレス発表してデモへつなげて五代幹事長への追及までできれば大沼総理続投の線も出てきます。総理へはこれから連絡して明日中に首脳会議を設定してもらうように手配します」

「わかった。そうしてもらえますか。明日の同じ時間にまたここで話しましょう。私の方からインビテーション送ります」

「了解です。それでは」

 玉木と宇梶がバールームから退出した。柚木は白木と共に残っている。白木の計画や島村の状況などまだ確認したいことがある。


「白川さん、瑠璃ちゃん元気にしてる?」

「元気だよ。今、渡辺座主の下でずっと座禅組んで瞑想に耽っているようだ。面白いことに普通は実社会に戻るときにインディーズからログアウトしてアバターもいなくなってしまうんだけど、彼女の場合アバターを残したまま実社会に戻れるらしい。そして彼女はその間もずっとアバターとシンクロ続けているようなんだよ。なぜそういうことができるのかはわからないけど、渡辺座主の話では彼女が瞑想時に悟りの境地にまで至ったのかもしれないということらしい。ただ実世界とは違った仮想社会での悟りの世界じゃないかってね。今、私が構築しようとしているインディーズ・ウェブ内での統合管理システム、これは日本政府のマザーに対抗するものなんだけど、それに心を持たせるためにインディーズ内での人々の行動や言動をビッグデータとして収集している。そのデータに基づいて徐々にこのシステムの心となる元データを入力しているところだけれど、島村さんはどうもそのシステムの心とシンクロしているらしい。インディーズ・ウェブに訪問しているほかのメンバーに確認とったんだが彼女以外ではこのようなシンクロは見られないようだね。彼女はここでは特別な存在になっていくようだ」

「瑠璃ちゃんには重荷じゃないかしら。本人は少しおとなしくて人付き合いに奥手のところがあるけどいたって今どきの女の子ですよ。ちょっとかわいそうじゃないのかしら。それでメンバーの数は今どのくらいまで集まってきているの?」

「今、五万人くらいかな。渡辺座主のおかげだね。天台宗の宗徒中心に徐々にインディーズへの参加者が増えている。こちらはその対応のためにサーバー増設とかで相当忙しいんだ」

「大沼総理の任期はもう一月ないですからその間に大沼政府でやってほしいことはやってもらわないといけないですね。さしあたり再来週の週末にデモ行う場合、今日の内容だと五代幹事長と五葉重工のユニ・グローブ社との結びつきがメインのテーマになりそうです。でも間に合うのでしょうか。そうなれば相当インパクトのあるテーマですし、五代幹事長を退けてキャサリン青木の総理就任阻止は可能に思えるんですけどね」

「その件は宇梶さんと玉木さんに任せる以外ないね。私が今行っているインディーズ・ウェブ内での仮想世界の構築にはあと半年くらいはかかりそうだから、それまでは大沼総理とマッコイ大統領でいて欲しいんだけどね。そのためにはできることはするつもりではあるけれど、政治は私の得意分野ではないからね。一つできるとすれば柚木さんが今関わっているJCNのプログラムの支援であればできそうだけどね」

「白川さん、ありがとうございます。社長にその旨伝えますね。私の方では知り合いのルポライターにお願いして八王子のケアセンターの調査をお願いしていますので、何かわかれば週刊春秋で発表できるかとは思います」

「それは強い味方になりそうだね。そうすれば東京でのデモの人数がより増えることになるだろう。彼らがケアセンターに行く時に一緒に行ってもらえるといいかもしれないね」

「私たちのスタッフも同行することになりそうです。一つ質問があるんですが」

「何でしょう?」

「ここで食べたり飲んだりした場合、実世界の体にも影響してくるんでしょうか?」

「感覚は共有しているから体験したことは実世界の体でも反応はしているよ。でも実際には食べたり飲んだりしていないので実世界で栄養の補給は取らないといけない。そうしなければ体力が落ちることになるね。最もダイエットするにはいい方法かもしれないけど体力を落とさないように注意は必要になってくるだろうね」

「この仮想世界での経済活動も考えているんでしょうか」

「いい質問だね。今のところはここでいくら飲食してもタダだよ。でも、例えば本格的にシステムが始動した場合、実社会ともリンクさせる形でここでの経済活動を行うことは考えている。例えばここで買い物すると実世界で部屋に届くようなシステムを考えているけど、使い勝手についてはみんなで考えたほうがいいのかもしれない。実社会でも情報の流通がメインになってきているから、その点ではここと実社会と上手くリンクできるんではないのかな」

「面白そうですね。例えばここはどういった場所になるんですか。見たところ新宿の高層タワーの様ですけど」

「ここはまだ試験的に作った場所でこの部屋から外へはまだ出ることができないね。要人向けの接待の場所として考えている。今の季節だと富士山も見ることができるからいい場所じゃないかな」

「いろんな場所を作ることができるんでしょうか」

「ある程度のモデルがあればAIで構築することは難しくない。柚木さんはどんな場所がお好みかな?」

「私なら江戸時代の江戸の武家屋敷がいいですね。庭に築山や池があって鶴や朱鷺がいれば最高です」

「面白そうだね。柚木さんのリクエストであれば作ってみたいね。何かモデルのようなものある?」

「イメージとしては小石川後楽園かしら。できれば江戸城の天守閣があればうれしいですね」

「うん。だんだんとイメージが湧いてきた。VIPの接待は江戸城の天守閣でやるのも面白いかもしれないね」

 窓の外には新宿から多摩方面への夜景が広がり奥多摩の山々が半月の月あかりに照らされて黒々とそびえているのが見える。街の明かりがきらめく宝石のような輝きを発している中、眼下には八王子方面へ向かう、または都心へと向かう車のライトが首都高に沿って幾重にも連なっている。窓にはその夜景を眺める自分の姿が夜景の中に半透明になって映し出されている。実世界で新宿の高層ビル群から眺める夜景と違いが判らない。柚木は白川が作り出しているこの世界の奥深さを痛感せずにはいられなかった。


 瑠璃は結跏趺坐してひたすら瞑想に耽っている。座蒲の上に座っていたはずだがその感覚がまるでない。それどころか上下もない空間を浮遊しているようで、重力の存在が感じられない。実体を離れて意識のみで存在しているのかもしれないという考えが半覚醒した頭の中をよぎった。白い闇の中を彷徨っているような錯覚に襲われる。だんだんと白い闇が薄れていくと、畳の上に緋毛氈がかけられた壇上に様々な人形が並べられ、上段には金の屏風の前に男雛と女雛が並びその両側には雪洞が明かりを灯されて置かれているのが見えてきた。これは瑠璃が小さいころのひな祭りの思い出だ。毎年じいちゃんとばあちゃんが祝ってくれた。瑠璃はその時期にしか食べられなかった桃カステラが大好きだったことを思い出した。懐かしい少女のころの思い出である。近所の子が遊びに来て桃カステラを食べると瑠璃は独り占めできなくてあからさまに不満顔になり、そのことをじいちゃんによくからかわれた。

 場面は急に変わって目の前には大きなガラスの水槽がありその中で様々な魚たちが泳いでいる。エイは浮遊しているように泳いでいる。カツオは群れをつくって回遊している。ひときわ大きいのはジンベエザメだろうか、優雅に泳いでいる。ガラスの水槽が思ったよりも大きい。水槽の前では小さい女の子が左手で父親らしき男の手を握りしめ右手ではジンベエザメを指し示しながら感嘆の声をあげている様子が見える。しかしこの場面は瑠璃の記憶にはない。小さい頃このように大きな水族館に連れて行ってもらった記憶がないのだ。この子の母親の記憶とシンクロしているのだろうか。不思議に思っているとまた場面が変わった。

 若い長い髪の女が薄いピンクの病院服を着てその胸には生まれたばかりの赤ちゃんを抱いている。出産でやつれてはいるがその表情は優しさに満ち溢れ、新しい命を得て母親となった喜びが、その体全体から伝わってくるようだ。その情景は古より人が紡ぎ続けてきた命の糸を次世代へと引き継ぐことができた喜びということを表しているのかもしれない。しかしこの女は瑠璃の母親ではない。誰か別の人の記憶である。おそらくこの女の夫の記憶であろう。瑠璃は何か大きな記憶の海の中を彷徨っているのかと瞑想下の意識の中で思考していた。そして場面は再び移ろいだした。

 白い闇がだんだんと開けてくるが空気が肌を焼くように熱い。まるで高温のサウナにいるようだが温度はそれ以上ありそうだ。そして白い闇が明けきるとそこには焼けただれた肌の人たちが川の中に浮かんでいる。一人や二人ではない。数えきれないくらいのほとんど裸の人たちがその焼けただれた体を水に浮かべている。辺りは炎により明るく照らされているのだが空は黒々とした煙によって真っ暗である。手前の方では全身が焼けただれて真っ黒になった女がいる。髪の毛は焼け落ち、むき出しの乳房は高温で干からびている。まだ息はあるらしく力ないまなざしで虚空を悲しそうに眺めていた。遠くの方に以前旅行で訪れた広島の原爆ドームのようなものが見えている。ここは戦争末期の広島のようである。百年近い昔だ。当時これを体験した人が今生きているとは考えられない。人が作り出した地獄はそれ自体が意識となって記憶の海に漂っているのだろうか。再び白い闇が訪れてきた。

 空が真っ赤に燃え上がっている。再び肌を焦がす熱風が襲ってきた。煙で真っ黒になった空を明々と照らしている猛火がいたるところで踊り狂っている。鐘の音が聞こえる。大八車に家財道具を乗せて逃げ惑う人々が見える。その横では火消したちが大きな鉤爪が先端についた長い棒で延焼を防ぐために隣接する家屋を引き倒している光景が見える。人々は着の身着のままで逃げまどっている。その装束は和装で男は丁髷、女は髷というのだろうか、そのような髪型だ。どうやら江戸時代の大火の記憶の中を彷徨っているらしい。再び場面が切り替わる。

 青空の中、大きな仏像が着座している。そして様々な民族衣装を着た人たちが整然と並んでいる。その前では艶やかな服装を着た舞人たちが雅楽の演奏に合わせて踊っている。しかしその調べは神社などで聞く雅楽よりもはるかにテンポが速くどこか中近東の音楽を思わせる調べだ。インド人の姿も見える。両側を山の壁で囲まれた盆地の中で大仏が青空にむき出しの状態でそびえたっている。大仏の顔はどことなく奈良の大仏のようである。もしかすると大仏開眼の式典が行われているのだろうか。それにしても東大寺の大仏殿は建立されていないのだろうか。不思議な光景だ。また景色が変わっていく。

 広い砂浜に日が落ちている。海風の中、鐘の金属音が響き渡っている。そして白装束に髷を両側に結った顔面には刺青が施された背の低い男たちが火の回りで踊っている。ここはどこだろうか。遠くには木造の高楼がそびえているのが見える。以前訪れた出雲大社がある稲佐の浜に似ている。ひょっとして弥生時代の出雲を訪れているのだろうか。多くの男や女たちが浜に向かって歩いてくる。何か歌を歌っているようだ。みな歓喜の表情を浮かべている。この光景は誰の記憶で何を意味しているのだろうか。再び白い闇が訪れてくる。

 暖かい光に包まれて瑠璃は幸せな気持ちに浸っている。この中に居ればもう悩む必要もない。ここに存在するだけで人は幸福になれるのだ。上を見上げると白い闇であるのに星々がキラキラと輝き瞬くのが見える。帯状に空を横切る天の川も見られる。このようにはっきりと空一面に敷き詰められた星々を見たのは大学最後の夏休みに訪れたハワイでの出来事だったかなと瑠璃は思った。しかしその時は月も無い漆黒の闇の中での出来事であったのにここは真っ白の闇の中である。どうしてこのように煌めく星々を見ることができるのだろう。そしてだんだんと白い闇は明けてきた。

 空が広い。夜空には煌めく星々がちりばめられている。そして満月が湖の上に浮かんでいる。湖面は漣に揺れそれに連れて月の姿が揺らいでいる。瑠璃は何か違和感を覚えてあたりを見回す。月光に照らされた瑠璃の回りは一面の蓮華畑である。濃いピンクの花々の絨毯が敷き詰められている。瑠璃は違和感がどこから来るのか気づいた。月明かりが明るいのだ。いや、明るすぎるのだ。いや、月が明るいだけではない。瑠璃が見てきた月と比べても一回りは大きいのだ。だから辺りが明る過ぎてそれに違和感を覚えていたのだ。月は毎年少しずつ地球から離れていると誰かが言っていたことを思い出した。するとこの月と地球との関係は何万年も前の状態なのだろうか。するとこれは誰の記憶なのだろうか。地球の記憶とシンクロしているのだろうか。

そのようなはずがないのは解っている。インディーズ・ウェブのホストコンピューターがつながったネットワークの膨大な情報の海の中で瑠璃の意識と呼応した情報が瑠璃の中で記憶として再構築されているのであろう。しかし垣間見えた時の揺らぎは瑠璃にどこか懐かしくて暖かい充足感をもたらした。時の記憶は幸福な時間だけではなかったがそれらの記憶を知ることで励起される至福の喜びに浸っていると、人は知るためにこそ生まれてきたのではないかという思いが浮かび上がってきた。そしてもっと行き着くところまで知ることを広げて、その先にある至福の境地へと達してみたいと思った。

 だんだんと月はその大きさを拡大していき辺りは再び白い闇に包まれた。そしてその中心から次第に開けてゆき、それに従って瑠璃は徐々に覚醒していった。

 世界は急に重さを持ち始め、引き締まった空気が頬に感じられた。ゆっくりと瞳を開くとそこには渡辺大僧正の顔があった。

「瑠璃さん、何が見えたかな」

 渡辺座主が訪ねる。

「白い闇の中で様々な出来事が映し出されました。その出来事は私の記憶だけのものではなく何か、もっと大きな集合体のようなものの記憶でしょうか。ひょっとするとこの星の記憶だったのかもしれません。そして白い闇の中で煌めく星たちが何か語りかけるように瞬いていました。この星の太古の姿は大きな月と静寂の中にありました。それらのことが走馬灯のように流れていき、そして私は知ることの喜びを得ました。もっとより大きいものを知りたいとも思いました。それが至福へとつながる道であることを得ました」

「ふむ。それがあなたの進む道なのであろう。それを極めた先にあなたの悟りがあるのかもしれぬ。修行に励みなさい」

「尊師、ありがとうございます」

 瑠璃の回りには次第に夜の闇が引いていき白々とした朝が動き始めていた。


 土曜日の早朝島村瑠璃は轟太と共に天台座主渡辺と対峙していた。ここは晩秋の延暦寺である。澄んだ青空の下、山は見事な紅葉に覆われて美しい景観である。その中に銀杏の大木がところどころ鮮やかな黄金色に輝くその容姿を見せているのが雅な彩を添えている。

 天台座主の横には熊田大僧都の顔も見られる。

「座主、そして大僧都ご無沙汰しております」

「瑠璃さん、毎日のように顔を合わせているがこうやって実際に会うのは八月以来じゃのう。されど見違えるほどに成長なされた様じゃ」

 渡辺座主に続いて熊田大僧都も口を開いた。

「瑠璃さんは今や我々仏教徒のアイドル的存在ですからな。あなたのその慈愛の心は常に我々の心を満たしてくれております。我々は瑠璃さんがどこに居ようとも常にお傍におりますぞ」

「大僧都、恐縮次第です。今日のデモへ参加する皆さんへご挨拶することが待ちきれません」

 大僧都が答える。

「その件じゃがな、座主とも話してみたんじゃが、瑠璃さんを今、表にさらすのは危険じゃないかと思うてな。挨拶はここ延暦寺の僧だけにしてくださらんか」

「それはどういうことでしょうか」

「瑠璃さんの存在を敵に知られたくないのじゃよ。今のところはな。東京でのデモの際に華々しくデビューしていただきたいのじゃ」

「御坊がそうおっしゃるなら従いますが皆さんに失礼ではないでしょうか」

 座主が答えた。

「デモの参加者にはみな瑠璃さんの心は伝わっておる。デモに参加するよりは晩秋の古都をしっかりと愉しんでくれたほうが良い。あなたの放つその輝きにより、周りにいる人々は大いに影響をもたらされるであろうてな」

 轟太は相変わらず無言でこの会話に圧倒されているばかりであった。

秋の観光シーズンであるのでデモは毎週土曜日の開催とし通行を阻害する行進は中止して直接京都御所に九時に集まり遅くとも十時には解散するというものになっている。七時に天台僧たちはデモへ出発するとのことであったので瑠璃と轟太は僧たちを激励して山を下りることにした。

「瑠璃さん、お坊さんたちからの評判無茶苦茶良くなったっすね。彼氏として鼻高々っすよ」

「私自身は変わっちゃった気はしないんだけどね。でも皆さんが私を見る目がなぜか痛いわ」

「有名税ってやつですか?それよりこれからどうします?」

「そうね。奈良の東大寺に行きたいんだけど。その前にスタバにいかない?私おなかすいちゃった。夜通しのドライブだったしね」

「いいっすね。俺ももうぺこぺこ」


 二人は奈良へと向かった。来週から東京でデモが始まる予定なのでその前の束の間の休暇を古都奈良で過ごすことに決めたのである。京都はホテルが満杯であったのと紅葉目当ての観光客が多いと推測されたので比較的宿泊客が少ない奈良に一泊することにしたのである。老舗ホテルの奈良ホテルの予約が取れたことは幸運であった。十時前に奈良へ着くと車をホテルの駐車場へ停めて東大寺まで歩いた。荒池を過ぎ奈良公園の中を散策すると鹿が多いのに驚かされる。石灯籠が並び立つ広い砂利道の春日大社参道は丁度良い木陰となっていて歩くとすがすがしい気持ちになってくる。飛火野の交差点を左に折れると南大門が見えてくる。その背後には巨大な大仏殿が聳え立っているのが見える。瑠璃はここで行われた大仏開眼式典のことを思い出した。大仏殿はまだ完成しておらず大仏は広々とした中に鎮座し、その前の広場には五色の幡と宝樹が並べられそこに大勢の僧や民族服を着た来賓の参加者が整然と並んでいた。大仏の前には玉座が置かれ孝謙天皇が坐している。その両脇には聖武太政天皇と光明皇太后が坐している。雅楽が奏でられ舞が披露される華やかな式典だった。式典が行われたのは初夏だったが今は紅葉が色づき始めた秋である。当時は目立つこともなかった鹿も今は我が物顔で歩き回っている。瑠璃は千三百年もの歳月の変遷を目の当たりにして改めて人々の思いの深さに感謝を覚えるばかりであった。

 二人は大仏殿で大仏の雄大なさまと広目天の威圧感のある表情に圧倒された後、裏手にある大仏池でしばし古都の余韻に浸った。大木の銀杏はすでに輝く黄葉が散り始め、その根本は黄金色の絨毯が敷き詰められたかのようである。池の周りには色づき始めた紅葉がその影を池面に落として深まり行く古都の秋を訪れる者の心に留め置くように柔らかく誘いかけている。

瑠璃は再び人々の思いについて考えてみた。平城京への遷都は文武天皇の時代に計画が始まり元明天皇の時代に遷都が行われている。遷都の理由としてはこの地は陰陽思想に基づいた四神がかなう理想的な土地であったためだ。広大な平野に偉大な都市建設を行うことにより対外的にも日本という国を大国として認識させるための演出でもあった。また遷都に当たり左大臣の石上麻呂に藤原京の管理を任せたため右大臣である藤原不比等が平城京での実質の最高権力者となった。当時の仏教とは国家安寧のためであり天皇や公家の国家運営のための道具であった。それに疑問を抱いたのが聖武天皇である。行基の教えに影響を受けた天皇は民衆救済のための仏教という思想に傾きその象徴としての大仏建立を計画する。しかし国家安寧のための仏教を強く推し進めていた不比等により大仏の建立は民衆支配のための国分寺の総本山である東大寺にすることを天皇に認めさせた。このような経緯があって大仏開眼会が天平勝宝四年(七五二年)に行われた。その式典の模様を瑠璃は瞑想のさなかに体感したのである。その後、大仏殿は平安時代末期の平重衡の南都焼打ちの際と戦国時代の松永久秀と三好三人衆との戦いといった二度の戦火で焼失したがいずれも復興されて現在に至っている。江戸時代後半にはお伊勢参りなどの庶民の旅行ブームでの旅の大きな目的地の一つとして東大寺の大仏は存在した。明治維新時の廃仏毀釈運動にも耐えた東大寺であったが戦後の高度経済成長期の旅行ブームにより信仰の対象というよりは旅先でのホスピタリティーが重視された世相により東大寺を含んだ奈良公園は娯楽のために観光地化されるに至った。

国家安寧や民衆救済の役目を終えた大仏は観光資源として地元経済のために貢献しているのが現在である。創建時は広々とした空間にどこからでも望める威風堂々とした大仏殿であったが現在では近代的なホテル群に公園内を占拠されて南大門近くまで行かないと見ることができない存在となってしまった。それでもひとたび大仏殿の中に入ると廬舎那仏は何世紀も変わらぬ慈悲の眼差しで訪れる者たちを出迎えてくれる。変わってしまったものと変わらぬものを知ること、そして知ったうえで何をなすべきかをこの廬舎那仏は問いかけているのだろうか。瑠璃が瞑想中に見た大仏開眼の意味とはそういうものであるのだろうか、と瑠璃は自分自身に問いかけた。

池面に映る紅葉の赤はそよ風に揺れながら瑠璃にやさしく語りかけているようだ。肌に冷たい十一月の風を感じて瑠璃が寒さを思い出したとき、ふと後ろから優しく抱きしめられた。

「何を考えているの、瑠璃さん」

「ううん、何も」

「そうかなあ、どこか遠くへ行ってしまいそうで見ていて切なかったよ」

「私はどこにも行かないよ。でも千三百年前にここはどんなだったかなと考えていただけ」

「ほら、やっぱり、そんな遠くまで旅していたんだ」


 奈良公園内のレストランで暖かい蕎麦を食べ終えた二人は二月堂と三月堂を回り、途中で鹿せんべいを購入して鹿の集団の襲撃を受けて悲鳴を上げながら脱出した二人は春日大社へと着いた。苔むした古い灯篭と石段が古の京を偲ばせる。鮮やかな朱色と白のコントラストに銀杏の黄色がまじりあった世界は東京では見ることができない情景である。二人は特別参拝の受付をして本殿まで登り参拝した。その後藤浪之屋で万灯篭を見学した。暗がりの中いくつもの灯篭が輝きを放ち厳かな空間を作り出している。二人は時の立つのを忘れてしばしその仄かな闇が作り出す幽玄の世界に魅了された。参拝を済ませておみくじを引いた。二人とも小吉であった。

 春日大社を後にした二人は参道を戻り浮御堂へ向かう。浮御堂が浮かぶ池の畔には赤や黄色に色づき始めた紅葉が美しく彩を添えている。浮御堂に渡る木橋の途中には鹿の親子が並んで二人の方を向いていた。太は思わず

「瑠璃さん、鹿の親子と一緒に記念撮影しようよ」

 といって素早く携帯端末を取り出して動画撮影を行った。

「今日は十一月の十六日、ラブラブな二人の初めての旅行でーす。奈良の鹿と一緒の撮影でーす。ほら、瑠璃さん、笑って」

 瑠璃も思わず笑みがこぼれた。太の体を横から強く抱きしめた。二人の戯れを興味深そうに鹿の親子は眺め続けている。

 晩秋の夕暮れは早い。二人が浮御堂に座ったころには陽は西の空に暮れようとしているところだった。二人は静かに抱き合いながら夕暮れが奏でる色彩の旋律に身を浸していた。燃え立つように彩られた夕焼け空に浮かぶ五重塔のシルエットが印象深い夕暮れを演出している。

 太は夕景から顔を瑠璃に向けて突然思いついたようにぽつりと話した。

「瑠璃さん、結婚しよう」

 瑠璃は少し驚いて顔を強張らせた。そして徐々に頬の筋肉が緩み優しい眼差しが戻ってくるとそのまま太の胸に顔を埋めて云った。

「うん。いいよ。でも太君がちゃんと就職して私を養えるようになってからね。私待っているから」

 瑠璃は顔を上げて太の顔を優しいほほえみを浮かべながら見上げた。

「そ、それは、どういう意味かな?OKってこと?」

「そうだよ。でも一年に一回くらいはブランドバッグ買えるような生活させてくれないとだめだよ」

 戯れる二つの影は赤く染まった西の空に照らされてシルエットとなり二つの影が一つに重なったようだった。そこから少し離れた木橋の上では鹿の親子が静かにその影を見つめ続けていた。



 島村瑠璃と轟太が奈良で暫しの休息を愉しんでいる間、八王子の山奥では二十名ほどの人影が闇の中に静かに溶け込んでいた。晩秋の八王子の山奥は紅葉の盛りは過ぎて落葉が始まっているのだが深い闇に包まれているのでその景観を楽しむこともできない。ただ凍てついた空気が肌を刺すばかりである。山肌の向こうには障害者総合ケアセンターの明かりが漏れているのだが彼らの処までは届かないほどの薄明りである。

「リーンリーンリーンリーン」

「ピピピッピ、ピピピッピ」

「ジッジ、ジッジ、ジッジ、ジッジ」

 深い静寂の中、秋の虫たちの競演が辺りに染み渡っている。

その場所から少し下った国道にはバンが道路際に待機している。中には柚木クリスティーンが彼女のクルーたちと待機していた。後部座席には黒いフライトジャケットに身を包んだルポライターの杉本照男の姿も見える。その杉本が口を開いた。

「クリちゃん、今何時?」

「九時五分前よ」

「そっか、俺ちょっとそこで星見てくるわ」

 そう言いながら杉本は車を降りて道路際で煙草を吸い始めた。計画では二十一時丁度に玉木大輔率いる別動隊によりこの辺一帯の電力供給を五分間遮断することになっている。その間に自衛隊特殊作戦群(SFGp)が配電設備棟より侵入して地下四階まで攻め込む手筈となっている。大沼総理とマッコイ大統領が緊急で極秘の会談を行ったのはわずか三日前である。その後事態は急展開し米軍とCIAの協力の下、障害者総合ケアセンターの概要がわかってきた。マッコイ政権でもエイミー・ディキンソン次期大統領が深く関与しているであろうこの施設については極秘裏に調査を進めていたところであったので大沼総理との会談で日米協力の下、今宵の急襲作戦がわずか二日で計画され実行に移されることになった。マッコイ、大沼とも政権維持がいたって不利な状況にあるので限られた時間の中でこの急襲作戦を行って八王子の障害者総合ケアセンターの全容を暴露することにより活路を見出そうとしているのである。CIAの調査による総合ケアセンターへの米国からの来訪者の情報がシェアされた。それによるとユニ・グローブ社傘下の研究機関より精神科医、遺伝子工学者、ナノボット技術者、バイオ研究者など、十名のアメリカ人科学者がここで極秘の実験を行っているとのことである。そのほかに重要な点は五名の外国人傭兵が実験施設の警護のために配置されているとのことだ。その傭兵グループのリーダーであるフランス人アンリ・フェレールは実戦経験十分な要注意人物であり、彼が急襲時にいるかいないかで味方側の犠牲者の数が相当違ってくるということだ。CIAの情報では毎週末に二班に分かれて外出しており、最初の班は金曜日の午後五時から翌午後五時まで、二番目の班は土曜日の午後六時から翌日曜日の午後六時までである。CIAからの情報では金曜日に外出した者は米国人学者五名と傭兵二人でその中にアンリ・フェレールも含まれていたということなので必然的に今回の急襲作戦では彼と対峙することになる。計画では柚木たちは二十一時丁度に待機場所を出発して障害者総合ケアセンターまでそのまま車を向かわせることになっている。五分ほど時間がかかるがその間にSFGpによる制圧は終了している計画である。柚木たちはそこで待機して急襲班からの指示を待ち、制圧後に地下四階まで侵入して急襲現場の報告をライブで流すことになっている。一方外出した残りの学者と傭兵たちにはそれぞれ内閣調査局と警視庁からの尾行がつけられSFGpの行動開始と同時に身柄拘束する計画である。傭兵メンバー三名についてはSATも導入して身柄確保する予定である。障害者総合ケアセンター地下三階と四階の見取り図は杉本がタイ人ナデートから得た情報と米国の偵察衛星で取られた建設時の画像から詳細なものが作成されている。

 急襲作戦は二十一時丁度に電力遮断と同時に配電設備棟から侵入し一挙に地下三階の駐車場まで向かい、そこで六名待機、残り十二名で地下四階まで進むことになっている。六名は傭兵担当で、傭兵に対しては射殺許可が下りている。残り六名で科学者の拘束と被験者たちの保護任務といったものである。傭兵を殲滅して制圧後に柚木たちへの侵入許可が下りることになっている。柚木たちは地下三階でSFGpと合流してその中の二名が柚木たちを地下四階へ案内する手筈となっている。


「リリリリリ」

秋の虫たちの競演が静寂の中続いている。アメリカ大使館員スコット・グレンは耳障りなそのノイズを気にしながら時間の到来をひたすら待ち続けた。彼の横にはCIAのエージェント、マイケル・ゴードンがしゃがみこんでいる。闇に溶け込んで存在感が感じられない。マイケル・ゴードンの話では外出した五名の科学者は行動を共にして今は八王子の居酒屋で食事をしているとのことである。三名の傭兵のうち二人はガールズバーで酒を飲み、残りの一人はタイマッサージの店で施術中であるようだ。その様子からは普段の週末の行動の様でこちらの計画が発覚している可能性は低いとの観測である。それであればこちらの作戦はスムーズに完了する可能性が高い。最重要事項は科学者たちを生きたまま拘束し、実験設備と研究資料を無傷のまま確保することである。幸いにも科学者たちのリーダー、ジェーン・マックガヴァンは八王子の居酒屋に居て二十一時丁度に拘束されることになっている。そうなれば傭兵のリーダー、アンリ・フェレールは彼女に指示を仰げず独自の判断をするまでに二分はかかるだろう。二分あればスコットたちは地下四階まで到着できる。すでに急襲メンバーは暗視スコープを装着してフル装備で待機しているのでアンリ・フェレールの準備が整うまでに制圧できるはずだ。そうなれば被験者も設備も完全なまま確保できるはずである。

ふと虫たちの鳴き声が止んだ。そして山陰に見えていた建物の明かりが突然消えて漆黒の闇が辺りを支配した。

GO!  SFGpのリーダーの声がした。一同敏速に山を駆け下り配電設備棟へ到着した。予定通り停電によりここの扉はロックが外れている。そのまま中に侵入する。ここまで十五秒ほどである。そのまま奥へと進み地下へ通じる非常階段を慎重に開ける。ここもロックが外れている。どうやら中からの襲撃はなさそうだ。そのまま一同慎重にしかし敏速に一挙に地下三階の駐車場まで駆け下りた。ここまでの所要時間は一分である。計画通り六名のSFGp隊員を駐車場に配置して残りは地下四階の秘密実験室へと向かう。スコットは科学者拘束と被験者保護のグループに従い、CIAエージェントのマイケル・ゴードンは傭兵殲滅部隊へと合流する。

 地下四階の扉の前で停止し中の様子をうかがう。熱感知装置の反応では右手にある被験者の宿泊部屋に五名の反応がある。全員ベッドに横たわっている。被験者はすでに就寝しているようだ。その区画にはほかに人は感知されていない。慎重に扉を開けて中の様子を確認する。敵はこの区画には潜んでいないようだ。確認後素早く入室しドアに二人残して警備に当たらせ、残りのうち二人を被験者保護のために残して他は前方ドアまで敏速に前進する。ドアの前で中の様子を探索する。実験椅子に三人拘束されている。これは被験者であろう。またベッドに一人横たわっているようである。これも被験者であろう。部屋の隅には五人一塊になってうずくまっているのが検出された。これは科学者グループであるに違いない。ドアの正面の奥まったところに大柄な人間が一人立って銃をもって構えているようである。そしてドアの右手奥にこれも大柄な人間が一人立って銃を構えているのが検知された。爆破要員によりドアを爆破する準備が三十秒で行われ、SFGpリーダーによる合図で殲滅作戦が開始される。

「GO!」

 合図と同時にドドーンと爆破音が響き同時にSFGp狙撃員により前方の傭兵への発砲が行われる。

「バババババッ」

合計五発の発砲がなされた。発砲と同時に一人が横滑りに室内へ侵入し右横の傭兵へ向けてと発砲する。

「バババッ」

どうやら全弾命中したようだ。二人とも倒れこんで動かない。それを確認した後でリーダーにより科学者の身柄拘束班へ入室の指示がなされ全員が中に素早くなだれ込んだ。隅にしゃがみこんでいる五人の科学者を確認する。抵抗の様子はなさそうだ。リーダーは用心深く室内を探索するが他に異常は認められない。計画は予定通り五分以内で味方側の死傷者を出すことなく成功裏に終了したことになる。SFGp隊員により科学者たちが拘束され被験者たちが保護されるのを確認するとリーダーにより報道グループの入室許可の指令が発せられた。


JCNの緊急ネット配信が始まった。五分前に登録ユーザーへの緊急告知を行ってSNSで広めてくれるように依頼している。緊急配信が始まるとすでに視聴者は五万人を超えていた。すでに停電状態は修復されたようで照明に照らされたむき出しのコンクリートの駐車場が映し出されている。大型のバンが奥のほうに一台停車している以外は広い空間が、周りのざわついた気配と共に映し出されている。そして画面は切り替わり柚木クリスティーンの顔を強張らせた姿が映しだされた。

「皆さんこんばんは、柚木クリスティーンです。今、私がいる場所は八王子の山奥にある障害者総合ケアセンターの地下三階の駐車場です。この駐車場はVIP専用となっており地下二階の駐車場から専用カードを所持している人のみがエレベーターを使って降りてこられるようになっています。今夜はここよりさらに下の地下四階で起きた事件についてご報告いたします。地下四階では秘密裏に知的障害者に対しての外科的処置を含む医療実験が行われていた疑いがあります。今からその現場へ向かってみます」

 柚木はカメラから顔を離すと下へ向かう階段を下りて行った。そのあとをカメラが続く。まるでデパートの階段を思わせるような広い階段がLEDの照明に灯されて続いている。柚木が踊り場を曲がってさらに下に進むとその先には開け放たれた扉が見えてきた。

「ご視聴いただいている皆さんに警告させていただきたいことがございます。この配信は緊急の生配信ですので画像の加工ができません。銃撃戦が行われたと報告が入ってきておりますので鮮血や遺体が映るかもしれないことをご了承ください」

 説明の後、柚木は扉の中に進んだ。右手には黒い戦闘服と暗視カメラで顔を隠したSFGpの隊員に保護された被験者が映し出された。被験者は何が起こったのかわからないようでただぼんやりと柚木たちを眺めているようである。さらに進んでいくと被験者の一人が柚木を指さして急に大声で笑いだした。広い空間にその笑い声は大きく響くことになり画面越しに見ていた視聴者にさらなる緊張感をもたらした。そして実験室の扉の前に立った柚木はカメラの前に向かって話し出した。

「皆さん、ここから先が問題となっている実験が行われた研究施設がある場所です。重ねて申し上げますが鮮血や遺体が映し出される可能性があります。御気分が悪くなるようでしたら画面を見ないようにしてください」

 柚木は意を決したように爆発により半ば壊れてしまった扉を開けた。そしてカメラが中を映し出すと目の前に上半身裸で弾倉ベルトを体に巻き付けて右手に機関銃を抱えたまま血まみれに倒れこんでいる男が映し出された。カメラは慌てて右に向けるとそこにも迷彩服を血だらけにして狙撃銃を構えたまま絶命している男が画面いっぱいに映し出された。ライブの視聴者の数はここで三十万を超えだした。画面は柚木に戻り、柚木が現場のリポートを始めた。施術台には頭に様々な配線がなされたバンドを巻かれた被験者が映し出されている。八十代かと思われる婦人である。彼女は薄いピンクの入院服を着て両手両足を施術台に拘束されたまま驚愕した表情でカメラを眺めている。その向こうには似たような施術台に二十代と思われる女性が同じように手足を拘束されて座っている。彼女の頭には毛髪がなく頭には配線が施されたバンドが装着され彼女のうなじには何本かの針が差し込まれている。針は彼女の横に設置された機器に接続されている。そこから彼女の脊髄に何かが注入されているようである。彼女は意識が朦朧としているのだろうか虚ろな目でカメラを見つめている。カメラがさらに奥へと進むとガラス張りの中で六十代くらいの裸の男が体中に何本ものチューブを差し込まれている姿が映し出された。そのチューブは横に置かれたいくつもの機器に接続されている。二本のチューブは赤く染まっており、血液を機器を通して循環させているかのようである。そしてカメラは部屋の隅で拘束されているアメリカ人と思われる男女の姿を映し出した。柚木はその一人一人について名前と所属先を報告した。前もって彼らの情報は玉木を通して入手している。玉木はおそらくアメリカ大使館からその情報を得たのであろう。彼らは全員日本での医療関係の免許を持っていないので無免許での医療行為を行った罪でとりあえず起訴されることになる。おそらくCIA立ち合いで内調が取り調べを行うことになるのであろう。彼女はさらに外出していた五人のアメリカ人学者と三人の傭兵の身柄拘束を追加情報として報告した。さらに警視庁により障害者総合ケアセンターのセンター長である角田沙織が医療法違反により逮捕されたと報告した。

「今回の事件はまさに人権を無視した科学者による非人道的な人体実験です。ことはそれだけではなく彼ら学者たちを支援している組織の解明とその目的は何なのかまで踏み込まなければなりません。この国の司法がどこまでその闇の部分の解明ができるのか私たちメディアは注目していきたいと思います。人権を重視し自由で開かれた中で、もしこういった実験が必要であるならば、動物実験などで多くのデータを蓄積していった後で人体への影響を最小のものとしたうえでボランティアを募って行うのべきであり、その場合は私たちも科学の発展を支援できるでしょう。しかしこのような人権を無視して判断能力のない被験者に人体実験を施すことは断じて許容できるものではありません。私たちメディアはこのような非人道的研究とそれを支援している組織をその目的まで含めて解明していくという強い決意を世界中の皆さんと共有していかなければならないと考えます。そのような強い決意を私たちは持って立ち上がるべきではないでしょうか。JCN柚木が八王子よりお送りいたしました」

この中継は自動翻訳により全世界に配信されている。この時点で視聴者は五百万人を超した状況であった。

世界中にこのニュースは駆け巡ることになった。世界中の主力なニュースメディアでは柚木のライブを引用した速報を流した。またSNSを通してアメリカ人科学者たちの素性も暴露され、次期アメリカ大統領に内定しているエイミー・ディキンソンの逮捕された科学者たちが所属しているユニ・グローブ社との関係も暴露されていった。加えて五葉重工業とユニ・グローブ社の関係も深い考察がなされ軌道エレベーターや火星移住に関して人体改造の実験が行われていたのだという噂がネット上を飛び交った。しかしアメリカの大手メディアはグリズリーニュース以外は事件の概要を簡単に述べる程度でそれ以外は沈黙を決め込んだ。また日本の大手メディアはニュース自体を全く流さなかった。ネット内ではお祭り騒ぎの最中にもかかわらずである。そして明けた日曜日の朝十時に週刊春秋が杉本照男署名の記事を配信した。

配信ではこの事件の概要の詳細のほか、五葉重工業とユニ・グローブ社の宇宙開発に関しての計画詳細が報告され、それに関して日本の与党の大物政治家が宇宙開発計画に絡んでいること、また次期首相候補と目される人物がアメリカの大物政治家と組んで障害者総合ケアセンターの支援を裏で行っていたことの詳細が報告された。さらに与党大物政治家と地方自治体の知事たちとの関係を暴露して外国人二千万人受け入れの計画が暗に示された。その上、外国人移民計画と八王子での非人道的な人体実験の関係性を考察した後、中国における黒戸問題を提起し、それと移民受け入れと人体実験の関連性を匂わせる記事の内容であった。ここに至って日本のネット上では反五代幹事長と反キャサリン青木の運動が始まり、アメリカではエイミー・ディキンソンが次期大統領としてふさわしいかの疑問が提起されるに至ったのだが大手メディアではその動向を完全に黙殺するといった事態に陥りネット中心に反メディアの動きも同時に動き出すことになったのである。

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